2011年 02月 04日
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 6章 3/4
|
目次へ
第六章2/4へ
注釈は別ページへ
第六章
イングランド軍とその敵たち
1272~1485
エドワード1世の即位からバラ戦争の終わりまで
しかしながら、デュ・ゲクランは、フランス貴族階級が戦場に再登場するための道を、開いただけであった。彼らは、傭兵隊が領土を回復する間、城に閉じこもっていたのだが、その間に明らかに「忘れるべきことは何も忘れておらず、憶えるべきことは何も憶えていなかった。」イングランド軍の恐怖が目の前から去ると、彼らは直ちに古い騎士道の因習へと逆戻りしていったのである。この世紀は、末期と初期とで変わるところがなかった。ローゼベーケの戦いがカッセルの戦いの再現となって、復活した封建的な戦法には天罰が下ることとなり、ニコポリスの戦いではクルトレの戦いの悲劇が増幅されることとなる。無能な君主の治世における、三十年間の無政府状態のせいで、戦争術に反動的で非科学的な傾向が生じ、フランスはイギリスの新たな侵略の格好の餌食に変わったのである。
もし、その後に続く一連の作戦行動が、ヘンリー5世が戦略の達人であることを証明していなければ、アジャンクールまでの彼の行軍は、軽率で不手際であると、断罪されてもおかしくないであろう。だが、おそらく彼は敵の力を見抜いており、その低能さを理解していたために、後方連絡線を犠牲にしてピカルディーに自ら進出したのである。1415年の6日から24日(8)にかけての進軍の素早さは、彼が中世の指揮官にとって時間が非常に貴重であるという、正しい認識を有していたことを示しており、他方で行進中における彼の軍隊の完璧な編成は、彼の天才が細部にまで及んでいたことを示している。(9)イングランド軍の三倍から四倍の巨大な封建軍隊であったフランス軍は、サン・ポル・シュル・テノワーズの付近で、ヘンリーのそれ以上の進軍を阻止した。ヘンリーが率いていたのはせいぜい6,000人で、そのうち約5,000が弓兵であった。ヘンリーの布陣は望み得る限りで最上のものであった。正面がせいぜい1,100メートルしかなく、両側面は森で覆われていた。敵が通過してくる土地は耕地で、一週間の雨で完全に水浸しであった。[ヘンリー王は、クレーシーおよびオーレイの戦いにおける作戦と同様に、イングランド軍の戦列を三隊の「battle」による通常編成の下に配置しており、各隊とも下馬した騎士の両脇を、少し突出する形で弓兵が固めていた。王は中央部隊を指揮していた。ヨーク公エドワードが右翼、カモイス卿が左翼を指揮していた。弓兵の前面には、防御用の尖った杭が敵に向けて突き出していた。]
[フランス軍総司令官は、名目上は指揮権を有していたけれど、無数の高貴な伯爵や公爵の参戦に悩まされており、戦闘を指揮できるほどの統率力を有してはいなかった。騎士の行う下馬には驚くべき効果があると信じ込んでいたフランス軍は、ポワティエにおけるジャン王の戦法を全くそのまま繰り返し、騎士の大部分は馬を後方に送るよう指示を受けた。全軍を三つの「battle」に分け、それが順次後続する形を採り、騎乗の小部隊二つがこれに先行していた。さらに第三の「battle」は追撃用の騎馬を確保していた。フランス軍はかなり少数ながら歩兵を戦場に連れてきており、それは主に弩兵で、各「battle」の後ろに配置されていたが、その位置では効果的な使用は期待できなかった。]
[ヘンリー王は、唯一の勝機はフランスの攻撃を誘うことにあると熟知していたので、しばらくは最初の位置に留まって敵軍を待った。ついに彼は自らの小規模な軍勢に、フランス軍の戦列が長弓の射程内に収まる位置まで、前進するよう命令を下した。これは望み通りの結果を生じた。二つの騎兵の小部隊は動き出し、下馬騎士の戦列も泥の中で前進を始めた。イングランド弓兵は杭を再び再固定して、攻撃を迎える準備を整えた。騎兵はほとんど杭に到達する前に打ち倒され、杭にたどり着いた者は、素早く直射で処分された。その間にフランス軍の第一戦列は、足首まで泥につかりながら、1.6キロメートルにもおよぶ水浸しの地面をのろのろとよろめき進んだが、イングランド軍の浴びせ続ける矢によって、大量の死傷者を出した。それにもかかわらず、イングランド軍の戦列は重装部隊の最初の衝撃で動揺し、激烈な近接戦闘によってようやく戦列を立て直すことができた。