2011年 01月 27日
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 4章前半
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前章
ビザンツとその敵たち
注釈は別ページへ
第四章
封建騎兵の絶頂期
1066~1346
ヘイスティングスの戦いからモルガルテンの戦いとクレーシーの戦いまで
アングロ・デーンの歩兵の戦いと14世紀の槍兵と弓兵の台頭の間は、鎖帷子をまとった封建騎兵の絶頂期であった。この時代は、戦略と戦術に関して言えば、全くの停滞の時代であった。攻城戦の部門においてのみ、戦争術は評価に値する進歩を遂げた。
封建制の社会組織は貴種に属する全ての人間を戦闘員としたが、それは彼らが軍人になったという意味ではなかった。馬の上にしっかりと座り、槍と剣を巧みに扱うことができれば、それだけで十二世紀と十三世紀の騎士は模範的な軍事能力の持ち主とされた。勇気のみならず、規律や戦術的技量もが軍隊にとって重要であるとは、考えられていなかった。集めにくく、服従心に欠け、作戦能力は無く、わずかな勤務期間が終わればすぐに立ち去ろうとするなど、封建軍隊は、他にほとんど類を見ない、軍人らしからぬ低質の集団であった。そもそもマジャール人やノルマン人、アラブ人といった、10世紀のキリスト教世界を脅かした敵から、国境を守るために成立したため、この制度は全く攻勢に出る能力を欠いていた。高位の領主達が集まった時など、互いに無闇に同僚を嫉妬し、王以外には優越を認めず──それどころか王さえしばしば貴族を統制する力を欠いており──単なる群衆を超えた何らかの軍事組織なら当然備えてしかるべき、階層的な指揮系統を設けるということを、彼らに納得させるには、非凡な能力を持った指導者を必要としていた。君主は総司令官や司令官のような役職を設けることで危険を除こうとしていたが、これらの手段は一時しのぎに過ぎなかった。不服従という根本的な欠陥は存在し続けたのである。戦いにおいては、無謀な勇気の囁きを除いては何も聞こえなくなった、狭量な男爵や高位騎士の軽率な行動せいで、常に、決定的瞬間において、隊列の崩壊や計画の破綻が発生した。指揮系統の階層が、職務経験ではなく社会的地位に基づいているので、最大の兵力をつれてきたり、最高の地位を有したりする貴族は、自分こそ戦闘の指揮を執る権利があると考えた。熟練者も、少数の騎士しか揃えることができない以上は、上位者の行動に対して影響を与えることはほとんど望めなかった。
技術と経験に単なる勇気が取って代わり、戦略や戦術はほとんど消失したようである。尊大さと愚かさが結びつき、封建軍隊にある種の決定的な色合いを与えていた。世紀や場所が異なっても、戦いで起こることに変わりはなかった。エル・マンスラ(1250)はアルジュバロタ(1385)と類似しており、ニコポリス(1396)はクルトレ(1302)に類似している。敵が視界に入ったときに、西欧の騎士を押しとどめることができるものは何もなかった。盾を掲げ、槍を構え、拍車を馬に押しつけて、鎖帷子で覆われた戦列が、前方に注意も払わず、叫び声とともに突っ走る。そのあとは、石の壁に突っ込み、運河に転げ落ち、沼地でもがき苦しみ、防護柵に無駄な襲撃をかけるなどの結末に至ることも、しばしばであった。このような軍隊を相手にするのであれば、初歩的な戦術体系を持つに過ぎない敵でさえ、勝利し損ねることなどほとんど無かった。エル・マンスラの戦い(1250)は13世紀の軍事的習慣の良い見本と理解できるだろう。フランス軍の前衛軍は、平坦な戦場と、ヤシの木立の陰の、異教徒の武装の輝きを見ると、戦意を押さえることができなかった。アルトワ伯を先頭に、聖ルイ[ルイ9世]の交戦禁止の厳命を無視して、彼らは軽率な突撃を開始した。