C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 1章
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第一章
ローマ帝国から中世へ
378~582
アドリアノープルの戦いからマウリキウスの即位まで
4世紀の半ばから6世紀の終わりまでは軍事的な過渡期に当たり、政治的・経済的な変化と同等の驚くべき徹底的な軍事的変容の時代であった。[これによりヨーロッパの文明は新たな近代史の歩みを始める。](*)他の分野同様、戦争においても、古代の制度は消え去り、新たな秩序が姿を現す。
この時代を象徴する印象的な現象は多いが、ローマの偉大な過去と密接に結びつく軍団の一般名称である、誉れ高い「レギオン」の名が、徐々に使われなくなっていった事は、とりわけ印象的である。この名称は、ほぼ5世紀を通じて存続していたが、ユスティニアヌスの時代までに廃れてしまう。そしてその名と共に、印象的であったその軍事的能力も消失してしまった。強靱さと柔軟性の見事な結合、強固さや機敏で巧妙な機動は、時代の要請に従い失われていった。剣と投槍に、槍と弓が取って代わった。左肩に盾を掲げて、剣を低くぶら下げ、槍ぶすまを通り抜けて道を切り開き、ケルト人やゲルマン人のどう猛な突撃の前に堅固に立ちふさがった(1)、不屈の兵士は、もはやローマ軍の戦士の典型とは言えなくなった。アウグストゥスやトラヤヌスの軍団組織はコンスタンティヌスによって一掃され、300年に渡ってその性質と名称の誉れ、および団結心を保ってきたレギオンの姿は忘れ去られることになった(2)。
コンスタンティヌスは、部隊の定員をそれ以前の4分の1に引き下げて無数の部隊(3)を新設したとき、軍事的な便宜を考慮したのではなく、政治的な動機で行動していた。装備や軍隊の性格は組織の変化を越えて生き延び、robur peditum、すなわち歩兵は軍の最も重要な要素として多数を占め続けた。だが同時に、騎兵を増強する傾向が現れ始め、軍の総兵力に占めるその割合は4世紀を通じて着実に増加を続けた。コンスタンティヌスが軍団から騎兵の補助部隊turmaeを分離して、独立した大部隊に統合しようとしたことも、騎兵の重要性の増大を物語っている。帝国は、戦争における攻勢を捨て、属州の防衛に専念するようになったが、これとともに脅かされる前線上の諸地点間を急速に移動することができる部隊の必要性が増しており、帝国もそのことに気付いたのだろう。ゲルマン人は、軍用機材や手荷物を携行するレギオンから、容易に逃れることができた。このためゲルマン人の襲撃を妨害することができる騎兵の大部隊が必要とされたのである。
ただ騎兵の増加に関しては、他にさらに有力な原因があるように思われる。ローマ歩兵の敵に対する優位がもはや以前ほど顕著ではなくなり、結果従来より強力に騎兵の補助を受ける必要が生じたのである。コンスタンティヌスの頃のフランク族、ブルグンド族、アラマンニ族は、もはや「兜も鎧もなく、枝編み細工の脆弱な盾で身を守り、投槍のみを武器に」ローマ軍の堅陣へと挑み掛かった、1世紀の半武装の野蛮人ではなかった。これらの諸族は今や鉄張りの盾で身を守り、斬撃用の長剣(spatha)や、投げてあるいは振るってローマ兵の鎧を貫き盾を引き裂く、凶悪な投げ斧と戦斧を持ち、また刺突用の短刀(scramasax)も装備していた。これらは接近戦用の武器としては古い投槍よりはるかに優れていたため、帝国軍歩兵にとってゲルマン諸族を打ち破ることは決して容易ではなくなったのである。同時にローマ兵の士気はもはや、かつて程ではなくなっていた。奴隷や蛮族を補助部隊のみならず正規軍団に入隊させることで、新兵供給の不足が補われており、部隊の同質性さえもはや失われていた。勇気が不足することはほとんどなかったけれども、4世紀の軍隊は、古い時代のローマ歩兵が持つ自信と団結力を失い、指揮官はこれを極めて慎重に使用せねばならなくなった。
