2011年 02月 01日
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 5章三節後半
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第五章
スイス人
1315~1515
モルガルテンの戦いからマリニャーノの戦いまで
最後に論じた二つの戦いを除けば、スイス人はその歴史の最初の150年において、幸運なことに、彼らの密集戦法に対抗できる、戦争術の達人にも新たな形態の戦法にも、出会うことが無かったと言うことができる。彼らが対処しなければならない相手は、依然として、中世的な鎖帷子を着た騎兵か雑多で無規律な歩兵部隊であった。彼らの戦法はこういった軍勢に勝利するよう設計されており、その敵に対して優位を保ち続けていた。アンジュラン・ド・クーシーの傭兵隊、シュヴァーベンの市民と貴族、ハプスブルク家のフリードリヒやレオポルト、ジギスムントが率いた騎士軍、これらは全て新たな戦法の開拓者たり得ず、順次、スイス同盟の軍事的能力の優越を、ますます明らかにする役割を担うことになったのである。
スイスに向けられた最も危険な攻撃であった、1444年における、王太子ルイのアルマニャック傭兵による侵入でさえ、スイス軍の軍事的名声を高める結果に終わった。ビルス川沿いザンクト・ヤーコプ(1444)の戦いは、気違いじみた不必要なものであったが、最も勇敢な敵に、後退より全滅を選ぶ人種への干渉を、思いとどまらせる効果があった。スイス同盟軍は、自分たちの密集部隊はいかなる障害をも圧倒できるとの信念にとりつかれて、1,000人に満たない兵力でありながら、15倍もの軍勢と戦うため、あえてビルス川を越えた。彼らは、敵を攻撃してその中央を撃破したが、その後、圧倒的な兵力によって包囲されてしまった。猛烈な騎兵突撃に抵抗するため、彼らはハリネズミ隊形を組むことになったが、一日中その場に止まり続けた。王太子は次々に部隊をけしかけたが、どの部隊も無秩序に追い返されてきた。突撃の合間にはフランス軍の軽装兵部隊が飛び道具を浴びせかけたが、槍とハルバートの林は縮小しながらも、依然として突破を防ぎ続けた。夕方まで戦いは続き、2,000人のアルマニャックが、スイス人の死体の山の周りに、屍をさらした。ルイは、数回勝利を得るだけで全軍が消滅することになると見て取ると、スイスへの干渉を放棄して、アルザスへと引き返した。この日以降スイス同盟は、頑強で不屈な勇猛さの評判を、政治的地位の主柱として利用することができた。これ以後、スイス人と対峙した将帥および軍隊は、十分な自信を持たずに戦いに臨むことになった。優勢な兵力を前にしても撤退せず、慈悲を与えることも受けることもない敵軍と戦うことは、容易なことではなかった。スイス人の敵は、このことを意識し、戦闘に先立って士気を低下させることになった。彼らは敗北を想定しながら戦場に入り、それ故敗北したと、言い換えても良いだろう。この事実は大ブルゴーニュ戦争においてとりわけ目にとまる。シャルル豪胆公は敵の軍事的な名声を恐れてはいなかったが(23)、彼の軍隊に関しては同じとは言えなかった。彼の混成軍の大多数は、危機的状況にあっては信頼することができなかった。ドイツ人、イタリア人、サヴォア人の傭兵はスイスの戦争の恐ろしさを知っており、槍兵密集部隊の衝撃によって本能的に動揺を示した。公は兵士達を戦うために布陣させたが、彼らが戦うかどうか確信を持てなかった。「神はスイス同盟の側にある」という古い格言が彼らの耳に鳴り続け、結果、彼らは一撃も受ける前から半ば敗北していた。シャルルは、諸兵科をそれぞれにつき称賛を得ている地域から召集することで、軍の能力を高めるよう努めていた。イングランドの弓兵、ドイツのアルケブス銃兵、イタリアの軽騎兵、フランドルの槍兵が、ブルゴーニュの家臣団である封建騎士と並んで進軍した。ただ公は、旗下に多くの民族を寄せ集めると、戦闘における最重要事項たる結束が失われるという事実を、忘却していた。相互に、信頼と、共通目標に向けて最前を尽くすという確信が無い限り、軍隊は堅固さを維持できない。グランソン(1476)では、歩兵が未だ闘わない内に臆病風に吹かれただけで、これが決定的要因となって敗北したのである。