マムルーク朝軍は後退し、追跡者達を街路に誘い込み、そこで反転して全方位から激しく襲いかかった。わずかの間に、アルトワ伯の「battle」は完全に粉砕され四散してしまった。一方、仲間の危機を聞きつけた主力軍は、仲間を救おうと、急いで駆けだした。しかしながら各指揮官が独自の進路を採り、それぞれが勝手な速度で走ったので、フランス軍は数十の小集団に細分して戦場に到着した。これらの集団は個別に攻撃を受け、ほとんどがマムルーク朝軍によって壊滅させられた。全体的な戦闘は発生しておらず、ばらばらに発生した無数の小規模騎兵戦闘の結果として、大惨敗が引き起こされた。十字軍の熱狂に駆られて、大兵力で外征してきたところで、西欧の騎兵など、小競り合いと市街戦で倒すことが可能だったのである。
封建軍隊の戦列は一つの定型にはまり込んでいた。軍隊が規律を持たず、連携にも習熟していない以上、無数の小部隊の動きを協調させることは不可能なので、通常は「battle」と呼ばれた巨大集団を編成して、騎兵全軍を三分し、敵に向かって突進した。予備隊を用意しておく習慣があった指揮官が数人存在するが、これらの人々は当時にあっては際だって進歩的であった。実際、戦闘に参加する機会を逃しかねない前線から離れた位置に留まるよう、封建諸侯を説得するのは、たいていは困難であった。両軍の「battle」が接触すると、凄まじい乱戦が起こり、それが数時間続くこともしばしばであった。時々、あたかも合意したかのように、両集団は後ろに下がって馬に休息を与え、そこから再び互いに突進して、どちらか一方が打ち負かされ戦場を去るまで、戦闘を繰り広げた。ブレミュール(1119)やブーヴィーヌ(1214)、ベネヴェント(1266)のような戦いは、荒れ地や丘陵を覆う巨大な規模で、先を争い乱闘した以上のものではない。予備隊を危機に差し向けたり、敵の側面を制するため軍を分遣したり、戦闘に適した地点を選択するといった、当たり前の措置ですら、卓越した軍事技術の表れと見なされた。例えば、アンジュー伯シャルルはタリアコッツォ(1268)で騎士の一団を隠しておき、ギベリン軍が、アンジュー軍主力であった「battle」の敗走を追跡しようと分散したところで、コンラディンの後方に突撃させたが、これにより偉大な指揮官との名声を得た。シモン・ド・モンフォールは高い名声を得ている。だがルイス(1264)で彼が予備隊を温存して活用したからといって、エヴェシャム(1265)で彼が奇襲を受け、川を背にした撤退不可能な立場で戦わざるを得なかったことを、忘れてはならない。要するに、この時代に対する賞賛は、用兵ではなく武器に与えられるべきであった。我々は、年代記を熟読するならば、そこに優れた指揮官が無数に存在したと確信してしまうであろう。だが、同時代人の意見はさておき、これら激賞された人物達の行動を分析してみれば、彼らの能力に対する我々の確信はほとんど例外なく激しく動揺することになる。(1)
戦争における下位の活動ですらまともに理解されていない以上、戦争術のより高度な部門である戦略は、全く存在しなかった。(2)敵地に進出した侵略軍は、なんらかの戦略的に重要な地点を攻撃することはなく、ただ土地を焼き、略奪するだけであった。組織された兵站部門を全く持たないので、極めて裕福な地方の資源ですらたちまち使い尽くしてしまい、侵略軍は、高度な目的のためではなく、糧を求めて移動することになった。軍隊の補給のための組織的な準備が為された形跡を見つけることができるのは、現在考察している時代の終わり頃になってからである。そしてこれらでさえ、大抵は厳しく必要に迫られてのものにすぎない。ウェールズやスコットランドのような、貧しく未開墾の土地を攻撃する際、イングランドの諸王は現地調達できないことに気づき、その軍勢を飢えさせないための対策を、取らざるを得なくなったのである。これとは異なり、フランドルやロンバルディアに進出したフランス軍とドイツ軍、そしてフランスにおけるイギリス軍は、あらゆる証拠が証明しているように、戦力の維持を現地での略奪に頼ったのである。(3)
