2011年 02月 02日
高師直(一)
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目次
1.当時の情勢
8世紀初頭に確立した中央集権的な統一政権は、9世紀には崩壊に向かう。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大、貧困層が没落する一方で実力を付けつつあった地方豪族は彼らを支配下に納め自給体制を各地で形成した。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認し、人口を把握するのを断念して土地単位での税徴収体制に転換。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として朝廷が存在する体制が11世紀前半に確立する。
やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、勝利した源氏によって東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心に独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形となった。13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的優位に立ち、次第に支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要上から全国規模で支配権を強化、発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を志向していた。
一方で、従来より幕府に従属していた豪族達(御家人)は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって専制化する幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を支配下に置き新興豪族が台頭、伝統的勢力としばしば衝突し「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府も統制しきれず頭を悩ませる社会不安要素とみなされるようになっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係もあってか、「悪党」らは寧ろ取締りにより自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多く見られるようになる。
一方、承久の乱以降弱体化していた朝廷は、更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立する。中でも皇位や「治天の君」(皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実験を握った者をこう呼ぶ)をめぐっての両統の対立は深刻で、幕府による調整が必要なほどであった。その結果、思い通りに行かなかった陣営による幕府への遺恨を生む事となるのである。
経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安も高まりつつあり、幕府は火薬を満載した導火線の上に座しているような状況であったのである。
2.師直以前の高氏(こうし)
高氏(こうし)は高階氏流で右大弁高階峯緒の末裔である。大高大夫惟頼が実は源義家の四男であったと言われるがこの辺りから源氏との結びつきが強くなったのであろう。その曾孫惟長が三河の守足利義兼に仕え、額田郡日志賀・菅生郷司職に補任され足利家執事となった。それ以降、惟重、重氏、師氏、師重らが代々執事を務めている。鎌倉政権下で足利氏は有数の名門として遇され、家督の下に三番編成の中央奉行所があり高氏(こうし)や上杉氏が務めていた。その下に地方公文所があり、命令は「袖判下文」により伝達されていた。この袖判下文は将軍家のほかは北条氏、足利氏にのみ許されたというから幕府内部での足利氏の家格の高さが窺える。徳治三年(1308)に高師行奉書が、元亨二年(1322)に師重奉書が出されており、執事が家督からの命令伝達に大きい役割をしていたのがわかる。
さて、北条氏にとっては御家人の秩序を保つためにも、そして後には自分達の独裁体制を確立ためにも自分達に次いで強力な足利氏を抑える必要があった。それにつれて足利氏は圧迫感や有力御家人で次に潰されるのは自分達という不安を感じるようになる。彼らの祖父家時が三代の後に天下を取る事を悲願とし自刃したことが知られているが、北条氏への不満や家門の誇り、それが高じての野望が足利氏の内部で募っていたのは間違いなさそうであり、恐らくは高氏(こうし)も執事として思いを足利宗家と共有していたと思われる。
3.動乱の幕開け
この頃、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い京都周辺の商業勢力を保護し支持基盤に取り込もうと図る。そうして、後醍醐はやがて幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせるためであり、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立するためである。時に幕府は北条氏の惣領である高時が病弱のため指導力不足で、東北の反乱や権力争いに悩まされており後醍醐にとって絶好の機会と思われた。後醍醐は、皇子・尊雲法親王を天台座主として叡山に送り込むなど寺社勢力の経済力・軍事力を頼みにして彼らの取り込みを図った上で、元弘元年(1331)に挙兵し笠置山に篭った。しかし幕府の軍事力は未だ圧倒的であり笠置は陥落して捕らわれ、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。
