2011年 02月 01日
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 5章注
|
本文一・二節へ
本文三節前半へ
本文三節後半へ
本文四節へ
(1)C. von Elgger, Kriegswesen und Kriegskunst der Schweizerrischen Eidgenossen im 14., 15, und 16.Jahrhundert (Lucerne, 1873)に引用された例を参照すると、そこでは賭けの支払いにおいてコンスタンツの貴族がベルン人のplappert(小硬貨)の受け取りを拒み、そこに描かれた熊を牛呼ばわりして嘲笑したところ、スイス同盟はこれを民族的な侮辱と受け取り、宣戦布告無しにコンスタンツ領に押し入ったのである。
(2)例えばノヴァラでは、彼らは数百人のドイツ人捕虜を戦闘の後で殺している。
(3)後期の図像資料としてはBlaise de Motluc, Commentaires in Collection complete des memoires relatifs a L'histoire de France (Paris, 1821-1822), XX-XXII, があるが特に, 27 ff.が有益。
(4)ムルテンの戦いではベルンの兵団だけがこれを(州の大旗の他に)持っており、24の町および地方(トゥーン、アアラウ、レンツブルク、インテルラーケン、ブルクドルフ、ハスリタール、エメンタールなど)と、八個の手工業組合、六個のその他の組合の旗があった。
(5)ハルバートは、イングランドの矛とは、かぎが付いている点で違いがあるだけである。
(6)モーニングスターは1メートル50センチ程の棍棒で、先端に鉄のとげが密集したものである。15世紀の半ばには見られなくなる。ルツェルン・ハンマーはハルバートと似ているが、斧の刃のかわりに三本の湾曲したとげを持っている。恐ろしい裂傷を与える。
(7)Niccolo Machiavelli, The Art of War (Albany, 1815), p. 66.
(8)マキャヴェリは、彼の時代には、鉄帽を、槍兵は着用せず、ハルバート兵のみが着用したとまで言っている。もっともこれは他の資料から誇張であることが判明している。(Mchiavelli, 前掲書, p.65)
(9)John Foster Kirk, History of Charles the Bold (Philadelphia, 1864-68), II, 288-289.
(10)ムルテンでは、3,5000のうち10,000を占め、ほとんど3分の1に達した。アルベドでは7分の1であった。シャルル8世のナポリへの進軍に参加したスイス同盟軍の中では、10分の1に過ぎなかった。(Philippe de Commynes, Memoires, ed. Jpseph Calmette [Paris, 1924-1925], II, 119)
(11)例えば、森林諸州は、シャルル豪胆公との戦争における交戦をめぐって、ベルンの政策と激しく対立していたが、その軍勢のグランソンとムルテンにおける働きは他に全く劣らなかった。
(12)ラウペンにおけるルドルフ・フォン・エルラッハが総司令官の地位を占めたことは、全くの例外である。仮に上述の諸事例でスイス軍の指揮官の名が出ることがあっても、彼らは同等の権威を有しており、誰か一人が他に優越する影響力を行使するとしても、それは単に個人的な勢威によるもので、法的権利によるわけではなかった。ムルテンとナンシーでロレーヌのルネが正式に指揮を執ったというのは誤解である。
(13)マキャヴェリはこの行軍隊形について明快な記述を含んでいる。(前掲書, Bk. III, pp. 113-147)
(14)Elgger, 前掲書, p.280を参照。
(15)同書
(16)Machiavelli, 前掲書, p. 99.
(17)Elgger, 前掲書に詳しく引用されている。
(18)バノックバーンでは、スコットランド軍は騎兵を巧みに用いており、これは強力な戦力ではなかったにせよ、ラウペンにおけるスイス軍の騎兵を欠いた状態と比べれば、彼らは有利な状態にあった。
(19)この段落は、Oman自身がArt of War, II, 248-252で行った
修正に基づき書き直してある。
(20)この数字は明らかに大きく誇張されている。
(21)Simondiは完全にスイスの資料に基づき、この戦いについて書いているが、マキャヴェリとは全く異なった印象を与えてくれる。(J.C.L.Sismonde de Sismondi, Histoire de republiques italiennes du moyen age[Paris, 1826], VIII, 325-329)後者は、アルベドをスイス軍が阻止された最も有名な例として引いており、その損害を数千人と書き留めている。Muellerの場合は、明らかに、この阻止を過小評価している。だが、スイス人の性質から、スイス軍士官に降伏を考えさせるのに、どれほどの圧力が必要であったかを、判断するべきだろう。また、ルツェルン州議会の議員44名が戦場で倒れていること。および「ルツェルンの派遣団は、遠征に出発するに際して、四州の間にある湖を、10隻の大型の運送船で渡った。だが帰りは2隻だ!」とされていること。これら、スイス人自身が認めている事実から見て、損失を400とするのは余りに少なすぎると言えるだろう。
(22)1422年のルツェルンの「評議会議事録」より、「Da es den Eidgenossen nicht so wohl seie,」云々。
(23)ただし公でさえ、「スイス軍に対しては、決して準備が整わぬまま進撃してはならない」と言っている。(KirkがPanagirolaを引用している。前掲書, III, 276)
(24)「もしロモンを攻撃するなら」、ウルリッヒ・ケッツィーがスイスの戦争会議で言ったところでは、「我々が彼を撃破している間に、公は逃げる時間と機会を得ることになるだろう。丘を迂回して主力を目指せば、そこを壊走させた後ならば、残りを壊走させるのに一撃も要しないだろう。」ここでは優れた戦術的能力が示されている。
(25)Machiavelli, 前掲書, pp. 65-66.
