2011年 01月 18日
名和長年(一)
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目次
1.当時の情勢
我が国において8世紀初頭に完成した中央集権的な統一政権は、早くも9世紀に崩壊の兆しを見せた。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で富裕化した地方豪族により自給体制が各地で形成されていく。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認せざるを得なくなり、人口把握して人頭税をとる方式から土地単位で税収入を確保する体制に方針転換した。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として政府(朝廷)が推戴される「王朝国家」が10世紀から11世紀前半にかけて成立。
やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は従来の政府(朝廷)の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心とした独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形が出来上がる。特に13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的な優位に立ち、次第に西日本も含めた広い地域に支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要性もあり全国規模で支配権を強化、発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を進めていた。
一方で、従来より幕府に従属していた豪族達は分割相続と新規開発の限界による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を束ねる新興豪族が台頭し伝統的勢力としばしば衝突。彼らは「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府の統制からもしばしば逸脱し社会問題となっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、「悪党」すなわち西国の非農業民は伝統的に朝廷・寺社と深い繋がりがあった関係もあってか寧ろ幕府を自らの権益の敵対者として捉えるようになる。
一方、承久の乱以降弱体化していた朝廷は更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂する。まず皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立。中でも皇位や「治天の君」(皇室の家長。皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実権を握った者をこう呼ぶ。)の座をめぐっての両統の対立は深刻で、独力での解決は難しくしばしば幕府による調整を必要とした。これは、幕府の朝廷に対する介入の口実となった反面、敗北した陣営による幕府への遺恨を生む事になりかねなかった。
経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安も高まりつつあり、幕府は火薬を満載した導火線の上に座しているような状況であったのである。
2.名和氏と海上勢力
名和氏は『村上源氏那波系図』によれば村上源氏であると伝えられる。長年の四代前は常陸坊昌明と呼ばれる僧で、『吾妻鑑』によれば文治二年(1186)五月に頼朝の命に従って源行家を捕らえ、更に文治五年(1189)における頼朝の奥州討伐にも従軍し功を挙げたと言う。また承久の乱では北条氏に味方して但馬で後鳥羽方を相手に防戦し、北条政子から但馬守護職を恩賞として与えられている。しかし老年であったこともあり、代わって子の行明が但馬守に任官(『村上源氏那波系図』にも「承久乱依忠賞」とある)。一方で『古本伯耆巻』『伯耆巻』では昌明が朝廷方について所領を取り上げられたとあるが、だとすると行明が但馬守となった説明が付かない。恐らくはこれらの書物は後世に名和氏の末裔が先祖を顕彰するために書いたものであり、先祖代々朝廷の忠臣であった事にするため事績を捏造したのではないかと疑われている。さて行明の子の行盛は「但馬前司」と呼ばれており、彼の代で国司の地位を失ったようである。彼の生きた時代から考えて、弘安七年(1284)に起こった幕府内紛である霜月騒動に巻き込まれた可能性が強い。霜月騒動によって北条氏が更に幕府内での専制的地位を確立した一方で、多くの御家人が没落を余儀なくされている。長年の先祖もこの際に零落した可能性があるようだ。とすれば、名和氏も北条氏に対する反感を秘めていた事になる。
