2011年 02月 04日
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 6章 1/4
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前章
スイス人
注釈は別ページへ
第六章
イングランド軍とその敵たち
1272~1485
エドワード1世の即位からバラ戦争の終わりまで
スイス軍の成功の鍵が槍の使用であったように、14世紀と15世紀のイングランド軍においては長弓の使用こそがその成功の鍵であった。これら二つの武器はその性質も、そこから形成された民族固有の戦法も異なってはいるけれど、ともに、封建時代の鎖帷子を着た騎士による支配を打破するという、同じ役割を果たすこととなった。ここで見事に弓兵を使いこなした指揮官達が、彼らの行動のもたらす変化について何ら考えが及んでいなかったことは、この時代の軍事史において、少なからず興味を引かれる事実である。エドワード黒太子とその父は騎士道の体現者を自認しており、仮に彼らの戦法が騎士中心の戦争を破壊しつつあると認識すれば、大いに恐怖したであろう。非科学的な王が行う巨大な馬上試合のごとき戦闘は、もし一方が補助部隊を戦場に連れ込み、相手の槍を無力化するため、十分な接近を妨害してしまえば、続けることができないものであった。だが、当時の情勢は、イングランド王にそのように思い悩む余裕を与えなかった。そして彼らは手の内にある資源を最大限に活用し、これによって敵を撃破することに、大いに満足したのである。
長弓がイングランドの民族的な武器としての地位を手にしたのは、ようやく13世紀の最後の四半世紀になってからである。ノルマン朝とアンジュー朝の諸王の軍隊でも、なるほど弓兵を目にはするが、弓兵は軍中において、最多兵力でもなければ、最強部隊でもなかった。イングランドでも、英仏海峡の向こうの大陸部と同様に、鎖帷子を着た騎士の優位が依然として確信されていたのである。イングランドにおける長弓の活用がノルマン人のおかげであるとは、とても実証することができない。バイユーのタペストリー──この他の事項に関して、その正確さが同時代のあらゆる証拠から完全に証明されている──を信頼するならば、ウィリアムの弓兵の武器は、既にイングランドで知られており、ヘイスティングスの戦いでイングランド人の一部が使用したものと、全く変わるところがない。(1)すなわち短弓であり、胸まで引くもので、耳までは引かれていない。その次の世紀には、例えば旗の戦い(1138)に弓手が見られるように、弓手に関して、ときおり記述がなされているが、国軍の重要部分であったとようには見えない。そして1181年の武器に関する法令でこの武器について全く触れられていないという事実以上に、この武器の重要性の低さを物語る確かな証拠は無いであろう。したがって、ヘンリー2世の治世においては、現実には、イングランド社会のいかなる階層においても、弓は正式の武器になってはいなかったと、結論して良いだろう。同様の結論は、リチャード獅子心王の弩兵に対する偏重からも、導くことができる。そのような武器を新奇で卓越したものとして採用することなど、もし彼が14世紀に輝かしい働きをすることになる長弓を見慣れていたのであれば、あり得ないからである。弓は発射の素早さの点で弩に対して優位を占めたであろうことは、確実である。なるほどリチャードが、後者が射程距離や貫通力で優っていると考えたかもしれない。だが百年戦争の熟練の弓兵が、それらの点でも弩兵に対抗できたことは、紛れもない事実である。それゆえ、弩によって追い落とされた武器は、サクソン族の時代から継続的に使われてきた短弓にすぎないと、結論するのが賢明である。
そして弩兵は、リチャードとジョンの治世を通じて、軽装兵の諸部隊中で最高の地位を占め続けた可能性がある。前者はそれに合わせて戦闘組織を改良し、そこでは大盾兵が卓越した働きをした。後者は、イングランドの大きな災厄となった傭兵隊の中に、騎乗および徒歩の弩兵を大量に保有した。そしてジョンと争った貴族達は、飛び道具で武装した歩兵を十分に確保できなかったために、フォークス・デ・ブレオ-トの一団に対抗する上で、苦労したようである。長弓の使用が始まった時代に当たる、ヘンリー3世の治世でさえ、弩は未だに優秀な武器として認識されていた。1242年、タイユブールの戦いにおいても、この武器を装備した700人の部隊が、イングランド歩兵の精華と見なされていたのである。
