2011年 02月 01日
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 5章三節前半
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注釈は別ページへ
第五章
スイス人
1315~1515
モルガルテンの戦いからマリニャーノの戦いまで
スイス人の軍事的優位の確立
スイス同盟の最初の勝利は、後に彼らを有名にする戦法ではなく、賢明な戦場選びによって勝ち取られた。モルガルテン(1315)は、封建騎兵の山岳地帯における一般的な無能さについての、悲惨な実例となった。11月の霜降る日にオーストリア公レオポルトは、足下の道が氷のようになった中、長く幅の狭い縦隊を、隘路を通してシュヴィーツの渓谷へと押し込んだ。開戦の栄誉を求めた騎士達が前方を進んでおり、後方では4、5千の歩兵がひしめいていた。左側の切り立った斜面と右側のエゲリ湖の間を通る、モルガルテンの隘路において、1,500人の同盟軍はオーストリア軍を待ち受けた。激しい思い上がりと不注意のために、公爵は進路を探るという当然の用心を怠っていた。彼が敵が近辺にいることを知った時、左側方の斜面上、騎兵の接近不能な位置から、スイス兵の一団が巨石と丸太を雨霰と降り注いだ。そして、その直後、縦隊の先頭部は山岳民の主力部隊の突撃を受けることになった。
オーストリア軍が戦闘が開始したと悟る前に、スイス軍のハルバートとモーニングスターは、オーストリア軍の前部に大損害を与えた。騎士の最前部は、敵襲の衝撃によって窮屈に押し込まれたため、槍を構えることもできず、馬を突撃に駆り立てるどころではない状態で、戦って死んだ。中央部と後部は停止せざるを得なくなったが、道の狭さのせいで前に押し出ることもできず、背後で道をふさぐ歩兵のせいで後退することもできなかった。巨石と丸太は斜面から降り続け、しばらくの間、彼らは持ちこたえていたが、 混雑した隊列は引き裂かれ、人馬は下方の湖面へと追い落とされた。さらに、同時に、軍の大部分が手綱を返して後方へと衝撃を加えた。圧迫される中で、数百人が道路の端を越え出てしまい、左側の深い水中で溺死した。大多数は、自軍の歩兵の中に突っ込んで、不幸な従者達を踏みつけにし、可能な限りの速さで滑る小道を逃走していった。
スイス軍は、なお戦い続けていたわずかな騎士を殺し尽くすと、後衛の恐慌に陥った群衆へと攻めかかり、騎兵と歩兵を、いずれからも抵抗を受けることなく切り倒していった。
同時代の年代記作家であるヴィンタトゥーアのヨハンは、宣言する:
それは戦闘というより、レオポルト公軍を虐殺したに過ぎなかった。山岳民は彼らを屠殺場の羊のように殺した。慈悲を与えられた者はおらず、殺戮対象が消え去るまで、全ての者を無差別に切り伏せた。同盟軍が余りに獰猛であったため、オーストリア軍の歩兵は、勇敢な騎士達が無惨に倒されるのを見ると、敵の恐ろしい武器の前よりは湖水の深みに沈むことを選んで、恐慌の中で湖へと身を投げた。(17)
要するに、スイス人は、本能的な戦術的才能を発揮して、封建騎兵に優位に立って攻撃する機会を与えることなく、自由を勝ち取ったのである。「彼らの敵ではなく、彼らが戦うべき場所を決定した以上、彼らこそ戦場の支配者であった。」突撃の勢いを発揮できない上、狭くて優越する兵力を活用できない、険しく滑る道では、オーストリア軍は無力であった。しかし敗戦が壊滅的なものに陥ったのは、進路を探索せずに放置し、隘路で致命的な罠にかかって奇襲されるという、レオポルトの弁解の余地のない不注意のせいであった。
