2013年 01月 18日
7 部隊編成論 2 ~無能な高給取りと役立たずの従者のせいで日本の軍隊は空洞化している~
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荻生徂徠『鈐録外書』7/11
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問題提起(1巻)
諸家の布陣を見ると、だいたいは士卒が二百石の給与を受けようと、三百石を受けようと、さらには五、六百石受けていたとしても、隊列中の兵士は各々が槍を持ち、同様に装備している。その家来は従者も同然で、部隊の後方で待機しているように見える。この様であれば、侍は槍一本以上の役には立たないと言える。ただ槍一本の役割であれば、徒歩の兵も騎馬の兵も働きに変わりはなく、領地持ちの侍は見かけ倒しにすぎない。そこで効用を第一とするならば、侍を百騎率いるよりも、徒歩の兵を三百人も五百人もその給料で養うべきである。召し抱える従者が多くいるなら、合戦の時には主人の役に立てるべきである。主人だけが働くのでは、大事に当たって無用の人間に兵糧を多く費やすことになり、これは愚行の極みである。だいたい日本国中六十余州の大小国を平均して、一国に八千人の兵力と古人は言い習わしている。現在の軍法では、人数はかなり減少してしまう。いかなる利用法が良いのであろうか。
補足(3巻)
第7条の疑問については気にかけている者もいるようではあるが、今の世の有様しか知らないので、大方はどうしようもなく途方に暮れるだけの様である。この点が片づかなくては、軍法も計算も秘伝・秘術も何の役にも立ちようがない。事の起こりを調べると、これは元就・氏康・信玄・謙信より信長・秀吉公に至るまで、いずれも軍略の妙術・妙計を駆使するばかりで、軍法と言うことは夢にも考えなかったことは明白な証拠がある。大将の意思のみで三軍を進退させ、士卒の知勇を借りずに済ませることを軍法というのである。太公望、孫・呉・諸葛孔明・李靖・戚南塘などの極意はここに極まっている。日本の名将は軍略の妙術ばかりで、軍法は行き届いていない。兵士の知勇を借りて勝利を得るやり方で、世評高く武功あるものを高給で雇い入れるので、一の騎馬侍に過ぎないのに高給を受け取る者が、だんだんと多くなってしまったのである。全体として、戦の仕方は士卒にそれぞれ功を立てさせるやり方なので、侍に指物・四半といった標識を付けさせ、後ろから見えるようにすることになる。当時はそれで問題なかったのだが、侍の世代交代が進み、今の世に至ってしまえば、武功の者、世評ある者の子孫も、そうではない者も、何の取り柄もない者も、家柄によって高給を取っており、軍役と名付けて家来を引き連れたところで、みな槍一本分の働きしかせず、高給の者と薄給の者、どちらを引き連れても差異はない。従卒など軍役とは名ばかりで、これまで戦の役には立ったことがない。本物の兵士を世話するだけの軍役に成り下がっている。この結果、現在は戦国の時代の名将の布陣が役に立たなくなっていることが、明白である。だからといって侍の受け取る給与を削るのも難しい。これこそ、軍学者連中が引き起こした中でもこれ以上ない害悪である。これは全て軍法の行き届かない名将たちの、古い戦物語を秘術と考える誤りから起こっている事態である。軍法を売り物にする軍学者たちは、どうにかして生計を立てようと行っているので、なんとしても軍法を売りつけ、給与を得ようとするものである。一国一郡を領する大将たちの、このような輩に騙される目の暗さは、笑止千万である。異国や我が国の軍理を事実にせよ、技術にせよ、真理の吟味をしっかりとすることで、ようやくこのやり方も今の世の中相応に変わって行くであろう。
反論および再反論(5巻)
第7条の疑問の、昔の諸将は軍法というものを夢にも考えなかったため、槍一本の小身の者も、高給を取る者も、働きにおいては同じ程度であるとの評価は、日本の部隊編成のやり方についてよく知らないものと見受けられる。馬の口取りのみを後ろに下げるが、その他の家来は若党・中間であって何人いても、侍の面々の前に配置することになる。