概して、大会戦は、頻繁に起こるものではなく、この時代の長期戦役を考察する際においては、異常な事件であったと言える。数年に渡る交戦期間を通じて、いくつかの部分的な小競り合いが起こるに過ぎず、近世の軍事作戦と比べて、総力を挙げた交戦は、信じられないほど少なかった。フリードリヒ大王やナポレオン1世ならば1年で、中世の指揮官が10年かけて戦うより多く、戦闘を行った。明確な目的もなく、歩哨や騎哨を用いて、互いに接触を保つよう努めているわけでもない両軍が、しばしば互いを見失ってしまったというのが、真相かも知れない。彼らが出会うとすれば、たいていは、古代ローマの街道や、橋や渡場となる浅瀬といった地点に、全ての道が集まるという、地形上の必然性のためであった。軍事技術にかんして幼稚な状態にあっては、所定の場所と日に戦うことができるよう、将帥達が儀式張って挑戦状を送り、受け取りしたという以上のものは、見ることができない。このような措置を取らなければ、両軍は互いを見失い、別々の方向へとさまよい離れていく恐れが十分に存在した。地図が存在せず、地理的知識が乏しく不正確であった時代にあっては、こうなるのも全く驚くには当たらない。
二つの軍勢が現に対面している時でさえ、戦闘に持ち込むには、指揮官の能力が足りないことがあった。ハンガリー王ベーラ4世とボヘミア王オトカル2世は1260年に交戦し、両者ともに戦闘を決意していた。だが彼らが互いを発見したとき、その間にはマルク川が立ちはだかっていた。敵の面前での渡河は、聖ルイが二年前にアクモウム運河の岸辺で思い知ったように、13世紀の将帥の平均的な能力をはるかに超える難問であった。(4)したがってボヘミア側が、敵軍に、妨害無しでマルク川を渡河することを認めるので西岸で正式に決戦するか、あるいは自軍に同様の機会を与えてハンガリー側に渡河するのを認めるよう、礼儀正しく申し出たことは全く当然のことであった。ベーラは前者を選択して、妨害を受けずに渡河し、対岸でクレッセンブルンの戦いに惨敗した(1260)。
12世紀と13世紀においては歩兵は絶対的に無意味であった。徒歩の兵士はせいぜいが、野営地で召使いとして働かせるか、当時頻繁に行われた攻囲戦を補助させるために、従軍させられた。時折、歩兵を軽装部隊として使用し、彼らのあまり有効でない示威行動で戦闘を開始することもあった。だが、彼らが重要な役割を演じることはなかった。実際、彼らが騎兵の突撃開始をあまりに遅らせることになれば、邪魔になるので、貴族達が、攪乱を行っている貧弱な従者達に向かって突入し突破していくことさえあった。ブーヴィーヌにおけるブーローニュ伯は、歩兵には、大きな円陣を組ませ、軍馬が疲労し休息が必要になった時に、彼と配下の騎兵の避難所として利用する以上の、用途を見いだせなかった。(5)時に歩兵の大軍が戦場に姿を見せることがあっても、それは全ての壮健な男子にとって召集軍に参加することが義務であったったからに過ぎず、20,000人あるいは100,000人と言った半武装の農民や都市住民の補助兵力が、召集軍の真の戦力を増強するものとして計算されていたわけではなかった。(6)彼らの軍事的な弱体の主な原因は、その装備の雑多な性質であったかもしれない。長い槍を使ったスコットランド低地住民や、弩を用いたフリードリヒ2世のアラブ人補助部隊のような部隊は、装備の統一性の点で称賛に値するし、称賛を得てもいる。だが一般的な歩兵はこれとは異なり、規律もなく種々雑多な武器を持って騎兵の突撃にさらされており、協力してこれに立ち向かうことができず、踏み倒され粉砕されることになった。この時代の終わり頃に見られる、歩兵が成功したいくつかの例は、全て例外的な性格の存在であった。[そしてそれらは戦争における新時代の始まりを示している。]東方における大傭兵団の歩兵は、アテネ公を、全ての騎士を率いて湿地に突撃するよう誘って、打ち負かした(1311)。[そして、クルトレの戦い(1302年7月)では、アルトワ伯ロベール率いるフランス騎兵が、覚悟を固めた敵の面前で渡河するという無謀な行為に出たところ、フランドル軍はフランス騎兵の突撃を頑強に防ぎ止め、これを小川まで押し戻し、勝利を勝ち取った。]
