2011年 02月 02日
高師直(三)
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目次
(二)はこちらです。
8.四条畷の合戦
暦応二年(1339)、師直は「首楞厳義疏注経」を開版し、康永元年(1342)に真如寺を建立、春屋妙葩を住職に迎えた。宗教的権威を含め既存の権威に歯向かうイメージのある師直であるが、それなりに信仰心は持っていたようだ。そして政権内部でも康永三年(1344)に上杉重能・朝方と三方内談の一角をなし重要事項の合議にあたった。しかし南朝興国四年(1343)に東国の北畠親房が結城親朝に宛てた書状に「京都凶徒の作法もっての外のきこえ、直義師直和せず、相克に及ぶと云々。滅亡程あるべからざるか。」とあることから、この頃から既に直義との対立がきざしていたのかもしれない。
南朝正平二年(1347)、この機会に乗じるかのように吉野方が蜂起。南朝軍の指揮官・楠木正行(正成の子)は八月に隅田城、九月に河内八尾城に進出、藤井寺で細川顕氏を破った。さらに十一月に住吉で山名時氏を、天王寺で顕氏を再び破ったのだ。これは京都にとってかなりの脅威だったようで、洞院公賢、中原師守がそれぞれ日記『園太暦』、『師守記』に書き記している。この事態に当り、和泉・河内の守護は細川顕氏から師泰に交替した。実力主義の師直派の台頭が促進されたのである。
十二月十四日、師泰が淀を発進して翌年一月二日に堺浦についた。師直は八幡で越年し、淀川を右に見て河内路を進み、東高野道を南進し、北河内郡讃良に到着した。この時、師直は白旗一揆・大旗一揆といった国人領主連合を組織して軍団を編成して慎重に布陣をしている。まず飯盛山に白旗一揆の県下野守の兵五千。秋篠・外山に大旗一揆の川津・高橋勢三千。四条畷の田の中に武田伊豆守の兵千。生駒山に佐々木導誉勢三千。それらの後方三キロに師直本隊二万という陣容であった。一方正行は前年十二月二十七日に吉野で後村上天皇に謁見し、大敵を前にして死を覚悟したか如意輪堂に辞世を書き残した上で出陣していた。
さて一月五日早朝、四条隆資軍二万が西方を迂回して大旗・小旗一揆を牽制し、正面では正行・弟正時・和田高家・賢秀ら三千が四条畷へ向った。正行らは師直本陣を一直線に狙い突撃。県下野守は菊水旗を見て山を下りて戦うが歩兵が主体のため騎兵の多かった楠木勢相手には分が悪く敗退した。武田伊豆守も楠木勢に撃退された。しかしこれで楠木勢はやや疲れ、停滞する。そこへ長崎資宗四十八騎が突入し、更に楠木勢に疲れが出たのを見計らって佐々木導誉の三千が攻撃。これによって楠木勢は三百余にまで討ち減らされる。
しかし正行は既に死を決していたようで、師直と刺し違える事を目指し残りの手勢を率いて更に飯盛山まで前進。一方、足利方は残敵を掃討すべく細川清氏の五百、仁木頼章の七百、千葉・宇都宮の五百を突入させるが、少数とは言え死兵と化していた楠木勢の前に蹴散らされる。更に師直本隊から七千の兵が打って出るが、これも決死の敵の前に歯が立たなかった。師直は自軍が潰走寸前になる中でも本陣に踏みとどまり味方を叱咤するがなおも苦戦は否めない。そして楠木勢が師直本陣のすぐ前に迫ったとき、側近の上山六郎左衛門が師直の身代わりとして出撃し正行に討たれたのは知られている。正行たちは当初、師直を討ち取り本懐を遂げたと歓喜したが偽者と知るや再び本陣に突撃、更に西に布陣する高師冬の三百を破るという超人的な働きをしている。しかし、流石にそれが限界であった。遂に力尽きた夕方に正行・正時兄弟は自決し、賢秀は討ち取られた。こうして畿内の南朝軍主力は壊滅、余勢を駆った師直らは南朝の本拠に攻め上った。
