C.W.C.Oman『中世における戦争術 378~1515』 山田昌弘訳 新装版 7章
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第六章
イングランド軍とその敵たち
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第七章
結び
ようやくヨーロッパの戦争術に革命をもたらす主要因となった二つの戦闘法を詳細に論じ終わった。一方をモルガルテンからビコッカまで、他方をフォールカークからフォルミニーまで辿ったが、そこからは両者に立ち向かった新方式の軍事力の発展によって、どのように両者の優越が阻止されたかをも理解することができた。スイスの槍兵とイングランドの弓兵を、封建騎兵没落の主な──そして封建制そのものの没落の小さくない──原因とするとしても、その一方で同時期にヨーロッパの別の地域では、異なる方法によって同じ仕事が成し遂げられていたことを、忘れてはならないだろう。
その中で際だっているのは、15世紀前半の大フス戦争におけるヤン・ジシュカとその部下の隊長達である。ボヘミアでは新たな軍事的発展が、社会的宗教的な大変動から発生した。愛郷心から来る憤激と宗教的な熱意で奮い立ち、あるいはエルツゲビルゲ山脈を越えて介入してくるドイツ人を駆逐することを望んで、さらには普遍的な人類愛と正義の王国を剣を持って打ち立てるという夢に駆り立てられて、勇敢な民族が立ち上がったのである。全ボヘミアが進軍の用意をしていたが、いかにして圧倒的な戦力のドイツ人を迎え撃つかは未だ明らかになっていなかった。仮に戦いの命運をチェコ貴族の騎兵に委ねていたら、おそらく戦いに望みはなかっただろう。彼らは、ドイツ封建社会の数千の騎士に対して、わずかに数十の騎士しか戦場に投入できなかったのである。農民と都市民からなる無規律な大群がそこに従っても、旧式の戦闘形態では、フランドルの歩兵がローゼベーケで為した以上のことはできなかった。しかし強靱で意気揚がる人々を使いこなすという課題は、一人の天才の手に委ねられた。トロツノフのヤン・ジシュカは、ポーランド人と共にドイツ騎士と戦って、実戦経験とドイツ人への憎しみを身につけていた。全く訓練がなっておらず、鉄で先端を覆った棒、殻竿、棒に固定した鎌といった、粗末な武装しか持たない兵士達を、戦場に連れて行くなど狂気の沙汰であると、彼ははっきり認識していた。ボヘミア人は統一された装備も民族的な戦闘法も持ってはいなかった。彼らの唯一の力は、宗教的民族的な熱狂の中にあり、これは戦いの日にあらゆる不和を消し去るほどの強さであって、ひとたび敵が視界に入るや、熱狂したあらゆる人々が、進んで団結し服従することになった。フス教徒にとって唯一の勝機は、守勢を採って、その間に敵の軍事力を見極めつつ、武器の操作を習得することにあった。そのため戦争の最初の数ヶ月において、防戦に当たる地方では、壕を急造し町を築くのを見ることができる。その一方、東部での作戦で、ジシュカはある戦闘法を目の当たりにし、これを発展させて活用していくこととなる。
[接近してくる敵を見つけると、自軍に随伴する荷車の隊列を素早く円形に配置して、騎兵攻撃から身を守るという習慣はロシア人のものであった。ロシアの大公たちはそういった構築物を利用するのが常態であり、それをgoliaigorodあるいは移動要塞と呼んでいた。ジシュカはこの戦法をボヘミアの山岳地帯に適用したが、その際、初期には地方で供出される二輪および四輪の荷馬車を使用、後には大砲を搭載し互いを結合するための鎖と留め金の付いた特別設計の車両が使用された。](1)これらの戦闘車両が、一度並べられると、騎兵突撃に対して難攻不落となることは明らかであった。鎖帷子を着た騎士の突撃が、どれほど強烈であっても、オーク製の厚板と鉄鎖を突破することはできなかった。ドイツ騎兵の突撃がフス教徒の最大の脅威であったので、それを阻む方策さえ考案されれば、戦いは半ば勝利したようなものであった。ドイツ歩兵が相手であれば、大した備えが無くとも、彼らでも対処可能であった。
