2011年 02月 04日
C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 6章 4/4
|
目次へ
第六章3/4へ
注釈は別ページへ
第六章
イングランド軍とその敵たち
1272~1485
エドワード1世の即位からバラ戦争の終わりまで
研究者にとって、イングランドの民族的武器と民族的戦法で互いに争った大闘争の時期は最高に魅力的な時代である。しかしながら、バラ戦争は歴史家に恵まれなかった。これに先立つ時代の歴史には十分な資料が使用できるのに、この時代の諸戦闘に関する正確な資料の欠如は著しい。編年記録としてはウスターのウィリアム、ワークワース、ファビアンの書き継いだ『Croylamd Chronicle』の貧弱な記録、一個の著作としては『Arrival of King Edward IV』、そしてこれらと共にウェザムスティードの無学な概説が存在するが、後世のグラフトンとホールの著作によってもそれらを十分に補うことはできない。これら全てを対照しても、戦闘のほとんどの詳細は依然として理解不能である。ヨーク家軍とランカスター家軍の正確な隊列を再構成可能なたった一つの例もない。しかし、残存するものだけでも、資料のもたらす情報の乏しさを残念に思わせるには十分である。
イングランドの指揮官達が相当の戦略的・戦術的手腕を示したことは、諸作戦の大ざっぱな特徴を分析しても明らかである。戦闘が、唯一の攻撃・防御法に固執して、類型化するようなことはなかった。各戦闘はそれぞれ独自の性格を有しており、それぞれ特別な戦術が展開されている。第一次セント・オールバンズ(1455)の戦いとして知られている激しい市街戦は、ヘッジレイ・ムーアの戦い(1464)における不正規の小競り合いとは全く共通点がない。ノーサンプトンの戦い(1460)とテュークスベリーの戦い(1471)における要塞化された敵陣への突撃は、タウトンの戦い(1461)とバーネットの戦い(1471)における会戦とは類似点を持たない。ブロア・ヒースの戦い(1459)における卓越した戦術による勝利は、エジコット・フィールドの戦い(1469)における優秀な装備による勝利と対照的である。
戦争の諸々の特徴の中で顕著に際だっているのは、エドワード4世の統帥である。彼は19歳で既に練達の指揮官であり、ノーサンプトンで、ヘンリー王が前面の守りとした高い土塁と深い壕の側方において防壁の機能を果たしている「一連なりの家々」を強行突破し、ランカスター軍の陣地の迂回に成功している。(16)その翌年(1461)、グロスターからロンドンへと、イングランド中部地方の南部において、2月の荒天の中で泥道を踏破して成し遂げた、迅速な行軍によって、絶望的な危機を切り抜けた。万難を排して首都へ飛び込むという決断は、彼に王冠をもたらし、戦争の決定的な危機にあって戦況を逆転させたのである。王座に就いた後、不注意と傲慢によって危険な状況に陥ったとしても、彼はトランペットの一吹きで本来の自分に戻った。周囲の全てが反逆者のような状況であった1470年春の精力的な戦いは、機敏な行動による成功の見事な例である。(17)彼の最後の軍事的成功であるバーネットとテュークスベリーの作戦にあっても、その天才は他に劣らず際だっている。
ヨークからロンドンへの行進を、敵の大軍に脅かされつつ大過なく終えたことは、たとえ敵の指揮官の何人かの裏切りを考慮に入れたとしても、見事な業績であった。バーネットにおいて彼は、霧という偶然の状況を自らの利益に変えることで、戦略と同様、戦術にも使いこなせることを示した。両軍が互いの側面を包囲するという不測の状況は、それ自体で、いずれか一方にとってより有利なわけではない。そこでは二人の指揮官の相対的な能力が試されるのみである。ここで予備を残しておくというエドワードの配慮が、自軍の左翼における敗北が深刻なものとなるのを防いだが、一方ウォリック軍の左翼の敗北は勝敗を決する大きな原因となった。ウォリックは、その生涯を調べてみれば、伝統的な評価でも軍事的な偉人というより、むしろ政治的黒幕として、コミーヌが言うように、生きている者の中で最も巧妙な男であった。
