C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 4章後半
|
第四章前半へ
注釈は別ページへ
第四章
封建騎兵の絶頂期
1066~1346
ヘイスティングスの戦いからモルガルテンの戦いとクレーシーの戦いまで
この時代の軍事史全体において、最も目立つ特徴は、間違いなく、要塞の重要性と、攻城戦において守備側が享受した有利な地位である。戦闘は滅多に起こらない一方、攻囲は無数に行われ、しかも異常に長かった。城は鎖帷子を身につけた騎士と並んで、封建制の不可欠な構成要素であり、貴族達は、自らの身体と騎馬に対して防具に防具を重ねたように、住居を防御施設で何重にも取り巻いていた。11世紀の、土製の城壁と防柵を施した盛り土からなる、ノルマン人の素朴な城は、カーフィリーやカーナーヴォンの城のような、多重に防壁を築いた精巧な防衛機構へと発展した。町の城壁も、要塞のそれに匹敵するものであり、あらゆる地方に大小の砦や防衛拠点が林立していたことになる。 この時代において真に軍事的能力が問われたのは、要塞の用地の選択においていかに地の利を占めるかであった。要塞が一つ巧妙に設置されれば、地域全体の要として機能した。リチャード1世が将才を持っていたことの最良の証拠たり得るものは、彼がガイヤール城を設置した位置であり、この城を適切に守っていれば、東ノルマンディー全体を十分に防衛することができた。
中世の要塞の防衛力の高さは、その異常に堅固な構造のおかげである。城壁は4.5メートルから9メートルほどの厚みを持ち、perriere、catapult、trebuchetといった投石機のような、当時の弱い攻城機具では、攻撃しても目立った効果は挙げられなかった。ノルマン人の築いた天守は堅固で高い上に、火を付けるための木造箇所を持たず、地面に近い低所には打ち破るための窓も無く、守勢に立って抗戦するには無限の力を誇っていた。弱小な守備隊でさえ補給が続く限り戦い抜くことが可能であった。このような要塞に対しては、坑道作戦以外の方法では攻略成功の見込みはあまり無かった。(10)そして城が深い濠で囲まれていたり、岩盤の直上に建てられていたりすれば、坑道作戦も使えなかった。こうなれば「cat」と呼ばれた小屋で身を守りつつ接近し、城壁の低めの箇所を破壊するという、骨の折れる手法しか残されていなかった。濠を埋めることができ、catを防御施設の根本まで接近させることができれば、この方法は単純な構造のノルマン人の要塞に対しては、ある程度の効果を発揮したであろう。稜堡の出現までは、攻囲されている防御軍が、飛び道具を、城壁の直下の地面へと巧く届かせる方法は存在しなかった。城壁上にいる守備軍が直下の敵に攻撃するには、置き盾の陰に身を置いて工兵の作業を護衛している、弓手や弩手の前に、一度身を曝さねばならなかった。このため城壁の低めの箇所を破壊するという方法で、何らかの成果を上げることができたのであるが、ただしこの作業は緩慢で骨の折れるものであり、人命という観点から言って異常に負担が大きかった。時間に余裕が無いのでなければ、賢明な指揮官はほぼ確実に守備隊を飢えさせることを好んだ。
この形態の攻撃が苦労の末、時折勝ち取った成功が、防御法にいくつかの進歩をもたらすことになった。 時には濠が防柵で強化されたし、場合によっては城壁の外の適地に支城が築かれることもあった。そして最も良く用いられた強化策が、張り出し櫓(breteche)であり、また、ノルマン式要塞機構の弱点である長く伸びた外壁を側方から守るため、城壁から突出させた、巨大な塔の建設であった。張り出し櫓は、城壁の上部に沿って、1~2メートル程度張り出す形で廻らされた木製の廊下であり、床には窓が開いていた。これは城壁から外へ向けて伸ばした梁で支えられており、窓から、城壁の根本の地面を真下に見下ろしていた。これによって攻囲軍は、もはや城壁間近に近づいても、防御軍の飛び道具の射程範囲を外れることができず、その攻撃に身を曝すことになった。張り出し櫓の欠点は、木製のため、攻囲軍の投石機から射出される燃焼物によって火がついてしまうことであった。それゆえ間もなく、張り出し櫓に代えて出し狭間が使われることとなったが、これによって木製から石製の張り出し廊下に移行したのである。