ヘンリー王が弓兵に弓を放棄して斧と剣で突撃するよう命じた時、決定的瞬間が到来した。戦い泥の中でもがく内に消耗しきったフランス騎士は、もはや軽装の敵にすら太刀打ちできなかった。彼らは、身軽な自由農民が「鉄床を叩く鍛冶屋のように、木づちで鎧を殴りつけてくる中」無力に立ちつくしていた。フランスの第一戦列は、混乱しながら、加勢しようと追いついて来ていた第二の「battle」へと、なだれ込んだ。イングランド軍は戦列を再構築し、新たな脅威を迎え撃つべく前進した。新手の敵は、攻撃を繰り出すまでに、動揺し士気を喪失していたので、この戦闘は長続きしなかった。まもなく第二戦列は崩壊して後退し、第三集団は突撃する前に解体して逃走していった。](10)
この軍の総司令官以上に顕著な誤りを犯すことができる指揮官などほとんどいないが、彼の計画の最大の誤りは、適地に布陣したイングランド軍を攻撃したことにこそあった。[防具の重さで兵士達が疲れ切り、軽装の自由農民のなすがままになったのも、当然の運命であった。]ここでの正しい戦略は、ポワティエの時と同様で、敵地にあって、周囲からの現地調達で軍を維持している、王を飢えさせることであった。あえて攻撃を実施するのであれば、森林を迂回した攻撃を同時に行い、さらに、兵力の点ではイングランド軍にはるかに優っていたはずの、弓兵と弩兵を、全て先行させて使うべきであった。
アジャンクールのような戦いを経た以上、フランス貴族階級は、時代遅れの戦争術に固執するのをやめても良いはずであった。だが封建軍隊は封建的な社会構造と密接に結びついていたため、封建制にとって理想的な戦闘組織も残存し続けた。三つの悲惨な敗北──クラヴァントの戦い(1423)、ヴェルヌイユの戦い(1424)、そしてニシンの戦い(1429)──は古い戦争術への狂信的な執着が引き起こしたものであった。これらの戦いでフランス軍は、時には騎兵から成り、時には下馬した騎士から構成されていたが、全て、イングランド軍の弓兵の戦列を正面攻撃で破りにかかるという無謀な企てを試みており、全てにおいて壊滅的な敗走に陥ったのである。
このような狂った戦法が廃棄されるのは、グゼントレイユ、ラ・イール、そしてデュノアといった職業軍人の手に戦争指揮権が掌握されてからであった。ただし、彼らによる旧弊の打破は、フランスにとって、勝利への第一歩に過ぎなかった。国家の置かれた状況は、デュ・ゲクランの頃と比べて、絶望的に悪く、ロアール川北方の地方の大部分がイングランド軍の占領を受けていたことに加え、それらの地方が運命を甘受しており、国民的な団結に加わろうとする熱意を見せていなかったのである。アキテーヌの諸地方を黒太子から奪い返したような小規模戦争のようなものでは、1428年にフランスを救うには不十分であった。このような前提の上に、オルレアンの少女の影響の重要性が認められるのである。彼女の勝利は、新たな戦法ではなく、イングランド軍によるフランス支配を以後不可能にした、大衆的熱狂の覚醒を象徴するものであった。小さな国は、大きな国を、その住民が惰眠をむさぼっているのでない限り、支配することはできない。彼らが惰眠をむさぼるのを止めた時には、──たとえ軍事的に完全に優越していても──支配は不可能となる。
フランスからのイングランド軍の追放は、戦略的原因よりも政治的原因によるものであるが、その一方で、15世紀の職業軍人達が、とうとうイングランド軍の軍事的優越を最小限に抑える方法を発見したことを、忘れてはならない。彼らは、侵入者が防衛に適した地点に布陣しているのを発見した時は、常に攻撃を断念したのである。勝ち目も無いのに、軍隊を敵の矢の的にして痛めつける理由など、全く無かったのである。したがって、この世紀の第二の四半期におけるフランスの勝利は、ほとんどの場合、イングランド軍を、行進中などの素早く戦闘隊形をとれない時点で、襲撃した結果であった。パテーの戦い(1429)はこの種の戦いの好例である。攻撃時、タルボットは直ぐには準備ができなかったため、敗戦したのである。フランス側が全軍が到達してから戦闘態勢に入ると予測したため、彼は先行していた前衛部隊に注意を払わずに、 パテー村に戦列を敷こうと後退し始めた。ここでラ・イールは、主力が追いついて来るのを待たず、後退していく隊列を襲撃、「弓兵に杭を固定する時間を与えぬうちに」(11)突入を果たした。弓の槍に対する優位は、射手が敵と距離をとることができるか否にかかっている。何らかの事情で、一度騎兵が突入してしまえば、混戦に陥り、兵力と武装が勝敗を決める。この場面は、まさにそれであった。ラ・イールは接近に成功し、戦闘は白兵戦に陥り、フランス軍主力が追いついてくると、イングランド軍は数の前に圧倒されることになった。このような戦術のせいで、イングランド軍は15世紀に敗北したのである。