モルガルテンはスイスの軍事組織の初期の状態を示している。スイス同盟の全ての勝利と同様、密集部隊の突撃で勝利を収めてはいるものの、これは槍ではなく、ハルバートの働きによるものであった。三州の山岳民の間では、槍はまだ一般的に使用されてはいなかった。実は、低地アルプスやアール渓谷のスイス人、ベルン人、チューリヒとルツェルンの住民程には、彼らに槍が採用されることは以後もなかった。ハルバートは強力ではあったが、使用者に絶対的な優位をもたらすような武器ではなかった。モルガルテンで勝利をもたらしたのは、スイス人の武器や戦法ではなく、その位置であった。だが第二の偉大な成功は、ずっと高度な軍事的重要性を持つことになる。
ラウペン(1339)では、ローマ時代以降で一応初めて、歩兵が、騎兵に全く補助されることなく、平原に開けた戦場に隊列を組んで、完全武装し兵力で勝る軍隊に対して、持ちこたえることができたことになる。(18)レオポルトの敗北の24年後に、スイス同盟軍および新規に連合したベルンの友軍が、アールおよびローヌの渓谷のブルゴーニュ貴族軍と対峙することになったが、これはアルザスからレマン湖までの全封建領主によって召集されていた。貴族軍の指揮官を務めたヴァランジン伯ジェラールは、明らかに敵の一翼を迂回して粉砕し、戦いに決着をつけようと意図していた。この様な意図の元、彼は全騎兵を隊列の右翼に置き、中央と左翼を歩兵のみで構成していた。スイス軍は、以後、彼らの基本的な戦闘隊形となる、三つの密集部隊を形成した。彼らはルドルフ・フォン・エルラッハという単一の指揮官を有しており、この隊形を最初に用いた名誉は明らかに彼に帰するものであった。主に槍で武装していたベルン人は、中央隊を形成した。両翼は後方に布陣したが、左翼は未だハルバートを主要武器とする原初三州の兵士によって構成され、 右翼は別のベルン人部隊によって構成されていた。
[エルラッハは、貴族軍がスイス人の布陣した斜面に登り始めるのを待った。そして敵軍が十分に専念したところで、彼は三部隊を放ち、戦いの行方を、敵を打ち破る能力に賭けることにした。貴族軍の歩兵は、スイス同盟軍に敵し得ないことが明らかになった。絶え間ない圧迫でベルン人部隊はこれを後ろへ押し込んで、前方の隊列を踏み破り、後方の隊列を戦場外へと駆逐した。]そして直後、ブルゴーニュ軍の左翼も、スイス軍右翼の前に、同じ運命を辿ることになった。その後、勝ち誇る二部隊は、追撃に時を費やすことなく、森林諸州の部隊の方へと向きを変えた。荒れ狂う騎兵の大群に全方向を取り囲まれて、左翼部隊は圧倒されていた。ハルバートは、凄惨な傷を与えることはできるけれども、時に騎兵の接近を阻止し損ねるものである。だが、山岳民達は、絶え間のない突撃を岩のように堪え忍んでおり、敵歩兵が戦場から駆逐されるまでの最重要の期間を、持ちこたえることに成功した。こうして、勝ち誇った二部隊が貴族軍騎兵の左方と後方に攻めかかり、彼らの絶え間ない突撃に対抗することになった。森林諸州の部隊を打ち破ろうとするうちに、敵は明らかに消耗しており、ベルン兵を踏み破ろうという無益な試みを一回行った後は、彼らは向きを変えて戦場を離脱、その際、後衛が捕捉されてゼンゼ川に追い落とされ、相当の損害を生じた。
ラウペンの戦いはモルガルテンほど凄惨でも劇的でもないが、戦争史の新時代の幕開けを示す三大戦闘の一つである。はるか西ではバノックバーンで既に同種の事態が生じていたが、大陸においてはラウペンの戦いが初めて優れた歩兵の力を証明したのである。この少し前に、カッセル(1328)やモン・ザン・ペヴェール(1304)で行われた実験の不完全な成功は、全く異なった成果によって塗り替えられることになった。スイス人は、フランドル人が未熟で不十分なやり方ながら成し遂げていた功業を、完成させることになった。さらに七年後には、クレーシーで弓兵が騎士に挑戦し、より強力な試練が封建騎士に与えられることになった。鎖帷子を着た騎兵は、槍兵の密集部隊を破れず、強力な矢を浴びせてくる戦列には接近できなかったが、騎乗兵士に戦争における最高の栄誉を与えた古き伝統はなお根強く、次の世紀にも騎兵は、盛りを過ぎながらも、生き残っていくことになった。中世の生活や思想と密接に結びついていた戦争組織は、一度どころか二十の大敗北をもってしても、破壊できなかったのである。
