2011年 09月 05日
<雑記>「大阪兵は弱い」は本当か?~作家達による品定め~
|
以前より、大阪は残念ながらよろしくないイメージで語られる事が多いようです。曰く、治安が悪い、柄が悪い、下品…。ネット上でも大阪発の事件記事などで「また大阪か」といわれたり。関西人の一人として、こうした現象は残念としか言いようがない話です。
さて、近代におけるそうした事例の先駆と言えなくもないものとして、「大阪出身兵は弱い」というのがあったようで、今回はそれについて少し触れてみます。ただ、残念ながら情報源が作家やイデオロギーの強い評論家の発言で専門の歴史家による分析ではありませんから、信頼性を考えて今回は雑記扱いで。
司馬遼太郎氏によれば、近代において大阪兵は弱いとして知られており「またも敗けたか八連隊」(司馬遼太郎『手掘り日本史』文春文庫 31頁)といわれたとか。何でも鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川軍には大阪徴集兵が多く、西南戦争初期にも大阪の平民出身部隊が敗北、日清・日露戦争でも大阪兵が激戦区に出て敗れているんだそうで。一方で東北出身兵が強い事で知られた事と対比し「勇敢であるかどうかより、後方から受ける恐怖の度合い」(同書 34頁)が強弱に関係しているのではないかと推測されています。東北出身者は国家権力の重みを肌で感じているのに対し、大阪は徳川期において武士の影響力が少なく町人の自治的性格が強かったせいで国家の恐ろしさを知らない人間が多いのだろうという事です。保守派の評論家・日下公人氏も同様な見解を持っているようで、村落共同体の縛りが強く強制力として機能していたか否かの違いも大きいと述べています。
一方、大阪兵の強弱について真逆な評価をする作家もいます。今東光氏です。今氏は、大正期に川端康成らと『新思潮』に参加しますがやがて出家して比叡山で修行し最終的には権大僧正として中尊寺貫主となるなどかなり本格的な僧侶活動を行っています。その一方、戦後に「河内もの」と呼ばれる作品群で作家活動を再開し、昭和三十一年(1956)に『お吟さま』で直木賞を受賞している異色の作家です。
その今氏が、
と大阪兵が強いという主張をしているのです。ただ、今氏が挙げているのがいずれも前近代の事例である事を考えると、近代以降に国家権力の強制力を実感せず弱くなったという司馬氏らの主張とも矛盾しないようにも一見すると思えます。とはいえ、大阪が町人による自治的な性格を強く持っていたのは本願寺時代かららしいですし、楠木氏や石山合戦が強大な中央権力に反抗してのゲリラ戦・篭城戦で強さを発揮した事例である事を考えると、権力の怖さを知らず強制力が働かないという要素がただちに弱兵の理由になるかは疑問があるところです。むしろ、とある条件が揃えば、大阪出身兵も強兵として活躍しうるのではないかと思わされますね。
これに関して、評論家・日下公人氏の著作に興味深い逸話が掲載されています。それによれば、第二次大戦で日本軍にとって戦況が悪化し手詰まりになる中、司令部には精神主義が蔓延し現地の部隊に勇ましい文面・内容の命令しか出せない雰囲気であったそうです。そうした事情を知るはずもない現地では、命令を真面目に実行して玉砕する部隊が相次ぎました。中には、敵陸上部隊の上陸を支援するための敵艦が帰らないうちに攻撃をかけ、艦砲射撃で大被害を出す事例も多かったとか。こうした状況から、後に「胸中を察してほしかった」と(重要な何かを棚に上げた発言ながらも)慨嘆せずにはいられない高級軍人も少なからずいたそうです。そうした状況で役に立ったのが大阪の部隊らしく、
といった具合でした。これに関して参謀本部作戦課長であった服部卓四郎氏は
と感想を残していますし、日下氏も「実際、大阪兵団は玉砕せずアメリカに手間をかけさせているのだから、役に立っていた。結局は大阪の兵隊のほうが強かったということでもある。」(同書 136頁)と結んでいます。
これらの論述から考えると、
という事になるでしょうか。乱暴にまとめると、東北兵は短期決戦向きで、大阪兵は長期戦向きと言えるのかもしれません。楠木氏が大阪平野で見せた篭城戦・ゲリラ戦による長期の粘り。北畠顕家率いる奥州兵が二度にわたって示した、陸奥から京近郊までという長距離の敵地を突破する桁外れの爆発力。これら南北朝期の事例を考えると、それなりに納得のいく結論な気もします。まあ、東北でも前九年の役・後三年の役のように長期戦の事例が少なくありませんからこのように決め付けてしまうのは適切ではないかもしれませんが。それにそもそも、出身地だけで兵士の性格を決め付けてしまう事自体が必ずしも正しくないのかもしれませんし。