バーネットの勝利で作戦は後半に入り、エドワードは、マーガレット女王が南ウェールズの友軍との連絡を開く前に、それを阻止しようとした。グロスターは王の側に留まっていた。それゆえ敵は、セヴァーン川の渡河地点を求めてテュークスベリーにまで向かわねばならなかった。ランカスター軍のチッピング・ソドベリーでの陽動は賢明なものではあったが、エドワードは迅速な移動でこれを無効化した。両軍は全ての重要な渡河地点へと急行したが、王は──より長距離を踏破せねばならなかった上に、コッツウォルド丘陵をさまよって無駄な骨折りをすることになったものの──敵よりも速く進軍することができた。彼の軍が、水が乏しく半日に一度しか渇きを癒すことのできない土地で、食事のための休止を行うことも無しに成し遂げた、一日で51キロメートルという行軍は、驚きをもって語られている。(18)夕方には王は、疲れ切ってテュークスベリーで停止しているランカスター軍と、8キロメートル以内という距離にいた。彼らはその夜に渡し場を通過することができなかったが、翌日、軍がセヴァーン川を渡河中、兵力の半ばを依然グロスター側の岸に残した状態で攻撃を受けるよりは、王の迎撃に向かうほうが危険が少なかったので、やむなく戦闘することになった。
ここでマーガレット女王配下の指揮官達は軍を町の南方の盛り上がった地形上に配置、丘の斜面を有利に利用するとともに、生け垣と高い土塁によって防御を固めた。だが王は敵の戦列を強行突破しようとはしなかった。襲撃をかける代わりに、彼は大砲と弓兵を連れ出して、射撃を敵の一翼に集中した。そこで指揮を執っていたサマセットは、いらだって有利な位置から下り来て、射手達を駆逐しようとした。彼の突撃はしばらくは効果を上げていたが、ランカスター軍の戦列の中に致命的な間隙を作り出すことになった。中央部隊はこの間隙を埋めるための何の努力もしなかったので、(19)エドワードはそこに彼の主力の「battle」を突入させて、陣地の突破に成功、完全な混乱に陥った敵軍をテュークスベリーの町の袋小路へと追い込んで、彼らの大多数を降伏へと追い込んだ。この状況での王の戦術が、ノルマンディー公ウィリアムがヘイスティングスの勝利を勝ち取ったものと全く同じであることは、一目瞭然である。彼は砲兵と弓兵を組み合わせるという手法を導入して、敵軍を、ヨーク軍の飛び道具を避けるためには、後退するか突撃するかせざるを得ないという状況に追い込んだのである。
エドワード王だけが戦争の啓示を受けた指揮官であるわけでは決してない。ブロア・ヒースでの機動を見れば、ソールズベリー伯の能力も高く評価すべきである。率いる軍勢が劣勢であったため、彼はオードリー卿の前でしばらくの間後退、この後退は敵が油断するまで続いたが、そこで敵が小川によって分断すると、彼は突然反転し半分ずつに孤立したランカスター軍に圧倒的な打撃を加えた。タウトンの戦いの前の作戦も、両軍に相当の果敢さと慎重さが備わっていた証拠となると見て良いだろう。クリフォードは、激しい攻撃に乗りだし、フィッツウォルターの部隊の野営地を撃破し壊走させて、成功を収めている。ただし、その一方で、勝ち誇るクリフォードが主力部隊の所へ戻ろうとしたときに、ファルコンブリッジが素晴らしく機敏に襲撃をかけ、早朝のヨーク軍の大敗を午後の勝利によってぬぐい去っている。