ゼンパッハ(1386)は、スイス同盟が勝ち取った第三の勝利で、有名なアルベドの戦いと合わせて特別な関心の対象となっている。どちらも同様の恐るべき攻撃法を採用して、スイスの密集部隊を打ち破ろうという試みであった。レオポルト高慢公が、ラウペンで示された騎兵の無力さを、心にとどめていたのは疑いなく、30年前にイングランド王エドワードが大戦果を挙げた戦法と同様に、彼は騎士を下馬させた。彼はおそらく祖先のアルベルト帝が、1298年にハーゼンビュールで戦った際に採用した、同種の隊形を憶えていたのであろう。
[ゼンパッハは、両軍が配置に付く前に、衝突に至った戦いであった。ここで主導権を握ったのはレオポルト公であった。彼は、1,500人以下の騎士からなる軍を率いて、三集団に分かれる中世の通常の編成で、行進していた。彼は、ゼンパッハ付近のヒルデスリーデンの小村まで進んだところで、彼と戦うため全速力で行進するスイス軍に突入した。明らかにスイス軍主力が救援可能な距離にはいなかったため、ルツェルン人で構成された前衛部隊はヒルデスリーデンの前で、習慣に反する形で、行進を止めることになった。レオポルトはスイス軍を発見した時、明らかに敵の用いる戦術理論を採用して、彼の「前衛のbattle」を下馬させて、彼の重装甲の騎士の巨大な重量を決定的な利点として活用した。第二、第三の部隊は、スイス軍が逃走を始めた時に、決定的な突撃を繰り出せるよう、乗馬した状態を保っていた。激突すると、ルツェルン人はほとんど圧倒され、敗走を始めた。オーストリア軍は勝利を確実にしたように見えたが、そこにスイス軍主力が戦場に姿を現した。公の前衛部隊は精力的に戦い鎧の重さを活かして、今や勝利しようとしていたが、そこへ、ウーリの兵団に率いられた新着の部隊が、疲弊したルツェルン人を側面から退避させつつ、襲いかかった。これによって戦いの形勢は逆転したが、自軍が窮地に陥り、ほぼ確実だった勝利が奪われつつあるのを見たレオポルト公は、ただちに第二の「battle」を下馬させ、前方へ投入した。しかしこの部隊はかなり無秩序な状態で前進したため、これが最前方に到達する前にスイス人は「前衛のbattle」を突き破って、ここに圧迫を加えてきた。敗戦を見て取った公軍の後衛は、レオポルトと、包囲され残余兵力から遮断された騎士達を見捨て、反転して戦場を離脱した。ラウペンにおいてスイス人は、平原で馬上の騎士を打ち破れることを示したが、ゼンパッハでは下馬した騎士も打ち負かせることを証明することになった。](19)
優れた指揮官が、レオポルトと同様の戦術的工夫を採用するとどうなるかは、37年後の1422年6月30日に、アルベドの戦場で示されることになった。この戦いではミラノの指揮官カルマニョーラ──この時スイス同盟軍と初めて戦った ──が騎兵突撃で戦闘を開始した。これが完全に失敗したのを見て取ると、この熟練の傭兵隊長はただちに他の攻撃方法に訴えた。彼は6,000の騎士(20)全部を下馬させると、スイス軍の密集部隊へ向けて一団にして差し向けた。敵は、ウーリ、ウンターヴァルデン、ツーク、ルツェルンから来た4,000の軍であったが、主にハルバート兵であって、槍兵や弩は全兵力の三分の一に過ぎなかった。