ともあれ、上述の発言等に信をおき、それを参考に考えれば、「大阪兵は弱い」というのは根拠がないわけではないが、本質的には近代における日本軍の(資源・国力の乏しさを補うための)短期決戦思想に相性が悪いというまでの話で、条件が合えば精鋭として役に立ちうる可能性があるという結論となりそうです。
【参考文献】
手掘り日本史 司馬遼太郎 文春文庫
毒舌日本史 今東光 文春文庫
人間はなぜ戦争をするのか 日下公人 三笠文庫
大阪と堺 三浦周行著 朝尾直弘編 岩波書店
関連記事:
「この際、出版社が、大挙、大阪に引っ越せば良いのに。」
「日本人はチームワークが苦手です ~1300年の戦史が語る日本人の国民性~」
国民性と戦史の話。
「提督達の見たヘタリア ~イタリアは乞食、コソ泥、ごろつき、売女~」
イタリアも弱兵のイメージで語られます(一方で個人戦闘力はむしろ高いという話も)。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「南北朝における大阪」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/osaka.html)
「楠木正成」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2000/001201.html)
「楠木正儀」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/masanori.html)
大阪兵が活躍した南北朝の動乱や第二次大戦における終戦処理に興味のある方は、社会評論社『敗戦処理首脳列伝』を御参照くださいましたら幸いです。
Amazon :『敗戦処理首脳列伝』
楽天ブックス:『敗戦処理首脳列伝』
当ブログ内紹介記事
楽天ブックス:敗戦処理首脳列伝
さて、近代におけるそうした事例の先駆と言えなくもないものとして、「大阪出身兵は弱い」というのがあったようで、今回はそれについて少し触れてみます。ただ、残念ながら情報源が作家やイデオロギーの強い評論家の発言で専門の歴史家による分析ではありませんから、信頼性を考えて今回は雑記扱いで。
司馬遼太郎氏によれば、近代において大阪兵は弱いとして知られており「またも敗けたか八連隊」(司馬遼太郎『手掘り日本史』文春文庫 31頁)といわれたとか。何でも鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川軍には大阪徴集兵が多く、西南戦争初期にも大阪の平民出身部隊が敗北、日清・日露戦争でも大阪兵が激戦区に出て敗れているんだそうで。一方で東北出身兵が強い事で知られた事と対比し「勇敢であるかどうかより、後方から受ける恐怖の度合い」(同書 34頁)が強弱に関係しているのではないかと推測されています。東北出身者は国家権力の重みを肌で感じているのに対し、大阪は徳川期において武士の影響力が少なく町人の自治的性格が強かったせいで国家の恐ろしさを知らない人間が多いのだろうという事です。保守派の評論家・日下公人氏も同様な見解を持っているようで、村落共同体の縛りが強く強制力として機能していたか否かの違いも大きいと述べています。
一方、大阪兵の強弱について真逆な評価をする作家もいます。今東光氏です。今氏は、大正期に川端康成らと『新思潮』に参加しますがやがて出家して比叡山で修行し最終的には権大僧正として中尊寺貫主となるなどかなり本格的な僧侶活動を行っています。その一方、戦後に「河内もの」と呼ばれる作品群で作家活動を再開し、昭和三十一年(1956)に『お吟さま』で直木賞を受賞している異色の作家です。
その今氏が、
僕の住んでる河内地方には本願寺法主の軍忠状なんてものが残っている家が何軒かありますよ。「×日の合戦、けなげに働いた。極楽往生疑いない」なんてだ。何にも軍事とは関係ないこと書いている。これが門徒衆にゃ有難いんだな。石山合戦で強かったのは河内の軍隊だ。楠木正成以来、河内の兵は強いんです。これが極楽往生疑いないと思って戦うんだからたまりませんや。(今東光『毒舌日本史』文春文庫 342-343頁)
と大阪兵が強いという主張をしているのです。ただ、今氏が挙げているのがいずれも前近代の事例である事を考えると、近代以降に国家権力の強制力を実感せず弱くなったという司馬氏らの主張とも矛盾しないようにも一見すると思えます。とはいえ、大阪が町人による自治的な性格を強く持っていたのは本願寺時代かららしいですし、楠木氏や石山合戦が強大な中央権力に反抗してのゲリラ戦・篭城戦で強さを発揮した事例である事を考えると、権力の怖さを知らず強制力が働かないという要素がただちに弱兵の理由になるかは疑問があるところです。むしろ、とある条件が揃えば、大阪出身兵も強兵として活躍しうるのではないかと思わされますね。
