2011年 01月 20日
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 2章
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ローマ帝国から中世へ
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第二章
初期中世
476~1066-1081
西ローマ帝国の崩壊からヘイスティングスおよびデュラッキオンの戦いまで
フランク族、アングロ・サクソン族、スカンジナビア人
今度は後期ローマ帝国の戦争術から離れて、北西ヨーロッパ諸国に検討を加えることにするが、これによって研究対象として、かなり明瞭に理解できる地域から、疑わしく不確かな地域へと移行することになる。帝国史に関してすら史料はときに不十分で価値に乏しいことがあるが、ゲルマン人の場合はしばしば完全に史料が存在しないことがある。例えば断片的な記録から、軍事的に重要な東帝国のヘラクレイオス帝の作戦行動を推測するのは容易ではないが、ヴイエ(507)やトルビアクム(510頃)、バドベリー(900頃)、ヘヴンフィールド(634)といった戦いは完全に不可能である。暗黒時代の戦争術の状態は僧侶の年代記や民族詩、ビザンツの歴史家の偶然の言及、装飾写本の奇怪な挿絵、戦士の墳墓の朽ちた出土物といったものから導き出すしかない。
この時代の特質によってその軍事史がかなり素朴なものに留まっていることは、幸運である。人々が巧みな作戦や外来の新技術に頼ることなく、力押しで戦っている時代にあっては、戦略はほとんど存在しなかった。戦術は各民族固有の組織によって固定されていた。中世の数世紀間について、真に興味深いのは、新たな形態の軍事力が徐々に発展していく、その過程である。古い軍事組織では、部族を構成する無数の民衆が、武装して隊列を組み戦闘部隊を形成したが、この発展によって、これらの民衆のほとんどが没落し、戦争の主役としての戦士階級が確立するに至る。この発展には武装における変革が密接に結びついているが、この変革は戦争の外観をある意味ほぼ完全に変えてしまうものであった。この変革の時代は、11世紀まで続いたと考えて良いだろう。この頃までに封建騎士は、東はマジャール人の騎馬弓兵から西はイングランド・デンマークの斧戦士まで、あらゆる敵に対する優越を確立する。ヘイスティングスの戦いは、歩兵で騎兵に対抗しようとする最後の試みで、以後三世紀このような試みは絶えることになる。この戦いは一時代の終焉を象徴するものであった。
北西ヨーロッパのゲルマン諸族は、ゴート族やロンバルド族とは異なり、重装騎兵の強さに頼って勝利を得ていたわけではなかった。6世紀と7世紀のフランク族およびサクソン族は、未だに歩兵であった。北ドイツとシュレスヴィヒの原野や、ベルギーの荒野と湿地は、ウクライナの草原やドナウ流域の平原と違って、騎兵が発達するには向いてはいなかったのだろう。シドニウス・アポリナリスやプロコピウス、アガティアスによって描写されるフランク族は、未だに祖先であるシガンブリー族とかなりの類似点を有している。フランク族はシガンブリー族と同じく兜と、胴鎧を欠いていた。だがその盾は、一世紀の枝編み細工よりもずっと強力なものになっていた。金属製の大きな装飾突起と縁をもつ長円形の頑丈な盾である。投げ槍にはangonという「投げ槍だが、長すぎず短すぎず、敵に対して、槍として用いることも、投じることもできる」(1)物が取って代わった。その先端部の鉄製部品は長く柄まで及んでおり、その首の部分に二つの逆とげが付いて、傷や貫いた盾から、ほぼ引き抜けないようになっていた。 また、この部族に由来する名を持つフランキスカという強力な武器があった。これは片刃の戦斧(2)で、外側に向けて大きく反りかえるとともに内側が深く凹んだ、重い刃を持っていた。そしてアメリカのトマホークのように、敵に投げつけて使えるように、重量が慎重に調整されていた。フランク族は、この武器を敵戦列との接触直前に投げつける技量に卓越しており、その威力からフランク族はこの武器を非常に愛好していた。ここに剣と短刀(scramasax)を加えたものが、戦士の通常の装備である。この剣は両刃の斬撃用の武器で長さ約75センチ、短刀は幅の広い刺突用の刃で長さ約45センチであった。
これらがテウデベルト、ブッケリン、ロタールが6世紀半ばにイタリアへと率いていった 軍隊の装備である。プロコピウスによれば最初に名を挙げた首長は騎兵を引き連れていた。ただしその数は取るに足りないもので、90,000(3)の軍勢の内、数百人にすぎなかった。騎兵は槍と小型の丸盾を装備し、王の個人的な護衛として勤務した。この騎兵の存在は、フランク族における新たな軍事的発展を示すものではあるが、同時になお歩兵が優勢であり続けたことを示すものでもある。
554年にブッケリンがローマ帝国のナルセスの軍隊と遭遇した際、 歴史家にとって興味深い一つの問題について、解答が示された。帝国軍は、戦術および装備について、ともに顕著に優越していた。一つの巨大な縦深隊形を作ったフランク族は、半円形に布陣したナルセスの軍勢の中へと進入した。ローマ軍の歩兵および、下馬したヘルル族の同盟軍の重騎兵が、正面で戦うとともに、弓騎兵が側面から包囲を行い、敵にかつてのクラッススと同じ運命を与えた。ブッケリンに随行した軍勢のほとんどは戦場から逃れることができなかった。フランク族にとっても、他の勢力にとっても、歩兵の時代は過ぎ去ったのである。