封建軍隊にある程度の効率性を導入しようという試みから、君主達は様々な手法に訴えた。フリードリヒ・バルバロッサは戦陣法の厳しい規則で規律を強制しようと努めたが、記録に残った事実から遵守の程度を判断するとすれば、この企てはたいして成功していない。例えば1158年に、若きオーストリア貴族であるエグベルト・フォン・ブーテンは持ち場を放棄して、千人の兵力でミラノの門の一つを奪取しようとし始め、この生意気な命令違反の最中にその命を落とした。これはこの時代の精神にかなった行動であって、決して例外ではなかった。偉大な皇帝の厳格で威厳ある個性をもってしても服従を得られないのであれば、弱体な支配者にとって、この様な課題を達成しうる見込みはなかった。
大半の君主は封建軍隊と比べて品行は劣悪だが、規律に対して従順な、別種の軍隊を使用せざるをえなくなった。(7)傭兵が12世紀の後半に姿を見せることになる。彼らは、勇気をもたらすあらゆる高貴な美徳とは無縁な存在、神と隣人の敵、当然のようにヨーロッパで最も忌み嫌われた人種であって、その最良の部類でさえ、君主がやむを得ず集め育成した、単なる道具に過ぎない。戦争が、単なる辺境の襲撃であることを止め、貴族の大半の本拠からはるかに離れ、長期間に渡って行われるようになると、封建軍の軍役に頼ることは不可能になった。だが傭兵の給与のための莫大な資金需要をどのようにして賄ったか、ほとんど全ての場合において明らかでない。 様々に用いられた手法の内、個々の騎士の軍役を軍役免除税に置き換えるというヘンリー2世のやり方は注目に値する。この結果、王の封臣の大半は、騎士一人につき2マークの割合で、軍役を金納した。(8)こうして王は、軍事的な目的を達成するという点で、ほとんどの場合に封建軍隊よりも圧倒的に有効である傭兵軍を率いて、海を越えることができた。(9)外人傭兵を用いることは、その貪欲さと獰猛さから言えば好ましいことではなかったかもしれないが、彼らは、定期的に給与が支払われている限りにおいて、軍旗の下に留まり続けると信用することができた。全ての支配者が戦時には彼らを必要としたが、とりわけ専制的で強権的な支配者にとって彼らの存在は有益であった。好戦的な貴族達を抑制するには、惜しみなく傭兵を使うしかなかったのである。君主達は、自国民と異なる利害および関心を持った、強力な軍隊で身辺を固めることで、初めて専制政治を開始することができた。古代ギリシアで見られたような圧制者が中世ヨーロッパにも現れたが、彼らは権力基盤を外国人傭兵に置いていた。ジョン王が、routierやブラバント人、従者といった野盗集団との結びつきを強めたとき、彼はペイシストラトスやポリュクラテスを無意識に模倣していたのである。
ただし13世紀の傭兵の軍事的有効性は、普通の封建騎兵の延長線上にあったに過ぎない。封建騎兵と同じく、彼らは重装騎兵であった。彼らの台頭が戦争の手法に根本的な変革を引き起こしたわけではない。彼らはより実用的な戦士ではあったけれど、未だに騎兵戦術の時代を特徴づける、古い組織の上で活動し、あるいはその組織を必要としていた。
傭兵軍の歴史は、長期の戦争を戦い抜いた部隊が、戦争が終結しても解散せずに団結して、彼らを雇用する意思のある国家を探しながら、大陸を横断するようになった時に、最終局面を迎えた。だが大傭兵団や、イタリアのcondottieriと呼ばれる傭兵隊長の時代は、13世紀ではなく14世紀であり、これに関しては後で章を改めて論じるべきであろう。