戦闘においては、スイス軍の指揮能力の未熟さのせいで、戦術的な優位はシャルルの側にあった。彼は敵軍の側面を脅かす体勢にあったし、一集団のみを、他の集団が追いつかないうちに、攻撃することができた。しかしながら彼は、指揮と均質性に優り、武器に熟練した軍隊はあらゆる不利を押しのけて勝利し得るということを、学ばざるを得なかった。ベルン、フリブール、シュヴィーツ、バーゼルの部隊から成る、スイス同盟の前衛集団(vorhut)は戦闘への意欲のあまり、残りの軍をはるか遠く置き去りにしていた。彼らは、常用の深い密集隊形を組んで、丘の中腹を越えて素早く行進して来たが、そこでブルゴーニュの全軍が、前方のグランソンの平原に広がり、戦闘隊形を組んでいるのを見た。丘のふもとに着くやいなや、 彼らは公の騎兵が突撃の準備を整えつつあるのを見た。この光景を見て、彼らは、かつての経験を元に、堅固に体勢を固めた。密集部隊は外側を向いて、突撃を待ち受けた。最初の突撃はシャルル軍左翼の騎兵によって行われた。指揮官で勇敢なシャトーギュイヨン卿は槍の中へと突入して、シュヴィーツの軍旗の足下で馬を失うほどであったが、この攻撃は失敗に終わった。次いで公は、長年ヨーロッパ最高の部隊と誇ってきた、親衛隊の槍騎兵を自ら指揮することにした。彼らは勇士にふさわしい戦いぶりを見せたが、それでも槍の穂先の堅固な列の前に、混乱しながら逃げ戻ることになった。
今度はスイス軍が平原へと前進を始め、ブルゴーニュの戦列に対して、彼らの密集部隊の衝撃力を叩きつける番であった。敵が前進してくる中、シャルルは両翼の部隊で敵側面を包囲するため、自軍中央の部隊を後退させて迎撃することを決めた。未だスイス同盟軍の残りの兵力は視界に入っておらず、この作戦は実現可能に見えた。そこで敵軍の間近にいる歩兵と銃兵に、後退するよう命令が発された。同時に、公が決定的な攻撃を担当させるつもりであった左翼を増強するため、予備部隊が移動させられた。要するにブルゴーニュ軍は、ハンニバルにカンナエの勝利をもたらした戦術を、再現しようとしていたのである。だが、結果は全く異なるものであった。中央部が後退し、両翼が未だ戦闘に入っていなかった時、これまで姿を見せなかったスイス軍の残りの部隊の先頭部が、オベール山の上から現れ、相変わらずの威厳をたたえた強固な隊列を見せながら、急速に戦場へと向かってきた。これによって、第一の密集部隊を包囲しようというシャルルの計画は、当然、挫折し、スイス軍の標準隊形である梯形編成が今や完成しつつあった。
だが、戦いの形勢は予想以上に早く変わってしまった。中央部の後退をスイス軍の進撃と関係づけて考えてしまったせいで、ブルゴーニュ軍の両翼の全歩兵が、スイス同盟軍の密集部隊と接触する前に、崩壊し逃走したのである。公の軍隊が、団結と自信を持っていなかったせいで、ひどい恐慌が生じたのである。種々雑多な部隊は危機にあって互いの堅固さを信頼できず、中央部が壊走したと思いこむと、形勢を逆転させようと努める意志を失ってしまった。このような不名誉な敗走を予見することが出来る将帥など存在しないと言えよう。ただし、その一方で、均質性を欠く軍隊でありながら、勇猛な敵を前に、精巧に過ぎる戦術を実行しようとした点で、公は非難に値するであろう。作戦上の後方への移動は常に本物の敗走に変わる危険があり、それゆえ可能な限り避けるべきなのである。グランソンは、スイス人にとっては、優秀な騎兵ですら彼らの密集部隊の前には無力であるという実例を、一つ増やしただけであった。歩兵との戦闘は全く存在しなかったのである。