さらにこれ以上に重要なのは、防御側の生み出した改良策のもう一方、すなわち塔からの側面攻撃の利用である。(11)これによって、攻囲軍が攻撃している地点に対し、側方から直接、射撃を集中することができるようになった。塔はまた城壁の占領された箇所を、要塞の残りの部分から、分断する役割も果たしていた。突破口の両側にある二枚の鉄張りの扉を閉じてしまえば、敵は占拠した城壁の一区画に隔離されることになり、塔と戦わない限り、右にも左にも通り抜けることはできなかった。このような防御技術の発達は、さらに攻撃の重要性を低下させることになった。巧く守られた拠点を屈服させるためには、兵糧攻めがおそらく唯一の手段であり、そのため要塞は攻撃されるよりも封鎖されることになった。攻囲軍は、兵舎を防壁で守り、野営地を壕で囲んで、飢餓が効果を発揮するのを待って居座り続けた。(12)陣地を要塞化することで、攻囲軍は救援軍に対して防御側の利を占めることになるだろう。これ以外には、城壁内部の建物に放火する、水の供給を断つ、夜間にはしごで登って攻略するといった方法が試みられたが、これらが十分な効果を持つことは滅多になかった。
西ヨーロッパにおける要塞化された拠点の数と規模は、この時代の多くの軍事作戦が明らかに成果を上げていないことを説明するものである。全ての地域が防衛のために、それぞれ屈服させるまでに数ヶ月の攻囲を要する城や外壁を持った町を、三、四個ずつ保有しているため、速やかな領土の征服は不可能であった。軍事作戦は、要塞を放置して略奪目的の襲撃を繰り返すか、延々と単一の要塞を封鎖するだけで終わるかであった。火薬の登場は、この三世紀間で初めての、攻撃側に有利に作用する要素であった。ただし大砲でさえ、その発明された頃およびその後の長きに渡って、実用的な意味は極めて乏しかった。メフメト2世のコンスタンティノープル攻略(1453)が、おそらく、大砲の威力が中心的な役割を果たした、 ヨーロッパ史上初の重大事件であった。
封建騎兵の絶頂期に終わりをもたらす新たな軍事力の台頭を論じる前に、十字軍なる奇怪な物語を一瞥しておいても良いだろう。その途方もなさと異常さからいって、実際に見られた以上の、成果を挙げることを、彼らは期待されていたであろう。だが馴染みのない戦術体系と戦う時、西欧の貴族達は常に狼狽を示した。ドリュラエウム(1097)の戦いのように、いくつかの戦いでは、彼らは不屈の活力によって惨敗を免れたに過ぎない。彼らは、戦術的には敗北しており、激しい格闘によって自らを救わねばならなかった。堂々たる会戦では、彼らは東洋の騎兵に対して、かつてビザンツの騎兵が享受したのと同様の、優位占めることになった。だが西欧の戦法に対して少し経験を積むと、トルコ人とアラブ人は会戦を回避するようになった。彼らは、通常、軽騎兵の大部隊で行動し、急速に動き回りながら、車両部隊を分断しあるいは分遣隊を襲撃した。12世紀にあっては、十字軍は熱望していたにもかかわらず、ほとんど会戦を行えなかった。イスラームの指導者達はあらゆる点で優位を占めた時しか戦わず、通常は決戦を回避した。東方においても。ヨーロッパと同じように、戦争はもっぱら攻城戦であった。13世紀のヨーロッパ人にとって巨大に思われた軍勢は、アクレのような二流の要塞の前に足止めを食い、彼らの攻撃ではこれを屈服させることも望めず、時間をかけて守備隊を飢えさせるしかなかった。他方で、イェルサレム王国が、アレクサンドレッタからアクレとヤッファに至る東地州海沿岸に点在する、一連の要塞群を残すのみというところまで、衰退してしまったとき、これを延命することは、守備側の持つ優位によってのみ可能であった。
東方での十字軍の経験が、ヨーロッパの戦争にもたらした進歩を挙げるとしても、重要なものは、要塞の改良を除いては何もなかった。仮にギリシアの火の仕組みを突き止めることができていたのだとしても、それが西欧でつかわれることはほとんど無かった。トルコとマムルーク朝の騎兵を模倣した騎乗弓兵は、大きな成果を挙げることができなかった。湾刀や「モリス槍」、騎兵の棍棒(13)といった、いくつかの武器は語る価値もない。概して、十字軍の軍事的影響は驚くほどに小さい。ヨーロッパ世界ではこれらの経験を教訓として活かすことも全くなかった。150年の時を経て、ニコポリスの戦い(1396)で西欧の軍隊が東洋の敵と再び対峙した時、彼らは、かつてのエル・マンスラにおける敗戦と全く同様の失敗を、犯すことになったのである。
注釈ページへ
次章
スイス人
目次へ