それゆえ、ヘンリー5世がフランスに樹立した帝国の崩壊は、軍事的観点からすれば、防衛体制が、作戦上の変動への対応という点で、不適切であったためということになる。アジャンクールとポワティエの伝統を受け継ぐ指揮官達は、攻勢をとることを考えなかった。慎重に選び抜いた戦場で入念な準備を整え、敵の攻撃を迎え撃つ形で勝利することが習慣になっていたせいで、陣地への攻撃を回避して予期せぬ時に姿を現してくる敵将と戦う際には、彼らはしばしば失態を犯したのである。開けた戦場や行進中、あるいは野営地や町において、イングランド軍は常に奇襲攻撃を受けねばならなかった。その脅威のあまり、兵士は士気を喪失し、フランス軍が古くさい封建戦法に固執していた頃に特徴的であった、彼らの自信は消え去ってしまった。
ブロンデルの『Reductio Normanniae』が、イングランド軍が英仏海峡を越えて支配を維持しようと試みた最後の戦いである、 1450年4月15日のフォルミニーの戦いに関して、完全な記事を残していることは、幸運なことである。この物語は、壮大な戦争の末期における戦況の変化の説明として、極めて有益である。戦いは──ノルマンディの命運を決することになったものとはいえ──非常に小規模なものであった。半数の弓兵と、半数近い矛兵、そして数百人の騎士からなる、約4,500人のイングランド軍が、カンへの道を切り開こうという絶望的な企てのために、かき集められていた。その町ではフランスにある全イングランド軍の司令官、サマセット公が、シャルル王その人が率いる圧倒的な敵勢によって脅かされていた。戦闘を仕掛けるに足る軍勢を集めるため、全てのノルマンディの要塞から守備隊をはぎ取るとともに、2,500人程度にしかならなかっったが、イングランドからも海を越えて可能な限りの援軍が送られた。援軍はヴァローニュの奪取に成功し、ドゥーヴ川とヴィール川の危険な浅瀬を突破したものの、フォルミニーの村の近くで、イングランド軍の進軍を阻むために派遣されたフランス軍部隊の一つである、クレルモン伯の部隊の、激しい抵抗を受けることになった。クレルモン軍は敵軍に数では優っていなかった。矛盾する諸記録から推測できる限りでは、彼らは部下を従えた槍騎兵(Lances garnis)が600(すなわち3,000の戦闘員)と、砲兵の小部隊が二隊、そしていくつかの地元の歩兵隊から構成されていた。カンへの道を開かねばならないイギリス軍は、攻勢に出るしかないはずであった。ところが、援軍を率いたサー・トマス・キリールとサー・マシュー・ゴフの、二人の熟練の指揮官は、主導権を握るのを拒絶した。防御戦闘を好む昔からの慣習が強すぎる余り、彼らは遠征の目的を忘却しており、後退して、クレルモン軍を迎撃する形をとれる地点を探し求めたのである。そして彼らは、よく手入れされた果樹園と農園に沿って流れる小川を見つけ、これを背後の守りとして、軍勢を凸型の隊列に配置、中央部を突出させるとともに、両翼を流れに接するところまで引き下げる形を取った。三部隊の弓兵──それぞれ兵力700──は「主力のbattle」に統合された。中央部と比べて後退することになった両翼には、矛兵の「battle」が配置されていたが、これらの部隊の外側では、果樹園と小川に接する形で、騎兵の小部隊が防御に当たっていた。クレルモンが直ちに攻撃しなかったので、攻撃が始まる頃には、弓兵はいつもの習慣どおりに杭を固定する十分な時間を得たし、全軍も壕で周囲を固め始めていた(12)。長きに渡る経験のために、フランス軍は弓兵への正面攻撃に慎重になりすぎていた。敵陣に少し探りを入れてみた後、彼らは両側面へと何度か攻撃をかけてみたが、押し返されてしまった。決定的な成果のでない小競り合いが三時間続いた後、勅令部隊の隊長であるジローが、二門のカルヴァリン砲を運び出して、イングランド軍の戦列に縦射を浴びせられる位置に設置した。砲火にいらだった弓兵の一部は、杭の陰から飛び出して、両翼端の矛を持った兵士達の支援の下、カルヴァリン砲を奪い取り、砲を守っていた部隊を追い散らした。