ローマ歩兵の堕落傾向と指揮官達による一貫した歩兵の軽視は、大惨事を招くことになった。アドリアノープルの戦い(378)はカンナエの殲滅戦(紀元前216)以後においてローマ軍の被った最も悲惨な敗北で、軍事作家のアムミアヌス・マルケリヌスによって両者は適切に比較されている。ウァレンス帝および士官の主だった者(4)、そして4万の兵士が戦場に放棄された。実質的に東帝国の軍隊はほぼ全滅し、これ以降、決して同水準まで再組織されることはなかった。
アドリアノープルの軍事的重要性は疑いようもない。これは歩兵に対する騎兵の勝利であった。帝国軍は障害物で周囲を固めたゴート族の陣地に対し攻撃を展開、両軍は激しく戦っていたが、そこで徴発のため陣地を離れていたゴート騎兵主力が、戦闘の知らせを受けて戦場へとまっしぐらに駆け戻り、突如、ローマ軍の左側面へと突撃したのである。ウァレンス麾下の側面防御に当たっていた二部隊は、迫り来る大軍を前に逃走し、騎馬に追われて踏みにじられることになった。そしてローマ軍左翼の歩兵をなぎ倒したゴート族は、これを包み込み中央部へ向けて駆り立てていった。その破壊力は凄まじく、レギオンとその下にある大隊は、絶望的な混乱へと追い込まれていった。踏みとどまろうとするあらゆる試みは失敗に終わり、わずかな間に、左翼、中央、予備隊はひとかたまりの群衆に成り下がった。皇帝の親衛隊、軽装兵、槍騎兵、同盟軍(foederati)、および歩兵戦列は刻一刻と強まる圧迫の中で一カ所に押し込まれていった。ローマ騎兵は勝機が失われたのを見て、何もせずに逃げ去っていった。あたかもかつてカンナエで繰り広げられた光景や、後にローゼベーケ(1382)で繰り広げられる光景のようであった。兵士達は過度の密集状態に押し込まれたため、打撃を繰り出すために武器を持ち上げることさえできなかった。多くの槍が折れた上に、槍を垂直に構えることもできず、無数の戦士達が圧力の中で窒息した。ゴート族はこの苦悶する群衆に騎馬で乗り込み、槍や剣を絶体絶命の敵に向けて振るった。ローマ軍の3分の2以上が倒れ、隊列がまばらになったことでわずか数千が脱出することに成功(5)、まっしぐらに逃走していた右翼と騎兵の後に続いていった。
アドリアノープルの勝利は、重騎兵の収めた最初の大勝利であり、重騎兵はローマ歩兵に替わって戦争の支配者となる力を見せつけるに至った。最初のゲルマン人であるゴート族は、南ロシアの草原に居住する間に、騎馬民族国家となっていた。ウクライナに居住する間、彼らは、スキタイ人の時代からタタール人、コサックの時代に至るまで、絶えず騎馬軍を育み続けた、その大地の影響を受けることになった。彼らは「徒歩よりも騎乗して戦うことを誉れとする」(6)ようになり、全ての首長は騎馬の戦闘部隊を従えていた。帝国との闘争を余儀なくされたとき、彼らは、長らく世界を畏怖させてきた軍隊と対面することになった。そして衝撃が走る。彼ら自身にも驚きであったろうが、ゴート族の強い槍と良い馬はレギオンの密集隊列を突き破ったのである。彼らは中世の騎士の直系の祖先となり、千年に渡って続く騎馬戦士優位の時代を切り開いたのである。
東帝国の軍隊の再建という課題を担うことになったテオドシウスは、アドリアノープルの戦いの軍事的な意義を最大限理解していたように思われる。古来よりのローマ軍の戦争理論を放棄して、彼は騎兵が将来の帝国軍の最重要部門を構成すると定めた。十分な騎馬軍を確保するため、彼は4世紀の軍事組織と5世紀の軍事組織の連続性を断ち切るための措置を採ることになった。コンスタンティヌスとは異なって、彼は新たな部隊の創設はせず、買収で首長を臣従させ、大規模にゲルマン人を軍に編入することにしたのである。この首長たちに従う戦闘部隊は、国軍とは統合されなかった。彼らは直接の指揮官にのみ服従し、ローマ軍の規律とは馴染まなかった。だが実際には、彼らは帝国軍の最も強力な戦力を構成しており、帝国の運命は彼らに委ねられることになった。テオドシウスの頃より、首長達は、同盟軍の指揮官達の一連の名称と栄誉を引き継ぐ形で忠誠を捧げ、ローマ世界の秩序の維持に当たった。
