2013年 02月 09日
10 武芸・軍学論 ~戦の役に立ちそうもない遊戯まがいの武芸・軍学を断罪する~
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荻生徂徠『鈐録外書』10/11
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問題提起(1巻)
武芸は武士の義務である。そして戦場で役に立つことこそが第一である。しかし現在の武芸の様子は、槍・剣術などは見物人を大勢並べてその目前に一人ずつ進み出て、比較を行い、立派に勝利を収めることに至高の価値を認めているように見える。弓・鉄砲も的の前に立っての身のこなしを第一としている。これでは戦場に至り、混雑した中での働きには役に立たないと思われる。どのような心構えで家中の若者に稽古させるべきであろうか。
補足(3巻)
第10条の疑問点は既に述べたことに尽きている。弓も鉄砲も馬も猟師・牧民のようにすれば良く、戦の役に立つ以上の技芸がある必要はない。大砲の軍法は普段は使わない技であるので、学習や修練をしておきたいものである。およそ現代の軍法の疑問点は、この十ケ条にとどまるものではないが、この辺りから精進すれば、十分真実の心構えも備わって来るだろうからと、この程度にとどめたのである。総じて畳の上の了簡では、御覧になってもご理解いただけないであろう。というのも世の中は移り変わりによって、次第次第に様変わりしているので、昔のことは今や跡形もなくなっている。その跡形もない時代に生まれて、昔の覚え書きの片端のみを見ているから、理解できないのである。その時代、すなわち昔の事実に立ち返って見れば理解できることではあるが、昔の事実というものは、その時代にとって平常のことなので、書き付けも記録も為されていない。世の様子が変わるに連れて跡形もなくなってしまうのである。今の世の事実は今の世の平常である。平常が変化していることにも注意を向けず、昔の秘伝・口伝ばかりを教え伝えることも、今の時代の了簡である。このような状態で昔のことを考えるので、意味の分からないことが多くなっているが、また時代に関する考察を行わず、理解不十分でありながら、余計な異物を付け加えたりする。昔、加藤清正に名護屋の城普請を命じたとき、十三の隅石に遊女を一人ずつ十三人載せ、自身は金の采配を持ち、金紙で茶筅髪に結い、袖無し羽織を着て、面白い音頭をとれば、十三の大石は、空を飛ぶように容易く進んだと、彼の家の古老は物語りしている。今時の了簡では理解できないことである。それよりは日雇い賃金をたくさんやれば、石も飛ぶように動くだろうと思われる。事実を考察すれば、昔の時代には、普請に日雇いを使うことは無かったのであった。清正の普請はみな足軽、家中の侍の召使い・小者を出し、または百姓を人夫に使ったので、このような術策で気合いを入れたのである。六、七十年前までは幕府の御普請も日雇いを使うことは無かった。御旗本の侍たちから若党・中間を出し労役を負担したのである。ところが武家の家来達がたびたび喧嘩をしたために、後には自分の家来を出さずに、町の者を雇って出すようになった。それでも監督には自分の家来を出したのだが、監督達がまた喧嘩をするということで、その後は金を幕府が取り立てて、その金で幕府が日雇いを雇うようになっていった。これが金で小普請金を出すようになった起源である。侍の家来に労役を負担させるより、町の者を使う方が便利であるので、諸国もみなこの様になっていった。今の世に普請と言えばことごとく町人の労働者である。そのため請負人の奸計が生じて、普請の費用は莫大なものになっている。このような世に生まれて、昔の事実を知らねば、清正の物語を書き留めることはできないだろう。こういうのを畳の上の了簡ということを理解しておかねばならない。その上現在日本六十余州に真に軍法者といえる者はただの一人も見られない。どういう事かと言えば、数十年来当地では、諸大名に火消を命じているが、そのいずれについても勤めを果たす様は、世の人の意見では、大名火消は役に立たないものとのことである。そもそも火消というものは人数を使う技術であるから、どこでもその家の軍学者が手伝いをするものに決まっている。ところが軍学者の手伝いによって大名火消は役に立たないとの悪名が広まっているのを見れば、六十余州に真の軍学者は一人もいないと言うことができよう。さて人数を小組に分け、少人数に分けるやり方でなくては、町小路においては人数で混乱し、上手く使うことはできないものである。したがって千も五百も人数がいる場合には、十四、五組に分け、組の火消を十四、五組として、水の手・はしご・うちわ・水籠などを一組ごとに付属させ、少人数単位で活動させれば、千四百、五百人相応の役に立つのである。