C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 3章前半
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第三章
ビザンツとその敵たち(1)
582~1071
マウリキウスの即位からマンツィケルトの戦いまで
ビザンツの戦略の特性
東帝国の辺境で500年に渡って、スラブ人とアラブ人を食い止めることになる軍隊は、構成においても、また組織においても、名前と伝統を受け継いだ軍隊とは、異なるものであった。それはトラヤヌスの軍団とほとんど類似点を持たないのみならず、コンスタンティヌスの親衛隊および国境部隊ともほとんど類似点を持たなかった。ただし一つだけこれらの軍隊との類似を認めてよい点がある。すなわち同時代の世界で最も優秀な軍事力であったという点である。だが東ローマ帝国の人々は、近代の歴史家から十分な評価を受けていない。東帝国は、明らかな欠陥が目立ちすぎるせいで、その長所の影が薄く、結果ビザンツといえば、平時に関しても戦時に関しても、時代遅れで無能なことと、同義と見られている。だが、この時代の帝国について様々に弁護するのは困難ではなく、とりわけ軍事的な手腕と武勇にたいする否定的な評価から弁護することは、極めて容易である。
「ビザンツの軍隊の欠点は」、ギボンによれば、「本質に根ざしており、勝利は偶然に過ぎない。」このすさまじい評価は、真実とはかけ離れており、実際にはこの軍隊にとって敗北は偶発的なもので、勝利こそが常態であった。軍隊の無能ではなく、指揮の不手際や、不十分な兵力、予期せぬ不運といった事情が、東帝国の作戦における失態の、通常の原因であった。軍隊の優秀性については、我々に当時の戦争の姿を鮮明に伝えてくれる様々な軍事的な著作の中に、直接・間接の証拠を見いだすことができる。指揮官が無能であるか、周囲の状況が異常に不利でない限り、帝国の旗には常に勝利が伴ったと、それらの著作は伝えている。この帝国の軍隊は、ウェリントンがイベリア半島で率いた熟練兵と同様、「どこで何をさせても」信頼することができた。「指揮官は」ニケフォロス・フォカスによれば(2)、「6,000の重騎兵と神の加護以外には、何も必要としなかった。」哲人帝レオンも同様に考えており、『Tactica』の中で、フランクとロンバルドの騎士を除いては、世界のどこにもビザンツのcataphracti と同等の兵力で対抗できる騎兵は存在しないと語っている。スラブ人、トルコ人、アラブ人は突撃で踏み破れば追い返すことが可能であり、西方の諸族と対するときに限って突撃による勝利が保証されなかった。ビザンツ軍が卓越した能力を誇った理由は簡単に見いだすことができる。勇気の点では彼らは敵と同等であり、規律と組織、装備についてははるかに優れていた。そして何より、彼らはローマ帝国の戦略的伝統に加えて、完璧な戦闘法を、時代の要請にあわせて巧みに修正しながら受け継いでいたのである。
西方で戦争が単なる力任せの格闘にとどまっていた数世紀の間、東方では技術として戦争を学んでいた。フランク族の若い貴族にとって、軍事的な教育は、馬にしっかりと乗り槍と盾を巧みに操ることを身につければ、完成するものとされた。一方ビザンツの貴族は、武器に慣れるのみならず(3)、マウリキウスやレオン、ニケフォロス・フォカス、あるいは今では名のみ伝わるその他の作家の著作を学んで、経験に理論を付加する習慣であった。ヨーロッパの二つの地方の対照的な戦争観が、いかなる結果を生むか、容易に予想できるであろう。西方の戦士達は、戦争を人生で最も重要なものと位置づけていたものの、未知の戦法を身につけた敵と戦った時は、常に敗北を被ることになった。一方、東方の指揮官達は、スラヴ人やトルコ人、フランク族やアラブ人といかに闘い、これを制圧すればよいか熟知しており、敵の戦闘法に合わせて最適な戦術を適宜採用して見せた。