ファルコンブリッジはまた翌日の大戦闘において、両軍が同じ武器を用いている中、勝敗を決するに足る戦術的工夫を見せている。ランカスター軍の兵士達の顔面にむかって吹き付ける吹雪は、お互いに相手の戦列を完全には見られないという状況をもたらした。そこで彼は、兵士達に射程距離の限界ぎりぎりまで進むよう命じて、矢の一斉射撃を浴びせかけ、その場で停止した。ランカスター軍は矢が降ってきたのを見て、敵は十分近く射程距離内に入っているという自然な結論に至り、連続射撃を返したが、強い向かい風のためにヨーク軍の手前50メートルほどで落下することになった。30分間これを続けて彼らの矢の備蓄はほとんど使い果たされたため、ウォリックとエドワード王が率いる矛兵および騎士はランカスター軍の弓兵から大して被害を受けることなく前進することができた。このような策略は敵対する両者が互いの武器と戦法に完全に精通していた場合にのみ可能である。
この世紀の大陸ヨーロッパ世界で広く見られた、騎士が下馬して巨大な部隊を形成する習慣が、イングランドにおいて知られていたことについては十分な証拠が存在している。ノーサンプトンにおけるランカスター軍の損失が度を超えたものになったのは、「騎士が馬を後方に送っており」逃走できなかったせいであると、言われている。類似の例として、ウォリックがタウトンで突撃を指揮するために下馬したこと、そしてバーネットでも──確かな典拠に基づき──そうであることが知られている。この習慣は、15世紀の騎士の装備における長柄斧の重要性を説明するものである。これは下馬して徒歩で戦う騎兵に特別良く使われる武器であった。そのような使用法の例を並べ立てる必要はないだろう。しかしながら、エジコット・フィールドの戦いにおいて、年代記作家たちに何よりも強い感銘を与えた出来事については、述べておくことにしよう。ウィリアム・ハーバート卿は「そこで、徒歩で手に長柄斧を持って、勇敢に義務を果たし、主力部隊の辺りで二度も敵軍を突き破り、致命的な傷は何一つ負わず戻ってきた。」この武勇伝が作られた戦いは、またもや槍兵が弓兵と騎兵の混成軍に対抗した企てとしても注目に値するものである。ヨーク軍は、弓手の指揮官であるスタッフォード卿が腹を立てて部隊を撤退させていたために、軽装兵にひどく不足しており、ペンブルックと彼の北ウェールズ部隊は支援のないまま取り残されていた。当然の結果がこれに続いた。王の軍勢は強力な陣地を有していたにもかかわらず、弓兵が反逆したことで、「彼らは丘から谷へと追いやられ」、そこで彼らは無秩序に撤退するところを北部地方の騎兵に蹂躙された。
戦争全体を通じて砲兵は両軍とも普通に使用していた。テュークスベリーの戦いとルーズ・コート・フィールドの戦い(1470)は砲の使用が決定的であった。バーネットとノーサンプトンにおいても、1462~1463年の北部地方の諸要塞の攻囲戦においても同様であったと言われている。大砲の有効性は、僅かな言及しか確認できない小火器(21)と比べて、はるかに良く認識されていた。長弓は依然としてアルケブス銃に対する優位を保っていたし、有名な諸戦場で勝利をもたらしており、注目に値するものとしてフロッデンにおいては、フォールカークの古い戦術が両軍によって再現され、低地地方の槍兵がまたもやチェシアとランカシアの弓兵によって撃ち倒されている。エドワード6世の治世の後期になっても、ケットの反乱軍が、政府の派遣した弓兵とドイツ人アルケブス銃兵の素早い射撃によって、撃破されているのを見ることができる。エリザベス女王の時代においてすら弓は民族的な武器として完全に死に絶えてはいなかったのである。
イングランドの戦闘法の、ヨーロッパ戦争学の一般的思潮への直接の影響は、1450~1453年のフランスにおける最後の領土の喪失とともに終焉を迎えることになった。それまでは頻繁に存在した接触の機会も、この時からはほとんど無くなり、その重要性も失われた。バラ戦争はイングランドの兵士達を国内に留め、この戦争が終わってからはヘンリー7世の平和政策が同じ効果をもたらした。ヘンリー8世はまれに行う効果のない遠征よりは外交と資金提供によって大陸政治への影響力を行使し、その間に、14世紀後半と15世紀のイングランド軍に特有であった性質は、全般的な戦争術の変化と発展の中で、消え去ってしまった。
