C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 3章後半
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第三章
ビザンツとその敵たち(1)
582~1071
マウリキウスの即位からマンツィケルトの戦いまで
ビザンツ軍の武器、組織、戦法
マウリキウス帝は、その治世が東帝国の歴史における最大の転回点となった人物であり、ビザンツの軍隊もその固有の形態をこの人物によって創られたと言ってよいだろう。(18)彼の著作の『Artis militaris』が幸運にも現存しており、これにより、東帝国の軍隊の再編が、もっぱら彼によるものであることが分かる。同時代の歴史家もまた彼の諸改革について、細部には触れないものの、述べており、その改革が、後の時代の受け継がれていったこと、にもかかわらず、これによって彼が兵士達の支持を失ったことが分かる。後の時代の著述家は、誤ってこれらの変革を、優れた戦士であり、東帝国領内で前任者の誰よりも長くローマ軍旗を掲げ戦いの日々を送った、ヘラクレイオス帝に帰している。(19)だが実際にはヘラクレイオスの軍隊は既に、賢明だが不幸なマウリキウスによって変革済みだったのである。
マウリキウスの行った変革のうち最も重要なものは、ゲルマン人の従士制(comitatus)に似た制度が、同盟軍(foederati)からローマ正規軍へと浸透しつつあったのを、除去したことである。百人隊長より上の階層の士官の任命を中央政府で管理することによって、兵士の忠誠が、直接の上位者よりも皇帝に向くようにした。こうして軍や部隊の指揮官は、権力と任命権を失ったため、もはや国家の脅威となることはあり得なかった。国家の軍事装置としてよりも個人の随員として兵士を徴募した、半独立の権威者ではく、今や皇帝の代理人が兵士達を指揮することになった。
マウリキウスは、彼の軍隊の忠誠と規律を確保するという大目的のため、この改革を成し遂げた。次いで彼は、帝国全軍を単一の組織形態に移行させようとした。ユスティニアヌスの治世の終盤頃に始まる、国家の歳入の急激な減少は、深刻さを増して続いており、結果、ローマ軍中に勤務する外国人傭兵の数は大幅に減少していた。また、帝国の同盟軍(foederati)の大半を供給していた諸民族に関する事情もこの傾向を加速していた。ロンバルド族がイタリアに移住し、ヘルル族やゲピド族が滅んだのである。外国人部隊の数が著しく減少した結果、彼らの組織を同化するに際して、軍隊の残りの部分が影響を受ける恐れが無くなったのである。
マウリキウスによって導入された新たな組織は、五百年近く存続することになった。歩兵と騎兵の両方とも基本部隊はβανδον(20)と言い、これは400人からなる小振りな大隊あるいは騎兵連隊であり、通常comes(21)という通俗的な名称で呼ばれる士官に指揮されていたが、時にはこれをより古い名称のτριβωνος、あるいは軍団司令官と呼ぶこともあった。大隊である「band」(あるいはταγματαと呼ばれることもある)三隊以上で、小規模な旅団を構成し、これはμοιρα、χιλιαρχια、あるいはδρουγγος(22)など様々に呼ばれた。旅団であるdrunges三隊でマウリキウスが想定する最大の部隊となり、こうして形成された師団がturmaあるいはμεροςであった。術語においてラテン、ギリシア、ゲルマンの単語が奇妙な形で併記されていることこそ、ビザンツの軍事組織の最大の特徴であろう。古いローマの遺物という基礎の上に、4世紀と5世紀の同盟軍(foederati)によって導入されたゲルマンの名称がまず重ねられ、最後に多くのギリシア語の名称が、古代マケドニア軍制からの借用あるいは新規の名称創出によって、重ねられている。実際、帝国の全体的な公用語は流動的であった。マウリキウス自身は臣民たちがPius、Felix、Augustus(23)といったラテン語の称号を使うことを歓迎したが、彼らの大半はギリシア語を話す慣習であった。『Altis militias』においては二つの言語が混ざりもつれ合っている。「戦いの前には、」皇帝によれば、「指揮官達を部隊に対面させて、‘Δευς Νοβισκουμ(Deus nobiscum)’のときの声を上げさせると、兵士達にはこれに応えて‘Κυριε,Ελεησον’の叫びを上げる」。
