2013年 01月 12日
6 補給戦論 ~大名も軍学者ももっと兵糧輸送を研究すべき~
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荻生徂徠『鈐録外書』6/11
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問題提起(1巻)
およそ戦においては兵糧を第一とする。他国に出て働くことになる兵士達に、一人残らず力の限り米を背負わせたところで、一人の持ち運ぶ量がどれほどの日数の食料になるのであろうか。計算が必要である。異国の合戦では、千里に糧を運ぶということがある。これはどのようにして運んでいるのだろうか。
補足(3巻)
第6条の疑問に関しては世間でも良く理解されている。異国はさておき、我が国でも北畠顕家が奥州より大軍を繰り出して二度まで上洛している。途上の全てで敵地を通ってのことである。これはどのように成し遂げたのであろうか。思案が必要である。現在の多少賢明な大将達は、軍用のためとして金を貯めている者もいるようである。一騎の侍が戦時の備えとして五十両、百両貯めておくことはもっともなことではある。だが大将連中が金を貯めているのは、合戦の時代となっても太平の世と同じように道中の旅館・駄馬が利用できると考えてのことと見受けられる。これは問題のある考えである。軍法においてはその他の要素は差し置いて、ます第一に兵糧運送の工夫を為すべきである。この一点で差し障りがあれば、他の点でいかに修練していたとしても、遠征を成功させることはできないであろう。
反論および再反論(5巻)
第6条の兵糧輸送の事は、合戦の最重要の準備とは誰でも理解していることではあるが、遠く敵地を通る際の兵糧輸送のやり方は、習練のしようもないものである。異国では、国を離れて他国で戦う際に、道を借りて通るといった類の表現が歴史に登場しており、孫子にも「粮は敵による」とある。敵地を攻め取って、その土地の食料を用いるのだと考えられる。
張紙 異国の書籍を見たことがない故に、敵地をはるばると兵糧輸送した例が、いくらでもあることを、知らないのであろう。
わが国でも、信玄は遠く都へ攻め上ろうとしていたが、道筋が敵地であったので、攻め取りつつ、上洛することを考えていた。また秀吉公の毛利攻めの時は、事前に敵国の兵糧を買い取っていた。
張紙 敵国の兵糧を秀吉公は誰から買い取ったのだろうか。これについてはもっと理解を深めたいところである。
小田原の陣の時は前年から三嶋・江尻に兵糧輸送するよう長束正家に命令し、船で運送しておいたが、このようなことができたのはいずれも味方の領地であったおかげであろう。
張紙 越後の謙信が小田原蓮池に切り込んだ際は、越後から百里余りの距離で、異国の千里に相当する。小荷駄を取られてしまったが、これは一時の失敗にすぎないのであって、敵地を通り兵糧を送る術が、日本に存在しないわけではなかろう。常陸の国の小田天庵が城を謙信に蹂躙されたのも、越後から百里に達する距離であった。
顕家卿の上洛のこと、道筋が味方の地であったようには見えない。関ヶ原の敗戦の際、島津義久は敵地を通って薩摩まではるばると退却していった。いずれもこのような事はそのときの状況次第で、事前に教えるようなことは不可能と思われる。
張紙 そのときの状況次第という言い分は、前にひたすら主将の謀略を言い立てて、議論をそらせたのと同じやり口である。それでは軍法など必要ないと言うことにもなりかねない。
千里の食料輸送というのは、なるほど異国の書物には見ることが出来るが、敵地の中を送るというやり方は、聞いたことがない。良き輸送法の伝承があるというのであれば、伝授して欲しいものである。
張紙 異国の書を見ないから、知らないのである。
現在の大名たちのうちに、戦に役立てるためといって金を貯めている者があることについて。疑問を抱くことが理解できない。乱世に敵国に攻め込んで、宿泊費用や運賃がいらないことは、よく知られていることであるが、その一方で、平和の時代にも島原一揆のようなことがあれば、わざわざ関東から、あるいは大名の分国から兵糧を馬車に載せて送るようなことはしない。兵糧のために限らず金の有無は有利不利に直結する。もちろん文武の嗜みもなく、士卒を困窮させる大名を非難しているのであれば、もっともな言い分である。しかしそのようなことは大身でも小身でも、人それぞれに褒貶の対象とすべきであって、一括りに非難するようなものではない。
張紙 兵糧の心配をせずに金を貯めていることについては、戦国の昔を知らないでやっている点を嘆いたのである。これは平和の時代の畳の上の了簡で、宿泊費用や運賃が要らなかったことを知らないせいである。軍学者たちもそのような了簡でいるので、どの軍法においても兵糧問題の扱いは、非常に粗末なものである。また平和の時代にも島原一揆のようなことが起きるとしても、少し状況が悪化すれば、米価は非常に高値となるであろう。そのためあらかじめ用意した金では、とうてい足りないだろう。