アドリアノープルのわずか6年後ですでに、40,000にのぼるゴート人および他のゲルマン人の騎兵が、彼ら自身の首長に従い東帝国の軍隊に勤務していた。ローマの指揮官の目から見て、本来の軍隊はたちまち劣位に追いやられてしまった。そして彼らの決断の正しさは、数年後に勝ち得た二つのよく論じられる戦勝で、証明されることになった。そこではテオドシウスのゲルマン傭兵隊が、西方の帝位を簒奪したマグヌス・マクシムスとその息子ウィクトルを粉砕した。両方の戦いにおいて、常より世界最強と目されていたガリア軍団を含む、西帝国のローマ歩兵が、正統な皇帝の旗下に付き従ったゲルマン騎兵に踏みにじられたのである(7)。
この時代の西方諸州の帝国軍の状態は、ウェゲティウスの著作に描き残されている。彼の書物では、彼自身の時代の軍事組織と1世紀の軍事組織について、同一の用語を使っても全く異なる意味で語られており、結果両者の混同が回避されている。このため非常に高い価値を持つ。ただ彼の文章から推論を導くに当たっては、彼がしばしばその時代の実際の軍制を語るかわりに、彼が想像した理想的な軍制を語っていることに注意する必要がある。たとえば、彼の言うレギオンは6,000人の兵士から構成されているが、4世紀の終わりにおいてその定員は1,500人を越えていないことが分かっている。彼の著作は皇帝の一人であるウァレンティニアヌス(ギボンは3世と推測しているが、おそらくは2世だろう)に捧げられているが、作中に見られる様々な武器の相互関係や組織の性質は、5世紀初頭以前の時代のものである。
古来よりのローマ重歩兵の伝統がどの時点で途絶えたとされているのか、ウェゲティウスの記す一つの事実によって理解することができる。予想通り、それはアドリアノープルの戦いの後の東帝国における同様の変化と、時を同じくしている。戦術家は語る:
都市の創建より聖グラティアヌスの治世まで、ローマ軍団兵は兜と胸当てを身につけていた。だが訓練と模擬戦闘を頻繁に実施する習慣が失われ、兵士達がめったに身につけなくなったため、これらの装備は重く感じられるようになり始めた。そのため兵士達は皇帝にまず胸当てを廃止するよう請願し、その後、兜の廃止さえ求めた。こうして兵士達は防具で身を守ることなしに、蛮族に立ち向かうことになった。うち続く敗北にもかかわらず、なおも歩兵は防具の使用を減らし続け……今や兜も鎧もなく、盾さえもたず(弓と共に使用することができないため)、どうしてローマ兵に敵に向かい勝利することを期待できようか?(8)
ウェゲティウスは、しばしば軍人と言うよりも修辞学者として振る舞うため、明らかに歩兵の装備の変遷の原因につき間違いを語っている。騎兵が万全を期した鎧を身にまとうようになっているときに、歩兵が怠惰と非力さのために鎧を放棄するはずもない。変化を引き起こした真の原因は、もはやローマ人が騎兵を重歩兵の戦列の強固さで防ぐことを止め、約千年後のクレーシーとアジャンクールが示すように、より効果的に騎兵を阻止できる、射撃兵器の使用に意識を向けるようになったことである。ウェゲティウスの表現に相当の誇張があることは、彼の時代の軍団歩兵の隊列について述べている箇所を見れば分かる。そこでは最前列の兵士(彼は衒学的にPrincipesと呼ぶ)は盾と投槍および胸当てを身につけ、二列目は弓兵で構成されているが、胸当てを着け槍を携えている。レギオンの残りの半分が、鎧を完全に放棄し、弓以外の武器を捨てたにすぎない。
ウェゲティウスは騎兵が、急速に重要性を増しつつも、未だ東帝国ほど大規模に、歩兵に取って代わってはいないことを証言している。いかなる軍隊も騎兵無しに勝利を望むことは不可能であり、常に騎兵によって軍の側面は防御される必要もあるけれど、彼の意見としては、騎兵は最も有効な戦力というわけではなかった。彼は復古主義者であって古のローマ軍の組織に愛着を感じており、実際彼は当時の軍事的情勢から見ればいくぶん時代遅れであった。ただし、西帝国のレギオンが戦った主な相手が、ゴート族と違ってほとんどが歩兵の、フランク族やアラマンニ族であったことは、考慮せねばならないだろう。[コンスタンティノープルはいち早くにゴート族の騎馬軍の脅威に直面しており、当面の脅威たる彼らを買収しようと苦心していたが、アラリックの時代まではローマがこの脅威に遭遇することはなかった。