以上のことから言って、6世紀から9世紀のフランク軍において、常に騎兵の割合が上昇を示し続けていることは、さして驚くには値しない。これと共に、防具の使用も拡大している。まず古典的な羽飾りつきの兜が彼らの間に普及し、まもなく、臀部にまで達する鎖帷子が導入された。カール大帝も腕と腿に防具を採用することで、騎兵の装備向上に貢献しており、「腰よりも外側まで堅固に金属片で包まれるようにする」(4)ことを法定している。ただこのような防具は当初は多くのフランク人に拒絶され、馬の背に坐りにくいと不平の声が漏れた。
[トゥールの戦い(732)では、フランクの大軍のかなりの部分が騎乗していたけれど、その戦法は守勢に効果的な歩兵方陣の戦法と、全く同じであった。イスラム教徒が闇に紛れて撤退しても、フランク軍は追撃に乗り出さなかった。カール大帝の時代には、全ての重臣とその直接の随員は馬上での勤務に習熟していた。彼の治世の末期までにフランク全軍のかなりの部分が、騎乗者で構成されるようになり、一方歩兵は段々とその重要性を低下させていった。 法令は地方の長官に、明白に布告している。すなわち、「戦闘に伴う兵士を完全に武装させるよう気を配ること。その武装は槍、盾、兜、鎖帷子(brunia)、弓、弦二本、矢十二本である。」(5)それ故、フランク族は9世紀の初めには伝統的な歩兵密集戦闘を放棄しつつあり、全ての重要な作戦を騎兵に任せるようになっていた。]
[この変化はシャルル禿頭王が、「馬を持つ、あるいは馬を持つことのできるフランク族の農民は、必ず部下を伴い敵との会合地へと出発せよ」(6)と布告した時に完成を迎える。現状を追認したにせよ、新たな制度を定めたにせよ、この布告は、国防が騎兵のみに委ねられた時代の特徴を、良く示している。この情況を招いた原因のうち最も重要なものは、フランク族が9世紀と10世紀に戦わねばならなかった、敵の性格である。西王国に現れたスカンジナビア人や東王国に現れたマジャール人は、略奪のみを事とする盗賊集団であり、素早い移動が防衛の鍵を握っていた。ヴァイキングの大群は侵入した土地で馬を奪い取る習慣であり、その後、鈍重な動きの軍隊から常に距離を取りつつ、一帯を駆け回った。ハンガリーの弓騎兵はドイツ中央部へと少人数で略奪を仕掛け、追跡をかわして逃走することができた。 このような侵入を抑止するには歩兵は全く役立たずであった。4世紀のローマ軍のように、フランク族は守勢に立たざるを得なくなった時、騎兵に頼ることになったのである。]
[このヨーロッパ軍事史の危機は、カール大帝の王国の破綻による中央権力の完全な崩壊と同時に発生した。抵抗を組織する中央権力を欠いた中で、国防は、半独立の支配者となっていた、地方領主の手に委ねられることになった。今や、それぞれの地方の地主は、戦争と無秩序の時代における安全を求めて、これらの小領主に身を委ね、同時に同様の理由で、貧しい自由民は地主に身を委ねた。このようにして封建制の階層秩序が確立され、新たな軍制が成立した。そこでは伯や公が臣下と騎乗した従者を戦いへと引率することになった。]
この制度は政治的には退化であったけれど、成功も収めた。マジャール人はメルセベルクに近いリアデ(933)とレヒフェルト(955)で粉砕され、ライタ川を越えて逃げ去った。彼らはまもなくキリスト教化され、ヨーロッパ共同体の正当な構成員へと成長を遂げる。ヴァイキングは略奪を阻止されるとともに、河口の拠点から駆逐され、その支配領域はノルマンディーのみに抑え込まれた。そこで彼らは、マジャールと同様、封建社会に吸収されることになった。これらの勝利をもぎ取り、ヨーロッパを北東の異教徒から救って、野蛮への回帰を防いだのは、鎧に身を包んだ騎馬戦士の軍勢であった。ここで同時代人や、その子孫達が、騎士こそ戦士の正しい姿であると神聖化し、他の軍事力を養成する必要がないと信じたとしても、何ら驚くには値しない。四百年の長きに渡る封建騎士の支配は、暗黒時代の終わりに収めた、勝利に対する報償である。
英仏海峡の向こうでも、軍事史の展開は、発展の最終段階を除いては、大陸と同様の経過を示す。フランク族同様、イギリス征服時のアングル族とサクソン族は、歩兵の部族であり、トネリコ製の投げ槍と、幅の広い剣、短刀あるいは刺突用の幅の広い短刀を持ち、時には戦斧を用いた(7)。防具は。ほとんど盾のみで、金属製の大きな装飾突起を持つ「戦闘用の丸板」を使用した。諸々の情報を総合すると、鎖帷子も非常に早い時期から知られていたが、これはほとんど普及していなかった。ベオウルフの「灰色の戦闘服」や「鎖を組んだ鎧」は王侯しか持つことはできなかった。「鉄で細工された猪の首」で飾った兜も、ごくわずかしか使われなかった。仮に君主や君主の従者がそのような装備を有していたにせよ、七王国軍の主力を形成した民衆軍は、そのような装備を全く欠いていた。何世紀もの間、島国にあって外部から影響を受けなかったため、イギリスの部族は他のヨーロッパ諸族と比べて、長きに渡って古いゲルマンの慣習を保っていた。マーシアとウェセックスの戦いでは、各地から慌てて集めた軍勢を、首長や代官が率いて、作戦を行った。軍隊がこのように一時的にしか使えない性質を持っているため、戦争は発作的で短期的な性格を帯びていた。軍事組織がこのような弱点を抱えているため、計画的な戦略を追求して、征服を推進していくことは、全く不可能であった。多数の王国による戦いは、激しく止むことなく行われたが、確たる決着を見ることはなかった。仮に9世紀のイングランドで、自発的に統一へと向かう流れが生まれつつあったとしても、それはウェセックスの軍事的な優越によるものではなく、他の国家の王統断絶と不幸な国内事情のおかげである。