しかるに千四、五百の人数をわずか三手ほどに分け、狭く長い町小路を押し通るため、竹の筒に青大豆を入れるような有様で、前進後退の合図も聞き取ることが出来ず、素早い活躍ができたことはかつてない。心を持たない火を人間であるかのように見なして、人間の恐れる槍、長刀を持ち、馬に乗り、勇ましい格好をしているが、火に人の心は無いわけで、槍にも長刀にも反応はない。太平の時代に溺れた若侍たちが、馬に乗って出てくるのは、見た目は立派であるけれど、往来の邪魔になるだけで、火を消すためには何の役にも立たないのである。こういうわけで世間の単なる悪口というわけではなく、いずれの家にも真の軍学者がいないせいで、数十年来、諸家はこのような醜態をさらしているのである。これでは戦が起こった時が、思いやられるというもの。「治に乱を忘れず」などとともいうのである。今の太平の世にあっても、弓馬の家に生まれた人は、真の心構えを持っておくべきである。そうすれば世の風俗も正され、自己にとっても他人にとっても良いことであろうと思われる。ひどい悪口のように聞こえるかも知れないが、これに腹を立てることによって、励む御仁も出てくるのではないかと、疑問点につき書き付けた次第である。以上。
反論および再反論(5巻)
第10条の武芸稽古については、もっともな指摘ではあるが、我が国では禁制が敷かれており、
張紙 我が国の風俗と言うのは、日本中ということであろうが、それは間違っている。
猟師・牧民のように弓を射、鉄砲を打つことは難しく、平原・広野に出て戦いを学ぶこともできない以上、大将となる人物は何流でもともかく武芸の師を抱えておいて、家中の若侍が好むに応じて学ばせる方が、飽食して日を経るよりは好ましいと思われる。
張紙 総じて言えば軍法というものは、軍の習慣のことを言う。現在の軍学者連中は、ただ畳の上の講釈ばかりで、軍の習慣については、意識していないようである。そのため大将達も同じく意識しておらず、嘆かわしいことこの上ない。この五、六十年前までは、そのような意識を持った者もいたと聞いている。心がけさえあれば、法制が戦に適していなくとも、何とかやりようはあるはずである。
大砲の習練をするべきとの意見については、これはなおさら国による禁制が厳しいので、修行しづらい。また大砲だけで戦うわけでもないのであって、大砲に限って習練すれば、いかに効果の大きい兵器でも、柱に膠するようなもので状況への対応力を欠くことになろう。
張紙 他の武芸は稽古せずとも使いこなせる。弓・鉄砲は猟師のようにやれば良い。馬は牧民のようにすれば良い。猟師・牧民の弓・鉄砲は、土地によっては師匠を取らずに習得することもある。槍・刀は棒の代わりである。したがって戦で槍と太刀を使うには、稽古するほどの必要はない。武芸のうちでも、大砲と軍法の二つこそは習練する必要があるのであって、大砲に大きな効果があるから習練しろと言っているわけではない。文言の読みとり方が間違っている。ただ今学んでいる軍法に関するひいきの思いが強すぎたため、私の疑問の書を見て気に障り、結果、文言をきちんと検討もすることもなかったのであろう。戦の研究は武士たる者の務めである。論争などしていても意味はない。
畳の上の了簡について、細かに述べ立てる書面は、納得しがたいものである。古の韓信・張良の類にはじまり、我が国の義経・正成に至るまで、以前に経験したことがないにもかかわらず、軍理に到達しており、初めて戦に出たときから功を立てているのである。国を治め天下を治める人も、事前に経験したことはないものである。みな畳の上の了簡によって大功を立てたのである。功を立てるだけの力のある者が、畳の上で書を増補したとしても、その内容を見て褒貶するべきであって、一概に非難するようなものでもない。
張紙 異国の韓信・張良、我が国の義経・正成を、現在の軍学者連中の北条流や山鹿流などに喩えるのは、間違いであると思われる。いずれも何か成し遂げるほどの者とも思えない。戦乱の時代について、理解することもできていない。私が畳の上の了簡というのは、物師の言い伝えを聞けば、戦国の名将達の時代の様子が、現在の風俗と雲泥の差だからである。しかし時が移り風俗が変化したにもかかわらず、日本は文盲で、その変わり目を書き留める記録も無い故に、その後風俗の変わった時代に生まれた人は、理解できないことが多いのである。そして理解できない者が付け足しをすれば、全て本来の意義を失い、別物に変わり果ててしまうと言えよう。