さて、長年の生年は不詳であるが、当初は長田又太郎長高と呼ばれたようだ。伯耆の名和湊に移住し名和を苗字として名乗ったものらしい。『太平記』には「家富み、一族広くして、心かさある者」、「増鏡」には「あやしき民なれども、いと猛に富める」、『梅松論』には「裕福の仁に候。一所に討死仕らん親族の百、二百も候わん」と称されており、由緒・門地はないが現地に勢力を張り財力を蓄えた新興豪族であった事が伺える。一方で直属の軍事力は百から二百程度で決して多くない事も分かる。百五十年後の禅僧・季弘大叔は『蔗軒日録』で長年を「もと鰯売り」と記しており、事実かは明らかでないものの漁業および海運を利用した商業活動に従事していた事が示唆されている。恐らくは海上勢力と強い結びつきを持ち、商業を通じて富を蓄えた存在であろう。
さて、この時期における日本海の海上勢力について少し見てみよう。日本海は、山陰・北陸を含め古来より大陸・国内との交易が盛んな地域であった。中でも若狭は日本海から畿内への入り口として重要視され、十世紀ごろには宋の商人がしばしば来着していたようだ。九州や敦賀に居住する「唐人」も多かったようで、国司や現地豪族と彼等の諍いも記録されている。十二世紀頃よりそうした交易は国家の手を離れ貴族・寺社が独自の交易活動に乗り出すようになった。大陸商人たちのもたらす「唐物」は貴族・豪族にとって高値で取引される貴重品だったのである。若狭を中心に日本海交易路へ皇族・貴族・寺社が進出し荘園を拡大。その一環として海上交易要所を支配下に組み込んで海上活動に従事する沿岸の民を定住させようと図っていた。彼ら海人に漁業権・関渡津海での免税航行特権を与える事によって権門は彼等を組み入れようとする。海人たちも供御人として権門に結びつき保護を得ていた。
彼らは刀禰と呼ばれる指導者(刀禰は塩を焼くための燃料を得る山林の管理もしていた)によってまとめられ領家(貴族)・地頭といった領主たちによって保護を受けた。彼らはその機動力を活かして商業活動にも従事し中国・朝鮮半島から奥州まで米・塩・陶磁器といった品々を輸送・売買するようになった。十一世紀半ばには入部真人という人物が奥州から貴賀島(鹿児島県硫黄島)まで唐物・本朝物を扱って移動していたという記録が残されている。
ベルギーの歴史家アンリ・ビレンヌは「海賊行為こそは商業の第一段階」と述べているが、そうした海人たちが交易活動の一環として時に暴力を伴う行為にも状況によって出ていたであろう事は想像に難くない。
伯耆もまたそうした沿岸地域の一環として、海人たちの活動領域に入っていたのは間違いない。その中で名和氏も海人の有力者として漁業・製塩に従事しながら大陸・国内で(海賊行為を含め)交易に励み富裕になったものと考えられる。
3.動乱の幕開け
この頃、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い京都周辺の商業勢力を保護し支持基盤に取り込もうと図る。そうして、後醍醐はやがて幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせるためであり、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立するためである。時に幕府は北条氏の惣領である高時が病弱のため指導力不足で、東北の反乱や権力争いに悩まされており後醍醐にとって絶好の機会と思われた。後醍醐は、側近である日野俊基に「国ノ風俗、人ノ分限」を調べさせ各地の新興豪族を見方にしようと図った。恐らくは名和氏もこの時期に勧誘を受けたものではなかろうか。更に皇子・尊雲法親王を天台座主として叡山に送り込むなど寺社勢力の経済力・軍事力を頼みにして彼らの取り込みを図った上で、元弘元年(1331)に挙兵し笠置山に篭った。しかし幕府の軍事力は未だ圧倒的であり笠置は陥落して捕らわれ、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。
しかし、後醍醐の誘いに応じて河内赤坂で挙兵していた楠木正成は、最初の挙兵こそ準備不十分であったものの元弘三年(1333)になると幕府軍を大阪平野各地で翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。また、護良親王(尊雲法親王、還俗して護良と名乗る)は各地の豪族に挙兵を煽ると共に自身も吉野に篭った。これにより威信を傷つけられた幕府は大軍を動員し吉野を陥落させるものの、千早城は攻め落とせず苦戦を余儀なくされる状態であった。幕府に反感を持つ人々は、これを見て幕府の軍事的威信の低下を見て取っており、ここに更に幕府方に対し攻勢を取る者が出現した際にはこれに続くものが陸続するであろう状況であった。
(二)に続きます。
1.当時の情勢
