C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 5章一・二節
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封建騎兵の絶頂期
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第五章
スイス人
1315~1515
モルガルテンの戦いからマリニャーノの戦いまで
特性、武器、組織
低迷と無視の一千年を経て、14世紀、歩兵はついに軍事的重要性に関する正当な評価を回復することになった。ほぼ同時に二つの勢力が、歩兵軍の戦闘力によって、ヨーロッパの政治世界における勝利を獲得した。それぞれの民族的特性や地理的条件が異なったものであるのと同様、彼らの戦闘法も異なるものであったが、彼らは封建騎兵の駆逐に向けて共同作業したも同然であった。ヨーロッパの住人を長らく馬蹄で踏みつけにしてきた騎士達は、いまや戦争術に関して彼らに優る存在がいることを、思い知るに至った。イングランドの自由な農民とアルプスの自由な牧夫は、征服の日々へと乗り出そうとしていた。
戦争を最も単純な要素に還元してみると、敵軍を打ち破るための方法は二つしかないことが分かる。敵に対しては、突撃か飛び道具のどちらかを用いるしかなかった。前者において、勝者は、自らの身を敵に投じて格闘に持ち込み、人数や体格、武器の性能、さらに武器を用いる力と技量を活かして、敵を打ち負かすことになった。後者では、勝者は、敵が壊滅するか撤退するかして、自軍が兵舎をたたむことができるようになるまで、飛び道具による絶え間ない致死性の雨を降らせ続けた。歴史の経過をたどると、両者は交互に優位を占めている。中世初期には突撃戦法が完全に優勢であったが、近世の最初の一世紀で飛び道具がこれに取って代わることになった。[そして20世紀の機械化戦争において突撃戦法は再利用されることになる。]
イングランドの弓兵とスイスの槍兵は、この軍事力行使の二大典型を、最も単純で初歩的な姿で代表している。前者は、素早く正確な射撃によって、敵の攻撃を撃破することが可能であった。後者は、強固な隊列を組んで、槍の穂先を密集させた垣根を作り、耐え難いほどの衝撃と絶えることのない圧力を加えて、立ちふさがる者を、圧倒的多数の敵ですら、駆逐する能力があった。それまでヨーロッパに君臨していた鎖帷子を着た騎兵に挑んだとき、これらの戦法はともに、味方に勝利を確実にもたらす力があることを示した。その結果、中世の軍事組織の全体が重大な修正を受けることになった。騎兵の突撃という単一の形態の揺るぎない支配は終わりを迎え、騎兵と歩兵、突撃と飛び道具の相互の関連と協働の中で、様々な実験が行われ、成功や失敗を目まぐるしく繰り広げることになった。その上、火器の登場が事態を複雑にしたため、この試行錯誤は今日まで続いている。
14世紀と15世紀のスイス人は、初期共和制のローマ人に比較されることが多い。スイスにおいては、ローマにおいてと同様、過激な愛国心が、道徳観念の欠如や精神面におけるある種の卑しさおよび狭量さと結びついており、両民族を真に偉大とは言い難い存在にしている。両民族における揺るぎない勇気と高貴な自己犠牲は、おぞましい凶暴さと他人の権利に対する嫌らしい侮辱と酷薄な無視に、結びついていた。どちらの民族にあっても、輝かしい独立戦争によって生み出された、好戦的な自惚れが、ほどなく征服と略奪を引き起こした。隣人としての彼らは、その傲慢さと些細なことで攻撃的になる性格のせいで、とても耐えられない存在となっていた。(1)敵としての彼らは、狡猾で冷血な残虐さによって、際だった存在であった。皆殺しの決意は、国土防衛時の愛国者に関してはやむを得ぬものであったが、侵略戦争に際してもそれは維持され残虐性へと変わり果て、あげくには国民的な公益と無関係に金銭目当ての殺戮を行うようになった時、それは悪魔的な非人道性の絶頂へと達した。ローマ人の血に飢えた姿は嫌悪の念を引き起こすものであるが、スイス人傭兵が16世紀の幾多の戦場で見せた不必要な凶暴さも、道義的な罪という点では同等である。(2)