大名火消の隊編成が、全て軍学者の関わったものと考えているのは、畳の上の了簡というものであろう。四、五十年来の風潮のとして、畳の上で一流の者を取り立て、高禄で抱えている大名の家などがあり、それゆえ芸を売り物にする者が出て、卑しき浪人などは、珍妙な流派を編み出して生計の種にし、様々な流派名で持て囃されているのであって、大名火消に本物の軍学者が用いられているわけではないのである。たまたま用いられることがあっても、火消の隊編成に軍学者が携わっているわけではないのである。また役人のうちに軍学者が含まれていても、その家々のしきたりのみが重んじられ、その人が活用されているわけではないのである。また服装や行列姿の立派さばかりが好まれるので仕方ないのである。火を消す機能に興味のない大名さえ存在する。喩えて言うなら、周の時代に周の礼楽を、多くの国々に説いて回った孔子・孟子さえ採用されなかったようなもの、とても軍学者の力の及ぶ問題ではない。今の世に喩えれば、馬骨を五百両で買い集めるような馬好きならば、千里を行く名馬さえ何頭も保有しているといったところであろう。
張紙 なるほど人は間違いに陥ることもあるものだから、そういう認識に至るのもやむを得まい。しかしそもそも大名火消というものも、組火消というものも、むかしは存在しなかったのである。むかしは町奉行たちが町の労働者を連れて火を消していたのである。これについては私の祖父の話を聞いたことがあり、記憶も確かなところである。その後、家綱様の時代の、酉の年の大火事以来、組火消というものも、大名火消というものも始まったのである。その頃、大名火消のうちで火を手際よく消した者は、青山大膳・南部大膳で、これを当時両大膳といって世間は持て囃したのである。ところが大名火消が役に立たないということも、そのころから言い伝えられている諺であった。両大膳の他は、だいたい役に立たないと噂されていたのである。さてその時代は人の心も正直だったので、火消しの隊編成には、誰も軍学者を頼らなかったという。これはまだ世に古の風俗が残っていた故である。大人数を引き回して混乱せず、うまく動かそうとするならば、適切なことであった。ところで別に火消に限らず、猪狩りの類や、普請など、また普段の供回りなどを通じてでも、軍法を会得させておけば、それで良いのである。そしてその家の家風というものも、皆その時代からの家風にすぎない。それより前は大名火消というものが存在しなかったのだから、それより前からの家風が存在するはずもないのである。この点については私は貴方よりも年長なので、世間の噂もよく知っている。とはいえ現在の御家では、なるほど何事もしきたりを持ち出すものではある。世間の慣習であれば、軍学者を加えないということもあるであろう。
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問題提起(1巻)
武芸は武士の義務である。そして戦場で役に立つことこそが第一である。しかし現在の武芸の様子は、槍・剣術などは見物人を大勢並べてその目前に一人ずつ進み出て、比較を行い、立派に勝利を収めることに至高の価値を認めているように見える。弓・鉄砲も的の前に立っての身のこなしを第一としている。これでは戦場に至り、混雑した中での働きには役に立たないと思われる。どのような心構えで家中の若者に稽古させるべきであろうか。
補足(3巻)
第10条の疑問点は既に述べたことに尽きている。弓も鉄砲も馬も猟師・牧民のようにすれば良く、戦の役に立つ以上の技芸がある必要はない。大砲の軍法は普段は使わない技であるので、学習や修練をしておきたいものである。およそ現代の軍法の疑問点は、この十ケ条にとどまるものではないが、この辺りから精進すれば、十分真実の心構えも備わって来るだろうからと、この程度にとどめたのである。総じて畳の上の了簡では、御覧になってもご理解いただけないであろう。というのも世の中は移り変わりによって、次第次第に様変わりしているので、昔のことは今や跡形もなくなっている。その跡形もない時代に生まれて、昔の覚え書きの片端のみを見ているから、理解できないのである。その時代、すなわち昔の事実に立ち返って見れば理解できることではあるが、昔の事実というものは、その時代にとって平常のことなので、書き付けも記録も為されていない。世の様子が変わるに連れて跡形もなくなってしまうのである。今の世の事実は今の世の平常である。平常が変化していることにも注意を向けず、昔の秘伝・口伝ばかりを教え伝えることも、今の時代の了簡である。このような状態で昔のことを考えるので、意味の分からないことが多くなっているが、また時代に関する考察を行わず、理解不十分でありながら、余計な異物を付け加えたりする。昔、加藤清正に名護屋の城普請を命じたとき、十三の隅石に遊女を一人ずつ十三人載せ、自身は金の采配を持ち、金紙で茶筅髪に結い、袖無し羽織を着て、面白い音頭をとれば、十三の大石は、空を飛ぶように容易く進んだと、彼の家の古老は物語りしている。今時の了簡では理解できないことである。それよりは日雇い賃金をたくさんやれば、石も飛ぶように動くだろうと思われる。