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問題提起(1巻)
およそ戦においては兵糧を第一とする。他国に出て働くことになる兵士達に、一人残らず力の限り米を背負わせたところで、一人の持ち運ぶ量がどれほどの日数の食料になるのであろうか。計算が必要である。異国の合戦では、千里に糧を運ぶということがある。これはどのようにして運んでいるのだろうか。
補足(3巻)
第6条の疑問に関しては世間でも良く理解されている。異国はさておき、我が国でも北畠顕家が奥州より大軍を繰り出して二度まで上洛している。途上の全てで敵地を通ってのことである。これはどのように成し遂げたのであろうか。思案が必要である。現在の多少賢明な大将達は、軍用のためとして金を貯めている者もいるようである。一騎の侍が戦時の備えとして五十両、百両貯めておくことはもっともなことではある。だが大将連中が金を貯めているのは、合戦の時代となっても太平の世と同じように道中の旅館・駄馬が利用できると考えてのことと見受けられる。これは問題のある考えである。軍法においてはその他の要素は差し置いて、ます第一に兵糧運送の工夫を為すべきである。この一点で差し障りがあれば、他の点でいかに修練していたとしても、遠征を成功させることはできないであろう。
反論および再反論(5巻)
第6条の兵糧輸送の事は、合戦の最重要の準備とは誰でも理解していることではあるが、遠く敵地を通る際の兵糧輸送のやり方は、習練のしようもないものである。異国では、国を離れて他国で戦う際に、道を借りて通るといった類の表現が歴史に登場しており、孫子にも「粮は敵による」とある。敵地を攻め取って、その土地の食料を用いるのだと考えられる。
張紙 異国の書籍を見たことがない故に、敵地をはるばると兵糧輸送した例が、いくらでもあることを、知らないのであろう。
わが国でも、信玄は遠く都へ攻め上ろうとしていたが、道筋が敵地であったので、攻め取りつつ、上洛することを考えていた。また秀吉公の毛利攻めの時は、事前に敵国の兵糧を買い取っていた。
張紙 敵国の兵糧を秀吉公は誰から買い取ったのだろうか。これについてはもっと理解を深めたいところである。
小田原の陣の時は前年から三嶋・江尻に兵糧輸送するよう長束正家に命令し、船で運送しておいたが、このようなことができたのはいずれも味方の領地であったおかげであろう。
張紙 越後の謙信が小田原蓮池に切り込んだ際は、越後から百里余りの距離で、異国の千里に相当する。小荷駄を取られてしまったが、これは一時の失敗にすぎないのであって、敵地を通り兵糧を送る術が、日本に存在しないわけではなかろう。常陸の国の小田天庵が城を謙信に蹂躙されたのも、越後から百里に達する距離であった。
顕家卿の上洛のこと、道筋が味方の地であったようには見えない。関ヶ原の敗戦の際、島津義久は敵地を通って薩摩まではるばると退却していった。いずれもこのような事はそのときの状況次第で、事前に教えるようなことは不可能と思われる。
張紙 そのときの状況次第という言い分は、前にひたすら主将の謀略を言い立てて、議論をそらせたのと同じやり口である。それでは軍法など必要ないと言うことにもなりかねない。
千里の食料輸送というのは、なるほど異国の書物には見ることが出来るが、敵地の中を送るというやり方は、聞いたことがない。良き輸送法の伝承があるというのであれば、伝授して欲しいものである。
張紙 異国の書を見ないから、知らないのである。
現在の大名たちのうちに、戦に役立てるためといって金を貯めている者があることについて。疑問を抱くことが理解できない。乱世に敵国に攻め込んで、宿泊費用や運賃がいらないことは、よく知られていることであるが、その一方で、平和の時代にも島原一揆のようなことがあれば、わざわざ関東から、あるいは大名の分国から兵糧を馬車に載せて送るようなことはしない。兵糧のために限らず金の有無は有利不利に直結する。もちろん文武の嗜みもなく、士卒を困窮させる大名を非難しているのであれば、もっともな言い分である。しかしそのようなことは大身でも小身でも、人それぞれに褒貶の対象とすべきであって、一括りに非難するようなものではない。
張紙 兵糧の心配をせずに金を貯めていることについては、戦国の昔を知らないでやっている点を嘆いたのである。これは平和の時代の畳の上の了簡で、宿泊費用や運賃が要らなかったことを知らないせいである。軍学者たちもそのような了簡でいるので、どの軍法においても兵糧問題の扱いは、非常に粗末なものである。また平和の時代にも島原一揆のようなことが起きるとしても、少し状況が悪化すれば、米価は非常に高値となるであろう。そのためあらかじめ用意した金では、とうてい足りないだろう。
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by trushbasket
| 2013-01-12 01:53
| My(山田昌弘)








