2011年 02月 04日
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 6章 2/4
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第六章
イングランド軍とその敵たち
1272~1485
エドワード1世の即位からバラ戦争の終わりまで
この次にイングランドの弓手が参加した一連の作戦は、低地地方の屈強な槍兵とはあらゆる面で異なった敵を相手とするものであった。フランスでは騎士道という名の下、堕落しきった不合理な戦争術が、他のヨーロッパ諸国に比類がないほどの絶大な力で、はびこっていた。ヴァロア朝のフィリップやジャンの軍勢は、自分たちを世界最高の軍隊であると信じる、熱狂的で無規律な貴族階級で構成されており、実のところ、それは武装した暴徒と大差ない存在であった。封建社会の特徴を戦場に再現した戦闘組織を、フランス貴族達は、理想的な戦争組織であると考えていた。彼らは自らを、社会的に農民達より限りなく優れた存在であり、当然、軍事的にも同様に優れていなければならないと、確信していた。それ故、彼らはあらゆる種類の歩兵を軽蔑する傾向にあり、その上、歩兵が戦場で彼らの目に映ると、それを自分たちの階級的な誇りに対する、一種の侮辱であると見なした。フランス貴族の自信は──クルトレの戦いの結果、一時的に動揺したけれど──モン・ザン・ペヴェールとカッセルにおける血みどろの勝利によって、復活を遂げていた。それらの戦いで、フランドルの勇敢だが訓練不足の市民達が、陥ることになった運命は、キリスト教世界で最強の階級である騎士にあえて挑戦した、全ての歩兵に待ち受ける唯一の典型的な運命であると、信じられていた。だが、その誇りは破滅の目前にさしかかっており、今、フランス貴族達は、かつて予想すらしなかったほどの強力な歩兵と遭遇する。
この傲慢な騎兵達と、彼らが引き連れてきた半武装の貧弱な農奴部隊に、イングランド弓兵は今や挑戦するのである。彼らはこの頃ほとんど職業軍人と化しており、通常は強制的に従軍させられてはおらず、兵士供出の契約を王と結んだ貴族や騎士によって集められた、志願兵であった。彼らは、好戦性や冒険心、略奪への期待から従軍しており、フランス貴族に付き従って参戦した無気力な群衆と比べると、士気の点で圧倒的に優位に立っていた。ただし、歴史家はこの優位を、実際以上に強調しすぎてきた。戦意のみが十四世紀のイングランド軍の勝利に貢献したわけではなかった。自信や好戦性は、ローゼベーケにおけるフランドル軍やフォールカークにおけるスコットランド軍でも、不足してはいなかったが、それだけで成功が保証されるわけではないのである。自由農民の優れた装備と戦法が、勇気よりもずっと大きく、クレーシーとポアティエで彼らが戦場の支配者となるのに貢献したのである。
長弓はこれまでのところ攻勢作戦で、イングランド軍より騎兵戦力に劣った敵に対して用いられている。ところがエドワード3世がフランスへと侵攻すると、戦争の有様は全く異なるものとなった。フランス軍は騎兵の兵力で常に優越しており、弓兵戦法は防御のために使用された。彼らは間もなく、突撃してくる騎兵隊が、静止した歩兵委密集部隊と同様、矢の良い的であることに気づいた。実際、矢が飛来してくること以上に騎兵部隊を恐れさせるものなど、どこにも存在しなかった。矢は、騎手を一定割合で撃ち倒すのみならず、馬を傷つけて、前後に脚を跳ね上げ周りを巻き込み暴れさせることで、突撃力を削ぐという効果を持っていた。距離が近づいて射撃が容易になるにつれ、人馬の傷も増えた。混乱が拡大して、前進速度は低下を続け、ついには部隊の耐久力の限界を越える。単純な正面攻撃で弓兵の戦列を押し破るのは、騎兵にとってはほとんど不可能な課題であった。ただし、1346年までは、大陸ヨーロッパはこの事実を認識していなかったのである。