この次に公がスイス同盟からこうむった大敗では、彼はその指揮に関して看過できない重大な失策を犯している。ムルテンの攻囲戦(1476)では彼の軍隊は三分され、側面攻撃を受けると互いに全く支援できない態勢にあった。攻城作戦を維持するために彼が構築した防御陣地は、南東からの襲撃に対してのみ防御されていたに過ぎなかった。それ以上に不可解なのはブルゴーニュ軍軽装兵部隊が主力部隊のすぐ側に留め置かれており、公が、敵が彼の戦列の前面に姿を現すまで、敵の移動の正確な認識を欠いていたことである。したがって、公の戦列の中央および左翼を構成していると見ることのできる二部隊の前面を、真っ直ぐ横切る形で伸びているムルテンの森を利用して、スイス同盟軍は、姿を隠した状態で、行進することが可能であった。既に述べた通り、敵は間近に迫っていたのだが、情報収集に部隊を派遣していない公が、6時間もの間、戦闘隊形のまま待機し続けることなど考えるはずもなかった。スイス軍が姿を見せないので、彼は、当然、主力を野営地に引き返させ、わずか2、3千の兵士を残したのみで、慎重に壕で固めた陣地を放棄してしまった。
この失策がほとんど完了した時、スイス同盟軍の前衛集団がムルテンの森のはずれに姿を現し、防柵に向かって真っ直ぐ行進してきた。守備兵は全く不十分な状態ながら勇敢に防衛に努めたが、数分のうちに、丘の反対側の斜面で、野営地から急いで救援に駆け上がってきた軍勢の中へと、追い立てられることになった。スイス軍は追撃して、目の前の混乱した敵勢へと押しかけながら、バラバラに攻撃に登ってきた救援部隊をも、各個に粉砕していった。ブルゴーニュ歩兵の大部分は、グランソンよりひどい有様で反転して逃走した。多くの騎兵隊は孤立した絶望的な突撃で形勢を逆転しようと努めたが、スイスの密集部隊を破ろうと挑んだ過去の騎兵と同様の運命を辿るだけであった。こうして戦闘はたちまち終わりを迎え、あとは単なる虐殺が行われただけであった。スイス同盟軍は、前衛集団と主力集団が、アヴァンシュの方向へと逃走する群衆を追跡し、後衛集団が、ムルテンの町の南で攻囲軍となっていたイタリア人歩兵部隊へと駆け下りた。不幸なことに、彼らは、主力部隊が逃走した方向への退却が、封じられており、スイス軍密集部隊の威力によって蹂躙されるか湖へと追い落とされるかして、ほぼ完全に全滅、6千人の兵力の内、わずかに1人が逃げ延びただけであった。公の軍勢の左端の部隊としてムルテンの北方に位置していた、ロモン率いるサヴォア人の部隊は、スイス同盟軍の後方を迂回する過酷な行軍によって、逃走することになった。
シャルルは敵に打ち勝つための準備において不十分な処置しか行わなかったけれど、それよりもスイス軍の戦術能力こそが、ムルテンにおける完全敗北の原因であった。ブルゴーニュ軍右翼への見事な攻撃は、公の軍の中央と左翼を成していた、孤立した二部隊の退路を断ち切った。これこそスイス同盟軍の指揮官達が、攻撃までに敵正面を横切らねばならないにもかかわらず、この点へと向かった理由であった。(24)彼らの行軍を偵察せずに放置するという公の驚くべき失策にも助けられ、彼らは奇襲し、敵が最低限の戦列すら組めないうちに、公の軍勢を各個撃破することに成功した。
