2011年 02月 02日
高師直(二)
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目次
(一)はこちらです。
5.足利政権の成立
建武二年七月、北条高時の遺児時行が信濃で反乱し鎌倉を落とした(中先代の乱)。このとき師直は尊氏と共に東上し、間もなく尊氏は朝廷と敵対関係に入る。この時、尊氏は朝廷に敵対する決心がつかず鎌倉の寺に篭っており、替わって直義が足利軍数万を率いて朝廷軍を率いる新田義貞を矢作川で迎え撃つ。師直はこの時、直義指揮下で第二陣として二万の兵力を率いて参加している。義貞が矢作川西岸に到達したのは十一月二十五日であり、義貞は自陣側に馬を駆けさせられる間隔を空けた上で砂州に射手を出し矢を射掛けて足利軍を挑発。それを受けて吉良満義・土岐頼遠・佐々木導誉ら六千が渡河し新田軍左翼を攻撃し堀口・桃井・山名の五千と渡り合ったのを契機に合戦が始まった。師直は新田軍右翼に攻め寄せ、大嶋・糠田・岩松ら七千と戦闘に入ったが、両翼とも防戦する新田軍相手に劣勢であった。これに対し仁木・細川ら一万が義貞の本隊七千に攻撃をかけ中央突破を図るが、義貞は盾を隙間なく並べ密集して敵騎兵を受け止め動じる様子を見せない。足利軍は尊氏不在のため士気が上がらず、やがて疲労から間隙が生じる。その一瞬を見た義貞が突撃を敢行し、足利軍は崩れ立ったため師直らも直義と共に敗走。
その後も直義らは勢いに乗る新田軍の前に鷺坂・手超でも続けざまに敗れ箱根に篭って防戦体制をとる。直義の危機を知った尊氏は出陣を決意して箱根竹ノ下で脇屋義助(義貞の弟)軍に奇襲をかけてこれを破り、戦局を一転させた。今度は新田軍が潰走し、足利軍はこれを追って京へと進軍。この途上で、師直は叡山山徒の立て篭る近江伊岐代城を攻略している。
朝廷軍を追い払って入京した足利軍だが、新田・北畠・楠木の率いる朝廷軍に敗れて西国に落ちのびたものの九州で朝廷方の菊池氏を破って現地の豪族達をまとめあげて再度上洛を図る。その途上の備後鞆ノ津で足利軍は水陸の二手に分かれ、五月二十五日に行われた湊川での決戦では弟師泰が直義の副将として陸軍を率い、師直自身は尊氏の下で水軍を指揮した。湊川で朝廷軍を破った足利軍は再び入京し、尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を擁立した上で建武式目を公布して自らの政権における政策方針を公表した。ここに足利政権が形を整えたといえる。
建武三年(1336)七月、師直は執事として尊氏の下で軍事・財政を担当すると共に引付方頭人も兼任し訴訟受理を行う立場になっている。そして師泰は侍所長官として武士統率を行った(暦応元年に一族の宗継に交替)。その結果、畿内近国の新興武士団や足利一門庶子に外様守護が師直の周辺に集まるのである。
6.阿倍野・石津の合戦
足利政権が形作られる一方で、依然として吉野で根拠地を建設していた南朝(後醍醐方)との戦いは激しさを増す。北朝(足利方)の建武四年(1336)、師直の弟師泰が北陸の新田義貞の金ヶ崎城を攻めて尊良親王・新田義顕を討ち恒良親王を捕らえたが義貞・脇屋義助や洞院実世は抵抗を続けていた。一方、京では堺浦の魚商人が南朝内応の容疑で商売停止になった。商人層は南朝の重要な経済的基盤であり、中でも堺浦は軍事上・経済上拠点として後々も両軍のあいだで争奪が行われたところである。この措置によって奈良の魚介類が底をつき、春日社の供物に困ると社の供物の用意・進上担当の奉行が訴えでたため、師直は和泉守護細川顕氏に商人が実際に内応しているか調査を命じた。このように京の内外で緊張が高まっていた。
