2011年 04月 18日
武人にとっての「武道」・「兵法」~その本当の効用は~
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源義家は前九年・後三年の役といった奥州での兵乱で名を上げた白河院政期の武将です。前九年の役の後の事ですが、当代随一の学者であった大江匡房が彼を評して「器量は賢き武者なれども、なお軍の道をば知らぬ」と呟きました。それを聞いた義家は白河院に懇願して匡房から『孫子』の講義を受け秘伝を伝授されたそうです。当時、『孫子』を始めとする兵法書は学者の家に秘蔵されており、内容はもとより漢文訓読方法も秘伝とされていましたから、外部の人間がたやすく読める状況ではなかったのです。さて、時は流れて後三年の役での事。軍勢を率いて進む義家は前方の藪で空を飛ぶ雁の群れが急に乱れたのを見て、「鳥起者伏也」(『孫子』行軍篇)の一節を思い出し敵の伏兵を見破って危地を逃れたとか。
有名な逸話ではありますが、考えてみればおかしな話です。だって、複雑な理論ならまだともかく、鳥の動きなどがおかしかった事から伏兵を怪しみ見破る位の事はわざわざ兵法など習わなくとも義家ほどの歴戦の武人であれば経験的に理解していそうなものではないですか。実際、学問はないが勇猛であった戦国の武者が太平の世になってから初めて兵法に触れ「あの時の自分の振る舞いはそういう理由で正しかったのか」と納得したという話もあり、このレベルであれば体験から学んでいたといってよいでしょう。してみると義家が兵法を学んだのは無駄だったのでしょうか?
ところで、話は変わりますが、徳川期の『鈐録』には以下のような逸話があるそうです。加藤清正が江戸から領地の肥後へ帰る途中、桑名で一旦逗留しました。そこへ鉄砲術の大家であった稲富一夢斎が見舞いに来たため、清正は家臣の中から有望な者五人を選んで一夢に弟子入りさせ鉄砲の構え方などを少々学ばせたのです。翌日、清正らは肥後へと発ち、一夢斎は銀子・帷子反物を礼物として受け取り別離。家臣たちには「折角弟子入りしてもそれきり教えを受ける事もないであろう、無駄な事をしたものだ」と批評する者もおり、熊本城でこの事が夜話の際に話題になりました。これを聞いて清正は以下のように意図を説明したとか。
要は名人の弟子という虚名を利用して心理戦で優位に立つのが目的だったわけですね。
他にも、こんな話があります。徳川期初頭に将軍の側近であった柳生宗矩は剣術の大家でもありましたが、剣術には禅の精神が必要であると唱えて沢庵に参禅。沢庵は彼のために『不動智神妙録』『猫の妙術』を著して教えを授けたと言われています。禅を通じて高い精神性を獲得し、それによって剣をより高みへと導く、と言われれば思わず納得してしまいたくなります。しかし、勝海舟は『海舟座談』で異なる見解を披露しています。
海舟のこの考え方が的を射ているかどうかは分かりません。ただ、彼自身も幕末の剣聖と言われた男谷下総に弟子入りして剣術には長じていましたから、経験から剣と禅の精神の繋がりというのを胡散臭いと考えたのかもしれません。まあ禅の精神が有用にせよ無用にせよ、宗矩が禅云々を喧伝したのは勝の言う通り諸国の情報を得るための煙幕というのもありえる話です。しかし一方でひょっとすると自らの剣術に権威付けをして戦う前から敵を畏怖させるという目的もあったのではないでしょうか。
彼らに限らず、戦国期には一流派を興した名高い剣豪が数多く存在しました。しかし、首供養を何度もするような歴戦の勇者の多くはそのように名を残す事はなかったようです。剣豪たちが実際に強かったのは事実としても、戦場で功績を挙げるのに求められたのは必ずしもそうした流派剣術ばかりではなかったと言う事でしょうか。とすると、武将が剣術の流派に属し学ぶのも実用だけでなく名声による心理作戦という面が大きかったと想像されます。
こうした逸話を踏まえて考えると、義家が兵法を学んだのは実用に資するばかりではなく王朝の秘伝をも身に付けてこれまで以上に戦いの力を見に付けた事を喧伝し敵を威嚇するのが大きな目的と見ることも出来ます。兵法にせよ武術にせよ、実際に役立たせるだけでなく(時には役立たない事もあった)由緒ある武の技能に連なる事を示して敵を恐れさせるというのが大きかったのですね。まさに、戦場に赴く前の平時から既に戦いは始まっているわけです。
【参考文献】
日本古典文学大系84 古今著聞集 岩波書店