ナンシー(1477)においてスイスの指揮官達は、再び、相当の作戦能力を見せることになった。主力の「battle」と小規模な後衛を攻撃させずに留め置くことで、ブルゴーニュ軍の注意を引きつけ、その間に前衛が森の中で迂回運動を行い、これによって敵の側方を制して、敵を敗北必至の立場へと追い込んだ。正面と右側から同時に攻められた公の軍勢は、数に優る敵を相手にするはめになり、単に破れたのではなく、分断され壊滅させられることになった。シャルル自身は、逃走を拒んで、四散した軍勢の逃走を援護するため、絶望的な戦いを行ったが、包囲されて、スイス兵のハルバートの凶悪な一撃で兜を貫き頭蓋を割られてしまった。
ただムルテンとナンシーで見せた戦術能力は、スイス同盟にあっては例外的なものであった。これらの戦いの後には、これ以前と同様、優れた作戦能力を駆使するよりも、真正面からの猛烈な突撃によって、彼らが勝利を獲得していくのを見ることになる。1499年のシュヴァーベン戦争においては、勝利の栄冠は指揮官達よりも軍勢に帰するべきであった。ハルトとマルシャイデは断固たる勇気のすばらしい実例ではあった。だがいずれの場合でも、スイスの士官達は、兵士達を真っ直ぐ敵の塹壕へと誘導すれば、それで全ての義務を果たしたと考えていたようである。フラシュテンツ(1499)では、ティロル人が接近不能として防衛せず放置した絶壁上を登って、猛烈に突撃したことにより、勝利を得ることができた。18世紀までにスイスの領土内で侵入者に対して戦われた最後の戦いである、ドルナッハの戦い(1499)においてさえ、スイス同盟の槍兵がシュヴァーベンの槍兵に一対一で優越していたことと、ヘルダーラントの槍騎兵が決定的な突撃によって側面部隊を撃破できなかったことが、戦いの帰趨を決することになった。そこに戦術的な運動はほとんど見られず、戦略計画は全く存在しなかった。敵に向かって密集部隊を放ち、立ちふさがるあらゆる障害を制圧するその威力を信じていれば、十分だと考えられていたのである。
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スイス人
1315~1515
モルガルテンの戦いからマリニャーノの戦いまで
最後に論じた二つの戦いを除けば、スイス人はその歴史の最初の150年において、幸運なことに、彼らの密集戦法に対抗できる、戦争術の達人にも新たな形態の戦法にも、出会うことが無かったと言うことができる。彼らが対処しなければならない相手は、依然として、中世的な鎖帷子を着た騎兵か雑多で無規律な歩兵部隊であった。彼らの戦法はこういった軍勢に勝利するよう設計されており、その敵に対して優位を保ち続けていた。アンジュラン・ド・クーシーの傭兵隊、シュヴァーベンの市民と貴族、ハプスブルク家のフリードリヒやレオポルト、ジギスムントが率いた騎士軍、これらは全て新たな戦法の開拓者たり得ず、順次、スイス同盟の軍事的能力の優越を、ますます明らかにする役割を担うことになったのである。
スイスに向けられた最も危険な攻撃であった、1444年における、王太子ルイのアルマニャック傭兵による侵入でさえ、スイス軍の軍事的名声を高める結果に終わった。ビルス川沿いザンクト・ヤーコプ(1444)の戦いは、気違いじみた不必要なものであったが、最も勇敢な敵に、後退より全滅を選ぶ人種への干渉を、思いとどまらせる効果があった。スイス同盟軍は、自分たちの密集部隊はいかなる障害をも圧倒できるとの信念にとりつかれて、1,000人に満たない兵力でありながら、15倍もの軍勢と戦うため、あえてビルス川を越えた。彼らは、敵を攻撃してその中央を撃破したが、その後、圧倒的な兵力によって包囲されてしまった。猛烈な騎兵突撃に抵抗するため、彼らはハリネズミ隊形を組むことになったが、一日中その場に止まり続けた。王太子は次々に部隊をけしかけたが、どの部隊も無秩序に追い返されてきた。