自発的に統一へと向かいつつある一方、イングランド全島は、フランク王国を根底から揺さぶったのと同じ外敵の侵入に圧迫されていた。デーン人がイングランドに襲来して猛威を振るい、古いゲルマンの軍制が時代の要請に応えられないことを示した。実際ヴァイキングは抵抗する軍勢よりも、戦法、装備、熟練度、機動力において優越していた。個々の人間としてみても、デーン人は古の戦士集団の構成員であり、これが耕作地から慌てて駆けつけた農民と戦うのは、熟練兵が未熟な民兵と戦うということであった。デーン人は職業兵士として、イングランド軍では首長しか持てないような装備を身につけており、鎖帷子は例外的な防具ではなく普通に使われ、鉄帽さえ普及していた。一方、これに立ち向かう民兵団は、鎧を身につけず、槍や剣、棍棒、石斧(8)など様々な武器を手にしていた。それでも、デーン人が、各地の軍隊が追いつくのを待ってくれるならば、同等の勇気と優越する兵力が、装備の優越をも打ち負かしたかもしれない。だが、ヴァイキングの目的は戦闘ではなく略奪であった。敵は「徒歩で」(9)イングランドの沿岸部に侵入し、そこから騎乗して、被害をまき散らしながら、辺り一帯を駆け回った。馬を略奪することで、彼らは素早い移動能力を手に入れ、民兵団はこれに対抗することができなかった。地方の軍隊が侵入者が最後に目撃された地点に到着した時、そこに敵の姿はなく、煙と廃墟が見えるのみであった。時折であるが、通常の撤退ではなく、沿岸部まで追い立てられた場合、デーン人は、イングランド人が攻め慣れていない砦を用いることで、天性の戦術的才能を示した。壕と柵の背後で、いくつかの指揮所を設け、侵入者は、民兵団が解体して故郷に帰るまでの、数ヶ月間を持ちこたえた。
彼らは陣地に襲撃を受けても、たいていはイングランド勢の斧戦士の隊列の性急な突撃をたやすく押さえ込むことができたため、なんら恐怖を感じなかった。エディントン(878)ではなく、レディング(871)こそが典型的な戦闘であった。塹壕陣地への襲撃が一回成功する陰には、二回の悲惨な敗退があった。
[(10)ヴァイキングの攻撃は既存の制度に修正をもたらし、それはフランク王国で展開したものといくらかの類似点を有していたけれど、それでもイングランドの軍事組織は重装歩兵を基本部隊として利用し続けた。ただ封建社会は出現しなかったものの、社会の階層化へと向かう傾向は現れており、絶え間ない戦争の圧力で有力な土地所有者は直臣に吸収され、力のない土地所有者は農奴へと転落していった。アルフレッドの法令は中産自由民という階層がイネの時代よりも価値を低下させたことを示している。直臣は、元は単に誓約による王の盟友に過ぎなかったが、今や大土地所有者となった。その地位に軍役に就く法的義務は伴わないものの、事実上彼らは有産軍事階級であった。11世紀までには、直臣は軍務に招集されれば、従わねばならなくなり、これ背けば罰則を受けて領地の没収を受けることさえあった。(11)五カ所以上の狩り場の所有者は理論上は全て直臣に編入されたため、これを閉鎖的な階級と見ることはできないし、義務は土地に伴うのではなく、純粋に個々の人間に課せられていたと言える。民兵団も維持され、ヘイスティングスの戦いの起こる宿命の日までは民族の真の軍事力であり続けた。アルフレッドの時代には民兵団は二分されており、一方が耕地で通常の生活を営みつつ、他方が従軍に備えていた。このような組織でイングランドの軍勢は、重装歩兵に基礎を置きながらも、デーン人と互角に渡り合うことができ、長期の休戦を実現することができた。そしてデーン人の入植により、イングランドの抱える軍事的課題はきわめて容易なものとなった。焼き討ちすることのできる町や略奪することのできる耕地を持ったせいで、外海を拠点に活動した時と比べ、敵はずっと傷つきやすくなった。アルフレッド、エドワード長兄王、そしてその姉である尊敬すべき「マーシア女伯」は土盛りの上に防御柵を設けて要塞化した駐屯地と町を組織的に利用し、それによって王とその軍勢が他地方で活動する間、ファイブタウンズの族長たちの侵略を阻止した。]
[アルフレッドの死後一世紀の内に、この組織はまたもや侵入を受けることとなった。だが今度は、強力な指導者が現れず、地方の伯の軍隊は、相互支援を試みることさえなく、各個に撃破された。エセルレッド2世の王国は、カロリング朝フランク王国の伯爵の地位と同様に、父から子へと受け継がれる伯領によって、解体が進行した状態にあった。クヌートの強力な統治は事態の進行を押しとどめるとともに、イングランドに、常設の近衛部隊あるいは親衛隊という、新たな軍事力を導入することになった。1066年までに王に加えて有力諸侯までもが、そのような側近を持ち、その多くが相当の土地を所有していた。(12)これらの職業戦士はアングロ・デーン世界の最高の軍事力であった。]
[親衛隊の武器と戦法は、ヘイスティングスの戦いで相まみえることになる大陸の封建貴族たちとは、全く異なっていた。彼らは、1.5メートルの柄に巨大な片刃の頭部を付けた、デーン式の戦斧で武装した。これは馬上で用いるにはあまりに重すぎたし、両手で扱わねばならないので、接近戦で盾を使うことも不可能になった。この武器が繰り出す打撃はすさまじいものであった。いかなる盾も鎧も、これには耐えられなかった。ヘイスティングスで見られたように、一撃で馬の首を落とすことも可能であった。親衛隊は防具についてはヨーロッパ大陸の騎士と変わりはなかった。太腿の下部にまで達する、相当な長さの鎖帷子と、鼻当てつきの尖った鉄帽を着用していた。イングランドの斧戦士の戦法は、縦横に兵士を並べた、通常の歩兵の戦闘隊形を使用した。大勢で密集して隊列を組み、あらゆる攻撃を弾き返し、いかなる障害をも突き破ることができた。個々人の強さ、堅実さ、自信、そして団結心は、彼らを非常に強力な集団に作り上げていた。しかし、彼らの隊列は移動能力の低さと飛び道具に対する脆弱性という二つの重大な欠点を有していた。仮に騎兵の襲撃を受ければ、密集隊形によって敵を防ぐことになるが、そのために停止して一点にとどまり続けなければならなかった。仮に軽装部隊に距離をとって攻撃されれば、逃げる敵に追いつくことができないため、ここでもまた不利な立場に置かれた。]