長弓の真の起源を追求することは容易ではない。ただ、南ウェールズ人は、これを1150年には既に確実に装備しており、ここから取り入れられたことについては、信じるだけの理由がある。(2)さらに、13世紀の前半において、イングランドの西部諸郡より北の地方において、この武器の大流行が見られるので、この事実に起源を求めても良いかもしれない。民族的な武器として採用された始まりは、1252年の武器に関する法令で、そこでは40シリング以上の土地保有者と9マーク以上の動産保有者は、剣、短剣、弓矢で武装するよう要求された。(3)同時代の文書は、「ウェールズに対する遠征に際して」、王のもとに一人あるいはそれ以上の弓兵を供出させるための、様々な種類の義務について語っている。奇妙なことであるが、1281年になっても弩への偏愛は残存していたようであり、その使い手の俸給は弓兵よりもかなり多くなってる。(4)
エドワード1世によって長弓は初めて優位を占めるようになった。この君主はその孫とひ孫と同様、有能な戦士であり、戦争における新たな手法を開発する能力を有していた。それどころか、それらの子孫達と異なり、彼は相当の戦略能力を発揮している。ウェールズにおける長期遠征の中で、彼は、ヘイスティングスでウィリアム征服王が用いたような、弓兵の科学的用法を導入することになった。これが初めて実行されたのは、オーウィン・ブリッジの戦い(1282)におけるルーエラン公との戦闘であったことが知られているが、その後、1295年にはコンウェイ近郊で行われた戦いで、ウォリック伯によって模倣されている。
ウェールズ人は、伯が接近すると、その軍勢の前面に非常に長い槍を持って布陣し、突如として伯とその部隊に、柄を地面に着け穂先を上げる形で、槍を向け、イングランド騎兵を撃破してしまった。しかし伯は、彼らに対する備えとして、弓兵を騎士達の間に配置しており、結果、この飛び道具によって槍を構えた軍勢は、壊走へと追い込まれた。(5)
フォールカークの戦い(1298)は、適切に騎兵に支援された弓手が、主導的な役割を果たした最初の戦いで、真に重要性を持つものであった。戦いの推移は、矢の威力を明白に実証しており、イングランドの指揮官が、これを教訓として受け入れ損ねるはずはなかった。ウィリアム・ウォレスの軍隊を形成していた低地地方のスコットランド人は、主に槍兵で構成されており、それは長大な長さの槍を装備するという、スイス人と同様の武装であった。彼らは軍中に、数百名の兵力からなる騎兵の小部隊を保有していたし、このほかエトリック地方とセルカーク地方から集められた弓兵も、一定比率、存在していた。ウォレスは沼地の背後の絶好の位置を選んで、槍兵を四つの巨大な円形密集部隊(スコットランド人はこれをschiltronと呼んだ)に編成し、どの方向からの敵にも立ち向かうことのできる態勢を整えていた。軽装兵部隊はこれらの密集部隊の間隙に戦列を構成し、騎兵は予備として待機していた。エドワードは騎兵を三集団に分けて到来した。彼の弓兵はその間に配置されていた。イングランド軍の先頭の「battle」はマーシャル伯が率いていたが、沼地へと乗り入れて、足止めを食い、スコットランド軍の飛び道具に大いに苦しめられることになった。第二集団はダラムの司教が率いていたが、この障害を見て取ると、ウォレスの側背を突くために、沼地を側面から迂回し始めた。イングランド騎士軍が接近すると、スコットランド騎兵の小部隊は、一撃も加えてくることなく戦場から逃げ去った。こうして司教の騎兵集団は敵の戦列に背後から突撃した。ウォレスの弓兵は短弓で武装するのみで、しかもその使用にあまり熟練していなかったので、軽歩兵隊に襲いかかった部隊は、これを容易く撃破することができた。だが、槍兵の密集部隊と戦うことになったイングランド軍騎兵は、凄まじい抵抗を受け、混乱して敗走することになった。そこで司教は、歩兵と残りの騎兵を率いて沼地の向こうに現れた王が、到着してくるのを待つことにした。