新訂孫子 金谷治訳注 岩波文庫
漢文の素養 加藤徹 光文社新書
史談蚤の市 村雨退二郎 中公文庫
江戸の兵学思想 野口武彦著 中公文庫
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「民明書房刊「戦国武将考察」―人気漫画から見る戦国期における「ゲン担ぎ」について―」
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「世界各地の「遼 来 来」 ~泣く子も黙る世界の勇将、知将、名将、殺戮者~」
心理作戦やら武名流布やらの話
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史」
関連サイト:
「立命館大学中国文学専攻中国古典の世界」
(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/index.htm)より
「『孫子』の世界」
(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/sonshi/)
「中部の花火情報館」
(http://miesin.com/index.html)より
「稲富流砲術家 稲富直家(一夢斎)」
(http://miesin.com/hanabi-rekisi-inadome.htm)
「柳生新陰流公式ホームページ」
(http://yagyu-shinkage-ryu.jp/)
「戦国浪漫」
(http://www.m-network.com/sengoku/index.html)より
「剣豪/武芸者編」
(http://www.m-network.com/sengoku/senken.html)
「やる夫短編集 (,,`д`)<とっても!地獄編」
(http://mukankei961.blog105.fc2.com/)より
「やる夫の剣豪ものがたりまとめ」
(http://mukankei961.blog105.fc2.com/blog-entry-395.html)
剣豪・武芸者の愉快なエピソードが満載。
有名な逸話ではありますが、考えてみればおかしな話です。だって、複雑な理論ならまだともかく、鳥の動きなどがおかしかった事から伏兵を怪しみ見破る位の事はわざわざ兵法など習わなくとも義家ほどの歴戦の武人であれば経験的に理解していそうなものではないですか。実際、学問はないが勇猛であった戦国の武者が太平の世になってから初めて兵法に触れ「あの時の自分の振る舞いはそういう理由で正しかったのか」と納得したという話もあり、このレベルであれば体験から学んでいたといってよいでしょう。してみると義家が兵法を学んだのは無駄だったのでしょうか?
ところで、話は変わりますが、徳川期の『鈐録』には以下のような逸話があるそうです。加藤清正が江戸から領地の肥後へ帰る途中、桑名で一旦逗留しました。そこへ鉄砲術の大家であった稲富一夢斎が見舞いに来たため、清正は家臣の中から有望な者五人を選んで一夢に弟子入りさせ鉄砲の構え方などを少々学ばせたのです。翌日、清正らは肥後へと発ち、一夢斎は銀子・帷子反物を礼物として受け取り別離。家臣たちには「折角弟子入りしてもそれきり教えを受ける事もないであろう、無駄な事をしたものだ」と批評する者もおり、熊本城でこの事が夜話の際に話題になりました。これを聞いて清正は以下のように意図を説明したとか。
お前たちは深く思慮しないから合点がいかないのである。一夢のような芸ある者は、名聞のために何れの家中に何という者はわれらが弟子なりと吹聴するものだし、弟子なかまでも互に自慢して吹聴するものである。国持大名の下で大身の家来を弟子にもてば師匠の誉になることだし、師匠がそうして吹聴すれば弟子になった者の名も高くなる。しぜん攻城野戦、あるいは篭城の時、敵方に一夢の弟子が何人いるということになれば、相手に廻った士卒は戦わぬ先から恐懼するもので、要は名声である。鉄砲というものは油断なく打てば当るもので、強いて一夢に習わねば上手になれないというわけのものでもない。(村雨退二朗『史談蚤の市』中公文庫 134-135頁)
要は名人の弟子という虚名を利用して心理戦で優位に立つのが目的だったわけですね。