もしキリールの軍全部がこの瞬間に前進していれば、戦いに勝利することもできただろう。(13)だがイングランド軍の指揮官は防御戦法をしつこく守り続け、彼が動かずにいる間に、戦いの運命は変わってしまった。突撃をかけた部隊は、奪われた砲を取り戻そうと下馬して進んできた、フランス軍の騎士から成る「battle」から攻撃を受けた。イングランド軍が自軍の戦列に砲を引き入れようとする一方、フランス軍は奪回を試み、激しい戦いが行われた。ついにフランス軍が勝利を収め、逃げていくイングランドの部隊が陣地に戻る前に、突撃をかけた。入り交じった味方と敵が一つの群れとなって、ゆっくりと向かって来るため、弓兵は矢を使うことができなかった。このせいで両軍とも全軍一線になっての白兵戦に陥り、血みどろの乱闘が開始された。そして戦いの行方が未だ決まっていなかったところに、新手のフランス軍が戦場に到着する。サン・ローからやって来たリッシュモン伯とラヴァル伯が、イングランド軍の陣地の後方に騎士1,200の兵力で姿を現したのである。キリールの軍は全員が戦闘中であり、彼はこの新たな攻撃を迎撃することができなかった。彼の兵士達は背後の小川まで後ずさり、その場でいくつかの孤立した部隊に解体してしまった。ゴフはフランス軍を突破して逃げ道を切り開き、騎兵とともにバイユーに逃げ延びた。だがキリールと歩兵たちは包囲されてしまい、主力の「battle」は完全に消滅することになった。弓兵の数百人が逃げ延び、捕虜となった彼らの指揮官が引き連れていた兵士もそれよりは多いものの、フランス軍はほとんど慈悲を与えることなく(14)、報告者達は翌日に約4,000の死体が戦場に横たわっていたとしている。軍隊がこれほどの壊滅的被害を被ることはほとんどない。キリールの小規模な軍隊の内、5分の4が殺された。どれほどの人数のフランス兵が倒れたのかは確認ができない。年代記編者は12人の騎士の死を伝えているが、その兵士については全く記しておらず、これ以上フランス軍の損害について語ることはできない。あるイングランドの年代記編者は皮肉な観察を行っている。
彼らは殺した人数を宣言しているが、自軍が殺され失った人数については記していない。これは彼らがイングランド軍に勝利したほとんど初めての例であり、それゆえ私は彼らを非難しようとは思わない。彼らが大いに誇張を行い、全てを飾り立て、栄光を賛美するものを一つ残らず見せびらかしていても。(15)
フォルミニーの戦いの教訓は明白である。フランス軍が軍事的能力を改善し、あらゆる戦いで重大な不手際を犯すようなことが無くなった時期においては、エドワード3世とヘンリー5世の防御戦法も、賢明と言えない方法で使えば、悲惨な結果を生むということである。シャルル7世の誇る、優勢な兵力および巧妙な機動を行う勅令部隊(companies d'ordonance)に、対処する新たな方法を開発しない限り、イングランド軍が兵力の劣勢のせいで敗北するのは当然の運命であった。この事実を認識していたため、偉大なタルボットは古い戦法を廃棄し、彼の最後の戦いで、百年戦争のこれまでの時期に全く行われたことのない、攻撃戦闘を採用することになった。カスティヨンの戦い(1453)はイングランド軍の戦いというよりは、スイス軍の戦いを彷彿とさせるものであった。この戦いは、弓兵を側方に従えた、矛兵と下馬した騎士の部隊が、壕で固めて砲で守られた陣地に突進するという、絶望的な企てであった。イングランド軍は──ビコッカの戦いのスイス軍のように──突破不能な障害に突き当たり、勇敢にも不可能に挑み続けて損害を拡大していったのである。
イングランド軍の大陸の領地からの追放によっても、これ以後の弓の力に対する信頼が低下してしまった訳ではない。この武器は、歯車とレバーが複雑に組み合わさって操作に手間を食う弩に対して、飛び道具として優位を占め続けた。新たに拳銃やアルケブス銃が登場したが、これらはこの世紀の終わりまでは大した性能でもなかったので、弓はこれらにもほとんど劣っていなかったのである。ヨーロッパ中に弓が愛用された証拠がある。ブルゴーニュ公シャルルは3,000のイングランド弓兵を自軍の歩兵の精華であると考えていた。フランス王シャルルは、それより30年早く、海峡を越えてきた敵軍の武器を移入しようと企て、新設の民兵組織を基礎に弓兵を創出しようとしたが、これは無駄に終わっている。スコットランド王ジェームズも同様の試みを行ったが、失敗して断念し、弓兵をあざけるようになった。
注釈ページへ