この二つの民族の歴史について、戦争における成功の要因以外には、いかなる点においても重大な類似を見つけることはできない。ローマとスイスはともに、優れた軍事組織と民族固有の信頼の置ける戦術体系こそが、征服を続けるための最大の基盤となるということの、実例である。これらが備わっていれば、活力ある民族は、偉大な将帥が絶え間なく現れることを必要とはしない。自動的に機能し、ほとんど失敗することなく成功への道を切り開く、偉大な戦争機構にとっては、それなりの能力を備えた凡人が指導すれば十分であった。ローマで選出された執政官と、スイス同盟で選出あるいは任命された指導者が、自軍を勝利に導くことができたのは、完全に、先祖達の経験が完成させた組織のおかげである。ローマ軍団における柔軟性と強靱な力強さの融合や、スイス軍の隊列の見せる素早い移動能力と耐え難いほどの衝撃力は、指揮を執る将帥達が並はずれた能力を発揮しなくとも、勝利をもたらすことが可能であった。
スイス同盟が使い続けた戦闘隊形は、その原型をマケドニアの密集陣に見ることができる。彼らは戦場では常に、圧倒的な縦深の密集隊形を形成した。彼らがその名声の絶頂期にあって用いた偉大な民族固有の武器は、5メートル50センチ程のトネリコ製の柄に30センチほどの長さの鉄製の穂先を付けた、槍であった。槍は二つの手を大きく広げて握り、肩の高さから切っ先を少し下げる形で、下へ向けて突きを繰り出せるように構えた。(3)戦列の前方には最前列の槍の穂先に加えて、二列目、三列目、四列目の穂先も突き出されており、密集した穂先が立ち入ることのできない垣根となっていた。密集隊形内部の兵士は、最前列で倒れた兵士に代わって前へ出るよう命じられるまで、武器を垂直に立てていた。従って槍は、持ち主の数メートル頭上にまで伸びており、突撃する密集部隊はあたかも森が動くかのようであった。密集陣の上方には無数の旗がはためいていたが、これは地域や町、同業者組合の旗(4)であり、また州の旗もあり、時には、赤地に白の十字を描いた、古代の高地ドイツの同盟の大旗も掲げられた。
ただし槍はスイス人の唯一の武器ではなかった。彼らが独立して間もない、同盟が三、四州から構成されていた時期には、ハルバートが愛用されており、16世紀においても、軍中ではかなりの割合でこの武器が使われていた。ハルバートとは、2メートル40センチ程の長さで、先端が尖った重い頭部の、前面に手斧のような刃を持ち、後部に頑丈なかぎを持つ武器で、武器としては最高に扱いにくくもあったが、最高に凶悪なものであった。アルプスの牧夫の力強い腕で振るえば、この武器は兜や盾、鎖帷子を紙のように引き裂いた。この武器が与える惨たらしい傷は、勇敢な敵さえ怯えさせるほどであり、一度その刃を食らった者は、決して二度目を受けたがらなかった。ゼンパッハ(1386)で、倒れた軍旗の向こう側にいるハプスブルク家のレオポルドを殺したのも、ナンシー(1477)でブルゴーニュ公シャルルに向けて打ち下ろされ、こめかみから口に至る顔面の全てを一撃で切り裂いたのも、ハルバートであった。(5)
ハルバート兵は、スイス同盟の戦闘隊形の中に定位置を確保していた。彼らは密集隊形の中央部の主旗の周りに配置され、主旗を護った。敵が槍兵の突撃を防ぎ止めることに成功した場合に、彼らは、通過できるよう隙間を開けた最前列を抜けて、戦闘に身を投じた。彼らは両手持ちの剣や、モーニングスター、ルツェルン・ハンマー(6)、といった近接戦闘用のあらゆる種類の凶悪な武器を持って突撃した。激昂して敵軍中に躍り込んだスイス人は、左右に切りまくって、馬の足を刈り、あるいは鎧や体を切り裂いたが、敵軍は、騎兵にせよ歩兵にせよ、この最後の一押しを持ちこたえることは、滅多になかった。