両軍は、一方が馬上槍と剣を、他方が槍とハルバートを持って激突し、正面決戦を繰り広げた。大兵力の威力が小兵力のそれを圧倒し、敵の必死の抵抗にもかかわらず、ミラノ軍は勝利を収めつつあった。スイス同盟軍は今や激しく圧迫されてルツェルンのSchultheiss(評議会議長)は降伏さえ考え、その証として自分のハルバートを地面に立てた。しかしながらカルマニョーラは戦いに興奮しており、慈悲を与えたことの無い連中に慈悲を受ける資格はないと叫んで、前進を続けた。彼はまさに勝利を収めようとしていたが(21)、ここで彼の後方にスイスの別軍が姿を現した。これを、そう遠くない位置にいることが分かっていた、チューリヒ、シュヴィーツ、グラールス、アッペンツェルの軍勢であると信じたカルマニョーラは軍を後退させて、再編成を始めた。実際にはこの新着部隊は600人の徴発部隊に過ぎなかった。彼らが攻撃することはなく、この間にスイス側の主力は、圧力を免れて、整然と後退する好機を得た。彼らは自己申告では400人を失い、イタリアの記述が信用できるならば、さらに多くが失われた。カルマニョーラ軍の損失は、数字の上ではこれより大きいが、全兵力に占める割合はそれほどではなく、しかも実際には主に戦闘開始時の、騎兵突撃の失敗から生じたものであった。
ゼンパッハとアルベドの結果から、自ずと、下馬した騎士の使用は、他の兵科の使用と組み合わせて適切に行えば、勝利をもたらすと結論することができよう。だが、この工夫が、以後スイス軍の敵によって繰り返されることはなかった。この戦いの唯一の帰結と言うことができるものは、ルツェルン評議会の布告であって、そこでは「同盟軍にとって事態は全くうまく行かなかったので」、以後は軍の大部分に、ハルバートと違って、馬上槍に対して有利に闘うことができる、槍を装備させるべきであるとした(22)。
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第五章
スイス人
1315~1515
モルガルテンの戦いからマリニャーノの戦いまで
スイス人の軍事的優位の確立
スイス同盟の最初の勝利は、後に彼らを有名にする戦法ではなく、賢明な戦場選びによって勝ち取られた。モルガルテン(1315)は、封建騎兵の山岳地帯における一般的な無能さについての、悲惨な実例となった。11月の霜降る日にオーストリア公レオポルトは、足下の道が氷のようになった中、長く幅の狭い縦隊を、隘路を通してシュヴィーツの渓谷へと押し込んだ。開戦の栄誉を求めた騎士達が前方を進んでおり、後方では4、5千の歩兵がひしめいていた。左側の切り立った斜面と右側のエゲリ湖の間を通る、モルガルテンの隘路において、1,500人の同盟軍はオーストリア軍を待ち受けた。激しい思い上がりと不注意のために、公爵は進路を探るという当然の用心を怠っていた。彼が敵が近辺にいることを知った時、左側方の斜面上、騎兵の接近不能な位置から、スイス兵の一団が巨石と丸太を雨霰と降り注いだ。そして、その直後、縦隊の先頭部は山岳民の主力部隊の突撃を受けることになった。
オーストリア軍が戦闘が開始したと悟る前に、スイス軍のハルバートとモーニングスターは、オーストリア軍の前部に大損害を与えた。騎士の最前部は、敵襲の衝撃によって窮屈に押し込まれたため、槍を構えることもできず、馬を突撃に駆り立てるどころではない状態で、戦って死んだ。中央部と後部は停止せざるを得なくなったが、道の狭さのせいで前に押し出ることもできず、背後で道をふさぐ歩兵のせいで後退することもできなかった。巨石と丸太は斜面から降り続け、しばらくの間、彼らは持ちこたえていたが、 混雑した隊列は引き裂かれ、人馬は下方の湖面へと追い落とされた。さらに、同時に、軍の大部分が手綱を返して後方へと衝撃を加えた。圧迫される中で、数百人が道路の端を越え出てしまい、左側の深い水中で溺死した。大多数は、自軍の歩兵の中に突っ込んで、不幸な従者達を踏みつけにし、可能な限りの速さで滑る小道を逃走していった。