この際、師泰は一月十二日に河内の聖徳太子廟に討ち入った。この時「塔の九輪で茶釜を煮ると芳甘」といって九輪をすべて鋳てしまったという。その後に河内東条に入ったがそこで楠木正儀(正行の弟)に苦戦した。一方師直は十五日に大和平田荘を通過、二十四日に吉野に入り翌日放火した。蔵王堂などがこの時焼け落ち、吉野は灰燼に記した。南朝の後村上天皇は行宮を賀名生に移した。一方この事への京の公家の衝撃も大きく、洞院公賢も日記に「冥慮もっとも怖るべきか」と記している。師直は数日で吉野を離れ、東条へ向っている。吉野を焼き払ったのも長く保持することは困難であるとの戦略的判断からと思われる。兵站を脅かされて、楠木残存勢力の一掃をはかったのであろう。実際、賀名生攻撃も実施しているが、佐々木道誉の子・秀宗が討ち死にするなど苦戦して引き上げているのだ。東条でもやはり正儀相手に苦戦を余儀なくされたらしい。しかし、この戦いで北朝方の完全な軍事的優勢が決定的になると同時に師直の幕内での力がさらに強まったのである。
9.内紛の始まり
四条畷合戦以降、権勢を強めた師直は田代氏、淡輪氏など畿内の在地領主層を直轄化することでその勢力を固めていた。他に、新興守護勢力や足利一門の庶子が彼を支えていた。師泰が掃部寮河内大庭を横領して兵粮料所として分与したのもその力となったであろう。一方で直義は五番編成の引付方を組織し、その合議官・審理官は旧鎌倉司法吏僚でなっていた。直義派の中心はこれら法曹官僚や足利一門惣領であった。直義はそうした中で荘園制による秩序を護持する側に立つようになった。土岐頼遠が光厳上皇の牛車に矢を射掛けた事件で彼が頼遠を厳罰に処したことはその一例といえよう。そうした直義にとって、徹底して権威・秩序を否定する師直は自らの管轄ともしばしば衝突する許しがたい存在であった事は想像に難くない。所領が少ないと不平を漏らす武士に「何を少所と嘆き給ふ」といって実力で奪い取ることを勧めたり(事実、寺社領である上久世荘の公文覚賢らに名田半分を地頭分としている)、
と放言した、というような『太平記』が伝える逸話は余りに有名であろう。こうして直義・師直の対立は日々激化していた。
貞和三年(1347)六月、四条河原で橋勧進田楽が催され将軍尊氏も見物した折に桟敷が倒壊して圧死者を多く出す惨事が起こった。時期が時期であっただけに人々は天狗の仕業である、凶事の前兆であると慄いた。その頃の閏六月、夢窓疎石門下の大休寺住職・妙吉が直義に上杉重能・畠山直宗を執権として直義の子・如意王を擁立することを訴えた。これを受けて直義は三十日、持明院殿に参上して師直派の排除を朝廷に求める。その結果、七月に師直は執事職を解かれ、朝廷出仕も停止された。こうして、直義と師直の抗争が幕を開けた。この頃、日吉社の杉が転倒し、延暦寺中宮の竹が枯れ、石清水八幡で地面が鳴動し、十九日に大地震、翌月五日に台風と奇怪事が相次ぐ。折からこれらは人々の恐怖心を煽り立てた。そうした中で師直は河内の師泰に帰洛を要請し、三千騎・楯七千人の兵を入京させる。更に八月十三日、師直は兵を結集し五万騎が集める。一方、直義方もこれに対応して軍勢を召集するが、集まったのは吉良満義、石橋和義、細川顕氏、上杉重能、高師秋らの千余騎に過ぎなかった。この時、直義の養子直冬が長門探題として備前へ赴き相応の兵力を有していたのであるが、師直は挙兵に当り赤松則祐を味方につけ直冬の上洛を阻止したのである。直義は不利を悟って尊氏邸に逃げ込み、師直はそれを追って尊氏邸を包囲し直義派の流罪を要求した。その結果、直義が引退し代って鎌倉から呼び戻された尊氏の長男・義詮が政務を行うことになり、同時に重能・直宗は越前へ流罪と決定(道中で殺害されている)。