レオン帝が様々な状況を想定して与えた指示は、ビザンツの指揮官が直面した課題の多様性に加えて、それに対する実際の処理方法をも示してると言えよう。実際、これらの指示は、コンスタンティノープルで練り上げられた戦争術の体系全体の要点であった。レオンは言う、
フランク族はいかなる状況下においても、退却は不名誉なものであると信じている。このため、戦闘開始を望めばいつでも彼らと戦うことができる。ただし彼らの騎兵は長い槍と大きな盾を持ち、すさまじい威力の突撃をかけてくるので、可能な限りの優位を確立してからしか、戦ってはならない。作戦を引き延ばし、可能であれば彼らを、平原よりも騎兵の威力が低下する丘陵地帯へ誘致すべきである。数週間、決戦すること無しに過ごせば、疲労と退屈に弱い彼らの軍は、戦意を失い、大挙帰国していくだろう。……彼らの前哨部隊や偵察隊はひどく不用心なので、外出中の部隊を容易く分離させた上で、野営地に対して優位を占めて攻撃することが可能である。彼らの軍隊は規律に基づく団結を持たず、ただ血縁と誓約に基づき団結しているにずぎないので、突撃を行った後は混乱の中に落ち込んでいく。それ故、逃走を装ってから反転すれば、彼らはひどく混乱するだろう。だがフランク族に対しては、一撃で撃破しようとするよりも、小戦闘と持久戦で消耗させるほうが、概して、より容易で効率のよい対処法である。(4)
これらの指示を抜き出した文章は、二つの点で際だって特徴的である。ここでは9世紀と10世紀という封建騎兵の発達期の、西方の軍隊の姿が、その敵対勢力の手によって批判的に描かれて示されている。また、ここではビザンツの軍事学の特徴が長所と短所ともに示されている。まずレオンの指針は現実的で効果的なものであるが、その反面で、帝国軍が守勢に立つということを当然の前提と見なしており、このような制約はその有効性を大幅に削ぐことになったに違いない。それでもこの東帝国皇帝の戦法は、ロンバルド公やフランク皇帝のあらゆる攻撃から、400年に渡ってイタリア軍管区を守り続けることに成功したのである。
トルコ人(この語はマジャールや黒海北方の諸部族を意味する)に対抗するために、レオンが薦める戦法は、西方の諸民族に対する際に指示されたものとは、あらゆる点で全く異なっていた。トルコ軍は、無数の軽騎兵部隊から成り、投槍と三日月刀を持つほか、もっぱら矢に頼って勝利を追求した。実際彼らの戦法はアッティラの戦法の再来であり、アルプ・アルスランやバトゥ・カーンの先駆であった。トルコ人は「待ち伏せやあらゆる種類の策略を用いる習慣があり」、「注意深く騎馬弓兵を配置するので、滅多にあるいは全く奇襲を受けない」ことで知られていた。しかし平坦で開けた戦場では、彼らはビザンツの重騎兵に踏み破られたので、ビザンツ重騎兵は、素早く彼らとの距離を詰め、矢を射かけ合わないよう勧められていた。トルコ人は堅固な歩兵を打ち破ることができず、実際、彼らは歩兵を攻撃するのを嫌っていた。ビザンツ歩兵の弓は、トルコ人の武器よりもはるかに遠く矢を飛ばすことができたので、彼らの騎兵はしばしば有効射程に入る前に矢を撃たねばならなかった。彼ら自身の身体は鎧で守られていたが、軍馬はそうではなかった。そのため彼らは馬を失うことになるが、草原の遊牧民は徒歩での戦闘に習熟しておらず、こうなると全く無力であった。このようにトルコ人を相手にする場合は、会戦が望ましいものであった。ただし彼らは素早く結集するので、彼らを追跡する際には、その間にその軍勢が手に負えない規模に膨れないよう常に注意する必要があった。