これに関して、評論家・日下公人氏の著作に興味深い逸話が掲載されています。それによれば、第二次大戦で日本軍にとって戦況が悪化し手詰まりになる中、司令部には精神主義が蔓延し現地の部隊に勇ましい文面・内容の命令しか出せない雰囲気であったそうです。そうした事情を知るはずもない現地では、命令を真面目に実行して玉砕する部隊が相次ぎました。中には、敵陸上部隊の上陸を支援するための敵艦が帰らないうちに攻撃をかけ、艦砲射撃で大被害を出す事例も多かったとか。こうした状況から、後に「胸中を察してほしかった」と(重要な何かを棚に上げた発言ながらも)慨嘆せずにはいられない高級軍人も少なからずいたそうです。そうした状況で役に立ったのが大阪の部隊らしく、
その時、真面目にやるのが東北の兵隊で、大阪の兵隊はやらない。命令を受けとっても、「そんなアホな、三日で全滅やないか」と、無駄なことはしない。軍艦はそれほど長くいられない。一〇日もすれば敵の軍艦は帰るだろう、それからやろう、となる。
電報では「ただちに所在の全兵力を挙げて反撃」とか「ただいま兵力集結中」などと報告して、一〇日間は動かない。矢のような催促が来たって知らん顔。それが大阪の兵隊だった。
(日下公人『人間はなぜ戦争をするのか』三笠書房 135-136頁)
といった具合でした。これに関して参謀本部作戦課長であった服部卓四郎氏は
「東北・九州の兵団は本当に突撃して玉砕するが、大阪・京都の兵団は半月も経ってから『次は何をすればよいか』という電報を打ってくる。まだ残っていたかと思うと嬉しかった。」(同書 136頁)
と感想を残していますし、日下氏も「実際、大阪兵団は玉砕せずアメリカに手間をかけさせているのだから、役に立っていた。結局は大阪の兵隊のほうが強かったということでもある。」(同書 136頁)と結んでいます。
これらの論述から考えると、
・「中央に権限が集中し、その下で命令を忠実に守って敵を粉砕する」という条件では東北兵が強さを発揮する
・「現地部隊にある程度権限が委託され、どれほど無様でもとにかく生き残って戦場に長く踏みとどまる事で敵を苦しめる事が求められる」という場面では大阪兵が強みを示す
という事になるでしょうか。乱暴にまとめると、東北兵は短期決戦向きで、大阪兵は長期戦向きと言えるのかもしれません。楠木氏が大阪平野で見せた篭城戦・ゲリラ戦による長期の粘り。北畠顕家率いる奥州兵が二度にわたって示した、陸奥から京近郊までという長距離の敵地を突破する桁外れの爆発力。これら南北朝期の事例を考えると、それなりに納得のいく結論な気もします。まあ、東北でも前九年の役・後三年の役のように長期戦の事例が少なくありませんからこのように決め付けてしまうのは適切ではないかもしれませんが。それにそもそも、出身地だけで兵士の性格を決め付けてしまう事自体が必ずしも正しくないのかもしれませんし。
ともあれ、上述の発言等に信をおき、それを参考に考えれば、「大阪兵は弱い」というのは根拠がないわけではないが、本質的には近代における日本軍の(資源・国力の乏しさを補うための)短期決戦思想に相性が悪いというまでの話で、条件が合えば精鋭として役に立ちうる可能性があるという結論となりそうです。
【参考文献】
手掘り日本史 司馬遼太郎 文春文庫
毒舌日本史 今東光 文春文庫
人間はなぜ戦争をするのか 日下公人 三笠文庫
大阪と堺 三浦周行著 朝尾直弘編 岩波書店
関連記事:
「この際、出版社が、大挙、大阪に引っ越せば良いのに。」
「日本人はチームワークが苦手です ~1300年の戦史が語る日本人の国民性~」
国民性と戦史の話。
「提督達の見たヘタリア ~イタリアは乞食、コソ泥、ごろつき、売女~」
イタリアも弱兵のイメージで語られます(一方で個人戦闘力はむしろ高いという話も)。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「南北朝における大阪」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/osaka.html)
「楠木正成」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2000/001201.html)
「楠木正儀」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/masanori.html)
大阪兵が活躍した南北朝の動乱や第二次大戦における終戦処理に興味のある方は、社会評論社『敗戦処理首脳列伝』を御参照くださいましたら幸いです。
Amazon :『敗戦処理首脳列伝』楽天ブックス:『敗戦処理首脳列伝』
当ブログ内紹介記事
楽天ブックス:敗戦処理首脳列伝
by trushbasket
| 2011-09-05 01:48
| NF