我が国において8世紀初頭に完成した中央集権的な統一政権は、早くも9世紀に崩壊の兆しを見せた。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で富裕化した地方豪族により自給体制が各地で形成されていく。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認せざるを得なくなり、人口把握して人頭税をとる方式から土地単位で税収入を確保する体制に方針転換した。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として政府(朝廷)が推戴される「王朝国家」が10世紀から11世紀前半にかけて成立。
やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は従来の政府(朝廷)の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心とした独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形が出来上がる。特に13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的な優位に立ち、次第に西日本も含めた広い地域に支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要性もあり全国規模で支配権を強化、発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を進めていた。
一方で、従来より幕府に従属していた豪族達は分割相続と新規開発の限界による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を束ねる新興豪族が台頭し伝統的勢力としばしば衝突。彼らは「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府の統制からもしばしば逸脱し社会問題となっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、「悪党」すなわち西国の非農業民は伝統的に朝廷・寺社と深い繋がりがあった関係もあってか寧ろ幕府を自らの権益の敵対者として捉えるようになる。
一方、承久の乱以降弱体化していた朝廷は更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂する。まず皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立。中でも皇位や「治天の君」(皇室の家長。皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実権を握った者をこう呼ぶ。)の座をめぐっての両統の対立は深刻で、独力での解決は難しくしばしば幕府による調整を必要とした。これは、幕府の朝廷に対する介入の口実となった反面、敗北した陣営による幕府への遺恨を生む事になりかねなかった。
経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安も高まりつつあり、幕府は火薬を満載した導火線の上に座しているような状況であったのである。
2.名和氏と海上勢力
名和氏は『村上源氏那波系図』によれば村上源氏であると伝えられる。長年の四代前は常陸坊昌明と呼ばれる僧で、『吾妻鑑』によれば文治二年(1186)五月に頼朝の命に従って源行家を捕らえ、更に文治五年(1189)における頼朝の奥州討伐にも従軍し功を挙げたと言う。また承久の乱では北条氏に味方して但馬で後鳥羽方を相手に防戦し、北条政子から但馬守護職を恩賞として与えられている。しかし老年であったこともあり、代わって子の行明が但馬守に任官(『村上源氏那波系図』にも「承久乱依忠賞」とある)。一方で『古本伯耆巻』『伯耆巻』では昌明が朝廷方について所領を取り上げられたとあるが、だとすると行明が但馬守となった説明が付かない。恐らくはこれらの書物は後世に名和氏の末裔が先祖を顕彰するために書いたものであり、先祖代々朝廷の忠臣であった事にするため事績を捏造したのではないかと疑われている。さて行明の子の行盛は「但馬前司」と呼ばれており、彼の代で国司の地位を失ったようである。彼の生きた時代から考えて、弘安七年(1284)に起こった幕府内紛である霜月騒動に巻き込まれた可能性が強い。霜月騒動によって北条氏が更に幕府内での専制的地位を確立した一方で、多くの御家人が没落を余儀なくされている。長年の先祖もこの際に零落した可能性があるようだ。とすれば、名和氏も北条氏に対する反感を秘めていた事になる。