[ヘイスティングスの戦い(1066年10月14日)は中世において歩兵が単独で騎兵に対抗しようとした最後の軍事的試みであり、このような試みは以後13世紀までほぼ絶えてしまう。ハロルド王は直前に、ノルウェー人と反乱を起こした弟のトスティグに対し、ヨークシャーのスタンフォード・ブリッジで勝利し、そこからサセックスのノルマン人の上陸を討つため、急速に南進していた。王国全軍が武装して集結するのを待たず、常設の親衛隊と直ちに動員できる南部地方の民兵団のみを伴い、ウィリアムとロンドンの間へと進出した。1066年10月13日、サクソン軍は、ヘイスティングスの北13キロメートル、ロンドン街道がウィールドの森を抜ける地で、強力な防御拠点となるセンラックの尾根に陣取った。サクソン軍の戦闘隊形の再構築や、その兵力の推測を可能とする資料は存在しない。だが約1キロの戦線には10,000人程度の兵力が使用されたと考えられる。(13)そしてサクソン軍の密集部隊はノルマン騎兵の襲撃に備えて常時緊密な隊形を取り続けたであろう。]
[ウィリアムは軍勢を、それぞれ歩兵と騎兵を含む三部隊を並べる形で整列させた。三部隊はそれぞれ、弓兵、重歩兵、重装騎兵の三段の戦列から構成された。戦闘はまずノルマン軍が前進し、弓兵の攻撃で開始された。守備側はこの射撃に対して、敵の第一戦列が投槍の射程内に入るのを待って反撃し、撃退することに成功した。続く重歩兵は、サクソン軍の盾の壁を動揺させることがほとんどできなかった。最後にウィリアム公はサクソン軍の戦列に対し騎兵を投入したが、これも退けられることになった。とりわけ主にブルターニュ人とアンジュー人からなる公の軍の左翼は、ほとんど壊走に近い状態であった。この成功に気を好くしたイングランド勢右翼の大部隊は、逃げるブルターニュ人を追うため隊列を崩したが、ウィリアムはここで中央部隊を旋回させ、追撃中の敵勢の側面を突き、またたく間に装備の劣る地方軍を粉砕した。サクソン軍の大半は依然として防御態勢をとり続けていたので、ウィリアムは再度の総攻撃を命じたが、これはほとんど効果がなかった。そこで彼は一部部隊に偽装退却させるという策略を用いる。サクソン軍の大半は逃走しているかのように見えたノルマン軍を追い、大挙して坂を下ったが、そのためここでも隊列を崩し、逃走する部隊が反転して正面攻撃を加えると、壊滅することになった。だが、親衛隊が形成するハロルド軍の中核部隊は、山の尾根に沿って高みに拠り、しぶとく持ちこたえており、繰り返し行われる騎兵攻撃はこれを揺るがすことができなかった。続いてウィリアムは矢の一斉射撃の支援下に重装騎兵で突撃するよう命じた。これによって前面と側面に敵を受けることになったサクソン軍は、たちまち大損害を出した。それでもサクソン軍は薄く成り行く隊列で、昼の間、尾根を保持し続け、夕暮れ時になっても、ハロルド王のウェセックスの竜の旗および戦う人の旗の周りでは、親衛隊が激しく戦い続けていた。ここで戦いに決着を付けたのは、騎兵ではなく弓兵であった。一本の流れ矢が英雄ハロルドの片目を貫き、これで士気の砕けた彼の従者達は、ノルマン軍騎兵の最後の突撃を受け、背後の森へと逃走していった。重装歩兵戦法がウィリアム公の騎兵と弓兵の連携によって打ち負かされたのである。]
もう一度だけ、その故郷を遠く離れた地で、アングロ・デーン人の武器は、槍と弓に挑むことになる。ハロルドの敗北の15年後、イングランド斧戦士の別の一団──その中にはヘイスティングスで戦った者もいたであろう──が、あるノルマン人君主の軍に立ち向かうことになった。これがアレクシオス・コムネノス帝のヴァリャーグ親衛隊すなわち有名なΠελεκνφοροιである。この君主はロベール・ギスカールが行ったデュラッキオン包囲(1081)を破ろうとしていた。アレクシオスの軍が戦場にゆっくりと集結しつつある間に、ノルマン軍の戦列は前方では既に整いつつあった。アレクシオスはヴァリャーグ部隊が素早く前線に到着し、また迂回運動ができるよう、馬を供給していたため、その軍の先頭集団の中には、ヴァリャーグ部隊の姿もあった。ただ、彼らは敵に接近するまでは予定どおりに行動していたものの、そこからは戦闘意欲が有り余って我を失ってしまった。ギリシア軍主力の攻撃が始まるのを待つことなく、斧戦士たちは、馬を後方に送って密集部隊を組み、ノルマン軍の戦列に向かっていった。バリ伯アマウリーの率いる部隊に襲いかかり、徒歩で騎兵を海へと追い込むことに成功する。だがこれによって彼らの隊列は乱れてしまい、ノルマン人君主は、アレクシオスの主力が未だ遠く離れている間に、全軍で反転して攻撃に出ることに成功した。激しい騎兵突撃はイングランド人の大部分を打ち倒し、残兵は、廃棄された教会の建つ海岸の土手に集まった。ここで彼らはノルマン人に包囲され、規模は小さいながらヘイスティングスとよく似た光景が展開されることになった。騎兵と弓兵がヴァリャーグ部隊の大半を打ち破った後でも、残兵は教会に拠ってしぶとく持ちこたえた。ロベールは野営地から柴と材木を運び出して、その建物の周りに積み上げ、敵勢に向けて火を放った。(14)イングランド人は一人ずつ打って出て殺されるか、炎の中で死んだ。一人も逃れることはできなかった。誤った勇気に駆られて開戦した結果、部隊は全滅することとなった。これが11世紀の封建軍に対して、歩兵が行った最後の挑戦の結末である。同様の試みは以後200年以上行われることはなかった。騎兵の支配が完全に確立されたのである。
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ビザンツとその敵たち