この時、妙吉の住坊も破壊された。こうして師直は味方派閥を率いてのクーデターにより返り咲きを果し直義派を追い落とす事にも成功したのである。しかし、こうした強引な解決法は相手方にもしこりを残し政権内部での武力抗争の前例となった。それが最終的には師直の命取りになる。なお、この政変は政権を我が子に継承させたい尊氏と共謀してのものであったという説もあるが、真偽は不明である。尊氏としてはその気になれば簡単に師直に討たれる立場だった事も考えると、疑わしいようにも思われる。
その後、夢窓疎石の仲裁で一旦は直義・師直の二人が共同で尊氏を補佐する元の体制に戻ったものの、一旦入った亀裂は回復しなかった。同年九月、師直は備後の地頭・御家人に直冬攻撃命令を発している。そして十月には義詮が鎌倉から上洛し、代って尊氏の次男基氏が上杉憲顕(直義派)・高師冬(師直の養子、関東での親房との戦いに功が有った)に伴われ鎌倉に赴いた。一方直義は、錦小路堀川の細川顕氏邸に行き、十二月に出家して慧源と称する。そして直冬は九州で少弐頼尚を引き入れ、詫磨宗直を筑後守護、河尻幸俊を肥前守護に任じると共に国人領主層を味方に引き入れ勢力を拡大、九州は北朝・南朝・直冬に三分された。尊氏はこの情勢を重大視して、貞和五年(1349)十一月十三日には島津貞久に軍勢催促状を送り、直冬を討つことを求めている。休戦状態にあるとはいえ、緊張感に満ちた状態であった。そして遂に破局が到来する。
(四)へ続きます。
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8.四条畷の合戦
暦応二年(1339)、師直は「首楞厳義疏注経」を開版し、康永元年(1342)に真如寺を建立、春屋妙葩を住職に迎えた。宗教的権威を含め既存の権威に歯向かうイメージのある師直であるが、それなりに信仰心は持っていたようだ。そして政権内部でも康永三年(1344)に上杉重能・朝方と三方内談の一角をなし重要事項の合議にあたった。しかし南朝興国四年(1343)に東国の北畠親房が結城親朝に宛てた書状に「京都凶徒の作法もっての外のきこえ、直義師直和せず、相克に及ぶと云々。滅亡程あるべからざるか。」とあることから、この頃から既に直義との対立がきざしていたのかもしれない。
南朝正平二年(1347)、この機会に乗じるかのように吉野方が蜂起。南朝軍の指揮官・楠木正行(正成の子)は八月に隅田城、九月に河内八尾城に進出、藤井寺で細川顕氏を破った。さらに十一月に住吉で山名時氏を、天王寺で顕氏を再び破ったのだ。これは京都にとってかなりの脅威だったようで、洞院公賢、中原師守がそれぞれ日記『園太暦』、『師守記』に書き記している。この事態に当り、和泉・河内の守護は細川顕氏から師泰に交替した。実力主義の師直派の台頭が促進されたのである。
十二月十四日、師泰が淀を発進して翌年一月二日に堺浦についた。師直は八幡で越年し、淀川を右に見て河内路を進み、東高野道を南進し、北河内郡讃良に到着した。この時、師直は白旗一揆・大旗一揆といった国人領主連合を組織して軍団を編成して慎重に布陣をしている。まず飯盛山に白旗一揆の県下野守の兵五千。秋篠・外山に大旗一揆の川津・高橋勢三千。四条畷の田の中に武田伊豆守の兵千。生駒山に佐々木導誉勢三千。それらの後方三キロに師直本隊二万という陣容であった。一方正行は前年十二月二十七日に吉野で後村上天皇に謁見し、大敵を前にして死を覚悟したか如意輪堂に辞世を書き残した上で出陣していた。