さて、長年の生年は不詳であるが、当初は長田又太郎長高と呼ばれたようだ。伯耆の名和湊に移住し名和を苗字として名乗ったものらしい。『太平記』には「家富み、一族広くして、心かさある者」、「増鏡」には「あやしき民なれども、いと猛に富める」、『梅松論』には「裕福の仁に候。一所に討死仕らん親族の百、二百も候わん」と称されており、由緒・門地はないが現地に勢力を張り財力を蓄えた新興豪族であった事が伺える。一方で直属の軍事力は百から二百程度で決して多くない事も分かる。百五十年後の禅僧・季弘大叔は『蔗軒日録』で長年を「もと鰯売り」と記しており、事実かは明らかでないものの漁業および海運を利用した商業活動に従事していた事が示唆されている。恐らくは海上勢力と強い結びつきを持ち、商業を通じて富を蓄えた存在であろう。
さて、この時期における日本海の海上勢力について少し見てみよう。日本海は、山陰・北陸を含め古来より大陸・国内との交易が盛んな地域であった。中でも若狭は日本海から畿内への入り口として重要視され、十世紀ごろには宋の商人がしばしば来着していたようだ。九州や敦賀に居住する「唐人」も多かったようで、国司や現地豪族と彼等の諍いも記録されている。十二世紀頃よりそうした交易は国家の手を離れ貴族・寺社が独自の交易活動に乗り出すようになった。大陸商人たちのもたらす「唐物」は貴族・豪族にとって高値で取引される貴重品だったのである。若狭を中心に日本海交易路へ皇族・貴族・寺社が進出し荘園を拡大。その一環として海上交易要所を支配下に組み込んで海上活動に従事する沿岸の民を定住させようと図っていた。彼ら海人に漁業権・関渡津海での免税航行特権を与える事によって権門は彼等を組み入れようとする。海人たちも供御人として権門に結びつき保護を得ていた。
彼らは刀禰と呼ばれる指導者(刀禰は塩を焼くための燃料を得る山林の管理もしていた)によってまとめられ領家(貴族)・地頭といった領主たちによって保護を受けた。彼らはその機動力を活かして商業活動にも従事し中国・朝鮮半島から奥州まで米・塩・陶磁器といった品々を輸送・売買するようになった。十一世紀半ばには入部真人という人物が奥州から貴賀島(鹿児島県硫黄島)まで唐物・本朝物を扱って移動していたという記録が残されている。
ベルギーの歴史家アンリ・ビレンヌは「海賊行為こそは商業の第一段階」と述べているが、そうした海人たちが交易活動の一環として時に暴力を伴う行為にも状況によって出ていたであろう事は想像に難くない。
伯耆もまたそうした沿岸地域の一環として、海人たちの活動領域に入っていたのは間違いない。その中で名和氏も海人の有力者として漁業・製塩に従事しながら大陸・国内で(海賊行為を含め)交易に励み富裕になったものと考えられる。
3.動乱の幕開け
この頃、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い京都周辺の商業勢力を保護し支持基盤に取り込もうと図る。そうして、後醍醐はやがて幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせるためであり、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立するためである。時に幕府は北条氏の惣領である高時が病弱のため指導力不足で、東北の反乱や権力争いに悩まされており後醍醐にとって絶好の機会と思われた。後醍醐は、側近である日野俊基に「国ノ風俗、人ノ分限」を調べさせ各地の新興豪族を見方にしようと図った。恐らくは名和氏もこの時期に勧誘を受けたものではなかろうか。更に皇子・尊雲法親王を天台座主として叡山に送り込むなど寺社勢力の経済力・軍事力を頼みにして彼らの取り込みを図った上で、元弘元年(1331)に挙兵し笠置山に篭った。しかし幕府の軍事力は未だ圧倒的であり笠置は陥落して捕らわれ、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。
しかし、後醍醐の誘いに応じて河内赤坂で挙兵していた楠木正成は、最初の挙兵こそ準備不十分であったものの元弘三年(1333)になると幕府軍を大阪平野各地で翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。また、護良親王(尊雲法親王、還俗して護良と名乗る)は各地の豪族に挙兵を煽ると共に自身も吉野に篭った。これにより威信を傷つけられた幕府は大軍を動員し吉野を陥落させるものの、千早城は攻め落とせず苦戦を余儀なくされる状態であった。幕府に反感を持つ人々は、これを見て幕府の軍事的威信の低下を見て取っており、ここに更に幕府方に対し攻勢を取る者が出現した際にはこれに続くものが陸続するであろう状況であった。
(二)に続きます。
by trushbasket
| 2011-01-18 22:44
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