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初期中世
476~1066-1081
西ローマ帝国の崩壊からヘイスティングスおよびデュラッキオンの戦いまで
フランク族、アングロ・サクソン族、スカンジナビア人
今度は後期ローマ帝国の戦争術から離れて、北西ヨーロッパ諸国に検討を加えることにするが、これによって研究対象として、かなり明瞭に理解できる地域から、疑わしく不確かな地域へと移行することになる。帝国史に関してすら史料はときに不十分で価値に乏しいことがあるが、ゲルマン人の場合はしばしば完全に史料が存在しないことがある。例えば断片的な記録から、軍事的に重要な東帝国のヘラクレイオス帝の作戦行動を推測するのは容易ではないが、ヴイエ(507)やトルビアクム(510頃)、バドベリー(900頃)、ヘヴンフィールド(634)といった戦いは完全に不可能である。暗黒時代の戦争術の状態は僧侶の年代記や民族詩、ビザンツの歴史家の偶然の言及、装飾写本の奇怪な挿絵、戦士の墳墓の朽ちた出土物といったものから導き出すしかない。
この時代の特質によってその軍事史がかなり素朴なものに留まっていることは、幸運である。人々が巧みな作戦や外来の新技術に頼ることなく、力押しで戦っている時代にあっては、戦略はほとんど存在しなかった。戦術は各民族固有の組織によって固定されていた。中世の数世紀間について、真に興味深いのは、新たな形態の軍事力が徐々に発展していく、その過程である。古い軍事組織では、部族を構成する無数の民衆が、武装して隊列を組み戦闘部隊を形成したが、この発展によって、これらの民衆のほとんどが没落し、戦争の主役としての戦士階級が確立するに至る。この発展には武装における変革が密接に結びついているが、この変革は戦争の外観をある意味ほぼ完全に変えてしまうものであった。この変革の時代は、11世紀まで続いたと考えて良いだろう。この頃までに封建騎士は、東はマジャール人の騎馬弓兵から西はイングランド・デンマークの斧戦士まで、あらゆる敵に対する優越を確立する。ヘイスティングスの戦いは、歩兵で騎兵に対抗しようとする最後の試みで、以後三世紀このような試みは絶えることになる。この戦いは一時代の終焉を象徴するものであった。
北西ヨーロッパのゲルマン諸族は、ゴート族やロンバルド族とは異なり、重装騎兵の強さに頼って勝利を得ていたわけではなかった。6世紀と7世紀のフランク族およびサクソン族は、未だに歩兵であった。北ドイツとシュレスヴィヒの原野や、ベルギーの荒野と湿地は、ウクライナの草原やドナウ流域の平原と違って、騎兵が発達するには向いてはいなかったのだろう。シドニウス・アポリナリスやプロコピウス、アガティアスによって描写されるフランク族は、未だに祖先であるシガンブリー族とかなりの類似点を有している。フランク族はシガンブリー族と同じく兜と、胴鎧を欠いていた。だがその盾は、一世紀の枝編み細工よりもずっと強力なものになっていた。金属製の大きな装飾突起と縁をもつ長円形の頑丈な盾である。投げ槍にはangonという「投げ槍だが、長すぎず短すぎず、敵に対して、槍として用いることも、投じることもできる」(1)物が取って代わった。その先端部の鉄製部品は長く柄まで及んでおり、その首の部分に二つの逆とげが付いて、傷や貫いた盾から、ほぼ引き抜けないようになっていた。 また、この部族に由来する名を持つフランキスカという強力な武器があった。これは片刃の戦斧(2)で、外側に向けて大きく反りかえるとともに内側が深く凹んだ、重い刃を持っていた。そしてアメリカのトマホークのように、敵に投げつけて使えるように、重量が慎重に調整されていた。フランク族は、この武器を敵戦列との接触直前に投げつける技量に卓越しており、その威力からフランク族はこの武器を非常に愛好していた。ここに剣と短刀(scramasax)を加えたものが、戦士の通常の装備である。この剣は両刃の斬撃用の武器で長さ約75センチ、短刀は幅の広い刺突用の刃で長さ約45センチであった。
これらがテウデベルト、ブッケリン、ロタールが6世紀半ばにイタリアへと率いていった 軍隊の装備である。プロコピウスによれば最初に名を挙げた首長は騎兵を引き連れていた。ただしその数は取るに足りないもので、90,000(3)の軍勢の内、数百人にすぎなかった。騎兵は槍と小型の丸盾を装備し、王の個人的な護衛として勤務した。この騎兵の存在は、フランク族における新たな軍事的発展を示すものではあるが、同時になお歩兵が優勢であり続けたことを示すものでもある。
554年にブッケリンがローマ帝国のナルセスの軍隊と遭遇した際、 歴史家にとって興味深い一つの問題について、解答が示された。帝国軍は、戦術および装備について、ともに顕著に優越していた。一つの巨大な縦深隊形を作ったフランク族は、半円形に布陣したナルセスの軍勢の中へと進入した。ローマ軍の歩兵および、下馬したヘルル族の同盟軍の重騎兵が、正面で戦うとともに、弓騎兵が側面から包囲を行い、敵にかつてのクラッススと同じ運命を与えた。ブッケリンに随行した軍勢のほとんどは戦場から逃れることができなかった。フランク族にとっても、他の勢力にとっても、歩兵の時代は過ぎ去ったのである。
以上のことから言って、6世紀から9世紀のフランク軍において、常に騎兵の割合が上昇を示し続けていることは、さして驚くには値しない。これと共に、防具の使用も拡大している。まず古典的な羽飾りつきの兜が彼らの間に普及し、まもなく、臀部にまで達する鎖帷子が導入された。カール大帝も腕と腿に防具を採用することで、騎兵の装備向上に貢献しており、「腰よりも外側まで堅固に金属片で包まれるようにする」(4)ことを法定している。ただこのような防具は当初は多くのフランク人に拒絶され、馬の背に坐りにくいと不平の声が漏れた。