中でも最大の脅威は陸奥霊山の鎮守府大将軍・北畠顕家であった。同年に顕家は後醍醐の綸旨を受けて鎌倉を攻略して京へ向い、翌年一月に美濃青野原(大垣市・垂井町)で高師冬・土岐頼遠と戦った後迂回して伊勢に入る。二月には師直の差し向けた桃井直常・直信兄弟が顕家軍を破り、義良親王は吉野に逃れ顕家は河内へ向かった。顕家軍はこの後も天王寺で細川顕氏を破り、更に顕家の弟顕信が堺を経て男山八幡に進出し京に圧力をかける。この足利方の危機に師直は今川範国と共に八幡の顕信軍を包囲すると共に、天王寺・阿倍野で三月十六日に顕家と戦った。顕家は敗れて和泉へ行き、五月には坂本郷・観音寺に城を築き抗戦し堺浦を襲う。師直は細川顕氏と堺へ向い、五月二二日に最後の激戦が堺南方の海岸から石津にかけて行われた。決死の勢いの顕家軍は無勢にもかかわらず緒戦優勢で「今日を限りと命を捨て、両方合戦す。京方打ちまけて引きける」(『保暦間記』)という状態だった。しかし顕家軍は長途の遠征で兵力も消耗し疲労も蓄積している状態であり、次第に師直の大軍の前に圧倒されていく。この時は陸戦だけでなく海戦も行われたようで、上杉清子(尊氏の母)消息に「八幡住吉現れさせおはしまし候て、不思議の御事にて、船も六艘まで焼沈みて候事」とある。敗北した顕家は吉野へ逃れようとしたが、武蔵住人越生四郎左衛門尉がこれを討ち取り、丹後住人武蔵右京進政清が首を挙げた。他に南朝方の武将では名和義高・義重や南部師行らも戦死している。
戦勝した師直は住吉社に立ち寄り、
と詠んだ。この歌は勅撰和歌集『風雅集』に入首しており、師直が和歌に関しある程度評価を受けていた事がわかる。七月五日には顕信の篭る男山も師直によって落とされ、石清水八幡宮が炎上した。これにより南朝方の京都奪回は頓挫。これは直後の義貞戦死と共に南朝には痛手であった。翌年、後醍醐天皇は無念のうちに吉野で崩御することになる。一方足利方は師直の武功により最初の危機を乗り切った。この功績によって師直は三ヶ国から六ヶ国の守護に格上げされ、この頃から師直派が形成されることとなる。
7.「執事の殿の宮廻り」
師直といえば好色漢、と昔は相場が決まっていた。身分高い女をここかしこに隠して夜毎に通ったので、京童に「夜毎夜毎の忍び輿 執事の殿の宮廻り 畏む御幣ふとやかに 手向けを受けぬ神も無し」と歌われ笑い者になったという。例えば、二条前関白の妹を攫い今出川の館に入れ寵愛し、師夏をもうけた。しかしこの女性には前々からの愛人として大炊大納言冬信が通っていたことが発覚したため、師直は冬信の家に火をつけさせたという。この逸話に限らず、様々な話が創作されたものらしい。中でも有名なのが『太平記』に記された塩冶高貞の妻の話である。師直が軽い病にかかってその折の慰みに琵琶法師を呼び『平家物語』の源三位頼政が鵺退治の褒美に美女菖蒲前を賜った件を聞いた。あとでどうせ賜るなら美女より領地の方が良い、と言う者が家臣にいたので師直はその心得違いを諭し菖蒲前ほどの女性なら国の十ヶ国や所領の20-30ヶ所と替えても良いと言った。そこへ侍従という女が、塩冶高貞が後醍醐から賜った西台こそ菖蒲前に勝る美女であると言うので、師直は興味を示し侍従に仲立ちをさせた。しかし西台は歯牙にもかけなかったので、兼好法師に恋文を書かせ届けさせるものの西台はこれを開きもせず捨てる始末。師直は怒って以後兼好法師を寄せ付けなかったという。そして家臣・薬師寺公義に
という歌を代筆させたところ、西台は「重きが上の小夜衣」と返した。これは『新古今集』の
という歌の引用で婉曲な拒絶であったが、いささかでも反応があったせいか師直は狂喜したという。例の下女は何とか西台に愛想を尽かさせようと化粧の無い顔を見せるために湯上り姿を覗き見させたりもしたが、却って逆効果だったため下女は恐ろしくなり逃亡。師直は思いつめて何とか塩冶高貞を追い落とそうと高氏・直義に讒言したという。時に暦応四年(1341)、高貞は逃れられぬと領地出雲に逃亡した。すぐ山名・桃井といった者達が追手となり、高貞の妻子が追いつかれて自害、それを知った高貞も出雲で恨みの言葉を吐き自害したと『太平記』は伝える。しかし、高貞が幕府から追討を受けて自害したのは事実であるが、『仮名手本忠臣蔵』のモデルにもなったこの逸話が事実かは疑問である。高貞は嘗て鎌倉政権の臣下でありながら後醍醐に降伏した縁があるのを考慮すると、後村上の南朝と気脈を通じていてそれが発覚したと見るのが自然ではあるまいか。
(三)へと続きます。
(一)はこちらです。
5.足利政権の成立
