2011年 01月 18日
名和長年(三)
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目次
(二)はこちらです。
6.動乱再び
建武政権の苦難は基盤の弱さや政策への不満のみに止まらない。北条氏の勢力が完全に駆逐されたわけではなかったのである。元弘三年(1333)の冬には早くも出羽・秋田で北条残党の蜂起が勃発し、更に豊前・筑後・薩摩・伊予・越後・紀伊などでもこれに呼応するものが続出した。政権がそれぞれの鎮圧に追われる中、建武二年(1335)六月に驚くべき事態が判明した。鎌倉期の有力貴族である西園寺公宗が持明院統を奉じて北条時興(高時の弟)と共謀して後醍醐を暗殺し、同時に信濃の時行(高時の子)が挙兵して関東を制圧し東西を同時に占拠する事で北条氏を再興するというのである。弟・公重の密告により公宗は捕えられ出雲へ流される事となった。長年はその護送役を受け持つ事となったが、八月二日に公宗を斬首している。『太平記』によれば中院定平が公宗を出発させようと合図したところ、長年が死刑の命令と勘違いして斬ったと説明されている。しかし同日に日野氏光も処刑されている事を考えると、間違えたと言う事にして処刑したというのが真相であろう。上級貴族は死刑とされないのが慣例となっていたので、それに表向き配慮したものと思われる。それにしても長年は護良親王の件も含めて汚れ役を担う事が多いが、天皇を護衛する武者所や京の治安を護る検非違使として当然の任務と言え後醍醐の寵愛と表裏の関係にある事象であろう。
計画の露見により追い詰められた時行は即挙兵し、鎌倉へ攻め入る。鎌倉を護っていた直義は為すすべなく敗れて撤退し(この際に直義は護良が時行と結びつくのを恐れて殺害している)、その奪回のために尊氏が勅許なしに出陣した。鎌倉を再び手中にした尊氏は、独自の論功行賞を行う。実質上の朝廷からの自立である。これに対して朝廷は新田義貞を大将として討伐軍を派遣した。新田軍は緒戦こそ優勢に戦いを進めるものの、竹ノ下で尊氏に敗北して撤退。上洛する足利軍を相手に朝廷側は防衛戦を行い京死守を図った。この時、長年は忠顕・親光と共に三千の兵を率いて瀬田を守備している。しかし山崎を守備する脇屋義助軍は弱体な混成軍であり、ここから赤松軍の突破を許し建武三年(1336)正月に京は陥落した。この際、長年は瀬田から撤退し後醍醐が篭る叡山に向かう際に荒廃した内裏を拝して涙したと『太平記』は伝えている。この際の攻防で結城親光が尊氏の命を狙って失敗し落命するという犠牲を払うものの、新田軍・北畠軍・楠木軍の活躍により後醍醐は京を奪回。足利軍は西国へ落ち延びつつ中国・四国の要所を一族や現地豪族により固めた上で九州に入り多々良浜で菊池軍を破って西国を制圧する。加えて光厳院から院宣を得て大義名分を手に入れた尊氏は大軍を編成して再上洛し、延元元年(1336)五月二十五日に湊川で楠木正成を討ち取り京を攻める上での憂いをなくした。
これを受けて朝廷は二十七日に義貞らに守護されて比叡山へと再び避難する。それを追うようにして足利勢が入京したのが三十日。朝廷軍は比叡山に篭城して北陸や奥州からの援軍を再び待つ方針であった。直義の指揮する足利軍は京から攻め入る大手軍と東坂本方面からの搦手軍に分かれ比叡山へ進攻。六月五日の戦いでは雲母坂で千草忠顕が戦死するなど朝廷軍は大きな損害を受ける。しかし足利軍も険阻な叡山を攻め倦んでおり、義助は城砦に数千の兵で立て篭もり、琵琶湖上に停泊する水軍の助けもあって高師重の度重なる攻撃を撃退していた。六月二十日には、逆に師重が新田軍の奇襲を受けて討死する事態となる。直義は叡山攻撃から撤退し、戦場は洛中に移った。
六月三十日の早朝、義貞は内野で細川勢に攻勢をかけて撃退し、大宮猪熊から東寺の尊氏本陣まで攻め寄せて門の扉に矢を射込み尊氏に一騎打ちを申し込んで挑発した。結局は果たせず多勢に無勢で包囲されぬうちに徹底を余儀なくされている。兵力に劣る新田軍としては、中央突破して敵の中枢を破るほかに道はなかったのである。この出撃に際し、長年は得能・土居らと共に数千の軍勢で猪熊方面に南進して奮戦したが、衆寡敵せず包囲され討死した。長年討死の場所であるが、『太平記』が大宮周辺と伝える一方で、『梅松論』は三条猪熊で豊前四位草野左近将監秀永が討ち取ったと述べている。『太平記』によればこの戦いに先立ち「このごろ天下に結城、伯耆、楠木、千種頭中将、三木一草とて、あくまで朝恩に誇りたる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残りたることよ」と人々が囁いているのを耳にして、長年は一人生き残っているのを恥じ戦死を覚悟したという。ここに建武政権下で破格の立身出世を誇った「三木一草」は全滅したのである。
