近代横綱の昇進について勝手に評価してみる~横綱審議委員会以前の時代~(下)
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明治期に「横綱」が称号から最高位へと変化してから戦後の横綱審議委員会(「横審」)成立までの横綱昇進を戦後的な基準、すなわち
・大関で直前2場所合計25勝以上
・直前場所は12勝以上
を利用して評価してきました。後半は、昭和前期に昇進した横綱についてです。
前半でも述べましたが、この時代は必ずしも1場所15日間と決まっていたわけではなく、時期によって10日だったり11日だったりと変動がありました。そこで、話を単純にするため比率によって15日相当の成績に換算する事にします。当時、「引き分け」や「勝負預かり」で勝敗が曖昧になる事も多かったので、「引き分け」「勝負預かり」は0.5勝相当として計算した上で、「引き分け」「預かり」の占める割合から改めて算出する方法を取りました。ちなみに昭和に入ると、徐々に不戦勝制度が定着していくせいか休みは減っていきます。
こうした、甘くていい加減な計算なので、話半分にご覧いただければ幸いです。以下で述べる成績の括弧なしが正味の成績であり、括弧内が15日に換算した成績です。(優)が優勝、(優同)が優勝同点の略です。
・玉錦
昭和初期において土俵の覇者となった強豪横綱です。しかし、横綱昇進に当たっての評価は常ノ花どころではない辛めのものでした。1930年5月より大関を務め、
1930年 5月:9勝2敗(12勝3敗) 10月:9勝2敗(優)(12勝3敗)
1931年 1月:9勝2敗(優)(12勝3敗) 3月:10勝1敗(優)(13勝2敗)
と安定した成績を残し3連覇したにも関わらず昇進は果たせていません。1931年1月の時点では15日換算で計24勝相当ですから甘いと判断する余地はあるかもしれませんが、それでも連覇は連覇。昇進を考慮する余地はあったはず。1931年3月に至っては、3連覇な上に直前2場所が計25勝相当と星数も満たしています。流石にここで昇進させるべきなように思えます。そもそも、それまでに散々甘い昇進を許してきたわけですからね。玉錦はその後も、
1931年 10月:9勝2敗(12勝3敗)
1932年 2月:7勝1敗(13勝2敗) 3月:8勝2敗(12勝3敗) 5月:10勝1敗(優)(13勝2敗) 10月:7勝4敗(9勝6敗)
と好成績を残し続けた末にようやく1932年10月場所後に横綱免許を与えられます。15日換算ですと、1932年2月・3月・5月時点で直前2場所合計が25勝相当、直近が12勝相当以上という条件を満たしています。一方、横綱を許された直近の成績はいまいち冴えないものでしたから、長らくの好成績に根負けしたものと見るべきでしょう。横綱不在時代を挟んだにも関わらず、玉錦がここまで厳しく据え置かれた理由は謎ですが、喧嘩っ早い点が素行に問題ありとみなされたのではないかと推測されています。昇進基準がはっきりしていない事による割を食った見本のような事例ですね。それでも腐らず昇進を果たし、昇進後も王者として君臨し続けたのは立派の一言です。
・武蔵山
名門・出羽海部屋にあって堂々たる体躯ゆえに若いころから期待され、美男力士として人気も高かった武蔵山。彼自身も期待に応えてスピード出世を果たし、小結時代の1931年5月場所に10勝1敗(13勝2敗相当)で優勝。その後も好成績を残したため1932年2月より大関となりました。しかし、大関昇進前の取り組みで利き腕で相撲における命綱だったの右肘を痛め慢性化させてしまった事、角界の内紛に巻き込まれ廃業を考えるほど動揺した事から、大関時代は期待ほどの働きが出来なくなります。それでも、10勝相当の成績を積み重ねてきたのは立派というべきかもしれません。最終的には、
1934年 1月:8勝3敗(10勝5敗) 5月:9勝2敗(12勝3敗)
1935年 1月:8勝2敗1分(11勝3敗1分) 5月:9勝2敗(12勝3敗)
という成績の末に1935年5月場所後に横綱免許。直前2場所は15日換算すると23.5勝相当であり、戦後の基準からすると甘いと言わざるを得ないでしょう。昇進後の武蔵山は、右肘の古傷もあって休場がちとなり、横綱通算成績は5割と苦戦を物語る数字を残しています。
・男女ノ川
長身巨漢力士として若いころから期待されながら、ムラッ気が多かった男女ノ川。彼は二度の優勝を果たした後に大関となり、大関時代には
1934年 5月:5勝6敗(6勝9敗) 1935年 1月:9勝2敗(12勝3敗) 5月:8勝3敗(10勝5敗)
1936年 1月:9勝2敗(12勝3敗)
という成績を残し、1936年1月場所後に横綱免許を得ています。直前2場所の成績を15日換算すると計22勝相当。彼も甘い昇進です。武蔵山・男女ノ川の二人は、若いころから人気があり期待も大きかった事、甘い昇進をした事が共通しています。興行上の理由か、「将来に期待して」かの理由で甘い昇進がなされたのは想像に難くありません。なお、男女ノ川は勘定にはこだわらない飄々とした横綱生活を送り、ある時はそこそこの成績かと思えば別の場所では負け越したりといった具合だったとか。ツボにはまれば強さを発揮するとはいえ、双葉山の引き立て役だったのは否めないようです。
・双葉山
前人未到の69連勝を達成し、素行においても力士の理想像とみなされた「昭和の角聖」双葉山。彼の大関時代は、
1937年 1月:11戦全勝(優)(15戦全勝) 5月:13戦全勝(優)(15戦全勝)
というものでした。そう、69連勝の只中だったのです。無論、1937年5月場所後に横綱となっています。言うまでもありませんが、昇進直前2場所の成績を15日換算すると30勝相当です。