ジシュカの発明は、個々の戦闘のみならず全体的な作戦においても、ボヘミア人に守勢に対する頑固な執着を生じさせる可能性があった。ところが事実はそうは成らなかった。この戦法の完成形は驚くべき形態をとった。そこでは特別な車両兵部隊が編成され、戦闘力はその働きに完全に依存していた。彼らは継続的に訓練され、車両を素早く正確に動かせるよう教え込まれた。伝わるところでは、彼らは命令に即応して円形、四角形、三角形を形成すると、そこで素早く解散し、あとには正しく配置され鎖で結合されるのを待つばかり車両のみが残された。この後、彼らは囲いの中央に位置を占めた。軍全体の組織は車両を単位に編成されていた。それぞれの車両には、操縦者のほかに約二十人の兵団が割り当てられており、その一部は槍兵と殻竿兵で、残りは飛び道具で武装していた。前者は車両間をつなぐ鎖の後ろに整列した。後者は車両の中から敵を撃ち下ろした。ジシュカは初めからボヘミア人に火器を使用させようと努めた。どうにか3分の1程度は拳銃で武装できたし、各軍は強力な砲兵隊を随伴することができた。
移動時のフス教徒軍は、独自の定まった行進隊形を持っていた。開けた地方であれば、軍は五列縦隊を形成した。中央に騎兵と砲兵が行進し、その両側にそれぞれ二隊ずつの車両が歩兵の隊員とともに従った。外側の二列は、騎兵と砲の隣の二列より長かった。短い方の二列は──奇襲攻撃を受けた場合には──前後に展開して、外の列が構成する側面と合わせて、巨大な長方形の隊形を形成することになっていた。短い方の二列が前後に旋回するには大して時間はかからず、わずかな時間さえあればフス派の戦闘隊形は完成することができた。この移動法をこれほどの完成度と素早さで実行できれば、間違いなく、フス派の軍勢は、ドイツの大軍の真ん中に突き進んで、兵力を分断し、危険が迫ってくるまでに戦闘隊形に移行することができただろう。唯一の脅威として、車両の戦列を粉砕する砲撃がある。だがフス派の方も十分な大砲の備えを有しており、それによってたいていは敵の砲列を沈黙させることができただろう。ただし、車陣(laager)戦法がこれほどの完成度で実行されたことが一度もないのは確実である。フス教徒の戦勝記録が存在しない以上、中世において、近代軍の特徴である整然たる行進によって勝利を得るような戦闘組織が、生み出されたと信じることはためらわれる。[15世紀およびその後の諸世紀の歴史家にとって、車城(wagenburg)の威力があまりに印象的であったために、全くのたわごとが歴史的事実であるかのように伝えられてきたのである。例えば、動きの遅い荷車からなる長い隊列が旋回して動くことができたなど、あり得ないのである。](2)
15世紀のボヘミアでは、ちょうど17世紀のイングランドと同様に、宗教的熱狂が無秩序ではなく、強固な規律をもたらした。確かな事実として、国全体がそれぞれ二つの名簿を持った教区に分割され、それによって教区では交互に全成人住民が戦場に送り込まれている。半数が戦っている間、もう半数は故郷に留まり、自身の土地とともに隣人の土地の耕作に当たった。このように最広義での徴兵制が、全ての人間を兵士に変える効果を発揮することで、広くもない国家が戦場に大兵力を送り込むことが、可能になったのである。
ジシュカの初期の勝利は見事なものであり、敵にとっては予想外だったため、彼らは仰天することになった。兵力の不均衡とフス教徒の未熟さを考慮に入れれば、これは真に驚くべきことであった。ところが、硬直化した封建戦法のせいで新式の軍事力に巧く対処できずに敗北したにもかかわらず、ドイツ人はその戦法を放棄せずに、兵力の増強に努めるのみであり、さらなる軍勢も、ジギスムントがプラハへと率いていった最初の軍勢と、同じ運命を辿ることになった。そしてジシュカが戦法を完成させていたので、結果の点ではより決定的なものになった。ボヘミア軍が視界にはいると、ドイツ軍の指揮官は軍勢を堅固に維持することができなかったので、侵略に次ぐ侵略は失敗に終わることになった。兵士達は、敵が車両要塞をはるかに離れて攻勢に出てきた時でさえ、敵の殻竿や槍と戦うのを断固拒否したのである。