突撃の合間にはフランス軍の軽装兵部隊が飛び道具を浴びせかけたが、槍とハルバートの林は縮小しながらも、依然として突破を防ぎ続けた。夕方まで戦いは続き、2,000人のアルマニャックが、スイス人の死体の山の周りに、屍をさらした。ルイは、数回勝利を得るだけで全軍が消滅することになると見て取ると、スイスへの干渉を放棄して、アルザスへと引き返した。この日以降スイス同盟は、頑強で不屈な勇猛さの評判を、政治的地位の主柱として利用することができた。これ以後、スイス人と対峙した将帥および軍隊は、十分な自信を持たずに戦いに臨むことになった。優勢な兵力を前にしても撤退せず、慈悲を与えることも受けることもない敵軍と戦うことは、容易なことではなかった。スイス人の敵は、このことを意識し、戦闘に先立って士気を低下させることになった。彼らは敗北を想定しながら戦場に入り、それ故敗北したと、言い換えても良いだろう。この事実は大ブルゴーニュ戦争においてとりわけ目にとまる。シャルル豪胆公は敵の軍事的な名声を恐れてはいなかったが(23)、彼の軍隊に関しては同じとは言えなかった。彼の混成軍の大多数は、危機的状況にあっては信頼することができなかった。ドイツ人、イタリア人、サヴォア人の傭兵はスイスの戦争の恐ろしさを知っており、槍兵密集部隊の衝撃によって本能的に動揺を示した。公は兵士達を戦うために布陣させたが、彼らが戦うかどうか確信を持てなかった。「神はスイス同盟の側にある」という古い格言が彼らの耳に鳴り続け、結果、彼らは一撃も受ける前から半ば敗北していた。シャルルは、諸兵科をそれぞれにつき称賛を得ている地域から召集することで、軍の能力を高めるよう努めていた。イングランドの弓兵、ドイツのアルケブス銃兵、イタリアの軽騎兵、フランドルの槍兵が、ブルゴーニュの家臣団である封建騎士と並んで進軍した。ただ公は、旗下に多くの民族を寄せ集めると、戦闘における最重要事項たる結束が失われるという事実を、忘却していた。相互に、信頼と、共通目標に向けて最前を尽くすという確信が無い限り、軍隊は堅固さを維持できない。グランソン(1476)では、歩兵が未だ闘わない内に臆病風に吹かれただけで、これが決定的要因となって敗北したのである。
戦闘においては、スイス軍の指揮能力の未熟さのせいで、戦術的な優位はシャルルの側にあった。彼は敵軍の側面を脅かす体勢にあったし、一集団のみを、他の集団が追いつかないうちに、攻撃することができた。しかしながら彼は、指揮と均質性に優り、武器に熟練した軍隊はあらゆる不利を押しのけて勝利し得るということを、学ばざるを得なかった。ベルン、フリブール、シュヴィーツ、バーゼルの部隊から成る、スイス同盟の前衛集団(vorhut)は戦闘への意欲のあまり、残りの軍をはるか遠く置き去りにしていた。彼らは、常用の深い密集隊形を組んで、丘の中腹を越えて素早く行進して来たが、そこでブルゴーニュの全軍が、前方のグランソンの平原に広がり、戦闘隊形を組んでいるのを見た。丘のふもとに着くやいなや、 彼らは公の騎兵が突撃の準備を整えつつあるのを見た。この光景を見て、彼らは、かつての経験を元に、堅固に体勢を固めた。密集部隊は外側を向いて、突撃を待ち受けた。最初の突撃はシャルル軍左翼の騎兵によって行われた。指揮官で勇敢なシャトーギュイヨン卿は槍の中へと突入して、シュヴィーツの軍旗の足下で馬を失うほどであったが、この攻撃は失敗に終わった。次いで公は、長年ヨーロッパ最高の部隊と誇ってきた、親衛隊の槍騎兵を自ら指揮することにした。彼らは勇士にふさわしい戦いぶりを見せたが、それでも槍の穂先の堅固な列の前に、混乱しながら逃げ戻ることになった。