だが騎兵突撃を追い払う際には、ハルバートは長さに劣るせいで、槍よりも有効性が劣っていた。1422年のアルベドにおける惨敗において、スイス軍は、最前列に大きな割合でハルバート兵を配置していたが、ミラノの騎兵隊に打ち破られ、これがハルバートを戦闘の第二段階へと格下げする、決定的な要因となった。ハルバートは両軍の最初の激突から排除され、続いて起こる乱戦のために残されるようになった。
その堅固さに加えて、素早い動きも、スイス歩兵の恐るべき能力であった。「過剰に武装していないため、彼らは非常に迅速に行進して、戦闘隊形を取り、」(7)どんな軍隊もこれには及ばなかった。非常事態を告げられるや、スイス同盟軍は異常な速度で召集することができた。軍事的な栄光こそが人生を価値あるものにすると信じる人々が、第二の召集を待つことなく集まった。遠方から派遣される部隊は、適時に召集場所に着けるよう、昼夜を分かたず行進した。全ての男性が、親類や隣人とともに、自分たちの町や渓谷の旗の下に集まるので、軍を編成するための雑務で時間を浪費する必要もなかった。州の部隊で士官が民主的に選出され、あるいは大きな州の部隊では指揮官が議会により指名され、そこから遅滞することなく敵を求めて行進した。こうして3、4日の内に、未だ攻撃を予期していなかった侵入軍は、間近に2万人もの軍勢を見ることになる。彼らが、スイス軍が戦場にいることを知った時には、スイス軍は既に数キロメートル以内の距離に迫っているのである。
この様な軍隊を前にして、14世紀、15世紀の鈍重な軍隊がまともな作戦行動を行うことは不可能であった。戦列を組み替えようとすれば──グランソン(1476)でシャルル豪胆公が混乱に陥ったように──確実に惨敗することになった。ひとたびスイス同盟軍が動き出すと、敵軍は、そのときどんな隊形をとっていようが、戦わざるを得なかった。彼らは常に戦いを仕掛ける習慣であり、決して攻撃を受ける側に回ることはなかった。部隊の配置は戦闘当日の早朝決定され、兵士達は戦闘隊形に配置された状態で、戦場に向かった。そのため軍隊が戦闘用の戦列を組むために、休止する必要は全くなかった。軍隊は何らとまどることなく戦列を組むことができた。各密集部隊は敵に向かって、一定の素早い速度で行進し、信じがたいほど早く戦場に展開することができた。強固な軍勢が完璧な秩序と、深い静寂を保って滑らかに前進し、一斉に鬨の声を挙げて、敵前へと突撃した。そのときのスイス軍の速度は、驚くべきものであった。槍とハルバートの巨大な森が、連丘の上を越えて転がって、一瞬の後には敵前への平坦な道を突き進み、その後──たいていは敵がその立場を悟らぬうちに──四列分の突き出た槍先と、後方から押し寄せる縦列の圧力とともに、襲いかかった。
スイス軍の速力は──マキャヴェリが観察したように──重装甲を身につけさせないという同盟の決定の結果であった。重装甲の排除は、元は単なる貧困のせいであったが、重装甲が彼らの国民的な戦法に重しとなって効果を阻害すると分かってからは、正式に確定された。そのため槍兵とハルバート兵の通常の装備は軽量で、鉄帽と胸甲のみであった。それどころか、これらの装備も完全には普及していなかった。スイス軍の大部分は、身体の防護を武器に委ねて、フェルトの帽子と革の上着を着用するのみであった。(8)背甲や腕甲やすね当ては全く普及していなかった。実際、そういった装備を着用した者の数は、彼らの担当部位である部隊前面の一横列を作るにも不十分であった。指揮官達に限っては完全武装することが定められており、それゆえ彼らは軽装の部下達について行くため、行進中騎乗する必要があった。敵を視界に収めるに至ると、彼らは下馬して徒歩で部隊の突撃を指揮した。15世紀には、ベルンから来た少数の貴族や騎士の家の者が、騎兵として働くのを見ることができるが、その兵力は完全に、あるいは、ほとんど無意味な程度であった。(9)