[クレーシーの戦い(1346)では、エドワード3世は約11,000人の軍を、通常の三つの「battle」に分割した。王太子が率いる右翼は、メー川とワディクール村に挟まれた地点で、丘の中腹に位置を占めた。この部隊は800人の下馬した騎士と、その両脇を固める合計2,000人の弓兵、さらに約1,000人のウェールズ人槍兵で構成されていた。王子の左方で、少し後ろに下がった位置には、アランデル伯とノーサンプトン伯が共同で指揮する、第二部隊が配置された。この部隊は第一部隊よりは少し小さく、同様の隊形を採った500の騎士と1,200の弓兵から構成されていた。この部隊の右端は、王子の部隊の左端と接しており、左端はワディクール村によって守られていた。エドワード王自身は、700の騎士と2,000の弓兵、そしておそらく1,000のウェールズ人槍兵から成る予備隊を率いて、王太子の「battle」の後方、ラ・グランジュの森の前面の台地の上に位置を占めた。](7)
指揮官が予定していた日より早くに戦闘せざるを得なかった事実ほど、フランス軍の無規律を物語るものはない。イングランド軍が見えた時、フィリップとその将軍達は、自軍が日の出から行進し続けていたので、戦闘を翌朝まで延期する決定をした。しかし、停止命令が前衛に届いた時、部隊を統べる貴族達は、後衛の部隊でまだ行進中のものがあるのを見て、先駆けの栄誉を奪われたと感じた。そのため彼らは押し進み、そこに主力部隊も付いていったため、全軍がもはや戦闘は不可避なほどに、イングランド軍に接近しすぎてしまった。この日の情景は頻繁に描写されている。したがって、弩を引き絞る間に多数が撃ち倒されるなど、不幸なジェノヴァ人弩兵の被った災禍について、詳述する必要はないだろう。弓兵の隊列への正面からの騎兵突撃は、何の戦果も上げることができず、大地に人馬の死体が積み上がり、前進が不可能になるまで、延々と虐殺が行われた。
[フランス軍の主な攻撃は常に、弓兵よりも下馬した騎士へと向けられており、時にはかなりの圧迫を加えていたようであるが、それでもイングランド軍の隊列は一歩たりとも後退することはなかった。騎士達は槍の隊列を破ることができず、その隊列の前に倒れたが、主力部隊の戦いもこれと大差なかった。夕暮れ時にフランス軍は混乱に陥り、全軍が散り散りになってしまった。イングランド軍は一歩も動くことなく、勝利を獲得した。敵は彼らの下へ殺されにやってきたのである。]イングランド軍の戦列の前には、敵軍の3分の1を大きく上回る死体が横たわっており、そのうちの大半は弓手の放った矢に倒れたのであった。
クレーシーの戦いは、下馬した騎士によって適切に補助された弓兵は、最も決定的な騎兵突撃をも打ち破ることができると、証明した。しかしこの戦いからフランス軍が引き出した教訓は、これとは全く異なる種類のものであった。階級的な誇りに邪魔されて、彼らは、農民風情の武器が勝利をもたらしたとは考えることができず、勝利は下馬した騎士の密集隊列の堅固さのせいであると、結論づけたのである。
この教訓を心に留めたジャン王は、ポワティエの戦い(1356)において、エドワード王の成功した戦法を、模倣することに決定した。彼は、二つの小部隊を除く騎士全員に──暴挙と言うほか無いが──槍を短縮し、拍車を外し、馬を後方へ送るよう命令した。彼は、攻撃と防御では全く状況が異なるということを、理解できていなかった。一定の場所を固守するための軍隊と、強固な陣地を攻撃する軍隊では、全く別種の戦法を採用するものである。エドワード軍の両翼部隊が防御目的で採用した工夫は、モーペルテュイの丘の攻撃に使うには、まったくの愚策であった。王は堅固さではなく、激しい衝撃力を求めるべきであった。実際、この戦いを通じて、ジャンの指揮こそ何にもまして致命的であった。黒太子は飢えのために一週間以内に降伏に追い込まれたはずであって、そもそも戦いが全く必要性のないものであった。[事実、イングランド軍は絶望的な状況にあり、戦いの日の朝、エドワード王子は戦わずに撤退しようと努めており、フランス軍が彼の軍の後衛と交戦するに及んで、ようやく戦闘を決定している。]そして、仮に戦いが起こらねばならないにしても、フランス軍全体で一つの巨大なくさび形隊形──そこでは狭い幅の隊列で部隊が先頭から続々と連なっている──を形成して、イングランド軍の最も堅固な地点へ突進するというのは、狂気の沙汰であった。だがこの計画は王によって採用が決められてしまった。モーペルテュイの台地への接近経路は、やぶと木々に覆われた地域を通っており、さらに生け垣によって守られていて、そこに沿ってイングランド弓兵が配置されていた。ジャンは300人の騎兵から成る精鋭部隊に、生け垣の隙間を通って進出させ、残りの軍は、下馬騎士による三つの巨大な密集部隊となって、その直後に付いていった。