マウリキウスは、4世紀にできた納税する階級と国軍に徴募される階級の間の壁を、壊そうと意図していたと、見てよいだろう。「我々の望み」と彼が記すのは「自由の身である全ての若いローマ人が弓の使用法を学び、常にこの武器および投槍二本を保有しておくことである」。だが、これが普遍的な軍役義務の導入への第一歩となることを意図していたにしても、その計画がそれ以上に進展することは決してなかった。300年後、レオンは同じ言葉が、実用性の追求よりも信仰心から、繰り返されるのを聞くことになる。しかしながら、帝国の軍勢は、今やほとんどその領域内から集められ、ほぼ完全に国内に居住する民族から成っており、例外としてギリシア人が相当数の兵士を供給していただけである。アジアのアルメニア人とイサウリア人、ヨーロッパのトラキア人、マケドニア人、──正確に言えば半ローマ化したスラブ人──は募兵官から最良の人材であると見られていた。
ビザンツの組織の並はずれた永続性は、マウリキウスの整えた体制が彼の死後300年においてもほとんど変更されていないことが、よく示している。レオンの『Tactica』の、軍の装備や組織を扱う章は、ほとんど彼の前任者の『Artis militaris』の同種の部分の焼き直し以上のものではない。両書における重騎兵と軽騎兵、そして歩兵に関する叙述は、いくつかの術語の違いを除いては、まったく同じである。
καβαλλαριος、すなわち重騎兵はどちらの時代でも、小さな前立ての付いた鉄帽と、首から太腿まで届く長い鎖帷子を着用した。彼はこの他、籠手と鉄靴で身を守り、通常は鎧の上から軽い外衣を身につけた。士官と最前列の兵士の馬には、鉄製の額飾りと胸当てが装着された。兵士の武器は幅広の剣(σπαθιον)に短刀(παραμηριον)、騎兵の弓と矢筒、先端に革ひもを付け小旗で飾られた長槍(κονταριον)である。
小旗、前立て、外衣の色は隊旗の色で、同じturmaに属する「band」の間で隊旗が同色になることはなかった。その結果、全てのbandが独自の部隊の色を並べつつ、戦列は規則正しく整然たる外観を呈していた。騎兵はみな鞍に長いマントをくくりつけて携帯しており、天候が寒いかあるいは雨の時、さらに鎧の輝きを見せたくないときに隠蔽目的で、着用した。(24)
軽騎兵はこれほど堅固な装備はしておらず、角や鎖でできた胸当てが時に使われたが、首と肩を覆うだけの鎖でできた短いマントのみのこともあった。弓を引くために両手が必要であった重騎兵とは異なり、軽騎兵は大きな盾で身を守っていた。武器としては軽騎兵は槍と剣を持っていた。
歩兵は、騎兵と比べてずっと重要性が低いが、重歩兵と軽歩兵の二種類に分かれていた。scutati(σκουτατοι)、すなわち前者の部隊は、前立て付きの鉄帽をかぶり、短い鎖帷子を着用した。巨大な長方形の盾(θυρις)を持ち、それは前立てとともに、隊旗と同じ色にされた。彼らの主な武器は短いが重い戦斧(τζικουριον=securis)で、前部が刃に後部が突起になっていた。彼らは短刀も装備していた。軽歩兵(ψιλοι)は防御用の鎧を全く身につけていなかった。彼らは強力な弓を装備しており、これは騎兵よりもはるかに射程が長く、それゆえ敵の弓騎兵にとって非常に脅威であった。弓にあまり馴染みのない地方から集められたいくつかの部隊は、代わりに二、三本の投槍(ριπταρια)を携行した。接近戦用には軽歩兵(psiloi)は重歩兵(scutati)と同じ斧を持つとともに、腰に小さな丸盾を吊していた。(25)
巨大な非戦闘員の輸送隊が軍隊には随伴した。騎兵に関しては、兵士4人に馬丁が1人付いたし、歩兵においては、兵士16人に対して従者が1人付いて荷馬車を駆り、「製粉機、なた鎌、鋸、鋤2本、木づち、大きな枝編みのかご、草刈り鎌、つるはし2本」(26)、さらに辞書にもそれが何か判別する手がかりの無い、いくつかの器具(27)を運んだ。従って塹壕を掘る目的で、「century」(28)一隊につき鋤二十本とつるはし二十本が常に用意されていた。ビザンツ軍の組織は極めて完成度が高く、「輸送隊」を含むのみならず、従僕(σκριβωνοι)と軍医からなる医療部隊さえ存在した。兵士の生命に高い価値が認められていたことが、軍勢が撤退する際に負傷者を一人救出するごとに、従僕(scriboni)がnomisma金貨(29)一枚を受け取ったという事実から伺える。この非戦闘員と荷車の集団はtuldum(τουλδον)と呼ばれ、専門の士官に監督が命じられている。そして勤勉な『Tactica』の著者もこれに少なからぬ関心を向けている。