ビザンツ歩兵が、初期のローマ軍団の歩兵とは異なり、この様な遠隔戦において極めて有効であったことは、言うまでもない。鎧と剣と投槍だけで武装した1世紀の戦士達は、パルティアの騎馬弓兵に遠隔戦で粉砕された。だが歩兵が弓を採用したことで、状況は変わってしまい、今度は騎馬弓兵が矢を射かけ合う際に不利な立場に置かれることになった。scutati(5)、すなわち巨大な盾を持った槍兵がビザンツ軍のtagmaと呼ばれる軍団の前列を形成しており、西方で見られたような大槍を持たず、三日月刀と短い投槍で武装しただけの騎兵では、そこに寄りつくことができなかった。そのため、彼らがここから突撃によって勝利を取り戻すことも不可能であった。こういった事情から、トルコ騎兵は帝国の歩兵との衝突を避け、その卓越した移動能力を逃げ回ることに使用していた。そうすれば、通常は、騎兵以外は追跡することができなかった。
スラヴ人に対して勝利するために考案された戦法は、あまり注目に値するものではない。セルビア人やスロヴェニア人はほとんど騎兵を保有しておらず、帝国軍にとって脅威となるのはもっぱら山地を固守するときのみであった。そこでは、彼らの弓兵と投槍兵が、接近不可能な位置を占めて、侵入軍を遠隔戦で苦しめることができたし、また槍兵が行進する侵入軍の縦列の側面を奇襲することもできた。ただ、この様な攻撃は警戒を怠らなければ無効化することが可能であるし、仮にスラブ人が平原に出て略奪に従事していれば、この絶好機を捉えて、帝国軍騎兵で彼らを踏み破り、粉砕することが可能であった。
一方、アラブ人(6)に対処する際には、慎重さと技量が高度に要求された。「全ての蛮族の国々の中で」、レオンによれば、「彼らは軍事作戦に当たって最も周到で慎重であった。」(7)「野蛮でな不敬なアラブ人」(8)に対する際、彼らを撃破してタウルス山脈の山道の向こうへと駆逐するには、指揮官は、その戦術的・戦略的な能力の全てを振り絞らねばならず、軍隊は規律と自信を十分に身につけていなければならなかった。
7世紀にハーリドとアムルが、シリアとエジプトの征服に率いたアラブ人は、優秀な武器によって勝利したわけでも、卓越した組織によって勝利したわけでもなかった。宿命論者である彼らは、狂信的な勇気によって、武器と規律に優越する持つ敵に、向かっていくことができたにすぎない。だが、最初の活力に溢れた爆発的な征服が終わった後、新たな領土に定着した彼らは、敗北した諸国から学ぶことを、恥じたりはしなかった。したがって、ビザンツの軍隊はカリフの軍隊の手本となった。「彼らは軍事的な習慣に関してローマ軍を模倣し」、レオンよれば(9)、「武器についても戦略についてもそうであった。帝国軍の指揮官と同様、彼らは鎧を着用した槍騎兵に信頼を置いていた。ただしアラブ軍は人も馬もともに突撃においては劣っていた。馬と馬を比べても、人と人を比べても、ビザンツ軍はより重装備で、最終的な激突おいて東方の軍勢を踏み倒すことができた。」
ただし二つの要素が、アラブ人を極めて恐ろしい敵に仕立て上げていた。すなわち兵力と卓越した移動能力である。小アジアへの侵入が計画されると、欲望と狂信が、ホラサンとエジプトの間の激しい敵対状態に団結をもたらした。東洋の荒々しい騎兵の大群が、タルススとアダマの門から、アナトリコン軍管区の肥沃な高原を略奪しようと流れ出た。
彼らは正規の軍隊ではなく、多数の志願兵の混合部隊であった。富者は人種的な誇りから、貧者は略奪への期待から従軍した。彼らは、神による戦いの祝福と、勝利の保証を信じて、前進した。彼らは祖国にあっては、男女ともに、善行と信じて、貧しい隣人に対する武装のための援助を行った。このように彼らの軍は、熟練の戦士と、未熟な略奪者が、並んで行軍しており、軍隊としての均質性を全く欠いていた。(10)
ひとたびタウルスの山道を抜ければ、アラブ人の騎兵は兵站線から自由になり、プリュギアやカッパドキア中に遠く広く駆け回り、無防備な町を焼き、田舎を略奪し、当時の世界の最も豊かな地方の一つから得た略奪品を、駄獣に背負わせた。