[トゥールの戦い(732)では、フランクの大軍のかなりの部分が騎乗していたけれど、その戦法は守勢に効果的な歩兵方陣の戦法と、全く同じであった。イスラム教徒が闇に紛れて撤退しても、フランク軍は追撃に乗り出さなかった。カール大帝の時代には、全ての重臣とその直接の随員は馬上での勤務に習熟していた。彼の治世の末期までにフランク全軍のかなりの部分が、騎乗者で構成されるようになり、一方歩兵は段々とその重要性を低下させていった。 法令は地方の長官に、明白に布告している。すなわち、「戦闘に伴う兵士を完全に武装させるよう気を配ること。その武装は槍、盾、兜、鎖帷子(brunia)、弓、弦二本、矢十二本である。」(5)それ故、フランク族は9世紀の初めには伝統的な歩兵密集戦闘を放棄しつつあり、全ての重要な作戦を騎兵に任せるようになっていた。]
[この変化はシャルル禿頭王が、「馬を持つ、あるいは馬を持つことのできるフランク族の農民は、必ず部下を伴い敵との会合地へと出発せよ」(6)と布告した時に完成を迎える。現状を追認したにせよ、新たな制度を定めたにせよ、この布告は、国防が騎兵のみに委ねられた時代の特徴を、良く示している。この情況を招いた原因のうち最も重要なものは、フランク族が9世紀と10世紀に戦わねばならなかった、敵の性格である。西王国に現れたスカンジナビア人や東王国に現れたマジャール人は、略奪のみを事とする盗賊集団であり、素早い移動が防衛の鍵を握っていた。ヴァイキングの大群は侵入した土地で馬を奪い取る習慣であり、その後、鈍重な動きの軍隊から常に距離を取りつつ、一帯を駆け回った。ハンガリーの弓騎兵はドイツ中央部へと少人数で略奪を仕掛け、追跡をかわして逃走することができた。 このような侵入を抑止するには歩兵は全く役立たずであった。4世紀のローマ軍のように、フランク族は守勢に立たざるを得なくなった時、騎兵に頼ることになったのである。]
[このヨーロッパ軍事史の危機は、カール大帝の王国の破綻による中央権力の完全な崩壊と同時に発生した。抵抗を組織する中央権力を欠いた中で、国防は、半独立の支配者となっていた、地方領主の手に委ねられることになった。今や、それぞれの地方の地主は、戦争と無秩序の時代における安全を求めて、これらの小領主に身を委ね、同時に同様の理由で、貧しい自由民は地主に身を委ねた。このようにして封建制の階層秩序が確立され、新たな軍制が成立した。そこでは伯や公が臣下と騎乗した従者を戦いへと引率することになった。]
この制度は政治的には退化であったけれど、成功も収めた。マジャール人はメルセベルクに近いリアデ(933)とレヒフェルト(955)で粉砕され、ライタ川を越えて逃げ去った。彼らはまもなくキリスト教化され、ヨーロッパ共同体の正当な構成員へと成長を遂げる。ヴァイキングは略奪を阻止されるとともに、河口の拠点から駆逐され、その支配領域はノルマンディーのみに抑え込まれた。そこで彼らは、マジャールと同様、封建社会に吸収されることになった。これらの勝利をもぎ取り、ヨーロッパを北東の異教徒から救って、野蛮への回帰を防いだのは、鎧に身を包んだ騎馬戦士の軍勢であった。ここで同時代人や、その子孫達が、騎士こそ戦士の正しい姿であると神聖化し、他の軍事力を養成する必要がないと信じたとしても、何ら驚くには値しない。四百年の長きに渡る封建騎士の支配は、暗黒時代の終わりに収めた、勝利に対する報償である。
英仏海峡の向こうでも、軍事史の展開は、発展の最終段階を除いては、大陸と同様の経過を示す。フランク族同様、イギリス征服時のアングル族とサクソン族は、歩兵の部族であり、トネリコ製の投げ槍と、幅の広い剣、短刀あるいは刺突用の幅の広い短刀を持ち、時には戦斧を用いた(7)。防具は。ほとんど盾のみで、金属製の大きな装飾突起を持つ「戦闘用の丸板」を使用した。諸々の情報を総合すると、鎖帷子も非常に早い時期から知られていたが、これはほとんど普及していなかった。ベオウルフの「灰色の戦闘服」や「鎖を組んだ鎧」は王侯しか持つことはできなかった。「鉄で細工された猪の首」で飾った兜も、ごくわずかしか使われなかった。仮に君主や君主の従者がそのような装備を有していたにせよ、七王国軍の主力を形成した民衆軍は、そのような装備を全く欠いていた。何世紀もの間、島国にあって外部から影響を受けなかったため、イギリスの部族は他のヨーロッパ諸族と比べて、長きに渡って古いゲルマンの慣習を保っていた。マーシアとウェセックスの戦いでは、各地から慌てて集めた軍勢を、首長や代官が率いて、作戦を行った。軍隊がこのように一時的にしか使えない性質を持っているため、戦争は発作的で短期的な性格を帯びていた。軍事組織がこのような弱点を抱えているため、計画的な戦略を追求して、征服を推進していくことは、全く不可能であった。多数の王国による戦いは、激しく止むことなく行われたが、確たる決着を見ることはなかった。仮に9世紀のイングランドで、自発的に統一へと向かう流れが生まれつつあったとしても、それはウェセックスの軍事的な優越によるものではなく、他の国家の王統断絶と不幸な国内事情のおかげである。