しだいに無敵であることに自信を深め得意になったフス教徒達は、尋常でなく危険な行動にさえ乗りだし、しばしば成功さえするようになった。彼らの巻き起こした恐怖は、軍事的に考えると全く不利な状況下で、小部隊をもって優勢な兵力に攻撃をかけ、勝利することさえ可能にした。ボヘミアの山々の天然の要塞から打って出たわずか2、3千の軍勢が、ほとんど抵抗を受けることなく、バイエルン、マイセン、チューリンゲン、シュレジエンを荒らし回った。彼らはドイツ東部からの略奪品を荷車に載せ、背後に膨大な荒れ地を残して、安全に帰還していった。ジシュカの死後も長らくその戦法の威信は衰えず、彼の後継者たちは、戦争の初期には考えられなかったような、勝利を達成することができたのである。
やがてターボル派が敗北を経験することになるが、これは敵の軍事力の強化のためではなく、ボヘミア人自身の内紛によるものであった。リパンの戦い(1434年5月30日)では、プロコピウスが倒れ過激派が粉砕されたが、これはドイツ人ではなくチェコ人の穏健派が勝ち取った勝利であった。戦いの結果は、フス派の戦法の弱点とターボル派の凄まじいまでの自信を示すものであった。プロコピウスが自軍の円形車陣への攻撃を追い払うと、彼の兵士達は──恐慌を起こした長年の敵ではなく、かつての仲間と戦わねばならないことを忘れて──車陣の防御兵力を残すとともに、後退していく大軍に突撃を敢行した。彼らは、追撃の際は恐慌を起こしたドイツ軍を打ち破るのが常態であったため、追撃が完全に士気が崩壊した敵勢に対する時のみ成功するということを忘れていた。前進は、本質的に守勢の戦闘法にとっては、あらゆる利点を犠牲にするということである。事実これこそが、車城戦法の弱点であり、敵軍の撃退は保証されても、敵が慎重で秩序を保って後退している限り、そこから戦果を拡張する機会は手に入らないのである。しかしながら、この戦法の発明者であるジシュカは、そもそも決定的な勝利を得る方法ではなく壊滅的な敗北を回避する方法を求めていたわけだから、この点につき彼が非難されるいわれはないだろう。リパンでは、穏健派は破られはしたものの、壊走はしていなかった。したがって、ターボル派が開けた戦場に繰り出してくると、後退していた軍勢は戦いに戻り、その際プロコピウスの騎兵よりはるかに優勢な予備騎兵隊が、円形車陣とそこから出撃した部隊の間を駆け込むことになった。こうしてターボル派の軍勢の4分の3が平原で捕捉されて包囲を受け、優勢な敵軍に粉砕されることになった。背後の車城に残っていたわずか2、3千人のみが、逃げ延びることができた。こうして必勝の秘術としてではなく、政治的必要性から開発された戦法は、軍事的目的のためには不完全であると示されることになったのである。
実際、リパンの戦いの教訓はヘイスティングスの戦いの教訓と同じものであった。純粋に防御的な戦法は、有能で機転の利く指揮官が強固な軍勢を率いて立ち向かってくれば、無力なのである。もしドイツ諸侯がまともな指揮官でドイツ軍に十分な規律があれば、ジシュカやプロコピウスの功業はあり得なかったはずである。悪しき用兵と恐慌によって、フス派が無敵に見えていただけである。そして、彼らも合理的な戦法で対抗されれば、他の者と同様、決して戦争の道理を免れるわけにはいかないのである。
ジシュカの歩兵が、殻竿と拳銃でドイツ騎士を壊走させるより、はるかな昔、別の歩兵の一団が東ヨーロッパにおいて称賛を勝ち得ていた。バルカン半島の戦場で、スラヴ人とマジャール人はオスマン朝のスルタンの奴隷戦士に恐れおののいていたのである。