第六章4/4へ
目次へ
第六章2/4へ
注釈は別ページへ
第六章
イングランド軍とその敵たち
1272~1485
エドワード1世の即位からバラ戦争の終わりまで
しかしながら、デュ・ゲクランは、フランス貴族階級が戦場に再登場するための道を、開いただけであった。彼らは、傭兵隊が領土を回復する間、城に閉じこもっていたのだが、その間に明らかに「忘れるべきことは何も忘れておらず、憶えるべきことは何も憶えていなかった。」イングランド軍の恐怖が目の前から去ると、彼らは直ちに古い騎士道の因習へと逆戻りしていったのである。この世紀は、末期と初期とで変わるところがなかった。ローゼベーケの戦いがカッセルの戦いの再現となって、復活した封建的な戦法には天罰が下ることとなり、ニコポリスの戦いではクルトレの戦いの悲劇が増幅されることとなる。無能な君主の治世における、三十年間の無政府状態のせいで、戦争術に反動的で非科学的な傾向が生じ、フランスはイギリスの新たな侵略の格好の餌食に変わったのである。
もし、その後に続く一連の作戦行動が、ヘンリー5世が戦略の達人であることを証明していなければ、アジャンクールまでの彼の行軍は、軽率で不手際であると、断罪されてもおかしくないであろう。だが、おそらく彼は敵の力を見抜いており、その低能さを理解していたために、後方連絡線を犠牲にしてピカルディーに自ら進出したのである。1415年の6日から24日(8)にかけての進軍の素早さは、彼が中世の指揮官にとって時間が非常に貴重であるという、正しい認識を有していたことを示しており、他方で行進中における彼の軍隊の完璧な編成は、彼の天才が細部にまで及んでいたことを示している。(9)イングランド軍の三倍から四倍の巨大な封建軍隊であったフランス軍は、サン・ポル・シュル・テノワーズの付近で、ヘンリーのそれ以上の進軍を阻止した。ヘンリーが率いていたのはせいぜい6,000人で、そのうち約5,000が弓兵であった。ヘンリーの布陣は望み得る限りで最上のものであった。正面がせいぜい1,100メートルしかなく、両側面は森で覆われていた。敵が通過してくる土地は耕地で、一週間の雨で完全に水浸しであった。[ヘンリー王は、クレーシーおよびオーレイの戦いにおける作戦と同様に、イングランド軍の戦列を三隊の「battle」による通常編成の下に配置しており、各隊とも下馬した騎士の両脇を、少し突出する形で弓兵が固めていた。王は中央部隊を指揮していた。ヨーク公エドワードが右翼、カモイス卿が左翼を指揮していた。弓兵の前面には、防御用の尖った杭が敵に向けて突き出していた。]
[フランス軍総司令官は、名目上は指揮権を有していたけれど、無数の高貴な伯爵や公爵の参戦に悩まされており、戦闘を指揮できるほどの統率力を有してはいなかった。騎士の行う下馬には驚くべき効果があると信じ込んでいたフランス軍は、ポワティエにおけるジャン王の戦法を全くそのまま繰り返し、騎士の大部分は馬を後方に送るよう指示を受けた。全軍を三つの「battle」に分け、それが順次後続する形を採り、騎乗の小部隊二つがこれに先行していた。さらに第三の「battle」は追撃用の騎馬を確保していた。フランス軍はかなり少数ながら歩兵を戦場に連れてきており、それは主に弩兵で、各「battle」の後ろに配置されていたが、その位置では効果的な使用は期待できなかった。]
[ヘンリー王は、唯一の勝機はフランスの攻撃を誘うことにあると熟知していたので、しばらくは最初の位置に留まって敵軍を待った。ついに彼は自らの小規模な軍勢に、フランス軍の戦列が長弓の射程内に収まる位置まで、前進するよう命令を下した。これは望み通りの結果を生じた。二つの騎兵の小部隊は動き出し、下馬騎士の戦列も泥の中で前進を始めた。イングランド弓兵は杭を再び再固定して、攻撃を迎える準備を整えた。騎兵はほとんど杭に到達する前に打ち倒され、杭にたどり着いた者は、素早く直射で処分された。その間にフランス軍の第一戦列は、足首まで泥につかりながら、1.6キロメートルにもおよぶ水浸しの地面をのろのろとよろめき進んだが、イングランド軍の浴びせ続ける矢によって、大量の死傷者を出した。それにもかかわらず、イングランド軍の戦列は重装部隊の最初の衝撃で動揺し、激烈な近接戦闘によってようやく戦列を立て直すことができた。ヘンリー王が弓兵に弓を放棄して斧と剣で突撃するよう命じた時、決定的瞬間が到来した。戦い泥の中でもがく内に消耗しきったフランス騎士は、もはや軽装の敵にすら太刀打ちできなかった。彼らは、身軽な自由農民が「鉄床を叩く鍛冶屋のように、木づちで鎧を殴りつけてくる中」無力に立ちつくしていた。フランスの第一戦列は、混乱しながら、加勢しようと追いついて来ていた第二の「battle」へと、なだれ込んだ。イングランド軍は戦列を再構築し、新たな脅威を迎え撃つべく前進した。新手の敵は、攻撃を繰り出すまでに、動揺し士気を喪失していたので、この戦闘は長続きしなかった。まもなく第二戦列は崩壊して後退し、第三集団は突撃する前に解体して逃走していった。](10)