スイス軍は、なお戦い続けていたわずかな騎士を殺し尽くすと、後衛の恐慌に陥った群衆へと攻めかかり、騎兵と歩兵を、いずれからも抵抗を受けることなく切り倒していった。
同時代の年代記作家であるヴィンタトゥーアのヨハンは、宣言する:
それは戦闘というより、レオポルト公軍を虐殺したに過ぎなかった。山岳民は彼らを屠殺場の羊のように殺した。慈悲を与えられた者はおらず、殺戮対象が消え去るまで、全ての者を無差別に切り伏せた。同盟軍が余りに獰猛であったため、オーストリア軍の歩兵は、勇敢な騎士達が無惨に倒されるのを見ると、敵の恐ろしい武器の前よりは湖水の深みに沈むことを選んで、恐慌の中で湖へと身を投げた。(17)
要するに、スイス人は、本能的な戦術的才能を発揮して、封建騎兵に優位に立って攻撃する機会を与えることなく、自由を勝ち取ったのである。「彼らの敵ではなく、彼らが戦うべき場所を決定した以上、彼らこそ戦場の支配者であった。」突撃の勢いを発揮できない上、狭くて優越する兵力を活用できない、険しく滑る道では、オーストリア軍は無力であった。しかし敗戦が壊滅的なものに陥ったのは、進路を探索せずに放置し、隘路で致命的な罠にかかって奇襲されるという、レオポルトの弁解の余地のない不注意のせいであった。
モルガルテンはスイスの軍事組織の初期の状態を示している。スイス同盟の全ての勝利と同様、密集部隊の突撃で勝利を収めてはいるものの、これは槍ではなく、ハルバートの働きによるものであった。三州の山岳民の間では、槍はまだ一般的に使用されてはいなかった。実は、低地アルプスやアール渓谷のスイス人、ベルン人、チューリヒとルツェルンの住民程には、彼らに槍が採用されることは以後もなかった。ハルバートは強力ではあったが、使用者に絶対的な優位をもたらすような武器ではなかった。モルガルテンで勝利をもたらしたのは、スイス人の武器や戦法ではなく、その位置であった。だが第二の偉大な成功は、ずっと高度な軍事的重要性を持つことになる。
ラウペン(1339)では、ローマ時代以降で一応初めて、歩兵が、騎兵に全く補助されることなく、平原に開けた戦場に隊列を組んで、完全武装し兵力で勝る軍隊に対して、持ちこたえることができたことになる。(18)レオポルトの敗北の24年後に、スイス同盟軍および新規に連合したベルンの友軍が、アールおよびローヌの渓谷のブルゴーニュ貴族軍と対峙することになったが、これはアルザスからレマン湖までの全封建領主によって召集されていた。貴族軍の指揮官を務めたヴァランジン伯ジェラールは、明らかに敵の一翼を迂回して粉砕し、戦いに決着をつけようと意図していた。この様な意図の元、彼は全騎兵を隊列の右翼に置き、中央と左翼を歩兵のみで構成していた。スイス軍は、以後、彼らの基本的な戦闘隊形となる、三つの密集部隊を形成した。彼らはルドルフ・フォン・エルラッハという単一の指揮官を有しており、この隊形を最初に用いた名誉は明らかに彼に帰するものであった。主に槍で武装していたベルン人は、中央隊を形成した。両翼は後方に布陣したが、左翼は未だハルバートを主要武器とする原初三州の兵士によって構成され、 右翼は別のベルン人部隊によって構成されていた。