他にも、こんな話があります。徳川期初頭に将軍の側近であった柳生宗矩は剣術の大家でもありましたが、剣術には禅の精神が必要であると唱えて沢庵に参禅。沢庵は彼のために『不動智神妙録』『猫の妙術』を著して教えを授けたと言われています。禅を通じて高い精神性を獲得し、それによって剣をより高みへと導く、と言われれば思わず納得してしまいたくなります。しかし、勝海舟は『海舟座談』で異なる見解を披露しています。
沢庵かい、なに大したものではあるまいが、アレは柳生但馬が形跡をかくしたためサ。柳生も大名だから、自分で方々を見てあるくということはできまいではないか。それで剣法に禅が入用だと言って、しばしば行って諸国行脚の話を聞いたのサ。ナニ剣法に禅がいるものかサ。何でも戦国になると、ああいう坊主が入用だったのサ。(同書 35頁)
海舟のこの考え方が的を射ているかどうかは分かりません。ただ、彼自身も幕末の剣聖と言われた男谷下総に弟子入りして剣術には長じていましたから、経験から剣と禅の精神の繋がりというのを胡散臭いと考えたのかもしれません。まあ禅の精神が有用にせよ無用にせよ、宗矩が禅云々を喧伝したのは勝の言う通り諸国の情報を得るための煙幕というのもありえる話です。しかし一方でひょっとすると自らの剣術に権威付けをして戦う前から敵を畏怖させるという目的もあったのではないでしょうか。
彼らに限らず、戦国期には一流派を興した名高い剣豪が数多く存在しました。しかし、首供養を何度もするような歴戦の勇者の多くはそのように名を残す事はなかったようです。剣豪たちが実際に強かったのは事実としても、戦場で功績を挙げるのに求められたのは必ずしもそうした流派剣術ばかりではなかったと言う事でしょうか。とすると、武将が剣術の流派に属し学ぶのも実用だけでなく名声による心理作戦という面が大きかったと想像されます。
こうした逸話を踏まえて考えると、義家が兵法を学んだのは実用に資するばかりではなく王朝の秘伝をも身に付けてこれまで以上に戦いの力を見に付けた事を喧伝し敵を威嚇するのが大きな目的と見ることも出来ます。兵法にせよ武術にせよ、実際に役立たせるだけでなく(時には役立たない事もあった)由緒ある武の技能に連なる事を示して敵を恐れさせるというのが大きかったのですね。まさに、戦場に赴く前の平時から既に戦いは始まっているわけです。
【参考文献】
日本古典文学大系84 古今著聞集 岩波書店
新訂孫子 金谷治訳注 岩波文庫
漢文の素養 加藤徹 光文社新書
史談蚤の市 村雨退二郎 中公文庫
江戸の兵学思想 野口武彦著 中公文庫
関連記事:
「民明書房刊「戦国武将考察」―人気漫画から見る戦国期における「ゲン担ぎ」について―」
「サムライ、ハラキリ、ブシドー~切腹を軸に武士の有り様を見る~」
「世界各地の「遼 来 来」 ~泣く子も黙る世界の勇将、知将、名将、殺戮者~」
心理作戦やら武名流布やらの話
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史」
関連サイト:
「立命館大学中国文学専攻中国古典の世界」
(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/index.htm)より
「『孫子』の世界」
(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/sonshi/)
「中部の花火情報館」
(http://miesin.com/index.html)より
「稲富流砲術家 稲富直家(一夢斎)」
(http://miesin.com/hanabi-rekisi-inadome.htm)
「柳生新陰流公式ホームページ」
(http://yagyu-shinkage-ryu.jp/)
「戦国浪漫」
(http://www.m-network.com/sengoku/index.html)より
「剣豪/武芸者編」
(http://www.m-network.com/sengoku/senken.html)
「やる夫短編集 (,,`д`)<とっても!地獄編」
(http://mukankei961.blog105.fc2.com/)より
「やる夫の剣豪ものがたりまとめ」
(http://mukankei961.blog105.fc2.com/blog-entry-395.html)
剣豪・武芸者の愉快なエピソードが満載。
by trushbasket
| 2011-04-18 03:55
| NF