さて一月五日早朝、四条隆資軍二万が西方を迂回して大旗・小旗一揆を牽制し、正面では正行・弟正時・和田高家・賢秀ら三千が四条畷へ向った。正行らは師直本陣を一直線に狙い突撃。県下野守は菊水旗を見て山を下りて戦うが歩兵が主体のため騎兵の多かった楠木勢相手には分が悪く敗退した。武田伊豆守も楠木勢に撃退された。しかしこれで楠木勢はやや疲れ、停滞する。そこへ長崎資宗四十八騎が突入し、更に楠木勢に疲れが出たのを見計らって佐々木導誉の三千が攻撃。これによって楠木勢は三百余にまで討ち減らされる。
しかし正行は既に死を決していたようで、師直と刺し違える事を目指し残りの手勢を率いて更に飯盛山まで前進。一方、足利方は残敵を掃討すべく細川清氏の五百、仁木頼章の七百、千葉・宇都宮の五百を突入させるが、少数とは言え死兵と化していた楠木勢の前に蹴散らされる。更に師直本隊から七千の兵が打って出るが、これも決死の敵の前に歯が立たなかった。師直は自軍が潰走寸前になる中でも本陣に踏みとどまり味方を叱咤するがなおも苦戦は否めない。そして楠木勢が師直本陣のすぐ前に迫ったとき、側近の上山六郎左衛門が師直の身代わりとして出撃し正行に討たれたのは知られている。正行たちは当初、師直を討ち取り本懐を遂げたと歓喜したが偽者と知るや再び本陣に突撃、更に西に布陣する高師冬の三百を破るという超人的な働きをしている。しかし、流石にそれが限界であった。遂に力尽きた夕方に正行・正時兄弟は自決し、賢秀は討ち取られた。こうして畿内の南朝軍主力は壊滅、余勢を駆った師直らは南朝の本拠に攻め上った。
この際、師泰は一月十二日に河内の聖徳太子廟に討ち入った。この時「塔の九輪で茶釜を煮ると芳甘」といって九輪をすべて鋳てしまったという。その後に河内東条に入ったがそこで楠木正儀(正行の弟)に苦戦した。一方師直は十五日に大和平田荘を通過、二十四日に吉野に入り翌日放火した。蔵王堂などがこの時焼け落ち、吉野は灰燼に記した。南朝の後村上天皇は行宮を賀名生に移した。一方この事への京の公家の衝撃も大きく、洞院公賢も日記に「冥慮もっとも怖るべきか」と記している。師直は数日で吉野を離れ、東条へ向っている。吉野を焼き払ったのも長く保持することは困難であるとの戦略的判断からと思われる。兵站を脅かされて、楠木残存勢力の一掃をはかったのであろう。実際、賀名生攻撃も実施しているが、佐々木道誉の子・秀宗が討ち死にするなど苦戦して引き上げているのだ。東条でもやはり正儀相手に苦戦を余儀なくされたらしい。しかし、この戦いで北朝方の完全な軍事的優勢が決定的になると同時に師直の幕内での力がさらに強まったのである。
9.内紛の始まり
四条畷合戦以降、権勢を強めた師直は田代氏、淡輪氏など畿内の在地領主層を直轄化することでその勢力を固めていた。他に、新興守護勢力や足利一門の庶子が彼を支えていた。師泰が掃部寮河内大庭を横領して兵粮料所として分与したのもその力となったであろう。一方で直義は五番編成の引付方を組織し、その合議官・審理官は旧鎌倉司法吏僚でなっていた。直義派の中心はこれら法曹官僚や足利一門惣領であった。直義はそうした中で荘園制による秩序を護持する側に立つようになった。土岐頼遠が光厳上皇の牛車に矢を射掛けた事件で彼が頼遠を厳罰に処したことはその一例といえよう。そうした直義にとって、徹底して権威・秩序を否定する師直は自らの管轄ともしばしば衝突する許しがたい存在であった事は想像に難くない。所領が少ないと不平を漏らす武士に「何を少所と嘆き給ふ」といって実力で奪い取ることを勧めたり(事実、寺社領である上久世荘の公文覚賢らに名田半分を地頭分としている)、
「若王ナクテ叶フマジキ道理アラバ、木ヲ以テ造ルカ、金ヲ以テ鋳ルカシテ、生タル院、国王ヲバ何方ヘモ皆流シ捨テ奉ラバヤ」