だがホノリウスの時には、ゴート族は、かつてバルカン半島にとってそうであったように、イタリアにとって恐怖の的となった。ゴート族の槍と騎馬は、もう一度その優越した力を示すことになった。スティリコの将器も、伝統的なローマ軍の正規歩兵も、レギオンの側面に接して並ぶローマや同盟軍の(foederate)騎兵隊も、ゴート族の突撃を止めるには、力不足であった。何年もの間、征服者は意のままにイタリア中を駆け回り、それは彼らが409年に自発的に止めるまで続いた。西帝国には彼らを武力で排除することのできる戦力は残されていなかった。]
南ヨーロッパにおける歩兵の時代は完全に過ぎ去った。歩兵は存在し続けたけれども、もはや軍の中核を占める精鋭としての地位を失い、町の防衛や山地帯での活動といった、様々な副次的な目的のために存在するに過ぎない。ローマ軍も蛮族もともに騎兵組織に精力を注ぐようになった。軽装兵の職務でさえ、騎兵が手中に収めることになった。ローマ騎兵は装備に弓を加え、結果5世紀にはローマ帝国の国軍は、かつての敵である、槍と弓で武装した1世紀のパルティア騎兵軍に似た姿になった。この騎馬弓兵に混じって、同盟軍の騎兵は槍のみを用いて戦った。これがシャロン平原でフン族と対峙した(451)、アエティウスとリキメルの軍隊の姿である。
フン族は別類型の騎兵の強さの典型である。大兵力と、素早い移動、そして絶えず降り注ぎ、敵が接近するのさえ許さない矢の雨、これらによって彼らは恐るべき存在であった。その戦法においてフン族は、アルプ・アルスラン、チンギス・ハーン、ティムールの率いる遊牧民の原型と言える。アッティラの軍隊ではフン族に混じってヘルル、ゲピド、スキュリ、ロンバルド、ルギアンといった、ゴート族と同じゲルマン人種の多くの部族が参戦し、それぞれの部族のやり方で戦った。シャロンの戦いは、騎馬弓兵と槍騎兵が騎馬弓兵と槍騎兵に立ち向かうという、同じ武器による全く対等の戦いであった。アエティウス麾下のフランク族の同盟軍は、戦場で最も有力な歩兵集団で、ローマの伝統的な戦法を採るための中央部に整列した。そして一翼を西ゴート族の槍騎兵が、他方の翼を帝国軍の騎馬弓兵と重騎兵の混合部隊が固めた。勝利は、優れた戦術ではなく、激しい力押しでもたらされ、テオドリックの重騎兵がフン族を踏み破ったことが決定的な意味を持った。
5世紀の全ての戦争について細部まで追跡することは、我々には必要ないであろう。ローマ軍の組織について語るにはわずか数語で事足りる。西帝国では、同盟軍(foederati)が帝国の唯一の軍事力となり、ついにはそれら軍隊を率いる首長の一人が、ローマ帝国の与えた地位の呪縛を断ち切って、実質上も名目上もイタリアの支配者となるのである。東帝国では帝国軍の衰退はここまで酷くはなかった。レオ1世(454~474)は、西帝国の運命を教訓にして、ローマ軍の同盟軍に対する比率を増加させるよう決定し、それは彼の支援者であったゴート族出身の貴族アスパルの命を犠牲にすることで、達成された。ゼノン(474~491)もこの事業を継続したが、彼は、イサウリア人や半ばローマ化された小アジア内陸部の山岳民族の軍事能力を、初めて利用した皇帝としても注目に値する。これら諸族は皇帝の親衛隊となっただけでなく、かなりの数の新部隊がこれら諸族を利用して創設された。ゼノンはまたアルメニア人やその他の帝国東方の辺境部族を軍に編入し、こうして後継者のアナスタシウスに、固有の軍事力にうまく蛮族の力を調和させた軍隊を、残すことになった。[彼はこの他、間近に勢力を持つ最も危険なゲルマン人である東ゴート族に、イタリアへの移住を説得したことで、帝国の姿に決定的な変化をもたらした。]