マウリキウスとレオンの著作の戦術を扱った部分では、他の部分と比べて、6世紀と9世紀の軍事組織の間に、はるかに大きな違いが見られる。そして当然のことながら、レオンの文章は、前任者のものと比べて興味深い性格になっている。彼の指令は我々が注意を向けるに値するほど重要なものである。
夜営に際して軍勢の周囲に塹壕を巡らせるという、古代ローマの習慣が復活したのを、そこに初めて見て取ることができる。工兵(Μενσορες[原文ママ])部隊は、常に先遣隊に同行しており、夕刻に停止が命じられると、杭と縄で野営地の輪郭を描いた。主力が追いついてくると、tuldumが囲いの中の中央部を占め、その間歩兵の「band」は、各隊一定量の作業を割り当てられ、測量用の縄の線に沿って壕と盛り土を造る。太い鎖と杭が野営地から離れた位置に設置され、夜の闇の中でさえ奇襲が不可能になっていた。(30)
ビザンツの戦術体系の主な特徴は、作戦において、様々な小規模の部隊が用いられたことであり、これは高度の規律と訓練の証拠である。西方の軍隊が、数千人を結集した「battle」という巨大な部隊の二、三個に編成されて突進するという戦い方をしていたときに、同等の兵力を持つビザンツ軍は、多数の小部隊に分割されていた。「band」よりも大きな部隊の存在について、レオンはあまり熱心に観察していないように見える。無数の部隊に分割された戦列に、秩序と団結を見出すことができるのは、下級部隊の士官達の平均能力の高さの最大の証拠である。大隊指揮官と旅団指揮官(moirarch)は、九世紀と十世紀においては、ほとんどがビザンツの貴族階級から登用されていた。レオンは語る:
我らの軍隊の士官とするため、富力、勇気、高貴な生まれを備えた人間を、十分な数見出すことは全く容易なことであった。彼らの高貴な身分は彼らを兵士達の尊敬の的としたし、その富を用いて、時折、気を利かせて、ささやかな衣食住の贈り物を為すことで、彼らは部隊内で絶大な支持を得ることができた。(31)
東帝国の貴族の一族には真の軍人精神が存在していた。スクレロスやフォカス、ブリュエンニウス、ケルクアス、コムネノスといった家が、代々、国軍に士官を供給しているのを見ることができる。貴族達はコンスタンティノープルの門を出る際に、贅沢や陰謀を背後に残し、戦場では賢明な職業軍人となったのである。(32)
レオンの著書においては、歩兵は副次的な役割を演じているに過ぎない。彼の戦術的な指導は、多くの場合、歩兵に関して言及が無く、騎兵のみが従うべき命令について、概要を与えてくれるにすぎない。アラブ人やトルコ人のような急速に移動する敵との戦いにおいては、戦闘時には、歩兵は後方で行進中であることが確実なので、このような記述になるのだろう。それ故、ここではビザンツの戦術展開の典型を示すため、「band」九隊、すなわち兵士3,500から4,000人で構成されるturmaが、騎兵から成る敵と交戦する際に、布陣した隊形を、特に描写することとしよう。
第一戦列は三隊のbandaからなり、各隊はそれぞれ縦深七列(五列のこともある)で戦列を展開した。これらの部隊は最初の衝撃を受け止めるためのものであった。第一戦列の後方には、bandaを二分した部隊の四隊によって構成された第二戦列が配置され、これは縦深十列(八列のこともある)であった。これらの部隊は前方の各bandの背後に直接配置されるのではなく、前方諸隊間の隙間に配置されており、その結果、もし第一戦列が撃退されても、彼らは仲間にぶつかることなく、部隊の隙間を通過することができた。ただし第二戦列が切れ目無く見るよう、bandon一隊を三分して、bandaを二分した部隊四隊の隙間に、縦深二列で配置していた。これらの部隊は、第一戦列が撃退され第二戦列の隙間になだれ込んでくるのを見ると、後方に回って中央部の背後で予備部隊を形成するよう命令された。ただし本来の予備部隊として、bandaを二分した部隊二隊が、第二戦列の側方にやや後ろに下がった形で配置されていた。これは後ろに回ってきたbandonとともに戦列を形成することになった。主戦力の両側面にはそれぞれbandonを二分した225人の部隊が付属していた。これらはπλαγιοφυλακεςと呼ばれ、turmaの側面を迂回されるのを防ぐ役割で、配置されていた。そこからさらに外側に距離をとって、これと同じ兵力の部隊が二つ、もし可能であれば姿を隠して、配置された。敵の背後を取れるよう努めるのがその役割であったが、それが果たせずとも敵の両翼を奇襲して攪乱することができた。これらの部隊は「Ενεδροι」あるいは「伏兵部隊」と呼ばれた。指揮官の位置は通常は第二戦列の中央で、そこにいれば彼は、最前列の集団の先頭でただちに乱戦に巻き込まれるよりも、戦況の全般的な把握が容易であった