スイス同盟の強さと誇りは槍兵とハルバート兵の上にあったが、軽装兵は決して軽視されていなかった。場合によっては軽装兵が全軍の4分の1を占めたことが知られており、総兵力の10分の1を下回ることは決してなかった。(10)軽装兵は、初めは、伝説のテルの武器である弩で武装していたが、彼らの間ではブルゴーニュ戦争の前ですら当時の初歩的な火器の使用が広まっていた。主力に先行して敵の砲兵と軽装兵の注意を引きつけ、後続の部隊が攪乱されることなく前進できるようにするのが、彼らの任務であった。すなわち15世紀のスイス軍にあっては、散兵線の正しい使用法が理解されていたのである。槍兵が追いついてくると、彼らは密集部隊の間を通って退避し、武装の点で不向きな突撃には全く参加しなかった。
スイス同盟軍の強さの重要な源泉の一つが構成要素の単純さにあることは、一見して明らかである。スイスの指揮官達は、他国の指揮官達に多くの不幸をもたらした、諸部門の相互関係や上下関係といった問題に悩むことはなかった。騎兵も砲兵も存在しないも同然であった。中世の軍隊の質は低く、規模が増しても能率が上がらないことがしばしばだが、このような軍隊を使わざるを得ないせいで、作戦が阻害されるということもなかった。スイス軍は、どれだけ急いで召集しても、均質で強固に結束していた。そこには使用に特別の用心が求められる、未熟なあるいは不忠な余計な部隊は存在しなかった。戦争に参加する民族の大多数が、相当の実戦経験を積んでいた。地域間の対立が戦場でまで生じていたとしても、それは対立する部隊を、健全な武勇の競い合いへと駆り立てただけであった。州の間でどれだけ激しく言い争ったとしても、敵の攻撃に対しては彼らは常に団結した。(11)
戦術と戦略
スイス同盟軍の性質と組織は、偉大な指揮官を生むのには、全く適していなかった。兵士は、指揮官の技量よりも、自身と同僚の戦闘力を信頼し、そこに勝利の望みを託していた。幾多の戦場で圧倒的に多勢の敵の打破に成功した軍隊は、指揮官の個性には、かなり無関心であった。もし彼が有能であれば、軍はその計画を成功させただろう。そして有能でなくても、軍は、非常に激しく戦うことで、積極的に彼の欠点を補っただろう。またスイス人の持つ信念がさらに重大な影響力を持った。彼らは州の軍隊を他州の人間の指揮下に置くことに対して、概して、嫌悪感を持っていた。この感情が非常に強いため、珍しい事態が生じている。総司令官の任命が、スイス史の栄光に満ちた期間を通じて、規則ではなく特例であり続けたのである。ゼンパッハの時も、古チューリヒ戦争においても、ブルゴーニュとの偉大な戦いにおいても、オーストリアのマクシミリアンに対するシュヴァーベン戦争においても、単一の指揮官が卓越した権威を与えられたことはない。(12)問題の処理は戦争会議の手に握られていたが、この会議は、団体に関する古い格言に反して、常に戦いの備えと意志を持っていた。それは各州の部隊の隊長たちで構成され、議題となった問題につき単純な多数決で解答を示した。戦闘の前に、会議は、前衛、後衛、主力、そして軽装兵部隊の指揮権をそれぞれ異なる士官に与えたが、それらの地位の保持者は、危機が止めば終了してしまう、委任に基づく権威を手にしたのみであった。
この奇妙な権力分散の存在は、初期のビザンツ帝国に高い類似性を見出すことができるが、スイス人の戦争に見られる、戦略的能力および単一目標の欠如につき、十分な説明となるものである。複数の競合者の作戦を折衷して妥協することは、通常は、利点をつなぎ合わせるよりも、欠点をつなぎ合わせることになった。ただし、これに加えて、スイス人士官の内に、一貫した作戦計画を遂行する能力を有する者を見出すことが、ほとんどできないということもある。隊長は、過去の戦場で名声を確立した古参兵であり、熟練していることを除けば、指揮下の兵士と異なるところはなかった。複雑な戦略的な連携行動を考案する点では、スイスの戦争会議は今日における古参の特務曹長以上の能力を有しなかった。
