秀吉と男色に関する噂話~「戦国武将なら男色しないはずがない」?~
|
羽柴長吉は太閤の小姓、比類なき美少年也。太閤、或時、人なき所にて近く召す。日頃男色を好み給はぬに故に、人々皆奇特の思ひをなす。太閤問ひ給ふは、『汝が姉か妹ありや』と。長吉顔色好き故也。
(須永朝彦『美少年日本史』國書刊行会 179頁)
(羽柴長吉は太閤秀吉の小姓で、比類ない美少年であった。太閤は、ある時、長吉を人のいない場所で近くにさし招かれた。常日頃、太閤は男色をお好みではないので、人々はこれを知ってみな珍しいことだと思ったのである。さて太閤が長吉に御問いになった内容はといえば、『お前に姉か妹はいないか?』という事であった。長吉の顔が美しいため姉妹がいればさぞ美人だろうと思ったためである。)
といったものがありました。因みに羽柴長吉は池田信輝の三男で、秀吉の近臣として「羽柴」姓を名乗るのを許可された人物です。それにしても、美少年を目の前にしながら、本人には興味を持たずその姉妹が美人だろうと想いを馳せているあたり、筋金入りの女好きであると共に男色には縁がなかった事が読み取れますね。あと、それでも見目好い少年を周りにおいて勢威を見せようという当時の風潮にはとりあえず乗っていたことも。
因みに、徳川家康も秀吉同様に好色で知られましたが、こちらは男色方面でも戦果を残しているようで『古老茶話』によれば水野忠元は「美男にて神君の男色也」という事ですし、徳川四天王の一人・井伊直政も『塩尻』によれば「美麗の少年」で『甲陽軍鑑』は「家康の御座を直す」すなわち家康のお手つきであったと記録しています。
さて、戦国期は男色が大流行したせいか、こうした秀吉も後世の伝説で男色に関する伝説の話が語られる事はありました。『石田軍記』には石田三成と秀吉が愛人関係であったという伝説が採用されているようですし、南方熊楠によれば、
織田信忠は秀吉を念者とし、特に懇意なり。叔母お市の方(浅井長政の寡婦、淀君の母)、浅井滅後後家住居せしを、信忠世話して秀吉の妻とせんとせしうち、信忠、光秀に弑せられ、信孝の世話にてお市の方柴田の後妻となれり。これより柴田・羽柴の戦い始まれりとなす。
(『南方熊楠コレクションⅢ浄のセクソロジー』河出文庫 319頁)
とあるように織田信忠(信長の嫡子、本能寺の変で横死)と秀吉が男色関係にあった(ちなみに秀吉が「念者」だという事なので秀吉×信忠、つまり秀吉が男役ですね)という話がまことしやかに語られていたとか。当時の武将であれば男色趣味がないはずがない、という通念があった事が何となく読み取れる話ですね。
【参考文献】
南方熊楠コレクションⅢ浄のセクソロジー 河出文庫
美少年日本史 須永朝彦 國書刊行会
戦国武将のゴシップ記事 鈴木眞哉 php新書
同性愛と同性心中の研究 小峰茂之・南孝夫 牧野出版
関連記事:
「ウホッ!いい日本史… 前近代日本男色略史」
「豊臣秀吉は猿顔じゃない? ~さるはさるに似ざるの説 VS さるはどう見てもさるでござるの説~」
「ミルクを飲ませて(性的な意味で)立派な武士を育成するでござるの巻」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「茶の湯」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/1998/980424.html)
秀吉関連の発表ということで。
豊臣秀吉に関しましては社会評論社『ダメ人間の日本史』より「豊臣秀吉 おね 戦国美女と野獣 ~猿顔のロリコン武将とその美少女嫁の話~」を御参照くださいましたら幸いです。
Amazon :『ダメ人間の日本史』(ダメ人間の歴史vol 2)
楽天ブックス:『ダメ人間の日本史』(ダメ人間の歴史vol 2)
当ブログ内紹介記事
ついでにこちらもどうぞ。
Amazon :『ダメ人間の世界史』(ダメ人間の歴史vol 1)
楽天ブックス:『ダメ人間の世界史』(ダメ人間の歴史vol 1)
当ブログ内紹介記事
楽天ブックス: ダメ人間の世界史 - ダメ人間の歴史vol 1 -
楽天ブックス: ダメ人間の日本史 - ダメ人間の歴史vol 2 -