事実を考察すれば、昔の時代には、普請に日雇いを使うことは無かったのであった。清正の普請はみな足軽、家中の侍の召使い・小者を出し、または百姓を人夫に使ったので、このような術策で気合いを入れたのである。六、七十年前までは幕府の御普請も日雇いを使うことは無かった。御旗本の侍たちから若党・中間を出し労役を負担したのである。ところが武家の家来達がたびたび喧嘩をしたために、後には自分の家来を出さずに、町の者を雇って出すようになった。それでも監督には自分の家来を出したのだが、監督達がまた喧嘩をするということで、その後は金を幕府が取り立てて、その金で幕府が日雇いを雇うようになっていった。これが金で小普請金を出すようになった起源である。侍の家来に労役を負担させるより、町の者を使う方が便利であるので、諸国もみなこの様になっていった。今の世に普請と言えばことごとく町人の労働者である。そのため請負人の奸計が生じて、普請の費用は莫大なものになっている。このような世に生まれて、昔の事実を知らねば、清正の物語を書き留めることはできないだろう。こういうのを畳の上の了簡ということを理解しておかねばならない。その上現在日本六十余州に真に軍法者といえる者はただの一人も見られない。どういう事かと言えば、数十年来当地では、諸大名に火消を命じているが、そのいずれについても勤めを果たす様は、世の人の意見では、大名火消は役に立たないものとのことである。そもそも火消というものは人数を使う技術であるから、どこでもその家の軍学者が手伝いをするものに決まっている。ところが軍学者の手伝いによって大名火消は役に立たないとの悪名が広まっているのを見れば、六十余州に真の軍学者は一人もいないと言うことができよう。さて人数を小組に分け、少人数に分けるやり方でなくては、町小路においては人数で混乱し、上手く使うことはできないものである。したがって千も五百も人数がいる場合には、十四、五組に分け、組の火消を十四、五組として、水の手・はしご・うちわ・水籠などを一組ごとに付属させ、少人数単位で活動させれば、千四百、五百人相応の役に立つのである。しかるに千四、五百の人数をわずか三手ほどに分け、狭く長い町小路を押し通るため、竹の筒に青大豆を入れるような有様で、前進後退の合図も聞き取ることが出来ず、素早い活躍ができたことはかつてない。心を持たない火を人間であるかのように見なして、人間の恐れる槍、長刀を持ち、馬に乗り、勇ましい格好をしているが、火に人の心は無いわけで、槍にも長刀にも反応はない。太平の時代に溺れた若侍たちが、馬に乗って出てくるのは、見た目は立派であるけれど、往来の邪魔になるだけで、火を消すためには何の役にも立たないのである。こういうわけで世間の単なる悪口というわけではなく、いずれの家にも真の軍学者がいないせいで、数十年来、諸家はこのような醜態をさらしているのである。これでは戦が起こった時が、思いやられるというもの。「治に乱を忘れず」などとともいうのである。今の太平の世にあっても、弓馬の家に生まれた人は、真の心構えを持っておくべきである。そうすれば世の風俗も正され、自己にとっても他人にとっても良いことであろうと思われる。ひどい悪口のように聞こえるかも知れないが、これに腹を立てることによって、励む御仁も出てくるのではないかと、疑問点につき書き付けた次第である。以上。
反論および再反論(5巻)
第10条の武芸稽古については、もっともな指摘ではあるが、我が国では禁制が敷かれており、
張紙 我が国の風俗と言うのは、日本中ということであろうが、それは間違っている。
猟師・牧民のように弓を射、鉄砲を打つことは難しく、平原・広野に出て戦いを学ぶこともできない以上、大将となる人物は何流でもともかく武芸の師を抱えておいて、家中の若侍が好むに応じて学ばせる方が、飽食して日を経るよりは好ましいと思われる。
張紙 総じて言えば軍法というものは、軍の習慣のことを言う。現在の軍学者連中は、ただ畳の上の講釈ばかりで、軍の習慣については、意識していないようである。そのため大将達も同じく意識しておらず、嘆かわしいことこの上ない。この五、六十年前までは、そのような意識を持った者もいたと聞いている。心がけさえあれば、法制が戦に適していなくとも、何とかやりようはあるはずである。
大砲の習練をするべきとの意見については、これはなおさら国による禁制が厳しいので、修行しづらい。また大砲だけで戦うわけでもないのであって、大砲に限って習練すれば、いかに効果の大きい兵器でも、柱に膠するようなもので状況への対応力を欠くことになろう。