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封建騎兵の絶頂期
1066~1346
ヘイスティングスの戦いからモルガルテンの戦いとクレーシーの戦いまで
アングロ・デーンの歩兵の戦いと14世紀の槍兵と弓兵の台頭の間は、鎖帷子をまとった封建騎兵の絶頂期であった。この時代は、戦略と戦術に関して言えば、全くの停滞の時代であった。攻城戦の部門においてのみ、戦争術は評価に値する進歩を遂げた。
封建制の社会組織は貴種に属する全ての人間を戦闘員としたが、それは彼らが軍人になったという意味ではなかった。馬の上にしっかりと座り、槍と剣を巧みに扱うことができれば、それだけで十二世紀と十三世紀の騎士は模範的な軍事能力の持ち主とされた。勇気のみならず、規律や戦術的技量もが軍隊にとって重要であるとは、考えられていなかった。集めにくく、服従心に欠け、作戦能力は無く、わずかな勤務期間が終わればすぐに立ち去ろうとするなど、封建軍隊は、他にほとんど類を見ない、軍人らしからぬ低質の集団であった。そもそもマジャール人やノルマン人、アラブ人といった、10世紀のキリスト教世界を脅かした敵から、国境を守るために成立したため、この制度は全く攻勢に出る能力を欠いていた。高位の領主達が集まった時など、互いに無闇に同僚を嫉妬し、王以外には優越を認めず──それどころか王さえしばしば貴族を統制する力を欠いており──単なる群衆を超えた何らかの軍事組織なら当然備えてしかるべき、階層的な指揮系統を設けるということを、彼らに納得させるには、非凡な能力を持った指導者を必要としていた。君主は総司令官や司令官のような役職を設けることで危険を除こうとしていたが、これらの手段は一時しのぎに過ぎなかった。不服従という根本的な欠陥は存在し続けたのである。戦いにおいては、無謀な勇気の囁きを除いては何も聞こえなくなった、狭量な男爵や高位騎士の軽率な行動せいで、常に、決定的瞬間において、隊列の崩壊や計画の破綻が発生した。指揮系統の階層が、職務経験ではなく社会的地位に基づいているので、最大の兵力をつれてきたり、最高の地位を有したりする貴族は、自分こそ戦闘の指揮を執る権利があると考えた。熟練者も、少数の騎士しか揃えることができない以上は、上位者の行動に対して影響を与えることはほとんど望めなかった。
技術と経験に単なる勇気が取って代わり、戦略や戦術はほとんど消失したようである。尊大さと愚かさが結びつき、封建軍隊にある種の決定的な色合いを与えていた。世紀や場所が異なっても、戦いで起こることに変わりはなかった。エル・マンスラ(1250)はアルジュバロタ(1385)と類似しており、ニコポリス(1396)はクルトレ(1302)に類似している。敵が視界に入ったときに、西欧の騎士を押しとどめることができるものは何もなかった。盾を掲げ、槍を構え、拍車を馬に押しつけて、鎖帷子で覆われた戦列が、前方に注意も払わず、叫び声とともに突っ走る。そのあとは、石の壁に突っ込み、運河に転げ落ち、沼地でもがき苦しみ、防護柵に無駄な襲撃をかけるなどの結末に至ることも、しばしばであった。このような軍隊を相手にするのであれば、初歩的な戦術体系を持つに過ぎない敵でさえ、勝利し損ねることなどほとんど無かった。エル・マンスラの戦い(1250)は13世紀の軍事的習慣の良い見本と理解できるだろう。フランス軍の前衛軍は、平坦な戦場と、ヤシの木立の陰の、異教徒の武装の輝きを見ると、戦意を押さえることができなかった。アルトワ伯を先頭に、聖ルイ[ルイ9世]の交戦禁止の厳命を無視して、彼らは軽率な突撃を開始した。マムルーク朝軍は後退し、追跡者達を街路に誘い込み、そこで反転して全方位から激しく襲いかかった。わずかの間に、アルトワ伯の「battle」は完全に粉砕され四散してしまった。一方、仲間の危機を聞きつけた主力軍は、仲間を救おうと、急いで駆けだした。しかしながら各指揮官が独自の進路を採り、それぞれが勝手な速度で走ったので、フランス軍は数十の小集団に細分して戦場に到着した。これらの集団は個別に攻撃を受け、ほとんどがマムルーク朝軍によって壊滅させられた。全体的な戦闘は発生しておらず、ばらばらに発生した無数の小規模騎兵戦闘の結果として、大惨敗が引き起こされた。十字軍の熱狂に駆られて、大兵力で外征してきたところで、西欧の騎兵など、小競り合いと市街戦で倒すことが可能だったのである。