(26)老練なドイツ傭兵(landsknechte)隊長であるフルンツベルクは、これらの突撃について冷静で事務的な記述を残している。すなわち「長期に渡る防戦で幾人かは地に倒れ、未だ立っている者は恐れおののき、」云々。
(27)15世紀の末頃には、両手持ちの剣はほぼ完全に、モーニングスターやルツェルン・ハンマーは全く、使われなくなっている。
(28)Machiavelli, 前掲書, p. 70.
(29)セティワヨに先行するズールー王の一人であるシャカ、がこの問題を解決しようとしていたのは驚くべき事実である。彼は百人の兵士を集めて、小盾と槍よりは剣に近い使い方の刺突用の武器であるassagaiで武装させた。そして彼はこの百人を、盾と長いassagai、すなあち伝統的な部族の武器である細長い投槍、で武装した別の百人と戦わせた。短い武器を持つ側が容易く勝利し、その上で王はズールー族の全軍にその武器を採用するよう命じた。この改革が、ズールー族が近隣部族の上に覇権を確立する原因であった。
(30)Machiavellim, 前掲書, p. 70.
(31)Sismondi, 前掲書, XIV, 373-379.
本文一・二節へ
本文三節前半へ
本文三節後半へ
本文四節へ
本文三節前半へ
本文三節後半へ
本文四節へ
(1)C. von Elgger, Kriegswesen und Kriegskunst der Schweizerrischen Eidgenossen im 14., 15, und 16.Jahrhundert (Lucerne, 1873)に引用された例を参照すると、そこでは賭けの支払いにおいてコンスタンツの貴族がベルン人のplappert(小硬貨)の受け取りを拒み、そこに描かれた熊を牛呼ばわりして嘲笑したところ、スイス同盟はこれを民族的な侮辱と受け取り、宣戦布告無しにコンスタンツ領に押し入ったのである。
(2)例えばノヴァラでは、彼らは数百人のドイツ人捕虜を戦闘の後で殺している。
(3)後期の図像資料としてはBlaise de Motluc, Commentaires in Collection complete des memoires relatifs a L'histoire de France (Paris, 1821-1822), XX-XXII, があるが特に, 27 ff.が有益。
(4)ムルテンの戦いではベルンの兵団だけがこれを(州の大旗の他に)持っており、24の町および地方(トゥーン、アアラウ、レンツブルク、インテルラーケン、ブルクドルフ、ハスリタール、エメンタールなど)と、八個の手工業組合、六個のその他の組合の旗があった。
(5)ハルバートは、イングランドの矛とは、かぎが付いている点で違いがあるだけである。
(6)モーニングスターは1メートル50センチ程の棍棒で、先端に鉄のとげが密集したものである。15世紀の半ばには見られなくなる。ルツェルン・ハンマーはハルバートと似ているが、斧の刃のかわりに三本の湾曲したとげを持っている。恐ろしい裂傷を与える。
(7)Niccolo Machiavelli, The Art of War (Albany, 1815), p. 66.
(8)マキャヴェリは、彼の時代には、鉄帽を、槍兵は着用せず、ハルバート兵のみが着用したとまで言っている。もっともこれは他の資料から誇張であることが判明している。(Mchiavelli, 前掲書, p.65)
(9)John Foster Kirk, History of Charles the Bold (Philadelphia, 1864-68), II, 288-289.