今度はスイス軍が平原へと前進を始め、ブルゴーニュの戦列に対して、彼らの密集部隊の衝撃力を叩きつける番であった。敵が前進してくる中、シャルルは両翼の部隊で敵側面を包囲するため、自軍中央の部隊を後退させて迎撃することを決めた。未だスイス同盟軍の残りの兵力は視界に入っておらず、この作戦は実現可能に見えた。そこで敵軍の間近にいる歩兵と銃兵に、後退するよう命令が発された。同時に、公が決定的な攻撃を担当させるつもりであった左翼を増強するため、予備部隊が移動させられた。要するにブルゴーニュ軍は、ハンニバルにカンナエの勝利をもたらした戦術を、再現しようとしていたのである。だが、結果は全く異なるものであった。中央部が後退し、両翼が未だ戦闘に入っていなかった時、これまで姿を見せなかったスイス軍の残りの部隊の先頭部が、オベール山の上から現れ、相変わらずの威厳をたたえた強固な隊列を見せながら、急速に戦場へと向かってきた。これによって、第一の密集部隊を包囲しようというシャルルの計画は、当然、挫折し、スイス軍の標準隊形である梯形編成が今や完成しつつあった。
だが、戦いの形勢は予想以上に早く変わってしまった。中央部の後退をスイス軍の進撃と関係づけて考えてしまったせいで、ブルゴーニュ軍の両翼の全歩兵が、スイス同盟軍の密集部隊と接触する前に、崩壊し逃走したのである。公の軍隊が、団結と自信を持っていなかったせいで、ひどい恐慌が生じたのである。種々雑多な部隊は危機にあって互いの堅固さを信頼できず、中央部が壊走したと思いこむと、形勢を逆転させようと努める意志を失ってしまった。このような不名誉な敗走を予見することが出来る将帥など存在しないと言えよう。ただし、その一方で、均質性を欠く軍隊でありながら、勇猛な敵を前に、精巧に過ぎる戦術を実行しようとした点で、公は非難に値するであろう。作戦上の後方への移動は常に本物の敗走に変わる危険があり、それゆえ可能な限り避けるべきなのである。グランソンは、スイス人にとっては、優秀な騎兵ですら彼らの密集部隊の前には無力であるという実例を、一つ増やしただけであった。歩兵との戦闘は全く存在しなかったのである。
この次に公がスイス同盟からこうむった大敗では、彼はその指揮に関して看過できない重大な失策を犯している。ムルテンの攻囲戦(1476)では彼の軍隊は三分され、側面攻撃を受けると互いに全く支援できない態勢にあった。攻城作戦を維持するために彼が構築した防御陣地は、南東からの襲撃に対してのみ防御されていたに過ぎなかった。それ以上に不可解なのはブルゴーニュ軍軽装兵部隊が主力部隊のすぐ側に留め置かれており、公が、敵が彼の戦列の前面に姿を現すまで、敵の移動の正確な認識を欠いていたことである。したがって、公の戦列の中央および左翼を構成していると見ることのできる二部隊の前面を、真っ直ぐ横切る形で伸びているムルテンの森を利用して、スイス同盟軍は、姿を隠した状態で、行進することが可能であった。既に述べた通り、敵は間近に迫っていたのだが、情報収集に部隊を派遣していない公が、6時間もの間、戦闘隊形のまま待機し続けることなど考えるはずもなかった。スイス軍が姿を見せないので、彼は、当然、主力を野営地に引き返させ、わずか2、3千の兵士を残したのみで、慎重に壕で固めた陣地を放棄してしまった。
この失策がほとんど完了した時、スイス同盟軍の前衛集団がムルテンの森のはずれに姿を現し、防柵に向かって真っ直ぐ行進してきた。守備兵は全く不十分な状態ながら勇敢に防衛に努めたが、数分のうちに、丘の反対側の斜面で、野営地から急いで救援に駆け上がってきた軍勢の中へと、追い立てられることになった。スイス軍は追撃して、目の前の混乱した敵勢へと押しかけながら、バラバラに攻撃に登ってきた救援部隊をも、各個に粉砕していった。ブルゴーニュ歩兵の大部分は、グランソンよりひどい有様で反転して逃走した。