当然、弓兵が前衛部隊の大部分を撃ち倒し、敗残兵は後ろに続く第一の「battle」へと逃げ込んでいった。これは直ちに混乱を引き起こしたが、続いて弓兵が後続の隊列に攻撃を集中させると、ますます混乱は拡大していった。至近距離での攻撃が全く為されないうちに、矢の雨の中で、フランス軍は戦意を喪失してしまった。戦機を見て取った王太子は、直ちに台地を下り、全ての騎士で、混乱した敵部隊の正面へと突入した。同時に、ビュッシュの領主の指揮の下、迂回していた、60人の騎士と100人の弓兵から成る小規模な伏兵部隊が、フランス軍の左側面に姿を現した。これがジャン王の軍勢には追い打ちとなった。軍勢のおよそ三分の二がそれ以上の迎撃を放棄して戦場から逃走した。第二の「battle」に所属するドイツ人部隊と、国王その人の間近にいる部隊だけが、称賛に値する抵抗を行っていた。これに対してイングランド軍は、時間をかけてこれらの部隊を包囲すると、弓と槍を交互に巧みに使い分けながら、彼らを粉砕していった。こうしてジャンと、その息子のフィリップ、そして王とともに踏みとどまっていた貴族達は、降伏を余儀なくされたのである。
これは素晴らしい戦術的業績であって、王子は、見事な布陣と巧みな弓兵の使用によって勝利を確保したのである。イングランド軍攻撃のためのジャンの新たな工夫は失敗に終わり、これによって彼には、彼の前任者の率いた封建騎兵のクレーシーにおける壊走以上の不名誉が、もたらされることになった。ポワティエの戦いの結果はフランス人の精神に強烈な影響を与え、以後この戦争が続いている間は、彼らは侵入者と会戦で戦おうとはしなくなったのである。彼らの旧式の戦争術が受けた衝撃によって、混乱に陥ったフランス貴族階級は、開けた戦場を断固拒否するようになり、不機嫌に居城に閉じこもって、軍事活動を、小規模な攻囲や奇襲に限定するようになってしまった。イングランド軍は──例えば1373年のランカスター伯のように──広大な領域を縦横に駆け回ることはできたが、もはや敵を戦いに引きずり出すことは、できなくなっていた。時間の余裕がない侵入者には攻めることができない城壁の中へと身を隠し、フランス軍は敵に荒廃した地域における困難な行軍を強いて、その戦力を浪費させていった。このような形態の戦争は騎士道──この道徳は良き騎士にいかなる挑戦にも応じるよう命じている──とは完全に対立するものであるが、緊急時に非常に適した方策ではあった。シャルル5世とデュ・ゲクランの戦法はジャン王の戦法による失地を完全に回復していった。イングランド軍は、戦争がもはや偉大な戦法を誇示する場ではなく、血と富が際限なく流出する、単調で退屈な占領作戦に変化しており、もはや敵地の富では戦争を支えられなくなっているということに、気づかされることになった。
馬上試合の慣習から生まれた金言ではなく、良識こそがデュ・ゲクランをこのような作戦行動に導いた。彼は戦争を冒険の精神ではなく商売の精神で取り扱った。少しずつ粘り強く進めたフランスからのイギリス軍追放作戦において、彼はそれを派手な功績によって達成するか、地味な精励によって達成するかを、全く気にしていなかった。彼は必要ならば戦っただろうが、強攻策ではなく、策略で目標を達成できるなら、それでも満足であった。彼は正面決戦よりも、夜襲、待ち伏せ、あらゆる種類の策略を好んで使用した。彼は常に傭兵隊を用いて兵力を確保していたため、軍隊が何もしないうちに解体逃走することを恐れる必要が無く、決して戦闘を強いられることがなかった。このため彼は、封建制の臨時雇いの大群の指揮官とは異なり、性急な作戦によって破局に追い込まれるようなことがなかったのである。イングランド軍は長期の消耗戦よりも大会戦に勝利するのに適した軍隊であった。戦略ではなく、戦術にこそ彼らの長所が存在したのであり、小規模の攻囲と不名誉な撤退を繰り返すうちに、武力によって海峡の向こうの大陸に領土を支配するという、無謀な試みには終止符が打たれることになった。