自発的に統一へと向かいつつある一方、イングランド全島は、フランク王国を根底から揺さぶったのと同じ外敵の侵入に圧迫されていた。デーン人がイングランドに襲来して猛威を振るい、古いゲルマンの軍制が時代の要請に応えられないことを示した。実際ヴァイキングは抵抗する軍勢よりも、戦法、装備、熟練度、機動力において優越していた。個々の人間としてみても、デーン人は古の戦士集団の構成員であり、これが耕作地から慌てて駆けつけた農民と戦うのは、熟練兵が未熟な民兵と戦うということであった。デーン人は職業兵士として、イングランド軍では首長しか持てないような装備を身につけており、鎖帷子は例外的な防具ではなく普通に使われ、鉄帽さえ普及していた。一方、これに立ち向かう民兵団は、鎧を身につけず、槍や剣、棍棒、石斧(8)など様々な武器を手にしていた。それでも、デーン人が、各地の軍隊が追いつくのを待ってくれるならば、同等の勇気と優越する兵力が、装備の優越をも打ち負かしたかもしれない。だが、ヴァイキングの目的は戦闘ではなく略奪であった。敵は「徒歩で」(9)イングランドの沿岸部に侵入し、そこから騎乗して、被害をまき散らしながら、辺り一帯を駆け回った。馬を略奪することで、彼らは素早い移動能力を手に入れ、民兵団はこれに対抗することができなかった。地方の軍隊が侵入者が最後に目撃された地点に到着した時、そこに敵の姿はなく、煙と廃墟が見えるのみであった。時折であるが、通常の撤退ではなく、沿岸部まで追い立てられた場合、デーン人は、イングランド人が攻め慣れていない砦を用いることで、天性の戦術的才能を示した。壕と柵の背後で、いくつかの指揮所を設け、侵入者は、民兵団が解体して故郷に帰るまでの、数ヶ月間を持ちこたえた。
彼らは陣地に襲撃を受けても、たいていはイングランド勢の斧戦士の隊列の性急な突撃をたやすく押さえ込むことができたため、なんら恐怖を感じなかった。エディントン(878)ではなく、レディング(871)こそが典型的な戦闘であった。塹壕陣地への襲撃が一回成功する陰には、二回の悲惨な敗退があった。
[(10)ヴァイキングの攻撃は既存の制度に修正をもたらし、それはフランク王国で展開したものといくらかの類似点を有していたけれど、それでもイングランドの軍事組織は重装歩兵を基本部隊として利用し続けた。ただ封建社会は出現しなかったものの、社会の階層化へと向かう傾向は現れており、絶え間ない戦争の圧力で有力な土地所有者は直臣に吸収され、力のない土地所有者は農奴へと転落していった。アルフレッドの法令は中産自由民という階層がイネの時代よりも価値を低下させたことを示している。直臣は、元は単に誓約による王の盟友に過ぎなかったが、今や大土地所有者となった。その地位に軍役に就く法的義務は伴わないものの、事実上彼らは有産軍事階級であった。11世紀までには、直臣は軍務に招集されれば、従わねばならなくなり、これ背けば罰則を受けて領地の没収を受けることさえあった。(11)五カ所以上の狩り場の所有者は理論上は全て直臣に編入されたため、これを閉鎖的な階級と見ることはできないし、義務は土地に伴うのではなく、純粋に個々の人間に課せられていたと言える。民兵団も維持され、ヘイスティングスの戦いの起こる宿命の日までは民族の真の軍事力であり続けた。アルフレッドの時代には民兵団は二分されており、一方が耕地で通常の生活を営みつつ、他方が従軍に備えていた。このような組織でイングランドの軍勢は、重装歩兵に基礎を置きながらも、デーン人と互角に渡り合うことができ、長期の休戦を実現することができた。そしてデーン人の入植により、イングランドの抱える軍事的課題はきわめて容易なものとなった。焼き討ちすることのできる町や略奪することのできる耕地を持ったせいで、外海を拠点に活動した時と比べ、敵はずっと傷つきやすくなった。アルフレッド、エドワード長兄王、そしてその姉である尊敬すべき「マーシア女伯」は土盛りの上に防御柵を設けて要塞化した駐屯地と町を組織的に利用し、それによって王とその軍勢が他地方で活動する間、ファイブタウンズの族長たちの侵略を阻止した。]
[アルフレッドの死後一世紀の内に、この組織はまたもや侵入を受けることとなった。だが今度は、強力な指導者が現れず、地方の伯の軍隊は、相互支援を試みることさえなく、各個に撃破された。エセルレッド2世の王国は、カロリング朝フランク王国の伯爵の地位と同様に、父から子へと受け継がれる伯領によって、解体が進行した状態にあった。クヌートの強力な統治は事態の進行を押しとどめるとともに、イングランドに、常設の近衛部隊あるいは親衛隊という、新たな軍事力を導入することになった。1066年までに王に加えて有力諸侯までもが、そのような側近を持ち、その多くが相当の土地を所有していた。(12)これらの職業戦士はアングロ・デーン世界の最高の軍事力であった。]
[親衛隊の武器と戦法は、ヘイスティングスの戦いで相まみえることになる大陸の封建貴族たちとは、全く異なっていた。彼らは、1.5メートルの柄に巨大な片刃の頭部を付けた、デーン式の戦斧で武装した。これは馬上で用いるにはあまりに重すぎたし、両手で扱わねばならないので、接近戦で盾を使うことも不可能になった。この武器が繰り出す打撃はすさまじいものであった。いかなる盾も鎧も、これには耐えられなかった。ヘイスティングスで見られたように、一撃で馬の首を落とすことも可能であった。親衛隊は防具についてはヨーロッパ大陸の騎士と変わりはなかった。太腿の下部にまで達する、相当な長さの鎖帷子と、鼻当てつきの尖った鉄帽を着用していた。イングランドの斧戦士の戦法は、縦横に兵士を並べた、通常の歩兵の戦闘隊形を使用した。大勢で密集して隊列を組み、あらゆる攻撃を弾き返し、いかなる障害をも突き破ることができた。個々人の強さ、堅実さ、自信、そして団結心は、彼らを非常に強力な集団に作り上げていた。しかし、彼らの隊列は移動能力の低さと飛び道具に対する脆弱性という二つの重大な欠点を有していた。仮に騎兵の襲撃を受ければ、密集隊形によって敵を防ぐことになるが、そのために停止して一点にとどまり続けなければならなかった。仮に軽装部隊に距離をとって攻撃されれば、逃げる敵に追いつくことができないため、ここでもまた不利な立場に置かれた。]