7.名和氏その後
その後、後醍醐方は次第に苦境に追い込まれ後醍醐は尊氏と和平を図る。尊氏は後醍醐から持明院統・光明天皇へ譲位させた上で京に自らの政権(室町幕府)を樹立した。一方で後醍醐天皇は吉野に逃れ自らが正当の朝廷であると主張。南朝である。これに対し足利氏が擁立する京の朝廷を北朝と呼ぶ。ここに六十年にわたる南北朝の動乱が始まった。武力で大きく勝る尊氏は南朝との戦いを優勢に進めつつ直義とともに政権安定を図るが、商工業中心の新興勢力と保守派豪族の内部対立が尊氏・直義の戦いという形で内紛に繋がる。それに乗じて没落した南朝も一時的に息を吹き返し反攻に出るが優位の回復には繋がらない。尊氏が直義を滅ぼして終始一応の優位を保つが、各地の有力者はそれぞれの思惑で動き内紛の火種が絶えない状況であった。
そんな中、名和氏は元来の拠点である伯耆を失い、名和顕興は正平十三年(1358)に肥後八代へと移り下益城を居城として八代・芦北を支配した。八代は長年が後醍醐に恩賞として与えられた地であり、海上交易における要地の一つであった。日本海の海運を利用して勢力を伸ばした名和氏にとって大きな意味合いを持つ土地であったのは想像に難くなく、この地が拠点に選ばれたのは決して偶然ではないと思われる。以後、名和氏は菊池氏と共に九州南朝方の有力者として活動し、元中七年(1390)には良成親王を顕興が佐敷城に迎えている。懐良親王の征西府は一時期九州全土を支配するに至ったが、今川了俊による足利政権の九州経略によって没落し懐良の後を継いだ良成はこの地を最後の拠点としたのである。
南朝が足利氏の奉じる北朝によって吸収された後も名和氏は八代を支配していたようで、十五世紀半ばの「海道諸国記」は八代の源敬信が朝鮮に使者を送ったと記している。名和氏は朝鮮半島との交易を熱心に行っていたのだ。また彼らは八代に鰾(にべ)神社を建立して「鰾」なる魚を神として崇めており、その海民としての性格が伺える。そして菊池氏にも同様な話が存在しており、やはり海外交易に積極的であった。彼らは南朝方として活動する際にも水軍を指揮下においていたのであろう。
さて、南北朝合一後の名和氏について興味深い説が一部で唱えられている。民俗学者・折口信夫は名和氏の末裔が沖縄本島に渡り、上陸地を佐敷と名付けたのではないかと主張した。彼によれば、初代琉球国王である尚思紹が苗代大親(なわしろうふや)と号しているが、「苗」は「名和」、「代」は「八代」に通じるのではないかという。また「尚」も「なわ」と読んだのでないかと考えていたようだ。一方で思紹が「尚」の姓を名乗った事はなく「尚」を号するのは子の尚巴志からであり「尚」の字は現地では「なお」「なわ」と読まれた事はないようで、この説には批判も多い。筆者も折口説は話が出来すぎている感じがして疑わしいと考えるが、名和氏の末裔かどうかはともかくとして第一尚氏には八幡信仰が存在する(源為朝の末裔説が唱えられる根拠の一つとなっている)など「ヤマト」との繋がりを示唆する話が少なくないようである。興味をかきたてられる話題ではある。
8.おわりに
海上勢力の代表として取り上げてみた名和長年であるが、余りそれらしい活動を書くことは出来なかった。考えてみれば彼が歴史の表舞台にいたのは数年のみで、山陰の山岳戦での活躍やその功績による中央での栄達が人目に立つのみに過ぎない。楠木氏にも言える事であるが、新興豪族である彼らは前半生が全くの謎といって良い状況である。したがって地域の伝承や地道な実証的研究が彼等の姿を明らかにするには欠かせないといえ、時には民俗学・考古学の成果も有用となりうる。戦後の実証史学により海人や商業勢力の実態はかなり明らかになっており、今後の更なる研究が期待される部門である。
参考文献へ。
(二)はこちらです。
6.動乱再び