しかし、後醍醐の誘いに応じて河内赤坂で挙兵していた楠木正成は、最初の挙兵こそ準備不十分であったものの元弘三年(1333)になると幕府軍を大阪平野各地で翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。また、護良親王(尊雲法親王、還俗して護良と名乗る)は各地の豪族に挙兵を煽ると共に自身も吉野に篭った。これにより威信を傷つけられた幕府は大軍を動員し吉野を陥落させるものの、千早城は攻め落とせず苦戦を余儀なくされる状態であった。幕府に反感を持つ人々は、これを見て幕府の軍事的威信の低下を見て取っており、ここに更に幕府方に対し攻勢を取る者が出現した際にはこれに続くものが陸続するであろう状況であった。
やがて後醍醐が隠岐から脱出し名和長年に迎えられて伯耆船上山に篭る。後醍醐方の意気は天を衝くばかりとなり、京は赤松氏と後醍醐寵臣の千種忠顕により攻撃を受ける状況で京における幕府方の拠点・六波羅探題より鎌倉に援軍依頼が出される。これを受けて、幕府は名越時家と足利高氏(たかうじ)を援軍として派遣。足利氏は情勢を見て今こそ北条氏を倒し天下を狙う好機であると睨んでおり、途中の三河で後醍醐に連絡を取り綸旨を手に入れた上で丹波にて倒幕のため挙兵した。これにより六波羅探題は滅亡して畿内は後醍醐方の手に落ち、形勢は一気に後醍醐方に傾いた。やがて新田義貞により鎌倉が陥落、大友氏・少弐氏により鎮西探題も陥落して鎌倉幕府は130年の歴史を閉じた。後醍醐の挙兵と新興豪族の奮闘により始まった倒幕の戦いは、足利氏の行動により形勢が決定付けられたのである。
4.師直登場
師直の生年は不明であるが、父師重の後を受けて足利氏に早い段階から仕えていたようだ。正慶二年(元弘三年)(1333)、六波羅救援と称して足利軍が上洛し最終的に寝返った時に足利一族三十二人、高一族四十三人が従った中に弟師泰と共に入っている。この際に、篠村八幡で挙兵した足利軍の下に久下弥三郎時重が駆けつけ、その笠印が「一番」であるいわれを主君・高氏(たかうじ)が尋ねたのに対し、頼朝の旗揚げに先祖の重光が一番に馳せ参じたため褒美として頼朝から授かったと師直が答えているのが『太平記』における師直の初登場である。鎌倉幕府が倒れ建武政権が成立すると、師直は三河権守や窪所衆となり、翌年には雑訴決断所の機構拡充に伴って上杉定房と共に東山道三番方に名を連ねた。尊氏(後醍醐から「尊」の一字を拝領し高氏から改名)が新政府に加わらず「尊氏なし」と囁かれていた中で、主君に代わって足利方の代表を務めたのである。また建武二年五月、師直は尊氏の元弘恩賞地の一つ、豊前国門司関政所に松尾社への寄付地内渡しを命じるなど足利氏執事としても働きを示している。
(二)へと続きます。
1.当時の情勢
8世紀初頭に確立した中央集権的な統一政権は、9世紀には崩壊に向かう。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大、貧困層が没落する一方で実力を付けつつあった地方豪族は彼らを支配下に納め自給体制を各地で形成した。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認し、人口を把握するのを断念して土地単位での税徴収体制に転換。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として朝廷が存在する体制が11世紀前半に確立する。
やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、勝利した源氏によって東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心に独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形となった。13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的優位に立ち、次第に支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要上から全国規模で支配権を強化、発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を志向していた。
一方で、従来より幕府に従属していた豪族達(御家人)は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって専制化する幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を支配下に置き新興豪族が台頭、伝統的勢力としばしば衝突し「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府も統制しきれず頭を悩ませる社会不安要素とみなされるようになっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係もあってか、「悪党」らは寧ろ取締りにより自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多く見られるようになる。
一方、承久の乱以降弱体化していた朝廷は、更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立する。中でも皇位や「治天の君」(皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実験を握った者をこう呼ぶ)をめぐっての両統の対立は深刻で、幕府による調整が必要なほどであった。その結果、思い通りに行かなかった陣営による幕府への遺恨を生む事となるのである。