[エルラッハは、貴族軍がスイス人の布陣した斜面に登り始めるのを待った。そして敵軍が十分に専念したところで、彼は三部隊を放ち、戦いの行方を、敵を打ち破る能力に賭けることにした。貴族軍の歩兵は、スイス同盟軍に敵し得ないことが明らかになった。絶え間ない圧迫でベルン人部隊はこれを後ろへ押し込んで、前方の隊列を踏み破り、後方の隊列を戦場外へと駆逐した。]そして直後、ブルゴーニュ軍の左翼も、スイス軍右翼の前に、同じ運命を辿ることになった。その後、勝ち誇る二部隊は、追撃に時を費やすことなく、森林諸州の部隊の方へと向きを変えた。荒れ狂う騎兵の大群に全方向を取り囲まれて、左翼部隊は圧倒されていた。ハルバートは、凄惨な傷を与えることはできるけれども、時に騎兵の接近を阻止し損ねるものである。だが、山岳民達は、絶え間のない突撃を岩のように堪え忍んでおり、敵歩兵が戦場から駆逐されるまでの最重要の期間を、持ちこたえることに成功した。こうして、勝ち誇った二部隊が貴族軍騎兵の左方と後方に攻めかかり、彼らの絶え間ない突撃に対抗することになった。森林諸州の部隊を打ち破ろうとするうちに、敵は明らかに消耗しており、ベルン兵を踏み破ろうという無益な試みを一回行った後は、彼らは向きを変えて戦場を離脱、その際、後衛が捕捉されてゼンゼ川に追い落とされ、相当の損害を生じた。
ラウペンの戦いはモルガルテンほど凄惨でも劇的でもないが、戦争史の新時代の幕開けを示す三大戦闘の一つである。はるか西ではバノックバーンで既に同種の事態が生じていたが、大陸においてはラウペンの戦いが初めて優れた歩兵の力を証明したのである。この少し前に、カッセル(1328)やモン・ザン・ペヴェール(1304)で行われた実験の不完全な成功は、全く異なった成果によって塗り替えられることになった。スイス人は、フランドル人が未熟で不十分なやり方ながら成し遂げていた功業を、完成させることになった。さらに七年後には、クレーシーで弓兵が騎士に挑戦し、より強力な試練が封建騎士に与えられることになった。鎖帷子を着た騎兵は、槍兵の密集部隊を破れず、強力な矢を浴びせてくる戦列には接近できなかったが、騎乗兵士に戦争における最高の栄誉を与えた古き伝統はなお根強く、次の世紀にも騎兵は、盛りを過ぎながらも、生き残っていくことになった。中世の生活や思想と密接に結びついていた戦争組織は、一度どころか二十の大敗北をもってしても、破壊できなかったのである。
ゼンパッハ(1386)は、スイス同盟が勝ち取った第三の勝利で、有名なアルベドの戦いと合わせて特別な関心の対象となっている。どちらも同様の恐るべき攻撃法を採用して、スイスの密集部隊を打ち破ろうという試みであった。レオポルト高慢公が、ラウペンで示された騎兵の無力さを、心にとどめていたのは疑いなく、30年前にイングランド王エドワードが大戦果を挙げた戦法と同様に、彼は騎士を下馬させた。彼はおそらく祖先のアルベルト帝が、1298年にハーゼンビュールで戦った際に採用した、同種の隊形を憶えていたのであろう。
[ゼンパッハは、両軍が配置に付く前に、衝突に至った戦いであった。ここで主導権を握ったのはレオポルト公であった。彼は、1,500人以下の騎士からなる軍を率いて、三集団に分かれる中世の通常の編成で、行進していた。彼は、ゼンパッハ付近のヒルデスリーデンの小村まで進んだところで、彼と戦うため全速力で行進するスイス軍に突入した。明らかにスイス軍主力が救援可能な距離にはいなかったため、ルツェルン人で構成された前衛部隊はヒルデスリーデンの前で、習慣に反する形で、行進を止めることになった。レオポルトはスイス軍を発見した時、明らかに敵の用いる戦術理論を採用して、彼の「前衛のbattle」を下馬させて、彼の重装甲の騎士の巨大な重量を決定的な利点として活用した。第二、第三の部隊は、スイス軍が逃走を始めた時に、決定的な突撃を繰り出せるよう、乗馬した状態を保っていた。激突すると、ルツェルン人はほとんど圧倒され、敗走を始めた。オーストリア軍は勝利を確実にしたように見えたが、そこにスイス軍主力が戦場に姿を現した。