張紙 他の武芸は稽古せずとも使いこなせる。弓・鉄砲は猟師のようにやれば良い。馬は牧民のようにすれば良い。猟師・牧民の弓・鉄砲は、土地によっては師匠を取らずに習得することもある。槍・刀は棒の代わりである。したがって戦で槍と太刀を使うには、稽古するほどの必要はない。武芸のうちでも、大砲と軍法の二つこそは習練する必要があるのであって、大砲に大きな効果があるから習練しろと言っているわけではない。文言の読みとり方が間違っている。ただ今学んでいる軍法に関するひいきの思いが強すぎたため、私の疑問の書を見て気に障り、結果、文言をきちんと検討もすることもなかったのであろう。戦の研究は武士たる者の務めである。論争などしていても意味はない。
畳の上の了簡について、細かに述べ立てる書面は、納得しがたいものである。古の韓信・張良の類にはじまり、我が国の義経・正成に至るまで、以前に経験したことがないにもかかわらず、軍理に到達しており、初めて戦に出たときから功を立てているのである。国を治め天下を治める人も、事前に経験したことはないものである。みな畳の上の了簡によって大功を立てたのである。功を立てるだけの力のある者が、畳の上で書を増補したとしても、その内容を見て褒貶するべきであって、一概に非難するようなものでもない。
張紙 異国の韓信・張良、我が国の義経・正成を、現在の軍学者連中の北条流や山鹿流などに喩えるのは、間違いであると思われる。いずれも何か成し遂げるほどの者とも思えない。戦乱の時代について、理解することもできていない。私が畳の上の了簡というのは、物師の言い伝えを聞けば、戦国の名将達の時代の様子が、現在の風俗と雲泥の差だからである。しかし時が移り風俗が変化したにもかかわらず、日本は文盲で、その変わり目を書き留める記録も無い故に、その後風俗の変わった時代に生まれた人は、理解できないことが多いのである。そして理解できない者が付け足しをすれば、全て本来の意義を失い、別物に変わり果ててしまうと言えよう。
大名火消の隊編成が、全て軍学者の関わったものと考えているのは、畳の上の了簡というものであろう。四、五十年来の風潮のとして、畳の上で一流の者を取り立て、高禄で抱えている大名の家などがあり、それゆえ芸を売り物にする者が出て、卑しき浪人などは、珍妙な流派を編み出して生計の種にし、様々な流派名で持て囃されているのであって、大名火消に本物の軍学者が用いられているわけではないのである。たまたま用いられることがあっても、火消の隊編成に軍学者が携わっているわけではないのである。また役人のうちに軍学者が含まれていても、その家々のしきたりのみが重んじられ、その人が活用されているわけではないのである。また服装や行列姿の立派さばかりが好まれるので仕方ないのである。火を消す機能に興味のない大名さえ存在する。喩えて言うなら、周の時代に周の礼楽を、多くの国々に説いて回った孔子・孟子さえ採用されなかったようなもの、とても軍学者の力の及ぶ問題ではない。今の世に喩えれば、馬骨を五百両で買い集めるような馬好きならば、千里を行く名馬さえ何頭も保有しているといったところであろう。
張紙 なるほど人は間違いに陥ることもあるものだから、そういう認識に至るのもやむを得まい。しかしそもそも大名火消というものも、組火消というものも、むかしは存在しなかったのである。むかしは町奉行たちが町の労働者を連れて火を消していたのである。これについては私の祖父の話を聞いたことがあり、記憶も確かなところである。その後、家綱様の時代の、酉の年の大火事以来、組火消というものも、大名火消というものも始まったのである。その頃、大名火消のうちで火を手際よく消した者は、青山大膳・南部大膳で、これを当時両大膳といって世間は持て囃したのである。ところが大名火消が役に立たないということも、そのころから言い伝えられている諺であった。両大膳の他は、だいたい役に立たないと噂されていたのである。さてその時代は人の心も正直だったので、火消しの隊編成には、誰も軍学者を頼らなかったという。これはまだ世に古の風俗が残っていた故である。大人数を引き回して混乱せず、うまく動かそうとするならば、適切なことであった。ところで別に火消に限らず、猪狩りの類や、普請など、また普段の供回りなどを通じてでも、軍法を会得させておけば、それで良いのである。そしてその家の家風というものも、皆その時代からの家風にすぎない。それより前は大名火消というものが存在しなかったのだから、それより前からの家風が存在するはずもないのである。この点については私は貴方よりも年長なので、世間の噂もよく知っている。とはいえ現在の御家では、なるほど何事もしきたりを持ち出すものではある。世間の慣習であれば、軍学者を加えないということもあるであろう。
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by trushbasket
| 2013-02-09 00:27
| My(山田昌弘)