建武政権の苦難は基盤の弱さや政策への不満のみに止まらない。北条氏の勢力が完全に駆逐されたわけではなかったのである。元弘三年(1333)の冬には早くも出羽・秋田で北条残党の蜂起が勃発し、更に豊前・筑後・薩摩・伊予・越後・紀伊などでもこれに呼応するものが続出した。政権がそれぞれの鎮圧に追われる中、建武二年(1335)六月に驚くべき事態が判明した。鎌倉期の有力貴族である西園寺公宗が持明院統を奉じて北条時興(高時の弟)と共謀して後醍醐を暗殺し、同時に信濃の時行(高時の子)が挙兵して関東を制圧し東西を同時に占拠する事で北条氏を再興するというのである。弟・公重の密告により公宗は捕えられ出雲へ流される事となった。長年はその護送役を受け持つ事となったが、八月二日に公宗を斬首している。『太平記』によれば中院定平が公宗を出発させようと合図したところ、長年が死刑の命令と勘違いして斬ったと説明されている。しかし同日に日野氏光も処刑されている事を考えると、間違えたと言う事にして処刑したというのが真相であろう。上級貴族は死刑とされないのが慣例となっていたので、それに表向き配慮したものと思われる。それにしても長年は護良親王の件も含めて汚れ役を担う事が多いが、天皇を護衛する武者所や京の治安を護る検非違使として当然の任務と言え後醍醐の寵愛と表裏の関係にある事象であろう。
計画の露見により追い詰められた時行は即挙兵し、鎌倉へ攻め入る。鎌倉を護っていた直義は為すすべなく敗れて撤退し(この際に直義は護良が時行と結びつくのを恐れて殺害している)、その奪回のために尊氏が勅許なしに出陣した。鎌倉を再び手中にした尊氏は、独自の論功行賞を行う。実質上の朝廷からの自立である。これに対して朝廷は新田義貞を大将として討伐軍を派遣した。新田軍は緒戦こそ優勢に戦いを進めるものの、竹ノ下で尊氏に敗北して撤退。上洛する足利軍を相手に朝廷側は防衛戦を行い京死守を図った。この時、長年は忠顕・親光と共に三千の兵を率いて瀬田を守備している。しかし山崎を守備する脇屋義助軍は弱体な混成軍であり、ここから赤松軍の突破を許し建武三年(1336)正月に京は陥落した。この際、長年は瀬田から撤退し後醍醐が篭る叡山に向かう際に荒廃した内裏を拝して涙したと『太平記』は伝えている。この際の攻防で結城親光が尊氏の命を狙って失敗し落命するという犠牲を払うものの、新田軍・北畠軍・楠木軍の活躍により後醍醐は京を奪回。足利軍は西国へ落ち延びつつ中国・四国の要所を一族や現地豪族により固めた上で九州に入り多々良浜で菊池軍を破って西国を制圧する。加えて光厳院から院宣を得て大義名分を手に入れた尊氏は大軍を編成して再上洛し、延元元年(1336)五月二十五日に湊川で楠木正成を討ち取り京を攻める上での憂いをなくした。
これを受けて朝廷は二十七日に義貞らに守護されて比叡山へと再び避難する。それを追うようにして足利勢が入京したのが三十日。朝廷軍は比叡山に篭城して北陸や奥州からの援軍を再び待つ方針であった。直義の指揮する足利軍は京から攻め入る大手軍と東坂本方面からの搦手軍に分かれ比叡山へ進攻。六月五日の戦いでは雲母坂で千草忠顕が戦死するなど朝廷軍は大きな損害を受ける。しかし足利軍も険阻な叡山を攻め倦んでおり、義助は城砦に数千の兵で立て篭もり、琵琶湖上に停泊する水軍の助けもあって高師重の度重なる攻撃を撃退していた。六月二十日には、逆に師重が新田軍の奇襲を受けて討死する事態となる。直義は叡山攻撃から撤退し、戦場は洛中に移った。
六月三十日の早朝、義貞は内野で細川勢に攻勢をかけて撃退し、大宮猪熊から東寺の尊氏本陣まで攻め寄せて門の扉に矢を射込み尊氏に一騎打ちを申し込んで挑発した。結局は果たせず多勢に無勢で包囲されぬうちに徹底を余儀なくされている。兵力に劣る新田軍としては、中央突破して敵の中枢を破るほかに道はなかったのである。この出撃に際し、長年は得能・土居らと共に数千の軍勢で猪熊方面に南進して奮戦したが、衆寡敵せず包囲され討死した。長年討死の場所であるが、『太平記』が大宮周辺と伝える一方で、『梅松論』は三条猪熊で豊前四位草野左近将監秀永が討ち取ったと述べている。『太平記』によればこの戦いに先立ち「このごろ天下に結城、伯耆、楠木、千種頭中将、三木一草とて、あくまで朝恩に誇りたる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残りたることよ」と人々が囁いているのを耳にして、長年は一人生き残っているのを恥じ戦死を覚悟したという。ここに建武政権下で破格の立身出世を誇った「三木一草」は全滅したのである。