(10)ムルテンでは、3,5000のうち10,000を占め、ほとんど3分の1に達した。アルベドでは7分の1であった。シャルル8世のナポリへの進軍に参加したスイス同盟軍の中では、10分の1に過ぎなかった。(Philippe de Commynes, Memoires, ed. Jpseph Calmette [Paris, 1924-1925], II, 119)
(11)例えば、森林諸州は、シャルル豪胆公との戦争における交戦をめぐって、ベルンの政策と激しく対立していたが、その軍勢のグランソンとムルテンにおける働きは他に全く劣らなかった。
(12)ラウペンにおけるルドルフ・フォン・エルラッハが総司令官の地位を占めたことは、全くの例外である。仮に上述の諸事例でスイス軍の指揮官の名が出ることがあっても、彼らは同等の権威を有しており、誰か一人が他に優越する影響力を行使するとしても、それは単に個人的な勢威によるもので、法的権利によるわけではなかった。ムルテンとナンシーでロレーヌのルネが正式に指揮を執ったというのは誤解である。
(13)マキャヴェリはこの行軍隊形について明快な記述を含んでいる。(前掲書, Bk. III, pp. 113-147)
(14)Elgger, 前掲書, p.280を参照。
(15)同書
(16)Machiavelli, 前掲書, p. 99.
(17)Elgger, 前掲書に詳しく引用されている。
(18)バノックバーンでは、スコットランド軍は騎兵を巧みに用いており、これは強力な戦力ではなかったにせよ、ラウペンにおけるスイス軍の騎兵を欠いた状態と比べれば、彼らは有利な状態にあった。
(19)この段落は、Oman自身がArt of War, II, 248-252で行った
修正に基づき書き直してある。
(20)この数字は明らかに大きく誇張されている。
(21)Simondiは完全にスイスの資料に基づき、この戦いについて書いているが、マキャヴェリとは全く異なった印象を与えてくれる。(J.C.L.Sismonde de Sismondi, Histoire de republiques italiennes du moyen age[Paris, 1826], VIII, 325-329)後者は、アルベドをスイス軍が阻止された最も有名な例として引いており、その損害を数千人と書き留めている。Muellerの場合は、明らかに、この阻止を過小評価している。だが、スイス人の性質から、スイス軍士官に降伏を考えさせるのに、どれほどの圧力が必要であったかを、判断するべきだろう。また、ルツェルン州議会の議員44名が戦場で倒れていること。および「ルツェルンの派遣団は、遠征に出発するに際して、四州の間にある湖を、10隻の大型の運送船で渡った。だが帰りは2隻だ!」とされていること。これら、スイス人自身が認めている事実から見て、損失を400とするのは余りに少なすぎると言えるだろう。
(22)1422年のルツェルンの「評議会議事録」より、「Da es den Eidgenossen nicht so wohl seie,」云々。
(23)ただし公でさえ、「スイス軍に対しては、決して準備が整わぬまま進撃してはならない」と言っている。(KirkがPanagirolaを引用している。前掲書, III, 276)
(24)「もしロモンを攻撃するなら」、ウルリッヒ・ケッツィーがスイスの戦争会議で言ったところでは、「我々が彼を撃破している間に、公は逃げる時間と機会を得ることになるだろう。丘を迂回して主力を目指せば、そこを壊走させた後ならば、残りを壊走させるのに一撃も要しないだろう。」ここでは優れた戦術的能力が示されている。
(25)Machiavelli, 前掲書, pp. 65-66.
(26)老練なドイツ傭兵(landsknechte)隊長であるフルンツベルクは、これらの突撃について冷静で事務的な記述を残している。すなわち「長期に渡る防戦で幾人かは地に倒れ、未だ立っている者は恐れおののき、」云々。
(27)15世紀の末頃には、両手持ちの剣はほぼ完全に、モーニングスターやルツェルン・ハンマーは全く、使われなくなっている。
(28)Machiavelli, 前掲書, p. 70.
(29)セティワヨに先行するズールー王の一人であるシャカ、がこの問題を解決しようとしていたのは驚くべき事実である。彼は百人の兵士を集めて、小盾と槍よりは剣に近い使い方の刺突用の武器であるassagaiで武装させた。そして彼はこの百人を、盾と長いassagai、すなあち伝統的な部族の武器である細長い投槍、で武装した別の百人と戦わせた。短い武器を持つ側が容易く勝利し、その上で王はズールー族の全軍にその武器を採用するよう命じた。この改革が、ズールー族が近隣部族の上に覇権を確立する原因であった。
(30)Machiavellim, 前掲書, p. 70.
(31)Sismondi, 前掲書, XIV, 373-379.
本文一・二節へ
本文三節前半へ
本文三節後半へ
本文四節へ
by trushbasket
| 2011-02-01 02:23
| My(山田昌弘)