張紙 私は別に異国人ではなく日本についても知っている。日本の部隊編成のやり方は云々とは、余りの言いようであろう。馬の口取りのみを後ろに下げ、その他は若党・中間であって侍の面々の前に配置するとの言い分は、貴方に軍法を教えた軍学者連中の妄説に過ぎない。若党・道具持は刀を差しているが、これは武家のしきたりでしているにすぎない。清正は二百石の身上の頃、槍を運ばせるために従者を六人引き連れていたことがある。今の草履取り・挟み箱持ちのような者は、戦においては役にたたない存在である。そういった者に脇差しのみ差させるというのが、領地持ちの侍の元々の家来の扱い方であったのだが、今時は短期の奉公人を多く雇う時代になり、中間も武家の飯を食う者であるから、軍学者たちはあのような妄説を唱えるに至ったのだろう。特に主人の前に並べて置くなどということは、決してなかったことである。近年の天草の物語さえも聞いたことがないのだろう。槍運びの従者の故実をも知らないようだ。なお我が国の弓矢の風俗として、騎馬戦のときは従者とも主人と同じく馬にて出動することがある。
それ故、古より主人の槍脇に控え、槍下の高名などと言われる家来が、何人もいたのである。
張紙 槍脇・槍下の高名という言葉を、従者に限って使うのは、珍妙なことである。
今の時代でも高給の者は高給なりに、薄給の者は薄給なりに役に立つものである。
張紙 高給の者は高給なりに、薄給の者は薄給なりに役に立つとの言い分は、それが本当ならまことに結構なことである。
しかし現在地方に領地を持つのは国持ちの大名のみである。
張紙 国持ち大名の現在の家来達は役に立たないであろう。
譜代の高給取りに関しては多くが蔵米から給与を受け、侍が一年限りの年季奉公人のように成り下がり、その家来も一年限りで雇用されるに過ぎないので、
張紙 一年限りの従者を抱えているのは、その主人が蔵米を受け取るからではない
見かけ倒しで、戦場では大方逃走するやもしれない。
張紙 確実に逃走するであろう
この点については小身も大身も同じとの言い分は、もっともなことである。これを逃走させない方法は、時と場合によるもののなので、事前に教えるのは難しい。今の時代相応のやり方があると言うのなら、よほど良い工夫を知っているに違いないが、是非教えてもらいたいものである。
張紙 戦場で逃走させない方法があれば良いとは、ずいぶん過大評価である。現在の若党・中間は戦の中へは言うまでもなく、それどころか箱根を超える程度で皆逃げ出してしまうだろう。軍法といえば利己心から口先の議論をするばかりであるし、どうしようもない。
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問題提起(1巻)
諸家の布陣を見ると、だいたいは士卒が二百石の給与を受けようと、三百石を受けようと、さらには五、六百石受けていたとしても、隊列中の兵士は各々が槍を持ち、同様に装備している。その家来は従者も同然で、部隊の後方で待機しているように見える。この様であれば、侍は槍一本以上の役には立たないと言える。ただ槍一本の役割であれば、徒歩の兵も騎馬の兵も働きに変わりはなく、領地持ちの侍は見かけ倒しにすぎない。そこで効用を第一とするならば、侍を百騎率いるよりも、徒歩の兵を三百人も五百人もその給料で養うべきである。召し抱える従者が多くいるなら、合戦の時には主人の役に立てるべきである。主人だけが働くのでは、大事に当たって無用の人間に兵糧を多く費やすことになり、これは愚行の極みである。だいたい日本国中六十余州の大小国を平均して、一国に八千人の兵力と古人は言い習わしている。現在の軍法では、人数はかなり減少してしまう。いかなる利用法が良いのであろうか。
補足(3巻)
第7条の疑問については気にかけている者もいるようではあるが、今の世の有様しか知らないので、大方はどうしようもなく途方に暮れるだけの様である。この点が片づかなくては、軍法も計算も秘伝・秘術も何の役にも立ちようがない。事の起こりを調べると、これは元就・氏康・信玄・謙信より信長・秀吉公に至るまで、いずれも軍略の妙術・妙計を駆使するばかりで、軍法と言うことは夢にも考えなかったことは明白な証拠がある。大将の意思のみで三軍を進退させ、士卒の知勇を借りずに済ませることを軍法というのである。太公望、孫・呉・諸葛孔明・李靖・戚南塘などの極意はここに極まっている。日本の名将は軍略の妙術ばかりで、軍法は行き届いていない。兵士の知勇を借りて勝利を得るやり方で、世評高く武功あるものを高給で雇い入れるので、一の騎馬侍に過ぎないのに高給を受け取る者が、だんだんと多くなってしまったのである。全体として、戦の仕方は士卒にそれぞれ功を立てさせるやり方なので、侍に指物・四半といった標識を付けさせ、後ろから見えるようにすることになる。