多くの騎兵隊は孤立した絶望的な突撃で形勢を逆転しようと努めたが、スイスの密集部隊を破ろうと挑んだ過去の騎兵と同様の運命を辿るだけであった。こうして戦闘はたちまち終わりを迎え、あとは単なる虐殺が行われただけであった。スイス同盟軍は、前衛集団と主力集団が、アヴァンシュの方向へと逃走する群衆を追跡し、後衛集団が、ムルテンの町の南で攻囲軍となっていたイタリア人歩兵部隊へと駆け下りた。不幸なことに、彼らは、主力部隊が逃走した方向への退却が、封じられており、スイス軍密集部隊の威力によって蹂躙されるか湖へと追い落とされるかして、ほぼ完全に全滅、6千人の兵力の内、わずかに1人が逃げ延びただけであった。公の軍勢の左端の部隊としてムルテンの北方に位置していた、ロモン率いるサヴォア人の部隊は、スイス同盟軍の後方を迂回する過酷な行軍によって、逃走することになった。
シャルルは敵に打ち勝つための準備において不十分な処置しか行わなかったけれど、それよりもスイス軍の戦術能力こそが、ムルテンにおける完全敗北の原因であった。ブルゴーニュ軍右翼への見事な攻撃は、公の軍の中央と左翼を成していた、孤立した二部隊の退路を断ち切った。これこそスイス同盟軍の指揮官達が、攻撃までに敵正面を横切らねばならないにもかかわらず、この点へと向かった理由であった。(24)彼らの行軍を偵察せずに放置するという公の驚くべき失策にも助けられ、彼らは奇襲し、敵が最低限の戦列すら組めないうちに、公の軍勢を各個撃破することに成功した。
ナンシー(1477)においてスイスの指揮官達は、再び、相当の作戦能力を見せることになった。主力の「battle」と小規模な後衛を攻撃させずに留め置くことで、ブルゴーニュ軍の注意を引きつけ、その間に前衛が森の中で迂回運動を行い、これによって敵の側方を制して、敵を敗北必至の立場へと追い込んだ。正面と右側から同時に攻められた公の軍勢は、数に優る敵を相手にするはめになり、単に破れたのではなく、分断され壊滅させられることになった。シャルル自身は、逃走を拒んで、四散した軍勢の逃走を援護するため、絶望的な戦いを行ったが、包囲されて、スイス兵のハルバートの凶悪な一撃で兜を貫き頭蓋を割られてしまった。
ただムルテンとナンシーで見せた戦術能力は、スイス同盟にあっては例外的なものであった。これらの戦いの後には、これ以前と同様、優れた作戦能力を駆使するよりも、真正面からの猛烈な突撃によって、彼らが勝利を獲得していくのを見ることになる。1499年のシュヴァーベン戦争においては、勝利の栄冠は指揮官達よりも軍勢に帰するべきであった。ハルトとマルシャイデは断固たる勇気のすばらしい実例ではあった。だがいずれの場合でも、スイスの士官達は、兵士達を真っ直ぐ敵の塹壕へと誘導すれば、それで全ての義務を果たしたと考えていたようである。フラシュテンツ(1499)では、ティロル人が接近不能として防衛せず放置した絶壁上を登って、猛烈に突撃したことにより、勝利を得ることができた。18世紀までにスイスの領土内で侵入者に対して戦われた最後の戦いである、ドルナッハの戦い(1499)においてさえ、スイス同盟の槍兵がシュヴァーベンの槍兵に一対一で優越していたことと、ヘルダーラントの槍騎兵が決定的な突撃によって側面部隊を撃破できなかったことが、戦いの帰趨を決することになった。そこに戦術的な運動はほとんど見られず、戦略計画は全く存在しなかった。敵に向かって密集部隊を放ち、立ちふさがるあらゆる障害を制圧するその威力を信じていれば、十分だと考えられていたのである。
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by trushbasket
| 2011-02-01 02:17
| My(山田昌弘)