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イングランド軍とその敵たち
1272~1485
エドワード1世の即位からバラ戦争の終わりまで
この次にイングランドの弓手が参加した一連の作戦は、低地地方の屈強な槍兵とはあらゆる面で異なった敵を相手とするものであった。フランスでは騎士道という名の下、堕落しきった不合理な戦争術が、他のヨーロッパ諸国に比類がないほどの絶大な力で、はびこっていた。ヴァロア朝のフィリップやジャンの軍勢は、自分たちを世界最高の軍隊であると信じる、熱狂的で無規律な貴族階級で構成されており、実のところ、それは武装した暴徒と大差ない存在であった。封建社会の特徴を戦場に再現した戦闘組織を、フランス貴族達は、理想的な戦争組織であると考えていた。彼らは自らを、社会的に農民達より限りなく優れた存在であり、当然、軍事的にも同様に優れていなければならないと、確信していた。それ故、彼らはあらゆる種類の歩兵を軽蔑する傾向にあり、その上、歩兵が戦場で彼らの目に映ると、それを自分たちの階級的な誇りに対する、一種の侮辱であると見なした。フランス貴族の自信は──クルトレの戦いの結果、一時的に動揺したけれど──モン・ザン・ペヴェールとカッセルにおける血みどろの勝利によって、復活を遂げていた。それらの戦いで、フランドルの勇敢だが訓練不足の市民達が、陥ることになった運命は、キリスト教世界で最強の階級である騎士にあえて挑戦した、全ての歩兵に待ち受ける唯一の典型的な運命であると、信じられていた。だが、その誇りは破滅の目前にさしかかっており、今、フランス貴族達は、かつて予想すらしなかったほどの強力な歩兵と遭遇する。
この傲慢な騎兵達と、彼らが引き連れてきた半武装の貧弱な農奴部隊に、イングランド弓兵は今や挑戦するのである。彼らはこの頃ほとんど職業軍人と化しており、通常は強制的に従軍させられてはおらず、兵士供出の契約を王と結んだ貴族や騎士によって集められた、志願兵であった。彼らは、好戦性や冒険心、略奪への期待から従軍しており、フランス貴族に付き従って参戦した無気力な群衆と比べると、士気の点で圧倒的に優位に立っていた。ただし、歴史家はこの優位を、実際以上に強調しすぎてきた。戦意のみが十四世紀のイングランド軍の勝利に貢献したわけではなかった。自信や好戦性は、ローゼベーケにおけるフランドル軍やフォールカークにおけるスコットランド軍でも、不足してはいなかったが、それだけで成功が保証されるわけではないのである。自由農民の優れた装備と戦法が、勇気よりもずっと大きく、クレーシーとポアティエで彼らが戦場の支配者となるのに貢献したのである。
長弓はこれまでのところ攻勢作戦で、イングランド軍より騎兵戦力に劣った敵に対して用いられている。ところがエドワード3世がフランスへと侵攻すると、戦争の有様は全く異なるものとなった。フランス軍は騎兵の兵力で常に優越しており、弓兵戦法は防御のために使用された。彼らは間もなく、突撃してくる騎兵隊が、静止した歩兵委密集部隊と同様、矢の良い的であることに気づいた。実際、矢が飛来してくること以上に騎兵部隊を恐れさせるものなど、どこにも存在しなかった。矢は、騎手を一定割合で撃ち倒すのみならず、馬を傷つけて、前後に脚を跳ね上げ周りを巻き込み暴れさせることで、突撃力を削ぐという効果を持っていた。距離が近づいて射撃が容易になるにつれ、人馬の傷も増えた。混乱が拡大して、前進速度は低下を続け、ついには部隊の耐久力の限界を越える。単純な正面攻撃で弓兵の戦列を押し破るのは、騎兵にとってはほとんど不可能な課題であった。ただし、1346年までは、大陸ヨーロッパはこの事実を認識していなかったのである。
[クレーシーの戦い(1346)では、エドワード3世は約11,000人の軍を、通常の三つの「battle」に分割した。王太子が率いる右翼は、メー川とワディクール村に挟まれた地点で、丘の中腹に位置を占めた。この部隊は800人の下馬した騎士と、その両脇を固める合計2,000人の弓兵、さらに約1,000人のウェールズ人槍兵で構成されていた。王子の左方で、少し後ろに下がった位置には、アランデル伯とノーサンプトン伯が共同で指揮する、第二部隊が配置された。この部隊は第一部隊よりは少し小さく、同様の隊形を採った500の騎士と1,200の弓兵から構成されていた。この部隊の右端は、王子の部隊の左端と接しており、左端はワディクール村によって守られていた。エドワード王自身は、700の騎士と2,000の弓兵、そしておそらく1,000のウェールズ人槍兵から成る予備隊を率いて、王太子の「battle」の後方、ラ・グランジュの森の前面の台地の上に位置を占めた。](7)