この軍の総司令官以上に顕著な誤りを犯すことができる指揮官などほとんどいないが、彼の計画の最大の誤りは、適地に布陣したイングランド軍を攻撃したことにこそあった。[防具の重さで兵士達が疲れ切り、軽装の自由農民のなすがままになったのも、当然の運命であった。]ここでの正しい戦略は、ポワティエの時と同様で、敵地にあって、周囲からの現地調達で軍を維持している、王を飢えさせることであった。あえて攻撃を実施するのであれば、森林を迂回した攻撃を同時に行い、さらに、兵力の点ではイングランド軍にはるかに優っていたはずの、弓兵と弩兵を、全て先行させて使うべきであった。
アジャンクールのような戦いを経た以上、フランス貴族階級は、時代遅れの戦争術に固執するのをやめても良いはずであった。だが封建軍隊は封建的な社会構造と密接に結びついていたため、封建制にとって理想的な戦闘組織も残存し続けた。三つの悲惨な敗北──クラヴァントの戦い(1423)、ヴェルヌイユの戦い(1424)、そしてニシンの戦い(1429)──は古い戦争術への狂信的な執着が引き起こしたものであった。これらの戦いでフランス軍は、時には騎兵から成り、時には下馬した騎士から構成されていたが、全て、イングランド軍の弓兵の戦列を正面攻撃で破りにかかるという無謀な企てを試みており、全てにおいて壊滅的な敗走に陥ったのである。
このような狂った戦法が廃棄されるのは、グゼントレイユ、ラ・イール、そしてデュノアといった職業軍人の手に戦争指揮権が掌握されてからであった。ただし、彼らによる旧弊の打破は、フランスにとって、勝利への第一歩に過ぎなかった。国家の置かれた状況は、デュ・ゲクランの頃と比べて、絶望的に悪く、ロアール川北方の地方の大部分がイングランド軍の占領を受けていたことに加え、それらの地方が運命を甘受しており、国民的な団結に加わろうとする熱意を見せていなかったのである。アキテーヌの諸地方を黒太子から奪い返したような小規模戦争のようなものでは、1428年にフランスを救うには不十分であった。このような前提の上に、オルレアンの少女の影響の重要性が認められるのである。彼女の勝利は、新たな戦法ではなく、イングランド軍によるフランス支配を以後不可能にした、大衆的熱狂の覚醒を象徴するものであった。小さな国は、大きな国を、その住民が惰眠をむさぼっているのでない限り、支配することはできない。彼らが惰眠をむさぼるのを止めた時には、──たとえ軍事的に完全に優越していても──支配は不可能となる。
フランスからのイングランド軍の追放は、戦略的原因よりも政治的原因によるものであるが、その一方で、15世紀の職業軍人達が、とうとうイングランド軍の軍事的優越を最小限に抑える方法を発見したことを、忘れてはならない。彼らは、侵入者が防衛に適した地点に布陣しているのを発見した時は、常に攻撃を断念したのである。勝ち目も無いのに、軍隊を敵の矢の的にして痛めつける理由など、全く無かったのである。したがって、この世紀の第二の四半期におけるフランスの勝利は、ほとんどの場合、イングランド軍を、行進中などの素早く戦闘隊形をとれない時点で、襲撃した結果であった。パテーの戦い(1429)はこの種の戦いの好例である。攻撃時、タルボットは直ぐには準備ができなかったため、敗戦したのである。フランス側が全軍が到達してから戦闘態勢に入ると予測したため、彼は先行していた前衛部隊に注意を払わずに、 パテー村に戦列を敷こうと後退し始めた。ここでラ・イールは、主力が追いついて来るのを待たず、後退していく隊列を襲撃、「弓兵に杭を固定する時間を与えぬうちに」(11)突入を果たした。弓の槍に対する優位は、射手が敵と距離をとることができるか否にかかっている。何らかの事情で、一度騎兵が突入してしまえば、混戦に陥り、兵力と武装が勝敗を決める。この場面は、まさにそれであった。ラ・イールは接近に成功し、戦闘は白兵戦に陥り、フランス軍主力が追いついてくると、イングランド軍は数の前に圧倒されることになった。このような戦術のせいで、イングランド軍は15世紀に敗北したのである。