諸資料は一致して、イェニチェリ軍団創設をスルタン・オルハンに帰しているが、15世紀に入るはるか以前に、この軍団がオスマン軍の重要な要素であったことを示す積極的な証拠は、全く存在しない。コソヴォの戦い(1389)やニコポリスの戦い(1396)の勝利は、鎖帷子を着た重装の近衛騎兵(spahis)が勝ち取ったものである。後者の戦いでは、ステファン・ラザレヴィクのセルビア騎士がジギスムントを撃破するのに相当の貢献を果たしている。スレイマン大帝の時までは、イェニチェリは12,000人までしか集められなかった。彼らの初期の成功は、イングランドの弓兵の成功と全く同じ原因によるものであった。彼らの初期の武器はただの弓で、西ヨーロッパの長弓とは全く異なるけれど、それでも非常に強力な武器であった。この他のイェニチェリの武装も非常に単純なものであった。彼らは防具を持たず、フェルト製の尖った帽子と膝まで届く上衣を着用するのみであった。弓と矢筒の他に、三日月刀と長めの短刀を持っていた。熱狂的な宗教心からくる規律の高さが、彼らを接近戦においても恐ろしい存在としていたが、イェニチェリはその種の戦いを想定して編成されているわけではなかった。彼らが塹壕を強襲したり突撃を先導したりしているのを見ることはあるが、それは彼らの本業ではなかった。彼らが防具を欠いていることだけで、彼らが接近戦用でないことは、十分証明されているし、彼らが決して槍の使用を取り入れなかったことにも、注目すべきであろう。ただし14世紀後半のトルコ軍は主に封建(timariot)騎兵──東洋的形態の封土保有によって維持されている──から構成されており、彼らは騎馬弓兵として活動したのみならず、槍も装備しており、しばしば鎚鉾や軍刀で接近戦を戦うのさえ述べられている。それに加えて、鎖帷子を着用した重騎兵──spahis──がスルタンの近衛兵の中核部隊として存在し、小規模な正規歩兵部隊のイェニチェリが存在した。戦時にはこれらの部隊を、軽装の騎兵および歩兵からなる不正規の補助部隊で増強したが、これは偵察兵や散兵として活用された。これが14世紀と15世紀にバルカン半島をドナウ川とサヴァ川の線まで征服した軍事組織である。
[この軍隊が成功したのは主として敵勢力の分裂状態のおかげであった。オスマン朝のスルタンにとって最も恐るべき敵はハンガリーであったが、ハンガリー王はバルカン半島のキリスト教勢力を結集するよりは、セルビア人とブルガリア人をローマ・カトリックに改宗させることに関心を向けていた。そしてジギスムント王の皇帝即位は、この精力的な王が持てる時間のほとんどを、バルカン問題ではなく、ドイツと教皇の問題に費やすという事態を引き起こした。15世紀後半の二人の偉大な指揮官──ヤーノシュ・フニャディ(1444~1456)とマーチャーシュ・コルヴィヌス(1458~1490)──の出現によって、かろうじて、ハンガリー人はドナウの線を維持することができた。ハンガリーの軍事組織はトルコ人に対抗するのに非常に適したものであった。ヨーロッパ諸国の内でハンガリーのみが民族の戦力として騎馬弓兵を保有していたのである。西ヨーロッパ封建制の武装を採用した封建貴族に加えて、この弓兵が連携すれば、オスマンの弓と槍に対抗可能であった。ただし15世紀半ばには、イェニチェリの増強を進めるトルコ軍とは対照的に、ハンガリー人は固有の歩兵を持っておらず、この不足を補うために、時にヨーロッパ人傭兵──主に槍兵やアルケブス銃兵──を雇わねばならなかった。](3)
この様な背景から言って、オスマン朝の諸戦闘で、戦術的観点から最も興味深いのは第二次コソヴォの戦い(1449)である。これは──ヴァルナの戦い(1444)やモハーチ(1526)の戦いのように──トルコ軍の戦列をまっしぐらに突撃して破ろうなどという、無謀な企てではなかった。ヤーノシュ・フニャディは、長い経験から敵の戦法を熟知しており、独自の作戦でスルタン・ムラトに対抗しようとしていた。イェニチェリに対処するため、彼は自軍中央に、フス派が用いて以来使用されるようになった拳銃で武装した、ドイツ人歩兵の精鋭部隊を配置した。両翼ではハンガリー騎士が封建(timariot)騎兵の大軍に対抗する作戦であった。この準備の結果、両軍中央は延々と、前進すること無くにらみ合うことになり、互いの隊列を、一方は弩の太矢で、他方は銃弾によって、削り合うことになった。この間両翼では、激しい騎兵突撃が互角の成果を挙げていたが、翌日ハンガリー軍のワラキア部隊がオスマン軍の優勢な兵力の前に敗走、キリスト教軍中央部隊も撤退せざるを得なくなった。非常に激しい戦いだった結果、ハンガリー軍の半数とムラト軍の三分の一が戦場に残されることになった。この戦いの戦術的意義は明白である。