注釈ページへ
次章
結び
目次へ
第六章3/4へ
注釈は別ページへ
第六章
イングランド軍とその敵たち
1272~1485
エドワード1世の即位からバラ戦争の終わりまで
研究者にとって、イングランドの民族的武器と民族的戦法で互いに争った大闘争の時期は最高に魅力的な時代である。しかしながら、バラ戦争は歴史家に恵まれなかった。これに先立つ時代の歴史には十分な資料が使用できるのに、この時代の諸戦闘に関する正確な資料の欠如は著しい。編年記録としてはウスターのウィリアム、ワークワース、ファビアンの書き継いだ『Croylamd Chronicle』の貧弱な記録、一個の著作としては『Arrival of King Edward IV』、そしてこれらと共にウェザムスティードの無学な概説が存在するが、後世のグラフトンとホールの著作によってもそれらを十分に補うことはできない。これら全てを対照しても、戦闘のほとんどの詳細は依然として理解不能である。ヨーク家軍とランカスター家軍の正確な隊列を再構成可能なたった一つの例もない。しかし、残存するものだけでも、資料のもたらす情報の乏しさを残念に思わせるには十分である。
イングランドの指揮官達が相当の戦略的・戦術的手腕を示したことは、諸作戦の大ざっぱな特徴を分析しても明らかである。戦闘が、唯一の攻撃・防御法に固執して、類型化するようなことはなかった。各戦闘はそれぞれ独自の性格を有しており、それぞれ特別な戦術が展開されている。第一次セント・オールバンズ(1455)の戦いとして知られている激しい市街戦は、ヘッジレイ・ムーアの戦い(1464)における不正規の小競り合いとは全く共通点がない。ノーサンプトンの戦い(1460)とテュークスベリーの戦い(1471)における要塞化された敵陣への突撃は、タウトンの戦い(1461)とバーネットの戦い(1471)における会戦とは類似点を持たない。ブロア・ヒースの戦い(1459)における卓越した戦術による勝利は、エジコット・フィールドの戦い(1469)における優秀な装備による勝利と対照的である。
戦争の諸々の特徴の中で顕著に際だっているのは、エドワード4世の統帥である。彼は19歳で既に練達の指揮官であり、ノーサンプトンで、ヘンリー王が前面の守りとした高い土塁と深い壕の側方において防壁の機能を果たしている「一連なりの家々」を強行突破し、ランカスター軍の陣地の迂回に成功している。(16)その翌年(1461)、グロスターからロンドンへと、イングランド中部地方の南部において、2月の荒天の中で泥道を踏破して成し遂げた、迅速な行軍によって、絶望的な危機を切り抜けた。万難を排して首都へ飛び込むという決断は、彼に王冠をもたらし、戦争の決定的な危機にあって戦況を逆転させたのである。王座に就いた後、不注意と傲慢によって危険な状況に陥ったとしても、彼はトランペットの一吹きで本来の自分に戻った。周囲の全てが反逆者のような状況であった1470年春の精力的な戦いは、機敏な行動による成功の見事な例である。(17)彼の最後の軍事的成功であるバーネットとテュークスベリーの作戦にあっても、その天才は他に劣らず際だっている。
ヨークからロンドンへの行進を、敵の大軍に脅かされつつ大過なく終えたことは、たとえ敵の指揮官の何人かの裏切りを考慮に入れたとしても、見事な業績であった。バーネットにおいて彼は、霧という偶然の状況を自らの利益に変えることで、戦略と同様、戦術にも使いこなせることを示した。両軍が互いの側面を包囲するという不測の状況は、それ自体で、いずれか一方にとってより有利なわけではない。そこでは二人の指揮官の相対的な能力が試されるのみである。ここで予備を残しておくというエドワードの配慮が、自軍の左翼における敗北が深刻なものとなるのを防いだが、一方ウォリック軍の左翼の敗北は勝敗を決する大きな原因となった。ウォリックは、その生涯を調べてみれば、伝統的な評価でも軍事的な偉人というより、むしろ政治的黒幕として、コミーヌが言うように、生きている者の中で最も巧妙な男であった。