それゆえ、ヘンリー5世がフランスに樹立した帝国の崩壊は、軍事的観点からすれば、防衛体制が、作戦上の変動への対応という点で、不適切であったためということになる。アジャンクールとポワティエの伝統を受け継ぐ指揮官達は、攻勢をとることを考えなかった。慎重に選び抜いた戦場で入念な準備を整え、敵の攻撃を迎え撃つ形で勝利することが習慣になっていたせいで、陣地への攻撃を回避して予期せぬ時に姿を現してくる敵将と戦う際には、彼らはしばしば失態を犯したのである。開けた戦場や行進中、あるいは野営地や町において、イングランド軍は常に奇襲攻撃を受けねばならなかった。その脅威のあまり、兵士は士気を喪失し、フランス軍が古くさい封建戦法に固執していた頃に特徴的であった、彼らの自信は消え去ってしまった。
ブロンデルの『Reductio Normanniae』が、イングランド軍が英仏海峡を越えて支配を維持しようと試みた最後の戦いである、 1450年4月15日のフォルミニーの戦いに関して、完全な記事を残していることは、幸運なことである。この物語は、壮大な戦争の末期における戦況の変化の説明として、極めて有益である。戦いは──ノルマンディの命運を決することになったものとはいえ──非常に小規模なものであった。半数の弓兵と、半数近い矛兵、そして数百人の騎士からなる、約4,500人のイングランド軍が、カンへの道を切り開こうという絶望的な企てのために、かき集められていた。その町ではフランスにある全イングランド軍の司令官、サマセット公が、シャルル王その人が率いる圧倒的な敵勢によって脅かされていた。戦闘を仕掛けるに足る軍勢を集めるため、全てのノルマンディの要塞から守備隊をはぎ取るとともに、2,500人程度にしかならなかっったが、イングランドからも海を越えて可能な限りの援軍が送られた。援軍はヴァローニュの奪取に成功し、ドゥーヴ川とヴィール川の危険な浅瀬を突破したものの、フォルミニーの村の近くで、イングランド軍の進軍を阻むために派遣されたフランス軍部隊の一つである、クレルモン伯の部隊の、激しい抵抗を受けることになった。クレルモン軍は敵軍に数では優っていなかった。矛盾する諸記録から推測できる限りでは、彼らは部下を従えた槍騎兵(Lances garnis)が600(すなわち3,000の戦闘員)と、砲兵の小部隊が二隊、そしていくつかの地元の歩兵隊から構成されていた。カンへの道を開かねばならないイギリス軍は、攻勢に出るしかないはずであった。ところが、援軍を率いたサー・トマス・キリールとサー・マシュー・ゴフの、二人の熟練の指揮官は、主導権を握るのを拒絶した。防御戦闘を好む昔からの慣習が強すぎる余り、彼らは遠征の目的を忘却しており、後退して、クレルモン軍を迎撃する形をとれる地点を探し求めたのである。そして彼らは、よく手入れされた果樹園と農園に沿って流れる小川を見つけ、これを背後の守りとして、軍勢を凸型の隊列に配置、中央部を突出させるとともに、両翼を流れに接するところまで引き下げる形を取った。三部隊の弓兵──それぞれ兵力700──は「主力のbattle」に統合された。中央部と比べて後退することになった両翼には、矛兵の「battle」が配置されていたが、これらの部隊の外側では、果樹園と小川に接する形で、騎兵の小部隊が防御に当たっていた。クレルモンが直ちに攻撃しなかったので、攻撃が始まる頃には、弓兵はいつもの習慣どおりに杭を固定する十分な時間を得たし、全軍も壕で周囲を固め始めていた(12)。長きに渡る経験のために、フランス軍は弓兵への正面攻撃に慎重になりすぎていた。敵陣に少し探りを入れてみた後、彼らは両側面へと何度か攻撃をかけてみたが、押し返されてしまった。決定的な成果のでない小競り合いが三時間続いた後、勅令部隊の隊長であるジローが、二門のカルヴァリン砲を運び出して、イングランド軍の戦列に縦射を浴びせられる位置に設置した。砲火にいらだった弓兵の一部は、杭の陰から飛び出して、両翼端の矛を持った兵士達の支援の下、カルヴァリン砲を奪い取り、砲を守っていた部隊を追い散らした。