この後、エドワードは弓手をスコットランド軍の密集部隊に接近させたが、彼らはこれに反撃することはできず(軽装兵が逃げ去っていたため)、イングランド騎兵も接近してきたため、突撃に出ることも不可能であった。密集部隊への矢の雨をいくつかの点へと集中させることで、王はスコットランド軍の隊列を穴だらけにすることに成功し、今度は騎兵を繰り出して、急襲をかけた。計画は成功であった。密集部隊の崩れた地点を貫通すると、騎士達は再び槍兵の中へと突っ込んで、敵に凄まじい虐殺を加えていった。この戦闘の教訓は明らかであった。騎兵はスコットランド人の戦法を破ることはできないが、騎兵の支援を受けた弓兵は、容易に、与えられた任務を成功させるのである。
この結果、以後の二世紀間においては、イングランド軍とスコットランド軍の戦いは全て、フォールカークの戦いと同様の特徴を見せることになった。ハリドン・ヒルの戦い(1333)、ネヴィルズ・クロスの戦い(1346)、ホミルドンの戦い(1402)、フロッデンの戦い(1513)の戦いは全て、同じ戦術を変形させただけであった。低地地方の歩兵の堅固だが鈍重な密集部隊は、対抗策として側面を弓兵で固めたイングランド軍騎士の戦列に、よろめきながら接近しようと努め、生け贄となったのである。そして、一人の弓手で「12のスコットランド人の命を奪った」ことは大いに誇って良いだろう。彼は押し寄せてくる槍兵の大群の中の、狙いやすい的に向けて矢を打ち込めば、確実に戦果を上げることができたのである。
[ところで、バノックバーンの戦い(1314)は、一般的な法則の注目すべき例外を成している。もっとも、その結果は、フォールカーク以来の戦法を廃棄しようとしてもたらされたのではなく、エドワード2世の率いた遠征では常態となっていた、狂ったかのような未熟な指揮によってもたらされたのであった。ロバート・ブルースの軍勢は、ウォレスのものと良く似た構成で、兵力は歩兵10,000と選りすぐりの騎兵500に上った。ブルースはニュー・パークで堅固な位置を占め、エドワードが開城させようとしているスターリングの城と町を、監視していた。スコットランド王は、迎撃のため、フォールカークからスターリングへと走る古代ローマの街道沿いに、布陣していたが、イングランド軍は1314年6月23日の午後に綿密な偵察を行っており、スコットランド軍を闇に紛れて迂回することを決定した。そのため彼らは6月23日から24日にかけての夜中を、バノックバーン川を、同名の村落とクルックブリッジの間、14世紀には湿地であった地帯で、渡河するのに費やした。エドワード軍は、20,000近くを数えたため、川を越えるのに一晩費やしてしまい、夜明けには、聖ニニアン教会の下方の平原で、無秩序な群衆と化してうごめいていた。グロスター伯が率いる前衛だけが多少の秩序を保つことに成功していた。これはブルースに絶好の機会を与え、彼は直ちにこの気に乗じた。軍を新たな方向に向け直しつつ、彼は、schiltronをスイス軍の通常の攻撃態勢とよく似た梯形編成に並べる形で、軍に斜面を攻め下ろさせ、ごったがえすイングランド軍の中へと凄まじい破壊力で押しかけた。イングランド軍では、弓兵の内わずかな人数が、右翼に配置されていたが、この部隊は、キース将軍率いるスコットランド騎兵の突撃に踏み倒され、戦場から逃走、これは史上唯一のスコットランド騎士による注目に値する戦果となった。]
[戦いはブルースの槍兵とエドワードの騎士による混戦へとなだれ込んだ。後者は、不完全で威力の低い突撃しかできない狭い空間に押し込められて、槍兵の戦列を突き破ることが全くできなかった。後方の部隊は戦闘に加わることができず、戦友達が虐殺されていく間、無力に立ちつくしていた。ついに、極度の疲労とスコットランド軍の作戦によって、イングランド軍の前方の戦列は完全に突き破られ、敗北し壊走した。その背後には、バノックバーン川の両岸に広がる湿地帯と幅の広いフォース川の流れが、横たわっていた。逃走中に数百人が溺死することになった。エドワード王自身は、回り道して、彼の入場を拒んでいたスターリング城の側を通って逃走することで、捕獲を免れた。これ以前も、そして以後も、イギリス貴族がこのような恐ろしい殺戮を受けたことはなく、イギリス軍がこれほどの敗北を被ったこともなかった。この教訓は明らかであった。騎兵は、どれほど勇敢で、どれほど戦意が高くとも、何の支援もなく槍兵を打ち破ることはできず、弓兵は重装部隊の支援を受けなくては無価値なのである。](6)