ここでビザンツの指揮官に勇気を示すべき時が訪れる。まず彼は敵勢に追いつき、そこから戦闘に突入する。侵入当初のアラブ人は信じられない距離を駆け回るので、これに追いつくことは困難を極めた。アラブ人が捕捉されるのは、彼らが略奪品を抱え動きが鈍ってからであった。アナトリコン軍管区かアルメニアコン軍管区の指揮官に襲撃の報告が届くと、彼はただちに、その地方の全ての戦闘可能な騎兵を集めて、敵に当たらなくてはならない。未熟な兵士や弱い馬は後方にとどめておかれたし、歩兵はここで行われる素早い移動に、ついていくことが期待できなかった。そこでレオンは動かせる歩兵の全てをタウルスの山道の占拠に送り込むことにした。そうすれば例え騎兵が侵入者を捕捉できなくても、侵入者は有利に戦うことのできない山道で、妨害に苦しみ撤退が遅れることになった。
ただビザンツの指揮官達が勝利を得るため期待をかけたのは、騎兵であった。敵の位置を確認するため、彼はいかなる手間も惜しんではならなかった。「自由人であれ奴隷であれ、昼夜を問わず、たとえ睡眠中や食事中入浴中であっても、退けてはならない」とニケフォロス・フォカスは「報告があると言う者がいた場合」について書いている。一度アラブ人の形跡をつかめば、それ以降は休むことなく追跡を続け、やがてアラブ軍とその目標を見つけ出すことになった。略奪ではなく侵略のためにシリアとメソポタミアの全軍が現れたのであれば、指揮官は自身が守勢をとることを断念せねばならず、敵軍の側面に食いついて、その戦闘部隊を拘束し、分遣隊の派遣によって略奪の妨害を行うことになった。「東方の諸軍団の全てが出撃する」まで、決戦は行ってはならなかった。この際、およそ25,000から30,000程度の重騎兵(11)が最高司令官の指揮下に入ることになるが、そのせいで貴重な時間が浪費されることになった。アラブ人がこのように大挙襲来することは滅多に起こることではなかった。すなわちアジアのビザンツ軍全部が大会戦を行うために派遣されることはほとんどなかった。アラブ人の侵入の典型は、イスラム圏の奥から来た臨時の傭兵の支援の下、キリキアと北シリアの住人が行うものであった。
彼らに対する際、ビザンツの指揮官が保有する騎兵は、自分の担当する軍管区のみでは、おそらく4,000を超えていないが、レオンはこの軍隊に対して詳細な戦術的指示を与えている。(12)この軍が略奪隊に追いついたとき、略奪隊は反転して戦いを仕掛けてくるが、その突撃は侮ってはならない。一対一の兵士では、彼らは不十分な力しか持っていないが、通常、彼らは兵力で優越しており、しかも常に自信に満ちた状態で向かってきた。「最初、彼らは勝利を信じて非常に大胆である。彼らは、たとえ我らの衝撃で戦列を破られても、直ぐに逃げ出したりはしない。」(13)彼らは敵の力が弱まったと見ると、全軍すさまじい力で突撃する。(14)ただし、これが失敗したあとには、たいていは大敗北が起こった。「彼らは全ての不運を神の与えるものと考えており、その結果、一度打ち破られると、その失敗を神の怒りの証と受け取り、もはや防戦に努めなくなるのである。」(15)このため、イスラームの軍勢は、一度逃亡に入ると、徹底した追撃を受けることになり、勝ちすぎは勝ちではないという古い軍事的な格言は、ビザンツの武官には無視されることになった。
アラブ人と会戦する際の勝利の鍵は、三世紀に渡って練り上げられてきた、騎兵の戦法にあった。それは10世紀ごろには完成の域に達しており、熟練の戦士であるニケフォロス・フォカスはその優秀さを断言している。際だった特徴が部隊配置にあり、常に、二段に戦列を組むとともに予備を置き、包囲されないよう、側面にも部隊が配置されていた。敵は非常に深い一段の戦列で向かってきたため、第一戦列、第二戦列、予備が続々と突撃して戦うという、三連続の衝撃を耐えることがなかった。ビザンツ人は、騎兵戦闘では、予備を最後まで残した側が勝つ、という偉大な原則を発見していたのである。これらの場合に用いられた正確な陣形は、著述家たちがしっかりと書き残しており、詳しく論じる価値があるので、ビザンツ軍の組織を扱う箇所で触れることにしよう。