公の前衛部隊は精力的に戦い鎧の重さを活かして、今や勝利しようとしていたが、そこへ、ウーリの兵団に率いられた新着の部隊が、疲弊したルツェルン人を側面から退避させつつ、襲いかかった。これによって戦いの形勢は逆転したが、自軍が窮地に陥り、ほぼ確実だった勝利が奪われつつあるのを見たレオポルト公は、ただちに第二の「battle」を下馬させ、前方へ投入した。しかしこの部隊はかなり無秩序な状態で前進したため、これが最前方に到達する前にスイス人は「前衛のbattle」を突き破って、ここに圧迫を加えてきた。敗戦を見て取った公軍の後衛は、レオポルトと、包囲され残余兵力から遮断された騎士達を見捨て、反転して戦場を離脱した。ラウペンにおいてスイス人は、平原で馬上の騎士を打ち破れることを示したが、ゼンパッハでは下馬した騎士も打ち負かせることを証明することになった。](19)
優れた指揮官が、レオポルトと同様の戦術的工夫を採用するとどうなるかは、37年後の1422年6月30日に、アルベドの戦場で示されることになった。この戦いではミラノの指揮官カルマニョーラ──この時スイス同盟軍と初めて戦った ──が騎兵突撃で戦闘を開始した。これが完全に失敗したのを見て取ると、この熟練の傭兵隊長はただちに他の攻撃方法に訴えた。彼は6,000の騎士(20)全部を下馬させると、スイス軍の密集部隊へ向けて一団にして差し向けた。敵は、ウーリ、ウンターヴァルデン、ツーク、ルツェルンから来た4,000の軍であったが、主にハルバート兵であって、槍兵や弩は全兵力の三分の一に過ぎなかった。両軍は、一方が馬上槍と剣を、他方が槍とハルバートを持って激突し、正面決戦を繰り広げた。大兵力の威力が小兵力のそれを圧倒し、敵の必死の抵抗にもかかわらず、ミラノ軍は勝利を収めつつあった。スイス同盟軍は今や激しく圧迫されてルツェルンのSchultheiss(評議会議長)は降伏さえ考え、その証として自分のハルバートを地面に立てた。しかしながらカルマニョーラは戦いに興奮しており、慈悲を与えたことの無い連中に慈悲を受ける資格はないと叫んで、前進を続けた。彼はまさに勝利を収めようとしていたが(21)、ここで彼の後方にスイスの別軍が姿を現した。これを、そう遠くない位置にいることが分かっていた、チューリヒ、シュヴィーツ、グラールス、アッペンツェルの軍勢であると信じたカルマニョーラは軍を後退させて、再編成を始めた。実際にはこの新着部隊は600人の徴発部隊に過ぎなかった。彼らが攻撃することはなく、この間にスイス側の主力は、圧力を免れて、整然と後退する好機を得た。彼らは自己申告では400人を失い、イタリアの記述が信用できるならば、さらに多くが失われた。カルマニョーラ軍の損失は、数字の上ではこれより大きいが、全兵力に占める割合はそれほどではなく、しかも実際には主に戦闘開始時の、騎兵突撃の失敗から生じたものであった。
ゼンパッハとアルベドの結果から、自ずと、下馬した騎士の使用は、他の兵科の使用と組み合わせて適切に行えば、勝利をもたらすと結論することができよう。だが、この工夫が、以後スイス軍の敵によって繰り返されることはなかった。この戦いの唯一の帰結と言うことができるものは、ルツェルン評議会の布告であって、そこでは「同盟軍にとって事態は全くうまく行かなかったので」、以後は軍の大部分に、ハルバートと違って、馬上槍に対して有利に闘うことができる、槍を装備させるべきであるとした(22)。
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by trushbasket
| 2011-02-01 02:10
| My(山田昌弘)