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イングランド軍とその敵たち
1272~1485
エドワード1世の即位からバラ戦争の終わりまで
スイス軍の成功の鍵が槍の使用であったように、14世紀と15世紀のイングランド軍においては長弓の使用こそがその成功の鍵であった。これら二つの武器はその性質も、そこから形成された民族固有の戦法も異なってはいるけれど、ともに、封建時代の鎖帷子を着た騎士による支配を打破するという、同じ役割を果たすこととなった。ここで見事に弓兵を使いこなした指揮官達が、彼らの行動のもたらす変化について何ら考えが及んでいなかったことは、この時代の軍事史において、少なからず興味を引かれる事実である。エドワード黒太子とその父は騎士道の体現者を自認しており、仮に彼らの戦法が騎士中心の戦争を破壊しつつあると認識すれば、大いに恐怖したであろう。非科学的な王が行う巨大な馬上試合のごとき戦闘は、もし一方が補助部隊を戦場に連れ込み、相手の槍を無力化するため、十分な接近を妨害してしまえば、続けることができないものであった。だが、当時の情勢は、イングランド王にそのように思い悩む余裕を与えなかった。そして彼らは手の内にある資源を最大限に活用し、これによって敵を撃破することに、大いに満足したのである。
長弓がイングランドの民族的な武器としての地位を手にしたのは、ようやく13世紀の最後の四半世紀になってからである。ノルマン朝とアンジュー朝の諸王の軍隊でも、なるほど弓兵を目にはするが、弓兵は軍中において、最多兵力でもなければ、最強部隊でもなかった。イングランドでも、英仏海峡の向こうの大陸部と同様に、鎖帷子を着た騎士の優位が依然として確信されていたのである。イングランドにおける長弓の活用がノルマン人のおかげであるとは、とても実証することができない。バイユーのタペストリー──この他の事項に関して、その正確さが同時代のあらゆる証拠から完全に証明されている──を信頼するならば、ウィリアムの弓兵の武器は、既にイングランドで知られており、ヘイスティングスの戦いでイングランド人の一部が使用したものと、全く変わるところがない。(1)すなわち短弓であり、胸まで引くもので、耳までは引かれていない。その次の世紀には、例えば旗の戦い(1138)に弓手が見られるように、弓手に関して、ときおり記述がなされているが、国軍の重要部分であったとようには見えない。そして1181年の武器に関する法令でこの武器について全く触れられていないという事実以上に、この武器の重要性の低さを物語る確かな証拠は無いであろう。したがって、ヘンリー2世の治世においては、現実には、イングランド社会のいかなる階層においても、弓は正式の武器になってはいなかったと、結論して良いだろう。同様の結論は、リチャード獅子心王の弩兵に対する偏重からも、導くことができる。そのような武器を新奇で卓越したものとして採用することなど、もし彼が14世紀に輝かしい働きをすることになる長弓を見慣れていたのであれば、あり得ないからである。弓は発射の素早さの点で弩に対して優位を占めたであろうことは、確実である。なるほどリチャードが、後者が射程距離や貫通力で優っていると考えたかもしれない。だが百年戦争の熟練の弓兵が、それらの点でも弩兵に対抗できたことは、紛れもない事実である。それゆえ、弩によって追い落とされた武器は、サクソン族の時代から継続的に使われてきた短弓にすぎないと、結論するのが賢明である。
そして弩兵は、リチャードとジョンの治世を通じて、軽装兵の諸部隊中で最高の地位を占め続けた可能性がある。前者はそれに合わせて戦闘組織を改良し、そこでは大盾兵が卓越した働きをした。後者は、イングランドの大きな災厄となった傭兵隊の中に、騎乗および徒歩の弩兵を大量に保有した。そしてジョンと争った貴族達は、飛び道具で武装した歩兵を十分に確保できなかったために、フォークス・デ・ブレオ-トの一団に対抗する上で、苦労したようである。長弓の使用が始まった時代に当たる、ヘンリー3世の治世でさえ、弩は未だに優秀な武器として認識されていた。1242年、タイユブールの戦いにおいても、この武器を装備した700人の部隊が、イングランド歩兵の精華と見なされていたのである。