当時はそれで問題なかったのだが、侍の世代交代が進み、今の世に至ってしまえば、武功の者、世評ある者の子孫も、そうではない者も、何の取り柄もない者も、家柄によって高給を取っており、軍役と名付けて家来を引き連れたところで、みな槍一本分の働きしかせず、高給の者と薄給の者、どちらを引き連れても差異はない。従卒など軍役とは名ばかりで、これまで戦の役には立ったことがない。本物の兵士を世話するだけの軍役に成り下がっている。この結果、現在は戦国の時代の名将の布陣が役に立たなくなっていることが、明白である。だからといって侍の受け取る給与を削るのも難しい。これこそ、軍学者連中が引き起こした中でもこれ以上ない害悪である。これは全て軍法の行き届かない名将たちの、古い戦物語を秘術と考える誤りから起こっている事態である。軍法を売り物にする軍学者たちは、どうにかして生計を立てようと行っているので、なんとしても軍法を売りつけ、給与を得ようとするものである。一国一郡を領する大将たちの、このような輩に騙される目の暗さは、笑止千万である。異国や我が国の軍理を事実にせよ、技術にせよ、真理の吟味をしっかりとすることで、ようやくこのやり方も今の世の中相応に変わって行くであろう。
反論および再反論(5巻)
第7条の疑問の、昔の諸将は軍法というものを夢にも考えなかったため、槍一本の小身の者も、高給を取る者も、働きにおいては同じ程度であるとの評価は、日本の部隊編成のやり方についてよく知らないものと見受けられる。馬の口取りのみを後ろに下げるが、その他の家来は若党・中間であって何人いても、侍の面々の前に配置することになる。
張紙 私は別に異国人ではなく日本についても知っている。日本の部隊編成のやり方は云々とは、余りの言いようであろう。馬の口取りのみを後ろに下げ、その他は若党・中間であって侍の面々の前に配置するとの言い分は、貴方に軍法を教えた軍学者連中の妄説に過ぎない。若党・道具持は刀を差しているが、これは武家のしきたりでしているにすぎない。清正は二百石の身上の頃、槍を運ばせるために従者を六人引き連れていたことがある。今の草履取り・挟み箱持ちのような者は、戦においては役にたたない存在である。そういった者に脇差しのみ差させるというのが、領地持ちの侍の元々の家来の扱い方であったのだが、今時は短期の奉公人を多く雇う時代になり、中間も武家の飯を食う者であるから、軍学者たちはあのような妄説を唱えるに至ったのだろう。特に主人の前に並べて置くなどということは、決してなかったことである。近年の天草の物語さえも聞いたことがないのだろう。槍運びの従者の故実をも知らないようだ。なお我が国の弓矢の風俗として、騎馬戦のときは従者とも主人と同じく馬にて出動することがある。
それ故、古より主人の槍脇に控え、槍下の高名などと言われる家来が、何人もいたのである。
張紙 槍脇・槍下の高名という言葉を、従者に限って使うのは、珍妙なことである。
今の時代でも高給の者は高給なりに、薄給の者は薄給なりに役に立つものである。
張紙 高給の者は高給なりに、薄給の者は薄給なりに役に立つとの言い分は、それが本当ならまことに結構なことである。
しかし現在地方に領地を持つのは国持ちの大名のみである。
張紙 国持ち大名の現在の家来達は役に立たないであろう。
譜代の高給取りに関しては多くが蔵米から給与を受け、侍が一年限りの年季奉公人のように成り下がり、その家来も一年限りで雇用されるに過ぎないので、
張紙 一年限りの従者を抱えているのは、その主人が蔵米を受け取るからではない
見かけ倒しで、戦場では大方逃走するやもしれない。
張紙 確実に逃走するであろう
この点については小身も大身も同じとの言い分は、もっともなことである。これを逃走させない方法は、時と場合によるもののなので、事前に教えるのは難しい。今の時代相応のやり方があると言うのなら、よほど良い工夫を知っているに違いないが、是非教えてもらいたいものである。
張紙 戦場で逃走させない方法があれば良いとは、ずいぶん過大評価である。現在の若党・中間は戦の中へは言うまでもなく、それどころか箱根を超える程度で皆逃げ出してしまうだろう。軍法といえば利己心から口先の議論をするばかりであるし、どうしようもない。
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by trushbasket
| 2013-01-18 19:37
| My(山田昌弘)