経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安も高まりつつあり、幕府は火薬を満載した導火線の上に座しているような状況であったのである。
2.師直以前の高氏(こうし)
高氏(こうし)は高階氏流で右大弁高階峯緒の末裔である。大高大夫惟頼が実は源義家の四男であったと言われるがこの辺りから源氏との結びつきが強くなったのであろう。その曾孫惟長が三河の守足利義兼に仕え、額田郡日志賀・菅生郷司職に補任され足利家執事となった。それ以降、惟重、重氏、師氏、師重らが代々執事を務めている。鎌倉政権下で足利氏は有数の名門として遇され、家督の下に三番編成の中央奉行所があり高氏(こうし)や上杉氏が務めていた。その下に地方公文所があり、命令は「袖判下文」により伝達されていた。この袖判下文は将軍家のほかは北条氏、足利氏にのみ許されたというから幕府内部での足利氏の家格の高さが窺える。徳治三年(1308)に高師行奉書が、元亨二年(1322)に師重奉書が出されており、執事が家督からの命令伝達に大きい役割をしていたのがわかる。
さて、北条氏にとっては御家人の秩序を保つためにも、そして後には自分達の独裁体制を確立ためにも自分達に次いで強力な足利氏を抑える必要があった。それにつれて足利氏は圧迫感や有力御家人で次に潰されるのは自分達という不安を感じるようになる。彼らの祖父家時が三代の後に天下を取る事を悲願とし自刃したことが知られているが、北条氏への不満や家門の誇り、それが高じての野望が足利氏の内部で募っていたのは間違いなさそうであり、恐らくは高氏(こうし)も執事として思いを足利宗家と共有していたと思われる。
3.動乱の幕開け
この頃、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い京都周辺の商業勢力を保護し支持基盤に取り込もうと図る。そうして、後醍醐はやがて幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせるためであり、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立するためである。時に幕府は北条氏の惣領である高時が病弱のため指導力不足で、東北の反乱や権力争いに悩まされており後醍醐にとって絶好の機会と思われた。後醍醐は、皇子・尊雲法親王を天台座主として叡山に送り込むなど寺社勢力の経済力・軍事力を頼みにして彼らの取り込みを図った上で、元弘元年(1331)に挙兵し笠置山に篭った。しかし幕府の軍事力は未だ圧倒的であり笠置は陥落して捕らわれ、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。
しかし、後醍醐の誘いに応じて河内赤坂で挙兵していた楠木正成は、最初の挙兵こそ準備不十分であったものの元弘三年(1333)になると幕府軍を大阪平野各地で翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。また、護良親王(尊雲法親王、還俗して護良と名乗る)は各地の豪族に挙兵を煽ると共に自身も吉野に篭った。これにより威信を傷つけられた幕府は大軍を動員し吉野を陥落させるものの、千早城は攻め落とせず苦戦を余儀なくされる状態であった。幕府に反感を持つ人々は、これを見て幕府の軍事的威信の低下を見て取っており、ここに更に幕府方に対し攻勢を取る者が出現した際にはこれに続くものが陸続するであろう状況であった。
やがて後醍醐が隠岐から脱出し名和長年に迎えられて伯耆船上山に篭る。後醍醐方の意気は天を衝くばかりとなり、京は赤松氏と後醍醐寵臣の千種忠顕により攻撃を受ける状況で京における幕府方の拠点・六波羅探題より鎌倉に援軍依頼が出される。これを受けて、幕府は名越時家と足利高氏(たかうじ)を援軍として派遣。足利氏は情勢を見て今こそ北条氏を倒し天下を狙う好機であると睨んでおり、途中の三河で後醍醐に連絡を取り綸旨を手に入れた上で丹波にて倒幕のため挙兵した。これにより六波羅探題は滅亡して畿内は後醍醐方の手に落ち、形勢は一気に後醍醐方に傾いた。やがて新田義貞により鎌倉が陥落、大友氏・少弐氏により鎮西探題も陥落して鎌倉幕府は130年の歴史を閉じた。後醍醐の挙兵と新興豪族の奮闘により始まった倒幕の戦いは、足利氏の行動により形勢が決定付けられたのである。
4.師直登場
師直の生年は不明であるが、父師重の後を受けて足利氏に早い段階から仕えていたようだ。正慶二年(元弘三年)(1333)、六波羅救援と称して足利軍が上洛し最終的に寝返った時に足利一族三十二人、高一族四十三人が従った中に弟師泰と共に入っている。この際に、篠村八幡で挙兵した足利軍の下に久下弥三郎時重が駆けつけ、その笠印が「一番」であるいわれを主君・高氏(たかうじ)が尋ねたのに対し、頼朝の旗揚げに先祖の重光が一番に馳せ参じたため褒美として頼朝から授かったと師直が答えているのが『太平記』における師直の初登場である。鎌倉幕府が倒れ建武政権が成立すると、師直は三河権守や窪所衆となり、翌年には雑訴決断所の機構拡充に伴って上杉定房と共に東山道三番方に名を連ねた。尊氏(後醍醐から「尊」の一字を拝領し高氏から改名)が新政府に加わらず「尊氏なし」と囁かれていた中で、主君に代わって足利方の代表を務めたのである。また建武二年五月、師直は尊氏の元弘恩賞地の一つ、豊前国門司関政所に松尾社への寄付地内渡しを命じるなど足利氏執事としても働きを示している。
(二)へと続きます。
by trushbasket
| 2011-02-02 00:21
| NF