建武二年七月、北条高時の遺児時行が信濃で反乱し鎌倉を落とした(中先代の乱)。このとき師直は尊氏と共に東上し、間もなく尊氏は朝廷と敵対関係に入る。この時、尊氏は朝廷に敵対する決心がつかず鎌倉の寺に篭っており、替わって直義が足利軍数万を率いて朝廷軍を率いる新田義貞を矢作川で迎え撃つ。師直はこの時、直義指揮下で第二陣として二万の兵力を率いて参加している。義貞が矢作川西岸に到達したのは十一月二十五日であり、義貞は自陣側に馬を駆けさせられる間隔を空けた上で砂州に射手を出し矢を射掛けて足利軍を挑発。それを受けて吉良満義・土岐頼遠・佐々木導誉ら六千が渡河し新田軍左翼を攻撃し堀口・桃井・山名の五千と渡り合ったのを契機に合戦が始まった。師直は新田軍右翼に攻め寄せ、大嶋・糠田・岩松ら七千と戦闘に入ったが、両翼とも防戦する新田軍相手に劣勢であった。これに対し仁木・細川ら一万が義貞の本隊七千に攻撃をかけ中央突破を図るが、義貞は盾を隙間なく並べ密集して敵騎兵を受け止め動じる様子を見せない。足利軍は尊氏不在のため士気が上がらず、やがて疲労から間隙が生じる。その一瞬を見た義貞が突撃を敢行し、足利軍は崩れ立ったため師直らも直義と共に敗走。
その後も直義らは勢いに乗る新田軍の前に鷺坂・手超でも続けざまに敗れ箱根に篭って防戦体制をとる。直義の危機を知った尊氏は出陣を決意して箱根竹ノ下で脇屋義助(義貞の弟)軍に奇襲をかけてこれを破り、戦局を一転させた。今度は新田軍が潰走し、足利軍はこれを追って京へと進軍。この途上で、師直は叡山山徒の立て篭る近江伊岐代城を攻略している。
朝廷軍を追い払って入京した足利軍だが、新田・北畠・楠木の率いる朝廷軍に敗れて西国に落ちのびたものの九州で朝廷方の菊池氏を破って現地の豪族達をまとめあげて再度上洛を図る。その途上の備後鞆ノ津で足利軍は水陸の二手に分かれ、五月二十五日に行われた湊川での決戦では弟師泰が直義の副将として陸軍を率い、師直自身は尊氏の下で水軍を指揮した。湊川で朝廷軍を破った足利軍は再び入京し、尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を擁立した上で建武式目を公布して自らの政権における政策方針を公表した。ここに足利政権が形を整えたといえる。
建武三年(1336)七月、師直は執事として尊氏の下で軍事・財政を担当すると共に引付方頭人も兼任し訴訟受理を行う立場になっている。そして師泰は侍所長官として武士統率を行った(暦応元年に一族の宗継に交替)。その結果、畿内近国の新興武士団や足利一門庶子に外様守護が師直の周辺に集まるのである。
6.阿倍野・石津の合戦
足利政権が形作られる一方で、依然として吉野で根拠地を建設していた南朝(後醍醐方)との戦いは激しさを増す。北朝(足利方)の建武四年(1336)、師直の弟師泰が北陸の新田義貞の金ヶ崎城を攻めて尊良親王・新田義顕を討ち恒良親王を捕らえたが義貞・脇屋義助や洞院実世は抵抗を続けていた。一方、京では堺浦の魚商人が南朝内応の容疑で商売停止になった。商人層は南朝の重要な経済的基盤であり、中でも堺浦は軍事上・経済上拠点として後々も両軍のあいだで争奪が行われたところである。この措置によって奈良の魚介類が底をつき、春日社の供物に困ると社の供物の用意・進上担当の奉行が訴えでたため、師直は和泉守護細川顕氏に商人が実際に内応しているか調査を命じた。このように京の内外で緊張が高まっていた。
中でも最大の脅威は陸奥霊山の鎮守府大将軍・北畠顕家であった。同年に顕家は後醍醐の綸旨を受けて鎌倉を攻略して京へ向い、翌年一月に美濃青野原(大垣市・垂井町)で高師冬・土岐頼遠と戦った後迂回して伊勢に入る。二月には師直の差し向けた桃井直常・直信兄弟が顕家軍を破り、義良親王は吉野に逃れ顕家は河内へ向かった。顕家軍はこの後も天王寺で細川顕氏を破り、更に顕家の弟顕信が堺を経て男山八幡に進出し京に圧力をかける。この足利方の危機に師直は今川範国と共に八幡の顕信軍を包囲すると共に、天王寺・阿倍野で三月十六日に顕家と戦った。顕家は敗れて和泉へ行き、五月には坂本郷・観音寺に城を築き抗戦し堺浦を襲う。師直は細川顕氏と堺へ向い、五月二二日に最後の激戦が堺南方の海岸から石津にかけて行われた。決死の勢いの顕家軍は無勢にもかかわらず緒戦優勢で「今日を限りと命を捨て、両方合戦す。京方打ちまけて引きける」(『保暦間記』)という状態だった。しかし顕家軍は長途の遠征で兵力も消耗し疲労も蓄積している状態であり、次第に師直の大軍の前に圧倒されていく。この時は陸戦だけでなく海戦も行われたようで、上杉清子(尊氏の母)消息に「八幡住吉現れさせおはしまし候て、不思議の御事にて、船も六艘まで焼沈みて候事」とある。敗北した顕家は吉野へ逃れようとしたが、武蔵住人越生四郎左衛門尉がこれを討ち取り、丹後住人武蔵右京進政清が首を挙げた。他に南朝方の武将では名和義高・義重や南部師行らも戦死している。