以上より、勝利に輝くユスティニアヌスの軍隊は、それぞれの首長に率いられた外国人部隊と、正規の帝国軍の二つの異なる要素から構成されていたことになる。そしてプロコピウスの著述は、これら二つの軍隊いずれにあっても、騎兵が最重要の兵科であったことを教えてくれる。とくにアジア属州の軽騎兵が賞賛されている。胴体と手足に鎧をまとい、右に矢筒、左に剣を持ったローマ騎兵は、素早く敵に駆け寄り、前後左右から好き放題に矢を射かけた。ロンバルド、ヘルル、ゲピドといった部族の重装部隊が、槍を持って支援に当たり、第二戦列を形成した。プロコピウスの記述によれば、「古の時代を賛嘆・敬慕し、現在の軍事機構に何ら価値を見出さない者もいるかもしれない。だが最も重大で目立った戦果を挙げ続けているのは、現在の軍隊なのだ。」(9)実際、6世紀の人々は、彼らの採用した重騎兵戦法を満足の目で眺めており、これを以前のローマ軍の歩兵戦法に優越するものとする風潮さえ漂っていた。
実際、ユスティニアヌスの軍隊とその業績は全面的な称賛に値する。勝利は完全に軍隊の力によるものであり、一方、敗北は概して皇帝の愚かな政策のためであった。皇帝は、指揮権を無数に分割することに固執し、これによって軍隊の服従は保障されたものの、引き替えに軍事的な能率が犠牲にされていた。軍事組織が、常に中央権力を脅かす存在へと変貌を遂げていたことを考えれば、ユスティニアヌスにも弁護の余地があるかもしれない。ゲルマン人の従士制(comitatus)は、指導者と個人的に結びついた戦士の集合体であるが、このような仕組みが帝国軍にも深く浸透していた。この仕組みは同盟軍(foederati)の間では常に顕著に見られたが、それがそこから正規軍にも広まってきた。6世紀において、君主は、直接の指揮官に向けられる兵士達の忠誠心が、より高次の義務より優先されることを、常に恐れなくてはならなかった。ベリサリウス、そしてナルセスでさえも、個人的な誓約によって結びついた、精鋭の大護衛部隊に取り巻かれていた。ベリサリウスの護衛隊を例にとれば、ゴート族を打ち破った時点で、7,000の熟練の騎兵を保有していた。このような部隊の存在は、実績ある指揮官が、近世史の重要人物に例えるなら、ヴァレンシュタインとなることを可能にした。そのため皇帝は、特定の武将が卓越した立場を得るのを防ごうと考え、食い違った考えを持つ複数の人間を軍の指揮官に送り込み、結果、悲劇的な結末に至るのが通例であった。指導者に個人的に結びついた集団を指すbanda(10)に分割されたこのような組織こそが、6世紀の軍制の特徴であった。この特徴は、この時代にあっては各部隊を呼ぶに際して、公式の名称ではなく指揮に当たる士官の名を使う習慣であった所に、見て取ることができる。従来のローマ軍との対比において、この慣習ほどに大きな変化はない。
ヴァンダル族、ゴート族、およびペルシアとの戦争におけるユスティニアヌスの軍隊の有効性は、(既に暗示したように)ほぼ完全に騎馬弓兵と重騎兵の連携によるものである。ゲルマン人の軍隊にせよ東方の軍隊にせよ、ユスティニアヌスの軍隊と戦うために使用したのは、これもまた騎兵であった。だがローマ帝国軍は、これらの敵軍に対する際、同じ戦法と武器で対峙できたのみならず、様々な方法を駆使したため、いずれに対しても打ち勝つことができた。ペルシア軍に対しては騎馬弓兵が軽騎兵として同種の武器をもって向かうことができた上に、同盟軍の(foederate)重騎兵を差し向けることもでき、これによって中東の軍勢は踏みにじられることになった。ゴート族の重騎兵に対しては、互角の武器を持った重騎兵に、騎馬弓兵の支援を付加して戦うことができ、騎馬弓兵に対してはゴート騎兵は反撃の術を持たなかった。だが、ローマ帝国軍は多種族混成の利点を十二分に享受する一方で、均質性の欠如から生じるありとあらゆる危険をも味わうことになった。帝国軍の様々な構成要素は、幾人かの卓越した指揮官の絶対的に優れた手腕と信頼によってのみ、統合を維持することができた。このため、ユスティニアヌスの治世の末期に始まり、彼の後継者たちの治世を通じて続く、多難な時代にあって、帝国の全軍事組織は徐々に崩壊を始めた。テオドシウスのもたらした変革に劣らぬ全面的な変革が、もう一度行われねばならなかった。582年、マウリキウスが即位して改革に当たり、帝国軍を新たな形態へと作り替え始める。
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