・羽黒山
双葉山の弟弟子であり、自身も強豪横綱として鳴らした羽黒山。1940年1月より大関となり、
1940年 1月:11勝4敗 5月:7勝5敗3休 1941年 1月:14勝1敗(優同) 5月:14勝1敗(優)
という成績で横綱昇進を果たしました。昇進直前2場所の成績は28勝。これも文句なしの事例ですね。
・安芸ノ海
双葉山の69連勝を止めた事で知られ、後に自身も横綱となった安芸ノ海。双葉山に再び勝つことはかないませんでしたが、関脇時代の1940年5月に14勝1敗で優勝。1941年1月より大関となり
1941年 1月:12勝3敗 5月:9勝6敗 1942年 1月:13勝2敗 5月:13勝2敗(優同)
という成績で1942年5月場所後に横綱となりました。昇進直前2場所の成績は計26勝。彼の昇進も妥当と言うべきでしょう。
・照國
肥満体系ながらスピード感・リズム感ある相撲をとり「桜色の音楽」と称されたのが照國。横綱昇進以降の双葉山に勝ち越している事でも知られています。彼は大関時代を
1942年 1月:12勝3敗 5月:13勝2敗(優同)
という好成績によりわずか2場所で突破。安芸ノ海と共に横綱となりました。直前2場所の合計は25勝。基準は満たしています。優勝経験がないのが気になるところですが、当時は優勝決定戦がなく優勝相当の成績を残した力士が複数いる場合は番付上位が自動的に優勝となっていたのです。すなわち、1942年5月に優勝となったのは横綱双葉山。もし当時決定戦があったなら、照國は双葉山を倒していた可能性がある数少ない人物でした。その機会が制度ゆえに与えられなかったのを考えると、彼の場合は優勝なしを問題にするのは酷かもしれません。なお、照國は戦後に二度の優勝を飾り「優勝なしの横綱」という汚名からは脱しています。
・前田山
双葉山時代に長らく大関を張り、闘志をあらわにする激しい相撲ぶりで知られた前田山。1938年5月に新大関となって以来、10年にわたり大関の地位を守った末に1947年6月場所後に横綱免許を与えられました。直前の成績は、
1945年 11月:5勝5敗(7勝7敗1分) 1946年 11月:11勝2敗(12勝3敗) 1947年 6月:9勝1敗(優同)(13勝2敗)
というもの。直前2場所が15日換算で25勝相当、直近は13勝ですから。上記基準は満たしています。後述するように優勝経験もありましたし、昇進は妥当と言って良いでしょう。なお、これより先に
1944年 1月:9勝6敗 5月:8勝2敗(12勝3敗) 11月:9勝2敗(優)(13勝2敗)
という好成績を残した時期もあり、1944年11月場所後の時点で直前2場所15日換算は計25勝相当。ここで横綱にしても良かったかもしれません。しかし、当時は第二次大戦の戦局が非常に悪化しており、それどころではなかったのでしょうか。長い大関時代の末に昇進を果たした前田山ですが、年齢からくる衰えには勝てなかったか、横綱時代は勝率5割を割り込んでしまいます。更に休場中に野球見物したのを問題視され詰め腹を切る形での引退を余儀なくされました。現役晩年に味噌をつける形になったとはいえ、現役力士としては双葉山時代を彩り、引退後は数多くの弟子たちを育てハワイから高見山を連れてくるなど大相撲の国際化に大きく貢献した人物でした。
・東富士
若くから期待され双葉山からも可愛がられた東富士。期待に応えるかのように1945年11月から新大関となり、1948年10月場所後に横綱免許を与えられました。直前の成績は、
1948年 5月:10勝1敗(優)(13勝2敗) 10月:10勝1敗(優同)(13勝2敗)
というもの。直前2場所の成績を15日換算すると26勝相当。彼の昇進も妥当ですね。昇進後の東富士は成績にムラがあり連覇を果たすことはできませんでしたが、「怒涛の寄り身」と呼ばれる攻撃的な相撲振りによって通産6回の優勝を飾りました。横綱として十分な強みを示したとはいえるようです。
以上、常陸山から東富士までの横綱昇進事情を概観してきました。どうやらこの時代は、「横綱」が名誉としての「称号」から実を備えた「最高位」に成熟する過程の時代であり、一定の昇進基準が形成される過渡期と言えるようです。それだけに、現代では考えられないような甘い条件で昇進が許された例もあれば、今ですら驚くような据え置き方をされた事例も見られます。東京・大阪別個に相撲協会が存在した事、番付での東西対抗方式が取られていた事など当時の特殊事情も昇進に大きく影響を与えていたのも分かりました。それだけに恣意的な要因が混じる余地もあり、番付運に笑うものと泣くものの落差は現代以上に大きかったようです。大相撲が見世物から近代スポーツへと脱皮しようとする過程が横綱昇進からは見えてきます。そしてその模索は、現在進行形で続いているのかもしれませんが。
一方、双葉山以降は、基本的に戦後基準から見ても納得いく事例が並びます。以前お話しした基準は、この頃に事実上の成立を見たと言って良いのではないでしょうか。この時期になって、近代スポーツとしての成熟度がある程度のレベルに達したと見る事もできるかもです。
あと付け加えるとしたら、冒頭で述べた二条件は「最高位」としての質を確保するための最低ラインとして機能しているとはこの考察からも言えそうです。
【参考文献】
横綱歴代69人 ベースボール・マガジン社
日本大百科全書 小学館
関連サイト:
「相撲評論家之頁」(http://park11.wakwak.com/~tsubota/door1.html)
歴代横綱の成績は、このサイトを参考にさせていただきました。