すなわち、たとえ勝利を保証することはないにしても、優秀な歩兵はオスマンの武器に対して長時間の抵抗が可能である。しかし、この戦いの教訓は、完全には理解されておらず、16世紀の軍事革命までは、歩兵が対オスマン防衛戦の主役を務めることは無かった。オーストリアのカール5世とフェルディナントのドイツ傭兵(Landsknechte)やアルケブス銃兵は、ハンガリーの勇敢だが無規律な軽騎兵(4)よりも、スルタンにとってはるかに恐ろしい敵であると証明されることになる。これには西ヨーロッパにおける槍兵戦法の成熟が、大きな貢献を為している。トルコ兵は、火器に信頼を置くようになったため、歩兵に槍を採用することは一切なく(5)、槍とアルケブス銃の連携に阻止されることになる。
イェニチェリが火縄銃をかなり早い時期に用いるようになったことは、注目に値する。彼らが弩を捨てて新兵器を愛好するようになったのは、コソヴォにおけるフニャディの拳銃が優秀であったからかもしれない。しかし、そうであっても、オスマン軍は、ヨーロッパが変革を終了させるよりずっと早く、さらに東方の国よりは一世紀近くも前に、ほとんど変革を完了していたのである。(6)
大砲の重要性を深く認識するという点でもまた、スルタン達は時代に先駆けていた。メフメト2世のコンスタンティノープル占領は、おそらく砲兵の力で決着のついた初めての重大事件であった。これ以前の時代の軽量の大砲が、この征服王の攻城砲列の功績に匹敵する偉業を成し遂げたことはなかった。この数十年後には、イェニチェリのアルケブス銃の戦列が、騎兵突撃に間隙を通過されないように鎖でつなぎ合わせた、無数の野戦砲の砲火に支援される姿を、目にすることができる。(7)この工夫は、ダービクの戦い(1516)やチャルディラン(1514)の戦いのように、優勢な騎兵戦力を持つ敵に対して収めた大勝利において、使用されたと言われている。
トルコ軍の武装の優越は、いくつかの原因が合わさって最終的な消滅に至った。そのうち最大のものは、中央ヨーロッパにおける、規律ある歩兵が主体となる常備軍の誕生であった。もっとも、この他にも大きな要因はあって、イェニチェリが戦闘部隊からただの特権階級へと徐々に変容していったせいで、スレイマンの治世以後のオスマン朝が、戦闘技術の進歩を導入する態勢という点で、同時代の諸国に後れを取ったことも、全く疑いのない事実である。また、キリスト教世界の辺境が、ベオグラードのように特別重要な孤立した単一の要塞で守られるのではなく、トルコの急激な進軍を困難にし、あるいは以前の時代のように一つの攻囲戦の成功から大戦果を収めるのを困難にするような、強固な町からなる二重三重の防衛線によって守られるようになったことも、思い出してみるべきだろう。
他の東欧諸国については詳述する必要はないだろう。ロシアの軍事史は、興味深いものではあるが、戦争術の全体的な発展には影響を及ぼしていない。これより重要な南欧における新たな戦法の発展は、既に、スイス人とその敵を扱った章で、スペイン歩兵について述べた際に扱っている。
真に重要で考慮に値する軍事組織については完全に議論し尽くした。封建騎兵の支配の崩壊に当たっては、突撃戦法と射撃戦法がそれぞれ役割を果たした。そのうち、いずれがより重要であったかは判断しがたい。しかしながら、両者とも見事に課題を達成している。全ヨーロッパを窮屈な枷で拘束してた体制の軍事的な支配力は、粉々に粉砕されてしまった。軍事力はもはや単一の階級が独占するのではなく、全ての国民に帰属するようになり、戦争が階級的な専有物として、封建騎兵の楽しみになる一方、社会の他の階級の苦痛になるという状況も終わりになった。戦争術は再び生命を持った存在へと蘇り、活気に溢れた16世紀がそこに様々な形態、様々な種類の発展を付け加えていくことになった。中世が過ぎ去って、活発で科学的な近世世界の精神が軍事的な発展を引き起こし、その結果中世の戦争術は、偉大なる古代ギリシア・ローマ時代の戦争以上に、現在の用兵術からかけ離れた存在に成り果てたのである。
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