戦勝した師直は住吉社に立ち寄り、
天くだる あら人神の しるしあれば 世に高き名は あらはれにけり
(天から降臨した現人神の御利益のおかげで、私は高名を挙げることが出来ました)
と詠んだ。この歌は勅撰和歌集『風雅集』に入首しており、師直が和歌に関しある程度評価を受けていた事がわかる。七月五日には顕信の篭る男山も師直によって落とされ、石清水八幡宮が炎上した。これにより南朝方の京都奪回は頓挫。これは直後の義貞戦死と共に南朝には痛手であった。翌年、後醍醐天皇は無念のうちに吉野で崩御することになる。一方足利方は師直の武功により最初の危機を乗り切った。この功績によって師直は三ヶ国から六ヶ国の守護に格上げされ、この頃から師直派が形成されることとなる。
7.「執事の殿の宮廻り」
師直といえば好色漢、と昔は相場が決まっていた。身分高い女をここかしこに隠して夜毎に通ったので、京童に「夜毎夜毎の忍び輿 執事の殿の宮廻り 畏む御幣ふとやかに 手向けを受けぬ神も無し」と歌われ笑い者になったという。例えば、二条前関白の妹を攫い今出川の館に入れ寵愛し、師夏をもうけた。しかしこの女性には前々からの愛人として大炊大納言冬信が通っていたことが発覚したため、師直は冬信の家に火をつけさせたという。この逸話に限らず、様々な話が創作されたものらしい。中でも有名なのが『太平記』に記された塩冶高貞の妻の話である。師直が軽い病にかかってその折の慰みに琵琶法師を呼び『平家物語』の源三位頼政が鵺退治の褒美に美女菖蒲前を賜った件を聞いた。あとでどうせ賜るなら美女より領地の方が良い、と言う者が家臣にいたので師直はその心得違いを諭し菖蒲前ほどの女性なら国の十ヶ国や所領の20-30ヶ所と替えても良いと言った。そこへ侍従という女が、塩冶高貞が後醍醐から賜った西台こそ菖蒲前に勝る美女であると言うので、師直は興味を示し侍従に仲立ちをさせた。しかし西台は歯牙にもかけなかったので、兼好法師に恋文を書かせ届けさせるものの西台はこれを開きもせず捨てる始末。師直は怒って以後兼好法師を寄せ付けなかったという。そして家臣・薬師寺公義に
返すさえ 手や触れけんと 思うにぞ わが文ながら 打ちも置かれず
(貴方から突っ返された手紙でさえ、貴方の手が触れたのだと思えば我が手紙ながらいとおしく思われる)
という歌を代筆させたところ、西台は「重きが上の小夜衣」と返した。これは『新古今集』の
さなきだに 重が上の 小夜衣 我がつまならぬ つまを重ねそ
(ただでさえ布団が重いのだから、それ以上布団の褄を重ねるように他人の妻に手出しなさらないよう)
という歌の引用で婉曲な拒絶であったが、いささかでも反応があったせいか師直は狂喜したという。例の下女は何とか西台に愛想を尽かさせようと化粧の無い顔を見せるために湯上り姿を覗き見させたりもしたが、却って逆効果だったため下女は恐ろしくなり逃亡。師直は思いつめて何とか塩冶高貞を追い落とそうと高氏・直義に讒言したという。時に暦応四年(1341)、高貞は逃れられぬと領地出雲に逃亡した。すぐ山名・桃井といった者達が追手となり、高貞の妻子が追いつかれて自害、それを知った高貞も出雲で恨みの言葉を吐き自害したと『太平記』は伝える。しかし、高貞が幕府から追討を受けて自害したのは事実であるが、『仮名手本忠臣蔵』のモデルにもなったこの逸話が事実かは疑問である。高貞は嘗て鎌倉政権の臣下でありながら後醍醐に降伏した縁があるのを考慮すると、後村上の南朝と気脈を通じていてそれが発覚したと見るのが自然ではあるまいか。
(三)へと続きます。
by trushbasket
| 2011-02-02 00:25
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