アラブ人の侵略に対処するには他の方法もあった。侵入が強力な軍隊によってなされたような場合には、撤退する略奪軍の後ろをつけて、タウルス山脈の峡谷を通過しているところで襲いかかる、というやり方が妥当であった。アラブ人およびその輸送隊の獣は、強奪品を背負っているし、山道で混雑することにもなり、その上、もしここで歩兵が騎兵の追撃を支援できる地点に到着済みであれば、勝利はほとんど確実であった。アラブ人は弓兵に上から射撃されることになるが、接近戦に持ち込めない以上、ここで軍馬が傷つくのを防ぐ手だてはなく、軍馬すなわち「彼らが何より尊重するPharii 」(16)が遠隔攻撃の前に倒れるのを見れば、彼らはたちまち持ちこたえられなくなっただろう。
冷気や雨も東洋の侵略者にとっては不快なものであった。このような天候に覆われると、彼らは普段の堅固さや勇敢さを失うので、圧倒的優位に立ってこれを攻撃することができた。軍勢が北上してカッパドキアに進出しているすきに、その根拠地であるキリキアと北シリアに対して、激しい略奪をしかけるというのもしばしば行われた手である。このような破壊活動が頻繁に実施されたため、キリスト教圏とイスラーム圏の国境地帯においては、両軍が互いに本拠地防衛の努力を放棄して、相手領土を略奪し合うという光景が、現地住民にとって日常的なものとなっていた。海路による侵入も陸路からの急襲を補完した。レオンは語る、
キリキアのアラブ人が、タウルス北方の地域を略奪するため、山道を越えて出払ったときには、キビュライオトン軍管区の司令官は出撃可能な軍勢とともに速やかに乗船し、かの地方の沿岸部を荒らすべきである。一方、彼らがピシディアの沿海地方を襲撃するために出航した場合には、タウルスの辺境区から攻撃してタルススとアダマの支配領域を何の危険もなく荒らすことができる。(17)
ビザンツの士官の優れた能力を明らかにしてくれるものとして、これらの指示以上の物はない。レオン自身はそれほど優れた能力の持ち主ではなく、彼の『Tactica』も斬新な戦争術を構築したものというよりは、既存の軍事的な手法を集成した物である。だがこの書物に匹敵する著作は、16世紀に至るまでの西ヨーロッパにおいては、見られない。キリスト教圏の他方の領域が同時代に見せた気質と、全く異なる思潮がその大きな特徴である。ビザンツでは騎士道は全く見られない一方で、専門家としての誇りが満ちあふれている。勇気は、戦士の唯一にして最高の美徳ではなく、勝利を得るのに必要な一要素にすぎないと理解されていた。レオンは、戦争は、大会戦を行うことなく、効率的に十分な成果を上げて、成功裏に終了することができると考えていた。彼は、戦闘を崇拝して闘争を熱狂的に追い求めるような姿勢を、全く評価していない。彼から見れば、それはむしろ野蛮人の性質であり、将帥を自任する者にとして致命的な欠陥であった。
彼は策略や奇襲、偽装退却を非常に好む傾向にあった。最初にあらゆる面で自軍に優位を確保することをせず戦いに望む武官を、彼は大いに軽蔑していた。彼はある種の知的な誇りとともに、敵に対して、その兵力と強さを探る以外の目的なしに、軍使(parlementaires)を送る方法を教示している。彼は、当然の教訓を忠告する一環として、 敗北した指揮官がしばしば、敵司令官に(全く実行の意思のない)降伏の使者を送って、撤退するための時間を稼いだことを、ほのめかしている。彼は、敵軍の下位の武官達に裏切りを誘う手紙を送るという、古風な策略を用いることに、何ら恥じらいを感じておらず、その手紙を敵の司令官の手中に落として、補佐官達への不信を誘うべきであるとさえ考えている。「ビザンツ」という単語は最も悪い意味ではこの種の策略を指しているが、だからといってその性格に目を曇らされ、それらを含んだ戦略体系の現実的で卓越した優秀性を見逃してはならない。10世紀のコンスタンティノープルで用いられていた戦争術は、世界で唯一の真に科学的に優れた戦争学体系であり、16世紀まではこれに敵うものは無かったのである。
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