この戦闘隊形は、全く称賛に値する。騎兵戦闘の勝利の鍵である連続突撃が準備されていた。ビザンツ軍が戦力を使い果たすまでには、五回もの攻撃が可能であった。さらに、第二戦列が第一戦列の隙間の背後に配置されることで、最前列の部隊の敗退によって、全軍が混乱する可能性が除去されていた。壊走する部隊は、後方で、密集した戦列に混乱を拡大させることなく、部隊再編のための開けた空間に逃げ込むことができた。これに加えて、予備隊や分遣隊の突撃は、第一戦列や第二戦列が相手をする敵中央部ではなく、敵側面の最も無防備な弱点に対して行われた。
この他、ビザンツ軍の卓越した組織を理解させてくれる例としては、小規模戦闘においては各部隊が、「散兵線」の役割を担うcursores(κουρσορες)と「予備」であるdefensores(διφενσορες)に二分して運用されたことが挙げられる。歩兵のturmaの場合はもちろん前者は弓兵で構成され、後者はscutatiで構成された。
レオンの『Tactics』の全体像を描くことは退屈であるし、不必要でもある。ビザンツ軍の強さと完璧さを示すに十分な証拠は既に挙げた。これまでに通観した方向性から、東帝国の軍事力の耐久性を理解するに至ることは容易いであろう。無規律なスラブ人やアラブ人に対する際には、帝国軍は通常その軍事学と規律によって、圧倒的優位に立った。わざわざ説明が必要になるのは、彼らの勝利よりも敗北の方であった。
ビザンツが偉大であった時代は1071年のマンツィケルトの戦いで終わりを迎える。この戦いにおいて、ロマノス・ディオゲネスの無鉄砲さは、アルプ・アルスランの騎馬弓兵の前に、アジアの諸軍団の戦力が全滅するという結果を招いた。アジアの貴族の一団に支持されたイサキオス・コムネノスの反乱が象徴する、中央権力の衰退は、既に軍隊を弱体化させていたかもしれない。それでも、マンツィケルトの戦いの結果こそが帝国軍にとって致命傷であった。小アジア内陸部の諸軍管区がセルジュク・トルコによって占領されたことで、500年に渡って東帝国軍の中核を担ってきた、勇敢なイサウリア人やアルメニア人の居住地が、最大の兵力供給源が、帝国から切り離されたのである。
ところで、ここでは、多くの著述家が珍重する、かの有名なギリシアの火に関して、全く論じていない。だが、ギリシアの火は、城塞戦と海戦における重要性はそれなりにあるにせよ、結局は、非重要な一機械装置に過ぎず、ビザンツ軍の成功を説明するものとしては、その卓越した戦略・戦術体系に匹敵し得ないのであって、無視して良いのである。純粋な機械装置に関しては、帝国の将帥達が手にしていた他のものについて研究したとしても、同様の結論が導き出されるだろう。古代ローマの技師の技術はほとんど完全に残存しており、帝国の兵器庫は、東西の野蛮人の心に神秘的な畏れを引き起こした、絶大な威力の機械装置で満たされていた。vinea(移動式の小屋)やtestudo(攻城戦用亀甲型防御隊形)、catapultやonager、ballistaといった投石機は、一世紀と同様十世紀においてもよく知られていた。これらが全ての攻囲戦で用いられ、効果を発揮したことは疑いがない。だが、どれだけ兵器を用いる機械技術が優れていても、ビザンツ帝国が好戦的な近隣勢力に対して、優位に立っていたことの説明とするに、不十分である。軍事学と規律、戦略と戦術、自国民から成る職業軍人、教育を受けて軍事能力を身につけた貴族階級、以上のような要素の存在にこそ、ビザンツの優越の根拠を求めるべきである。貴族が単なる宮廷人に堕落し、イサウリア人弓兵とアナトリア人騎兵に外国人傭兵が取って代わった時、古代ローマから続いてきた軍事組織が、単なる中央集権行政組織に変わってしまった時、過去からどれだけ機械技術を受け継いでいたところで、ビザンツ帝国を破滅から救うことなど不可能である。ホスロー、クルム、モスレマー、スビヤトスラフにとって困難に過ぎた事業を、西欧の野蛮で精強な騎士が達成することになった。だが十字軍という海賊の征服を受けた国は、もはやヘラクレイオスの、ヨアネス1世ツィミスケスの、イサウリア人皇帝レオン3世の、アルメニア人皇帝レオン5世の帝国とは別物であった。それはアレクシオス3世・アンゲロスが治める、縮小し、混乱した王国に過ぎなかったのである。
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