バーネットの勝利で作戦は後半に入り、エドワードは、マーガレット女王が南ウェールズの友軍との連絡を開く前に、それを阻止しようとした。グロスターは王の側に留まっていた。それゆえ敵は、セヴァーン川の渡河地点を求めてテュークスベリーにまで向かわねばならなかった。ランカスター軍のチッピング・ソドベリーでの陽動は賢明なものではあったが、エドワードは迅速な移動でこれを無効化した。両軍は全ての重要な渡河地点へと急行したが、王は──より長距離を踏破せねばならなかった上に、コッツウォルド丘陵をさまよって無駄な骨折りをすることになったものの──敵よりも速く進軍することができた。彼の軍が、水が乏しく半日に一度しか渇きを癒すことのできない土地で、食事のための休止を行うことも無しに成し遂げた、一日で51キロメートルという行軍は、驚きをもって語られている。(18)夕方には王は、疲れ切ってテュークスベリーで停止しているランカスター軍と、8キロメートル以内という距離にいた。彼らはその夜に渡し場を通過することができなかったが、翌日、軍がセヴァーン川を渡河中、兵力の半ばを依然グロスター側の岸に残した状態で攻撃を受けるよりは、王の迎撃に向かうほうが危険が少なかったので、やむなく戦闘することになった。
ここでマーガレット女王配下の指揮官達は軍を町の南方の盛り上がった地形上に配置、丘の斜面を有利に利用するとともに、生け垣と高い土塁によって防御を固めた。だが王は敵の戦列を強行突破しようとはしなかった。襲撃をかける代わりに、彼は大砲と弓兵を連れ出して、射撃を敵の一翼に集中した。そこで指揮を執っていたサマセットは、いらだって有利な位置から下り来て、射手達を駆逐しようとした。彼の突撃はしばらくは効果を上げていたが、ランカスター軍の戦列の中に致命的な間隙を作り出すことになった。中央部隊はこの間隙を埋めるための何の努力もしなかったので、(19)エドワードはそこに彼の主力の「battle」を突入させて、陣地の突破に成功、完全な混乱に陥った敵軍をテュークスベリーの町の袋小路へと追い込んで、彼らの大多数を降伏へと追い込んだ。この状況での王の戦術が、ノルマンディー公ウィリアムがヘイスティングスの勝利を勝ち取ったものと全く同じであることは、一目瞭然である。彼は砲兵と弓兵を組み合わせるという手法を導入して、敵軍を、ヨーク軍の飛び道具を避けるためには、後退するか突撃するかせざるを得ないという状況に追い込んだのである。
エドワード王だけが戦争の啓示を受けた指揮官であるわけでは決してない。ブロア・ヒースでの機動を見れば、ソールズベリー伯の能力も高く評価すべきである。率いる軍勢が劣勢であったため、彼はオードリー卿の前でしばらくの間後退、この後退は敵が油断するまで続いたが、そこで敵が小川によって分断すると、彼は突然反転し半分ずつに孤立したランカスター軍に圧倒的な打撃を加えた。タウトンの戦いの前の作戦も、両軍に相当の果敢さと慎重さが備わっていた証拠となると見て良いだろう。クリフォードは、激しい攻撃に乗りだし、フィッツウォルターの部隊の野営地を撃破し壊走させて、成功を収めている。ただし、その一方で、勝ち誇るクリフォードが主力部隊の所へ戻ろうとしたときに、ファルコンブリッジが素晴らしく機敏に襲撃をかけ、早朝のヨーク軍の大敗を午後の勝利によってぬぐい去っている。
ファルコンブリッジはまた翌日の大戦闘において、両軍が同じ武器を用いている中、勝敗を決するに足る戦術的工夫を見せている。ランカスター軍の兵士達の顔面にむかって吹き付ける吹雪は、お互いに相手の戦列を完全には見られないという状況をもたらした。そこで彼は、兵士達に射程距離の限界ぎりぎりまで進むよう命じて、矢の一斉射撃を浴びせかけ、その場で停止した。ランカスター軍は矢が降ってきたのを見て、敵は十分近く射程距離内に入っているという自然な結論に至り、連続射撃を返したが、強い向かい風のためにヨーク軍の手前50メートルほどで落下することになった。30分間これを続けて彼らの矢の備蓄はほとんど使い果たされたため、ウォリックとエドワード王が率いる矛兵および騎士はランカスター軍の弓兵から大して被害を受けることなく前進することができた。このような策略は敵対する両者が互いの武器と戦法に完全に精通していた場合にのみ可能である。