封建軍隊の戦列は一つの定型にはまり込んでいた。軍隊が規律を持たず、連携にも習熟していない以上、無数の小部隊の動きを協調させることは不可能なので、通常は「battle」と呼ばれた巨大集団を編成して、騎兵全軍を三分し、敵に向かって突進した。予備隊を用意しておく習慣があった指揮官が数人存在するが、これらの人々は当時にあっては際だって進歩的であった。実際、戦闘に参加する機会を逃しかねない前線から離れた位置に留まるよう、封建諸侯を説得するのは、たいていは困難であった。両軍の「battle」が接触すると、凄まじい乱戦が起こり、それが数時間続くこともしばしばであった。時々、あたかも合意したかのように、両集団は後ろに下がって馬に休息を与え、そこから再び互いに突進して、どちらか一方が打ち負かされ戦場を去るまで、戦闘を繰り広げた。ブレミュール(1119)やブーヴィーヌ(1214)、ベネヴェント(1266)のような戦いは、荒れ地や丘陵を覆う巨大な規模で、先を争い乱闘した以上のものではない。予備隊を危機に差し向けたり、敵の側面を制するため軍を分遣したり、戦闘に適した地点を選択するといった、当たり前の措置ですら、卓越した軍事技術の表れと見なされた。例えば、アンジュー伯シャルルはタリアコッツォ(1268)で騎士の一団を隠しておき、ギベリン軍が、アンジュー軍主力であった「battle」の敗走を追跡しようと分散したところで、コンラディンの後方に突撃させたが、これにより偉大な指揮官との名声を得た。シモン・ド・モンフォールは高い名声を得ている。だがルイス(1264)で彼が予備隊を温存して活用したからといって、エヴェシャム(1265)で彼が奇襲を受け、川を背にした撤退不可能な立場で戦わざるを得なかったことを、忘れてはならない。要するに、この時代に対する賞賛は、用兵ではなく武器に与えられるべきであった。我々は、年代記を熟読するならば、そこに優れた指揮官が無数に存在したと確信してしまうであろう。だが、同時代人の意見はさておき、これら激賞された人物達の行動を分析してみれば、彼らの能力に対する我々の確信はほとんど例外なく激しく動揺することになる。(1)
戦争における下位の活動ですらまともに理解されていない以上、戦争術のより高度な部門である戦略は、全く存在しなかった。(2)敵地に進出した侵略軍は、なんらかの戦略的に重要な地点を攻撃することはなく、ただ土地を焼き、略奪するだけであった。組織された兵站部門を全く持たないので、極めて裕福な地方の資源ですらたちまち使い尽くしてしまい、侵略軍は、高度な目的のためではなく、糧を求めて移動することになった。軍隊の補給のための組織的な準備が為された形跡を見つけることができるのは、現在考察している時代の終わり頃になってからである。そしてこれらでさえ、大抵は厳しく必要に迫られてのものにすぎない。ウェールズやスコットランドのような、貧しく未開墾の土地を攻撃する際、イングランドの諸王は現地調達できないことに気づき、その軍勢を飢えさせないための対策を、取らざるを得なくなったのである。これとは異なり、フランドルやロンバルディアに進出したフランス軍とドイツ軍、そしてフランスにおけるイギリス軍は、あらゆる証拠が証明しているように、戦力の維持を現地での略奪に頼ったのである。(3)