長弓の真の起源を追求することは容易ではない。ただ、南ウェールズ人は、これを1150年には既に確実に装備しており、ここから取り入れられたことについては、信じるだけの理由がある。(2)さらに、13世紀の前半において、イングランドの西部諸郡より北の地方において、この武器の大流行が見られるので、この事実に起源を求めても良いかもしれない。民族的な武器として採用された始まりは、1252年の武器に関する法令で、そこでは40シリング以上の土地保有者と9マーク以上の動産保有者は、剣、短剣、弓矢で武装するよう要求された。(3)同時代の文書は、「ウェールズに対する遠征に際して」、王のもとに一人あるいはそれ以上の弓兵を供出させるための、様々な種類の義務について語っている。奇妙なことであるが、1281年になっても弩への偏愛は残存していたようであり、その使い手の俸給は弓兵よりもかなり多くなってる。(4)
エドワード1世によって長弓は初めて優位を占めるようになった。この君主はその孫とひ孫と同様、有能な戦士であり、戦争における新たな手法を開発する能力を有していた。それどころか、それらの子孫達と異なり、彼は相当の戦略能力を発揮している。ウェールズにおける長期遠征の中で、彼は、ヘイスティングスでウィリアム征服王が用いたような、弓兵の科学的用法を導入することになった。これが初めて実行されたのは、オーウィン・ブリッジの戦い(1282)におけるルーエラン公との戦闘であったことが知られているが、その後、1295年にはコンウェイ近郊で行われた戦いで、ウォリック伯によって模倣されている。
ウェールズ人は、伯が接近すると、その軍勢の前面に非常に長い槍を持って布陣し、突如として伯とその部隊に、柄を地面に着け穂先を上げる形で、槍を向け、イングランド騎兵を撃破してしまった。しかし伯は、彼らに対する備えとして、弓兵を騎士達の間に配置しており、結果、この飛び道具によって槍を構えた軍勢は、壊走へと追い込まれた。(5)
フォールカークの戦い(1298)は、適切に騎兵に支援された弓手が、主導的な役割を果たした最初の戦いで、真に重要性を持つものであった。戦いの推移は、矢の威力を明白に実証しており、イングランドの指揮官が、これを教訓として受け入れ損ねるはずはなかった。ウィリアム・ウォレスの軍隊を形成していた低地地方のスコットランド人は、主に槍兵で構成されており、それは長大な長さの槍を装備するという、スイス人と同様の武装であった。彼らは軍中に、数百名の兵力からなる騎兵の小部隊を保有していたし、このほかエトリック地方とセルカーク地方から集められた弓兵も、一定比率、存在していた。ウォレスは沼地の背後の絶好の位置を選んで、槍兵を四つの巨大な円形密集部隊(スコットランド人はこれをschiltronと呼んだ)に編成し、どの方向からの敵にも立ち向かうことのできる態勢を整えていた。軽装兵部隊はこれらの密集部隊の間隙に戦列を構成し、騎兵は予備として待機していた。エドワードは騎兵を三集団に分けて到来した。彼の弓兵はその間に配置されていた。イングランド軍の先頭の「battle」はマーシャル伯が率いていたが、沼地へと乗り入れて、足止めを食い、スコットランド軍の飛び道具に大いに苦しめられることになった。第二集団はダラムの司教が率いていたが、この障害を見て取ると、ウォレスの側背を突くために、沼地を側面から迂回し始めた。イングランド騎士軍が接近すると、スコットランド騎兵の小部隊は、一撃も加えてくることなく戦場から逃げ去った。こうして司教の騎兵集団は敵の戦列に背後から突撃した。ウォレスの弓兵は短弓で武装するのみで、しかもその使用にあまり熟練していなかったので、軽歩兵隊に襲いかかった部隊は、これを容易く撃破することができた。だが、槍兵の密集部隊と戦うことになったイングランド軍騎兵は、凄まじい抵抗を受け、混乱して敗走することになった。そこで司教は、歩兵と残りの騎兵を率いて沼地の向こうに現れた王が、到着してくるのを待つことにした。
この後、エドワードは弓手をスコットランド軍の密集部隊に接近させたが、彼らはこれに反撃することはできず(軽装兵が逃げ去っていたため)、イングランド騎兵も接近してきたため、突撃に出ることも不可能であった。密集部隊への矢の雨をいくつかの点へと集中させることで、王はスコットランド軍の隊列を穴だらけにすることに成功し、今度は騎兵を繰り出して、急襲をかけた。計画は成功であった。密集部隊の崩れた地点を貫通すると、騎士達は再び槍兵の中へと突っ込んで、敵に凄まじい虐殺を加えていった。この戦闘の教訓は明らかであった。騎兵はスコットランド人の戦法を破ることはできないが、騎兵の支援を受けた弓兵は、容易に、与えられた任務を成功させるのである。