もっとも戦術に関しては、状況が異なる。現場の状況や敵軍の質や装備に応じて、最も有効な密集突撃を行う方法については、経験によって学習することができた。優れた戦術組織が発展し、十五世紀の諸戦闘で何度もその有効性を示すことになった。スイス軍の戦法は、中世の騎士と歩兵に対処するために編み出されたものであり、その点でこれに匹敵するものは無かった。これが廃れていくのは、ようやく新たな時代において異なる条件が戦争に持ち込まれてからであった。
スイス同盟軍の用いた戦闘隊形は、軍勢がどれだけ小規模あるいは大規模であっても、三集団が順次後続する梯形編成で進軍するというものであった。(13)第一集団(vorhut)は、軍の前進中に前衛となり、敵戦列の所定の地点を襲撃した。第二集団(gewaltshaufen)は、第一集団の真後ろではなく、右か左に少しずれて後続した。第三集団(nachhut)はさらに後方を進み、予備として動けるよう、しばしば最初の攻撃が効果を発揮するまで停止した。この編成はそれぞれの集団の後ろに間隙を残しており、押し返された場合に、後続の部隊を混乱に陥れることなく、後退することができた。前後の部隊を接近して配置する習慣であった他の国家(例えばアジャンクールの戦いにおけるフランス)では、しばしば戦術的な失策の対価を支払う羽目に陥っており、各隊が後衛へと混乱しながら突っ込むことで、第一戦列の敗退が全軍の壊走を引き起こすことになっていた。この他、スイス軍の攻撃隊形は、敵軍が最前方の部隊の側面へと回り込むことを防げるという点で、強力な利点を有していた。もし敵軍がそのようなことをすれば、すなわち後続の第二部隊の突撃へと自らの側面をさらすことになった。
梯形編成による進軍は、スイス同盟軍の用いた、唯一の編成ではなかった。ラウペン(1339)においては、中央隊あるいはgewaltshaufenは前方へ進んで、両翼が交戦する前に、戦闘を開始した。これに対し、1499年のフラシュテンツでは、中央が阻止されたので、両翼が突撃を開始し、ようやく敵を撃破するに至った。
時には、三集団からなる伝統的な編成を放棄して、他の隊形を取ることさえあった。ゼンパッハ(1386)では、森林諸州の軍勢は単一のくさび形隊形(Keil)を構成した。この隊形は、その名称から想起されるような三角形ではなく、正面に対する縦深の比率が通常よりも高い、単なる方陣であった。その目的は、尋常でなく堅固な敵戦列を破るため、敵戦列中央部に打撃を集中することであった。1468年には、ヴァルトシュートの攻囲に先立つ戦闘において、スイス同盟軍全体が、オーストリア騎兵に対処するため、巨大な中空の方陣を組んで内部に軍旗と護衛のハルバート兵を置き、移動した。この隊形が攻撃を受けた際には、騎兵の突撃を迎え撃つため、兵士は外側へと向き直った。これを「ハリネズミ隊形を組む」(14)と言った。この隊形は堅固であったので、非常に少ない兵力でも、極めて精力的な敵に対処することができた。1498年のシュヴァーベン戦争において、チューリヒの600人の部隊が、1,000人の帝国軍騎兵に平原で捕捉されたが、「ハリネズミ隊形を組み、容易く、大いにふざけながら、敵軍を撃退した。」(15)マキャヴェリは「敵の最初の攻撃から保護するため、マスケット銃兵を諸支隊の中間に置いた」(16)と、この他のスイス軍の隊形について語っており、これを十字と呼んでいる。ただ彼の記述は明確とは言えず、さらに記録に残る戦いにおいて、この種の陣形の存在した証拠を見つけることは全くできない。
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