概して、大会戦は、頻繁に起こるものではなく、この時代の長期戦役を考察する際においては、異常な事件であったと言える。数年に渡る交戦期間を通じて、いくつかの部分的な小競り合いが起こるに過ぎず、近世の軍事作戦と比べて、総力を挙げた交戦は、信じられないほど少なかった。フリードリヒ大王やナポレオン1世ならば1年で、中世の指揮官が10年かけて戦うより多く、戦闘を行った。明確な目的もなく、歩哨や騎哨を用いて、互いに接触を保つよう努めているわけでもない両軍が、しばしば互いを見失ってしまったというのが、真相かも知れない。彼らが出会うとすれば、たいていは、古代ローマの街道や、橋や渡場となる浅瀬といった地点に、全ての道が集まるという、地形上の必然性のためであった。軍事技術にかんして幼稚な状態にあっては、所定の場所と日に戦うことができるよう、将帥達が儀式張って挑戦状を送り、受け取りしたという以上のものは、見ることができない。このような措置を取らなければ、両軍は互いを見失い、別々の方向へとさまよい離れていく恐れが十分に存在した。地図が存在せず、地理的知識が乏しく不正確であった時代にあっては、こうなるのも全く驚くには当たらない。
二つの軍勢が現に対面している時でさえ、戦闘に持ち込むには、指揮官の能力が足りないことがあった。ハンガリー王ベーラ4世とボヘミア王オトカル2世は1260年に交戦し、両者ともに戦闘を決意していた。だが彼らが互いを発見したとき、その間にはマルク川が立ちはだかっていた。敵の面前での渡河は、聖ルイが二年前にアクモウム運河の岸辺で思い知ったように、13世紀の将帥の平均的な能力をはるかに超える難問であった。(4)したがってボヘミア側が、敵軍に、妨害無しでマルク川を渡河することを認めるので西岸で正式に決戦するか、あるいは自軍に同様の機会を与えてハンガリー側に渡河するのを認めるよう、礼儀正しく申し出たことは全く当然のことであった。ベーラは前者を選択して、妨害を受けずに渡河し、対岸でクレッセンブルンの戦いに惨敗した(1260)。
12世紀と13世紀においては歩兵は絶対的に無意味であった。徒歩の兵士はせいぜいが、野営地で召使いとして働かせるか、当時頻繁に行われた攻囲戦を補助させるために、従軍させられた。時折、歩兵を軽装部隊として使用し、彼らのあまり有効でない示威行動で戦闘を開始することもあった。だが、彼らが重要な役割を演じることはなかった。実際、彼らが騎兵の突撃開始をあまりに遅らせることになれば、邪魔になるので、貴族達が、攪乱を行っている貧弱な従者達に向かって突入し突破していくことさえあった。ブーヴィーヌにおけるブーローニュ伯は、歩兵には、大きな円陣を組ませ、軍馬が疲労し休息が必要になった時に、彼と配下の騎兵の避難所として利用する以上の、用途を見いだせなかった。(5)時に歩兵の大軍が戦場に姿を見せることがあっても、それは全ての壮健な男子にとって召集軍に参加することが義務であったったからに過ぎず、20,000人あるいは100,000人と言った半武装の農民や都市住民の補助兵力が、召集軍の真の戦力を増強するものとして計算されていたわけではなかった。(6)彼らの軍事的な弱体の主な原因は、その装備の雑多な性質であったかもしれない。長い槍を使ったスコットランド低地住民や、弩を用いたフリードリヒ2世のアラブ人補助部隊のような部隊は、装備の統一性の点で称賛に値するし、称賛を得てもいる。だが一般的な歩兵はこれとは異なり、規律もなく種々雑多な武器を持って騎兵の突撃にさらされており、協力してこれに立ち向かうことができず、踏み倒され粉砕されることになった。この時代の終わり頃に見られる、歩兵が成功したいくつかの例は、全て例外的な性格の存在であった。[そしてそれらは戦争における新時代の始まりを示している。]東方における大傭兵団の歩兵は、アテネ公を、全ての騎士を率いて湿地に突撃するよう誘って、打ち負かした(1311)。[そして、クルトレの戦い(1302年7月)では、アルトワ伯ロベール率いるフランス騎兵が、覚悟を固めた敵の面前で渡河するという無謀な行為に出たところ、フランドル軍はフランス騎兵の突撃を頑強に防ぎ止め、これを小川まで押し戻し、勝利を勝ち取った。]