7.名和氏その後
その後、後醍醐方は次第に苦境に追い込まれ後醍醐は尊氏と和平を図る。尊氏は後醍醐から持明院統・光明天皇へ譲位させた上で京に自らの政権(室町幕府)を樹立した。一方で後醍醐天皇は吉野に逃れ自らが正当の朝廷であると主張。南朝である。これに対し足利氏が擁立する京の朝廷を北朝と呼ぶ。ここに六十年にわたる南北朝の動乱が始まった。武力で大きく勝る尊氏は南朝との戦いを優勢に進めつつ直義とともに政権安定を図るが、商工業中心の新興勢力と保守派豪族の内部対立が尊氏・直義の戦いという形で内紛に繋がる。それに乗じて没落した南朝も一時的に息を吹き返し反攻に出るが優位の回復には繋がらない。尊氏が直義を滅ぼして終始一応の優位を保つが、各地の有力者はそれぞれの思惑で動き内紛の火種が絶えない状況であった。
そんな中、名和氏は元来の拠点である伯耆を失い、名和顕興は正平十三年(1358)に肥後八代へと移り下益城を居城として八代・芦北を支配した。八代は長年が後醍醐に恩賞として与えられた地であり、海上交易における要地の一つであった。日本海の海運を利用して勢力を伸ばした名和氏にとって大きな意味合いを持つ土地であったのは想像に難くなく、この地が拠点に選ばれたのは決して偶然ではないと思われる。以後、名和氏は菊池氏と共に九州南朝方の有力者として活動し、元中七年(1390)には良成親王を顕興が佐敷城に迎えている。懐良親王の征西府は一時期九州全土を支配するに至ったが、今川了俊による足利政権の九州経略によって没落し懐良の後を継いだ良成はこの地を最後の拠点としたのである。
南朝が足利氏の奉じる北朝によって吸収された後も名和氏は八代を支配していたようで、十五世紀半ばの「海道諸国記」は八代の源敬信が朝鮮に使者を送ったと記している。名和氏は朝鮮半島との交易を熱心に行っていたのだ。また彼らは八代に鰾(にべ)神社を建立して「鰾」なる魚を神として崇めており、その海民としての性格が伺える。そして菊池氏にも同様な話が存在しており、やはり海外交易に積極的であった。彼らは南朝方として活動する際にも水軍を指揮下においていたのであろう。
さて、南北朝合一後の名和氏について興味深い説が一部で唱えられている。民俗学者・折口信夫は名和氏の末裔が沖縄本島に渡り、上陸地を佐敷と名付けたのではないかと主張した。彼によれば、初代琉球国王である尚思紹が苗代大親(なわしろうふや)と号しているが、「苗」は「名和」、「代」は「八代」に通じるのではないかという。また「尚」も「なわ」と読んだのでないかと考えていたようだ。一方で思紹が「尚」の姓を名乗った事はなく「尚」を号するのは子の尚巴志からであり「尚」の字は現地では「なお」「なわ」と読まれた事はないようで、この説には批判も多い。筆者も折口説は話が出来すぎている感じがして疑わしいと考えるが、名和氏の末裔かどうかはともかくとして第一尚氏には八幡信仰が存在する(源為朝の末裔説が唱えられる根拠の一つとなっている)など「ヤマト」との繋がりを示唆する話が少なくないようである。興味をかきたてられる話題ではある。
8.おわりに
海上勢力の代表として取り上げてみた名和長年であるが、余りそれらしい活動を書くことは出来なかった。考えてみれば彼が歴史の表舞台にいたのは数年のみで、山陰の山岳戦での活躍やその功績による中央での栄達が人目に立つのみに過ぎない。楠木氏にも言える事であるが、新興豪族である彼らは前半生が全くの謎といって良い状況である。したがって地域の伝承や地道な実証的研究が彼等の姿を明らかにするには欠かせないといえ、時には民俗学・考古学の成果も有用となりうる。戦後の実証史学により海人や商業勢力の実態はかなり明らかになっており、今後の更なる研究が期待される部門である。
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by trushbasket
| 2011-01-18 22:53
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