もしキリールの軍全部がこの瞬間に前進していれば、戦いに勝利することもできただろう。(13)だがイングランド軍の指揮官は防御戦法をしつこく守り続け、彼が動かずにいる間に、戦いの運命は変わってしまった。突撃をかけた部隊は、奪われた砲を取り戻そうと下馬して進んできた、フランス軍の騎士から成る「battle」から攻撃を受けた。イングランド軍が自軍の戦列に砲を引き入れようとする一方、フランス軍は奪回を試み、激しい戦いが行われた。ついにフランス軍が勝利を収め、逃げていくイングランドの部隊が陣地に戻る前に、突撃をかけた。入り交じった味方と敵が一つの群れとなって、ゆっくりと向かって来るため、弓兵は矢を使うことができなかった。このせいで両軍とも全軍一線になっての白兵戦に陥り、血みどろの乱闘が開始された。そして戦いの行方が未だ決まっていなかったところに、新手のフランス軍が戦場に到着する。サン・ローからやって来たリッシュモン伯とラヴァル伯が、イングランド軍の陣地の後方に騎士1,200の兵力で姿を現したのである。キリールの軍は全員が戦闘中であり、彼はこの新たな攻撃を迎撃することができなかった。彼の兵士達は背後の小川まで後ずさり、その場でいくつかの孤立した部隊に解体してしまった。ゴフはフランス軍を突破して逃げ道を切り開き、騎兵とともにバイユーに逃げ延びた。だがキリールと歩兵たちは包囲されてしまい、主力の「battle」は完全に消滅することになった。弓兵の数百人が逃げ延び、捕虜となった彼らの指揮官が引き連れていた兵士もそれよりは多いものの、フランス軍はほとんど慈悲を与えることなく(14)、報告者達は翌日に約4,000の死体が戦場に横たわっていたとしている。軍隊がこれほどの壊滅的被害を被ることはほとんどない。キリールの小規模な軍隊の内、5分の4が殺された。どれほどの人数のフランス兵が倒れたのかは確認ができない。年代記編者は12人の騎士の死を伝えているが、その兵士については全く記しておらず、これ以上フランス軍の損害について語ることはできない。あるイングランドの年代記編者は皮肉な観察を行っている。
彼らは殺した人数を宣言しているが、自軍が殺され失った人数については記していない。これは彼らがイングランド軍に勝利したほとんど初めての例であり、それゆえ私は彼らを非難しようとは思わない。彼らが大いに誇張を行い、全てを飾り立て、栄光を賛美するものを一つ残らず見せびらかしていても。(15)
フォルミニーの戦いの教訓は明白である。フランス軍が軍事的能力を改善し、あらゆる戦いで重大な不手際を犯すようなことが無くなった時期においては、エドワード3世とヘンリー5世の防御戦法も、賢明と言えない方法で使えば、悲惨な結果を生むということである。シャルル7世の誇る、優勢な兵力および巧妙な機動を行う勅令部隊(companies d'ordonance)に、対処する新たな方法を開発しない限り、イングランド軍が兵力の劣勢のせいで敗北するのは当然の運命であった。この事実を認識していたため、偉大なタルボットは古い戦法を廃棄し、彼の最後の戦いで、百年戦争のこれまでの時期に全く行われたことのない、攻撃戦闘を採用することになった。カスティヨンの戦い(1453)はイングランド軍の戦いというよりは、スイス軍の戦いを彷彿とさせるものであった。この戦いは、弓兵を側方に従えた、矛兵と下馬した騎士の部隊が、壕で固めて砲で守られた陣地に突進するという、絶望的な企てであった。イングランド軍は──ビコッカの戦いのスイス軍のように──突破不能な障害に突き当たり、勇敢にも不可能に挑み続けて損害を拡大していったのである。
イングランド軍の大陸の領地からの追放によっても、これ以後の弓の力に対する信頼が低下してしまった訳ではない。この武器は、歯車とレバーが複雑に組み合わさって操作に手間を食う弩に対して、飛び道具として優位を占め続けた。新たに拳銃やアルケブス銃が登場したが、これらはこの世紀の終わりまでは大した性能でもなかったので、弓はこれらにもほとんど劣っていなかったのである。ヨーロッパ中に弓が愛用された証拠がある。ブルゴーニュ公シャルルは3,000のイングランド弓兵を自軍の歩兵の精華であると考えていた。フランス王シャルルは、それより30年早く、海峡を越えてきた敵軍の武器を移入しようと企て、新設の民兵組織を基礎に弓兵を創出しようとしたが、これは無駄に終わっている。スコットランド王ジェームズも同様の試みを行ったが、失敗して断念し、弓兵をあざけるようになった。
注釈ページへ
第六章4/4へ
目次へ
by trushbasket
| 2011-02-04 00:31
| My(山田昌弘)