封建軍隊にある程度の効率性を導入しようという試みから、君主達は様々な手法に訴えた。フリードリヒ・バルバロッサは戦陣法の厳しい規則で規律を強制しようと努めたが、記録に残った事実から遵守の程度を判断するとすれば、この企てはたいして成功していない。例えば1158年に、若きオーストリア貴族であるエグベルト・フォン・ブーテンは持ち場を放棄して、千人の兵力でミラノの門の一つを奪取しようとし始め、この生意気な命令違反の最中にその命を落とした。これはこの時代の精神にかなった行動であって、決して例外ではなかった。偉大な皇帝の厳格で威厳ある個性をもってしても服従を得られないのであれば、弱体な支配者にとって、この様な課題を達成しうる見込みはなかった。
大半の君主は封建軍隊と比べて品行は劣悪だが、規律に対して従順な、別種の軍隊を使用せざるをえなくなった。(7)傭兵が12世紀の後半に姿を見せることになる。彼らは、勇気をもたらすあらゆる高貴な美徳とは無縁な存在、神と隣人の敵、当然のようにヨーロッパで最も忌み嫌われた人種であって、その最良の部類でさえ、君主がやむを得ず集め育成した、単なる道具に過ぎない。戦争が、単なる辺境の襲撃であることを止め、貴族の大半の本拠からはるかに離れ、長期間に渡って行われるようになると、封建軍の軍役に頼ることは不可能になった。だが傭兵の給与のための莫大な資金需要をどのようにして賄ったか、ほとんど全ての場合において明らかでない。 様々に用いられた手法の内、個々の騎士の軍役を軍役免除税に置き換えるというヘンリー2世のやり方は注目に値する。この結果、王の封臣の大半は、騎士一人につき2マークの割合で、軍役を金納した。(8)こうして王は、軍事的な目的を達成するという点で、ほとんどの場合に封建軍隊よりも圧倒的に有効である傭兵軍を率いて、海を越えることができた。(9)外人傭兵を用いることは、その貪欲さと獰猛さから言えば好ましいことではなかったかもしれないが、彼らは、定期的に給与が支払われている限りにおいて、軍旗の下に留まり続けると信用することができた。全ての支配者が戦時には彼らを必要としたが、とりわけ専制的で強権的な支配者にとって彼らの存在は有益であった。好戦的な貴族達を抑制するには、惜しみなく傭兵を使うしかなかったのである。君主達は、自国民と異なる利害および関心を持った、強力な軍隊で身辺を固めることで、初めて専制政治を開始することができた。古代ギリシアで見られたような圧制者が中世ヨーロッパにも現れたが、彼らは権力基盤を外国人傭兵に置いていた。ジョン王が、routierやブラバント人、従者といった野盗集団との結びつきを強めたとき、彼はペイシストラトスやポリュクラテスを無意識に模倣していたのである。
ただし13世紀の傭兵の軍事的有効性は、普通の封建騎兵の延長線上にあったに過ぎない。封建騎兵と同じく、彼らは重装騎兵であった。彼らの台頭が戦争の手法に根本的な変革を引き起こしたわけではない。彼らはより実用的な戦士ではあったけれど、未だに騎兵戦術の時代を特徴づける、古い組織の上で活動し、あるいはその組織を必要としていた。
傭兵軍の歴史は、長期の戦争を戦い抜いた部隊が、戦争が終結しても解散せずに団結して、彼らを雇用する意思のある国家を探しながら、大陸を横断するようになった時に、最終局面を迎えた。だが大傭兵団や、イタリアのcondottieriと呼ばれる傭兵隊長の時代は、13世紀ではなく14世紀であり、これに関しては後で章を改めて論じるべきであろう。
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by trushbasket
| 2011-01-27 20:13
| My(山田昌弘)