この世紀の大陸ヨーロッパ世界で広く見られた、騎士が下馬して巨大な部隊を形成する習慣が、イングランドにおいて知られていたことについては十分な証拠が存在している。ノーサンプトンにおけるランカスター軍の損失が度を超えたものになったのは、「騎士が馬を後方に送っており」逃走できなかったせいであると、言われている。類似の例として、ウォリックがタウトンで突撃を指揮するために下馬したこと、そしてバーネットでも──確かな典拠に基づき──そうであることが知られている。この習慣は、15世紀の騎士の装備における長柄斧の重要性を説明するものである。これは下馬して徒歩で戦う騎兵に特別良く使われる武器であった。そのような使用法の例を並べ立てる必要はないだろう。しかしながら、エジコット・フィールドの戦いにおいて、年代記作家たちに何よりも強い感銘を与えた出来事については、述べておくことにしよう。ウィリアム・ハーバート卿は「そこで、徒歩で手に長柄斧を持って、勇敢に義務を果たし、主力部隊の辺りで二度も敵軍を突き破り、致命的な傷は何一つ負わず戻ってきた。」この武勇伝が作られた戦いは、またもや槍兵が弓兵と騎兵の混成軍に対抗した企てとしても注目に値するものである。ヨーク軍は、弓手の指揮官であるスタッフォード卿が腹を立てて部隊を撤退させていたために、軽装兵にひどく不足しており、ペンブルックと彼の北ウェールズ部隊は支援のないまま取り残されていた。当然の結果がこれに続いた。王の軍勢は強力な陣地を有していたにもかかわらず、弓兵が反逆したことで、「彼らは丘から谷へと追いやられ」、そこで彼らは無秩序に撤退するところを北部地方の騎兵に蹂躙された。
戦争全体を通じて砲兵は両軍とも普通に使用していた。テュークスベリーの戦いとルーズ・コート・フィールドの戦い(1470)は砲の使用が決定的であった。バーネットとノーサンプトンにおいても、1462~1463年の北部地方の諸要塞の攻囲戦においても同様であったと言われている。大砲の有効性は、僅かな言及しか確認できない小火器(21)と比べて、はるかに良く認識されていた。長弓は依然としてアルケブス銃に対する優位を保っていたし、有名な諸戦場で勝利をもたらしており、注目に値するものとしてフロッデンにおいては、フォールカークの古い戦術が両軍によって再現され、低地地方の槍兵がまたもやチェシアとランカシアの弓兵によって撃ち倒されている。エドワード6世の治世の後期になっても、ケットの反乱軍が、政府の派遣した弓兵とドイツ人アルケブス銃兵の素早い射撃によって、撃破されているのを見ることができる。エリザベス女王の時代においてすら弓は民族的な武器として完全に死に絶えてはいなかったのである。
イングランドの戦闘法の、ヨーロッパ戦争学の一般的思潮への直接の影響は、1450~1453年のフランスにおける最後の領土の喪失とともに終焉を迎えることになった。それまでは頻繁に存在した接触の機会も、この時からはほとんど無くなり、その重要性も失われた。バラ戦争はイングランドの兵士達を国内に留め、この戦争が終わってからはヘンリー7世の平和政策が同じ効果をもたらした。ヘンリー8世はまれに行う効果のない遠征よりは外交と資金提供によって大陸政治への影響力を行使し、その間に、14世紀後半と15世紀のイングランド軍に特有であった性質は、全般的な戦争術の変化と発展の中で、消え去ってしまった。
注釈ページへ
次章
結び
目次へ
by trushbasket
| 2011-02-04 00:33
| My(山田昌弘)