指揮官が予定していた日より早くに戦闘せざるを得なかった事実ほど、フランス軍の無規律を物語るものはない。イングランド軍が見えた時、フィリップとその将軍達は、自軍が日の出から行進し続けていたので、戦闘を翌朝まで延期する決定をした。しかし、停止命令が前衛に届いた時、部隊を統べる貴族達は、後衛の部隊でまだ行進中のものがあるのを見て、先駆けの栄誉を奪われたと感じた。そのため彼らは押し進み、そこに主力部隊も付いていったため、全軍がもはや戦闘は不可避なほどに、イングランド軍に接近しすぎてしまった。この日の情景は頻繁に描写されている。したがって、弩を引き絞る間に多数が撃ち倒されるなど、不幸なジェノヴァ人弩兵の被った災禍について、詳述する必要はないだろう。弓兵の隊列への正面からの騎兵突撃は、何の戦果も上げることができず、大地に人馬の死体が積み上がり、前進が不可能になるまで、延々と虐殺が行われた。
[フランス軍の主な攻撃は常に、弓兵よりも下馬した騎士へと向けられており、時にはかなりの圧迫を加えていたようであるが、それでもイングランド軍の隊列は一歩たりとも後退することはなかった。騎士達は槍の隊列を破ることができず、その隊列の前に倒れたが、主力部隊の戦いもこれと大差なかった。夕暮れ時にフランス軍は混乱に陥り、全軍が散り散りになってしまった。イングランド軍は一歩も動くことなく、勝利を獲得した。敵は彼らの下へ殺されにやってきたのである。]イングランド軍の戦列の前には、敵軍の3分の1を大きく上回る死体が横たわっており、そのうちの大半は弓手の放った矢に倒れたのであった。
クレーシーの戦いは、下馬した騎士によって適切に補助された弓兵は、最も決定的な騎兵突撃をも打ち破ることができると、証明した。しかしこの戦いからフランス軍が引き出した教訓は、これとは全く異なる種類のものであった。階級的な誇りに邪魔されて、彼らは、農民風情の武器が勝利をもたらしたとは考えることができず、勝利は下馬した騎士の密集隊列の堅固さのせいであると、結論づけたのである。
この教訓を心に留めたジャン王は、ポワティエの戦い(1356)において、エドワード王の成功した戦法を、模倣することに決定した。彼は、二つの小部隊を除く騎士全員に──暴挙と言うほか無いが──槍を短縮し、拍車を外し、馬を後方へ送るよう命令した。彼は、攻撃と防御では全く状況が異なるということを、理解できていなかった。一定の場所を固守するための軍隊と、強固な陣地を攻撃する軍隊では、全く別種の戦法を採用するものである。エドワード軍の両翼部隊が防御目的で採用した工夫は、モーペルテュイの丘の攻撃に使うには、まったくの愚策であった。王は堅固さではなく、激しい衝撃力を求めるべきであった。実際、この戦いを通じて、ジャンの指揮こそ何にもまして致命的であった。黒太子は飢えのために一週間以内に降伏に追い込まれたはずであって、そもそも戦いが全く必要性のないものであった。[事実、イングランド軍は絶望的な状況にあり、戦いの日の朝、エドワード王子は戦わずに撤退しようと努めており、フランス軍が彼の軍の後衛と交戦するに及んで、ようやく戦闘を決定している。]そして、仮に戦いが起こらねばならないにしても、フランス軍全体で一つの巨大なくさび形隊形──そこでは狭い幅の隊列で部隊が先頭から続々と連なっている──を形成して、イングランド軍の最も堅固な地点へ突進するというのは、狂気の沙汰であった。だがこの計画は王によって採用が決められてしまった。モーペルテュイの台地への接近経路は、やぶと木々に覆われた地域を通っており、さらに生け垣によって守られていて、そこに沿ってイングランド弓兵が配置されていた。ジャンは300人の騎兵から成る精鋭部隊に、生け垣の隙間を通って進出させ、残りの軍は、下馬騎士による三つの巨大な密集部隊となって、その直後に付いていった。