この結果、以後の二世紀間においては、イングランド軍とスコットランド軍の戦いは全て、フォールカークの戦いと同様の特徴を見せることになった。ハリドン・ヒルの戦い(1333)、ネヴィルズ・クロスの戦い(1346)、ホミルドンの戦い(1402)、フロッデンの戦い(1513)の戦いは全て、同じ戦術を変形させただけであった。低地地方の歩兵の堅固だが鈍重な密集部隊は、対抗策として側面を弓兵で固めたイングランド軍騎士の戦列に、よろめきながら接近しようと努め、生け贄となったのである。そして、一人の弓手で「12のスコットランド人の命を奪った」ことは大いに誇って良いだろう。彼は押し寄せてくる槍兵の大群の中の、狙いやすい的に向けて矢を打ち込めば、確実に戦果を上げることができたのである。
[ところで、バノックバーンの戦い(1314)は、一般的な法則の注目すべき例外を成している。もっとも、その結果は、フォールカーク以来の戦法を廃棄しようとしてもたらされたのではなく、エドワード2世の率いた遠征では常態となっていた、狂ったかのような未熟な指揮によってもたらされたのであった。ロバート・ブルースの軍勢は、ウォレスのものと良く似た構成で、兵力は歩兵10,000と選りすぐりの騎兵500に上った。ブルースはニュー・パークで堅固な位置を占め、エドワードが開城させようとしているスターリングの城と町を、監視していた。スコットランド王は、迎撃のため、フォールカークからスターリングへと走る古代ローマの街道沿いに、布陣していたが、イングランド軍は1314年6月23日の午後に綿密な偵察を行っており、スコットランド軍を闇に紛れて迂回することを決定した。そのため彼らは6月23日から24日にかけての夜中を、バノックバーン川を、同名の村落とクルックブリッジの間、14世紀には湿地であった地帯で、渡河するのに費やした。エドワード軍は、20,000近くを数えたため、川を越えるのに一晩費やしてしまい、夜明けには、聖ニニアン教会の下方の平原で、無秩序な群衆と化してうごめいていた。グロスター伯が率いる前衛だけが多少の秩序を保つことに成功していた。これはブルースに絶好の機会を与え、彼は直ちにこの気に乗じた。軍を新たな方向に向け直しつつ、彼は、schiltronをスイス軍の通常の攻撃態勢とよく似た梯形編成に並べる形で、軍に斜面を攻め下ろさせ、ごったがえすイングランド軍の中へと凄まじい破壊力で押しかけた。イングランド軍では、弓兵の内わずかな人数が、右翼に配置されていたが、この部隊は、キース将軍率いるスコットランド騎兵の突撃に踏み倒され、戦場から逃走、これは史上唯一のスコットランド騎士による注目に値する戦果となった。]
[戦いはブルースの槍兵とエドワードの騎士による混戦へとなだれ込んだ。後者は、不完全で威力の低い突撃しかできない狭い空間に押し込められて、槍兵の戦列を突き破ることが全くできなかった。後方の部隊は戦闘に加わることができず、戦友達が虐殺されていく間、無力に立ちつくしていた。ついに、極度の疲労とスコットランド軍の作戦によって、イングランド軍の前方の戦列は完全に突き破られ、敗北し壊走した。その背後には、バノックバーン川の両岸に広がる湿地帯と幅の広いフォース川の流れが、横たわっていた。逃走中に数百人が溺死することになった。エドワード王自身は、回り道して、彼の入場を拒んでいたスターリング城の側を通って逃走することで、捕獲を免れた。これ以前も、そして以後も、イギリス貴族がこのような恐ろしい殺戮を受けたことはなく、イギリス軍がこれほどの敗北を被ったこともなかった。この教訓は明らかであった。騎兵は、どれほど勇敢で、どれほど戦意が高くとも、何の支援もなく槍兵を打ち破ることはできず、弓兵は重装部隊の支援を受けなくては無価値なのである。](6)
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by trushbasket
| 2011-02-04 00:25
| My(山田昌弘)