[ヘイスティングスの戦い(1066年10月14日)は中世において歩兵が単独で騎兵に対抗しようとした最後の軍事的試みであり、このような試みは以後13世紀までほぼ絶えてしまう。ハロルド王は直前に、ノルウェー人と反乱を起こした弟のトスティグに対し、ヨークシャーのスタンフォード・ブリッジで勝利し、そこからサセックスのノルマン人の上陸を討つため、急速に南進していた。王国全軍が武装して集結するのを待たず、常設の親衛隊と直ちに動員できる南部地方の民兵団のみを伴い、ウィリアムとロンドンの間へと進出した。1066年10月13日、サクソン軍は、ヘイスティングスの北13キロメートル、ロンドン街道がウィールドの森を抜ける地で、強力な防御拠点となるセンラックの尾根に陣取った。サクソン軍の戦闘隊形の再構築や、その兵力の推測を可能とする資料は存在しない。だが約1キロの戦線には10,000人程度の兵力が使用されたと考えられる。(13)そしてサクソン軍の密集部隊はノルマン騎兵の襲撃に備えて常時緊密な隊形を取り続けたであろう。]
[ウィリアムは軍勢を、それぞれ歩兵と騎兵を含む三部隊を並べる形で整列させた。三部隊はそれぞれ、弓兵、重歩兵、重装騎兵の三段の戦列から構成された。戦闘はまずノルマン軍が前進し、弓兵の攻撃で開始された。守備側はこの射撃に対して、敵の第一戦列が投槍の射程内に入るのを待って反撃し、撃退することに成功した。続く重歩兵は、サクソン軍の盾の壁を動揺させることがほとんどできなかった。最後にウィリアム公はサクソン軍の戦列に対し騎兵を投入したが、これも退けられることになった。とりわけ主にブルターニュ人とアンジュー人からなる公の軍の左翼は、ほとんど壊走に近い状態であった。この成功に気を好くしたイングランド勢右翼の大部隊は、逃げるブルターニュ人を追うため隊列を崩したが、ウィリアムはここで中央部隊を旋回させ、追撃中の敵勢の側面を突き、またたく間に装備の劣る地方軍を粉砕した。サクソン軍の大半は依然として防御態勢をとり続けていたので、ウィリアムは再度の総攻撃を命じたが、これはほとんど効果がなかった。そこで彼は一部部隊に偽装退却させるという策略を用いる。サクソン軍の大半は逃走しているかのように見えたノルマン軍を追い、大挙して坂を下ったが、そのためここでも隊列を崩し、逃走する部隊が反転して正面攻撃を加えると、壊滅することになった。だが、親衛隊が形成するハロルド軍の中核部隊は、山の尾根に沿って高みに拠り、しぶとく持ちこたえており、繰り返し行われる騎兵攻撃はこれを揺るがすことができなかった。続いてウィリアムは矢の一斉射撃の支援下に重装騎兵で突撃するよう命じた。これによって前面と側面に敵を受けることになったサクソン軍は、たちまち大損害を出した。それでもサクソン軍は薄く成り行く隊列で、昼の間、尾根を保持し続け、夕暮れ時になっても、ハロルド王のウェセックスの竜の旗および戦う人の旗の周りでは、親衛隊が激しく戦い続けていた。ここで戦いに決着を付けたのは、騎兵ではなく弓兵であった。一本の流れ矢が英雄ハロルドの片目を貫き、これで士気の砕けた彼の従者達は、ノルマン軍騎兵の最後の突撃を受け、背後の森へと逃走していった。重装歩兵戦法がウィリアム公の騎兵と弓兵の連携によって打ち負かされたのである。]
もう一度だけ、その故郷を遠く離れた地で、アングロ・デーン人の武器は、槍と弓に挑むことになる。ハロルドの敗北の15年後、イングランド斧戦士の別の一団──その中にはヘイスティングスで戦った者もいたであろう──が、あるノルマン人君主の軍に立ち向かうことになった。これがアレクシオス・コムネノス帝のヴァリャーグ親衛隊すなわち有名なΠελεκνφοροιである。この君主はロベール・ギスカールが行ったデュラッキオン包囲(1081)を破ろうとしていた。アレクシオスの軍が戦場にゆっくりと集結しつつある間に、ノルマン軍の戦列は前方では既に整いつつあった。アレクシオスはヴァリャーグ部隊が素早く前線に到着し、また迂回運動ができるよう、馬を供給していたため、その軍の先頭集団の中には、ヴァリャーグ部隊の姿もあった。ただ、彼らは敵に接近するまでは予定どおりに行動していたものの、そこからは戦闘意欲が有り余って我を失ってしまった。ギリシア軍主力の攻撃が始まるのを待つことなく、斧戦士たちは、馬を後方に送って密集部隊を組み、ノルマン軍の戦列に向かっていった。バリ伯アマウリーの率いる部隊に襲いかかり、徒歩で騎兵を海へと追い込むことに成功する。だがこれによって彼らの隊列は乱れてしまい、ノルマン人君主は、アレクシオスの主力が未だ遠く離れている間に、全軍で反転して攻撃に出ることに成功した。激しい騎兵突撃はイングランド人の大部分を打ち倒し、残兵は、廃棄された教会の建つ海岸の土手に集まった。ここで彼らはノルマン人に包囲され、規模は小さいながらヘイスティングスとよく似た光景が展開されることになった。騎兵と弓兵がヴァリャーグ部隊の大半を打ち破った後でも、残兵は教会に拠ってしぶとく持ちこたえた。ロベールは野営地から柴と材木を運び出して、その建物の周りに積み上げ、敵勢に向けて火を放った。(14)イングランド人は一人ずつ打って出て殺されるか、炎の中で死んだ。一人も逃れることはできなかった。誤った勇気に駆られて開戦した結果、部隊は全滅することとなった。これが11世紀の封建軍に対して、歩兵が行った最後の挑戦の結末である。同様の試みは以後200年以上行われることはなかった。騎兵の支配が完全に確立されたのである。
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ビザンツとその敵たち
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by trushbasket
| 2011-01-20 20:27
| My(山田昌弘)