当然、弓兵が前衛部隊の大部分を撃ち倒し、敗残兵は後ろに続く第一の「battle」へと逃げ込んでいった。これは直ちに混乱を引き起こしたが、続いて弓兵が後続の隊列に攻撃を集中させると、ますます混乱は拡大していった。至近距離での攻撃が全く為されないうちに、矢の雨の中で、フランス軍は戦意を喪失してしまった。戦機を見て取った王太子は、直ちに台地を下り、全ての騎士で、混乱した敵部隊の正面へと突入した。同時に、ビュッシュの領主の指揮の下、迂回していた、60人の騎士と100人の弓兵から成る小規模な伏兵部隊が、フランス軍の左側面に姿を現した。これがジャン王の軍勢には追い打ちとなった。軍勢のおよそ三分の二がそれ以上の迎撃を放棄して戦場から逃走した。第二の「battle」に所属するドイツ人部隊と、国王その人の間近にいる部隊だけが、称賛に値する抵抗を行っていた。これに対してイングランド軍は、時間をかけてこれらの部隊を包囲すると、弓と槍を交互に巧みに使い分けながら、彼らを粉砕していった。こうしてジャンと、その息子のフィリップ、そして王とともに踏みとどまっていた貴族達は、降伏を余儀なくされたのである。
これは素晴らしい戦術的業績であって、王子は、見事な布陣と巧みな弓兵の使用によって勝利を確保したのである。イングランド軍攻撃のためのジャンの新たな工夫は失敗に終わり、これによって彼には、彼の前任者の率いた封建騎兵のクレーシーにおける壊走以上の不名誉が、もたらされることになった。ポワティエの戦いの結果はフランス人の精神に強烈な影響を与え、以後この戦争が続いている間は、彼らは侵入者と会戦で戦おうとはしなくなったのである。彼らの旧式の戦争術が受けた衝撃によって、混乱に陥ったフランス貴族階級は、開けた戦場を断固拒否するようになり、不機嫌に居城に閉じこもって、軍事活動を、小規模な攻囲や奇襲に限定するようになってしまった。イングランド軍は──例えば1373年のランカスター伯のように──広大な領域を縦横に駆け回ることはできたが、もはや敵を戦いに引きずり出すことは、できなくなっていた。時間の余裕がない侵入者には攻めることができない城壁の中へと身を隠し、フランス軍は敵に荒廃した地域における困難な行軍を強いて、その戦力を浪費させていった。このような形態の戦争は騎士道──この道徳は良き騎士にいかなる挑戦にも応じるよう命じている──とは完全に対立するものであるが、緊急時に非常に適した方策ではあった。シャルル5世とデュ・ゲクランの戦法はジャン王の戦法による失地を完全に回復していった。イングランド軍は、戦争がもはや偉大な戦法を誇示する場ではなく、血と富が際限なく流出する、単調で退屈な占領作戦に変化しており、もはや敵地の富では戦争を支えられなくなっているということに、気づかされることになった。
馬上試合の慣習から生まれた金言ではなく、良識こそがデュ・ゲクランをこのような作戦行動に導いた。彼は戦争を冒険の精神ではなく商売の精神で取り扱った。少しずつ粘り強く進めたフランスからのイギリス軍追放作戦において、彼はそれを派手な功績によって達成するか、地味な精励によって達成するかを、全く気にしていなかった。彼は必要ならば戦っただろうが、強攻策ではなく、策略で目標を達成できるなら、それでも満足であった。彼は正面決戦よりも、夜襲、待ち伏せ、あらゆる種類の策略を好んで使用した。彼は常に傭兵隊を用いて兵力を確保していたため、軍隊が何もしないうちに解体逃走することを恐れる必要が無く、決して戦闘を強いられることがなかった。このため彼は、封建制の臨時雇いの大群の指揮官とは異なり、性急な作戦によって破局に追い込まれるようなことがなかったのである。イングランド軍は長期の消耗戦よりも大会戦に勝利するのに適した軍隊であった。戦略ではなく、戦術にこそ彼らの長所が存在したのであり、小規模の攻囲と不名誉な撤退を繰り返すうちに、武力によって海峡の向こうの大陸に領土を支配するという、無謀な試みには終止符が打たれることになった。
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by trushbasket
| 2011-02-04 00:28
| My(山田昌弘)