(もし王がなければならないのであれば、木像を造るか金属なりで像を作るかして、生きた院や国王はどこかへ流してしまえばよい)
と放言した、というような『太平記』が伝える逸話は余りに有名であろう。こうして直義・師直の対立は日々激化していた。
貞和三年(1347)六月、四条河原で橋勧進田楽が催され将軍尊氏も見物した折に桟敷が倒壊して圧死者を多く出す惨事が起こった。時期が時期であっただけに人々は天狗の仕業である、凶事の前兆であると慄いた。その頃の閏六月、夢窓疎石門下の大休寺住職・妙吉が直義に上杉重能・畠山直宗を執権として直義の子・如意王を擁立することを訴えた。これを受けて直義は三十日、持明院殿に参上して師直派の排除を朝廷に求める。その結果、七月に師直は執事職を解かれ、朝廷出仕も停止された。こうして、直義と師直の抗争が幕を開けた。この頃、日吉社の杉が転倒し、延暦寺中宮の竹が枯れ、石清水八幡で地面が鳴動し、十九日に大地震、翌月五日に台風と奇怪事が相次ぐ。折からこれらは人々の恐怖心を煽り立てた。そうした中で師直は河内の師泰に帰洛を要請し、三千騎・楯七千人の兵を入京させる。更に八月十三日、師直は兵を結集し五万騎が集める。一方、直義方もこれに対応して軍勢を召集するが、集まったのは吉良満義、石橋和義、細川顕氏、上杉重能、高師秋らの千余騎に過ぎなかった。この時、直義の養子直冬が長門探題として備前へ赴き相応の兵力を有していたのであるが、師直は挙兵に当り赤松則祐を味方につけ直冬の上洛を阻止したのである。直義は不利を悟って尊氏邸に逃げ込み、師直はそれを追って尊氏邸を包囲し直義派の流罪を要求した。その結果、直義が引退し代って鎌倉から呼び戻された尊氏の長男・義詮が政務を行うことになり、同時に重能・直宗は越前へ流罪と決定(道中で殺害されている)。この時、妙吉の住坊も破壊された。こうして師直は味方派閥を率いてのクーデターにより返り咲きを果し直義派を追い落とす事にも成功したのである。しかし、こうした強引な解決法は相手方にもしこりを残し政権内部での武力抗争の前例となった。それが最終的には師直の命取りになる。なお、この政変は政権を我が子に継承させたい尊氏と共謀してのものであったという説もあるが、真偽は不明である。尊氏としてはその気になれば簡単に師直に討たれる立場だった事も考えると、疑わしいようにも思われる。
その後、夢窓疎石の仲裁で一旦は直義・師直の二人が共同で尊氏を補佐する元の体制に戻ったものの、一旦入った亀裂は回復しなかった。同年九月、師直は備後の地頭・御家人に直冬攻撃命令を発している。そして十月には義詮が鎌倉から上洛し、代って尊氏の次男基氏が上杉憲顕(直義派)・高師冬(師直の養子、関東での親房との戦いに功が有った)に伴われ鎌倉に赴いた。一方直義は、錦小路堀川の細川顕氏邸に行き、十二月に出家して慧源と称する。そして直冬は九州で少弐頼尚を引き入れ、詫磨宗直を筑後守護、河尻幸俊を肥前守護に任じると共に国人領主層を味方に引き入れ勢力を拡大、九州は北朝・南朝・直冬に三分された。尊氏はこの情勢を重大視して、貞和五年(1349)十一月十三日には島津貞久に軍勢催促状を送り、直冬を討つことを求めている。休戦状態にあるとはいえ、緊張感に満ちた状態であった。そして遂に破局が到来する。
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by trushbasket
| 2011-02-02 00:30
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