2013年 02月 16日
補論 徂徠兵学の情報源となった戦場経験者について/軍学諸流派を論じる/国際比較に基づく軍法論
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荻生徂徠『鈐録外書』11/11
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6巻より
書き付けの内容は、一覧したが、専ら軍学者たちの説ばかり聞き、武功で知られる者や物師の物語はこれまで聞いたことがないように見受けられる。これは軍学をやる上では大いなる欠陥と言わざるを得ない。もっとも軍学者達の説も、元をたどれば物師の物語に行き着くのであるが、軍学者という職業が成り立って弟子を取り、人々の問いに答えるようになって以後は、自然の流れとして偽作が生じてくることになる。しかも人それぞれに流派を立てるため、信玄流は信玄をひいきし、謙信流は謙信をひいきし、何事も良く評価しようとするのは、当然の人情というものではある。その上で、他流派と是非を争う結果、事実を曲げねばならぬ箇所も出てくることになる。さらには様々な事項を取りそろえることで、役に立つ事項の内容や意味も紛れて消えてしまうことになる。物師の物語というものは、本来は世間の人に広く聞かせるようなものでもない。志ある若者が、問い尋ねた際に、家庭教育のような態度で教えるものであり、知らぬことは知らぬと答えるものであった。とはいえ学問や軍学者の説ばかりを聞き、この物師の物語を聞かなければ、軍学は魂が入らず、役に立たないのである。我らの時代は既に戦国を去ること百年を超え、物師の物語を直に聞くこともできず、皆親類・子供の話を又聞きするより他はない。それでも再伝聞以下には下がりはしない。そういった話にはなるが、以下に一々書き付けておいて、お目にかけようと思う。何とも非難がましく、苦しくはあるが、貴方は書き付けの末で高名な師に付いたと言っているので、特別に色々お目にかけようと思う。他に見せるようなことが無いようお願いする。私の先祖は、三州の荻生城主であった。二歳の時、御当家のご先祖様に城を奪われ没落することとなった。荻生少目という者で、南朝を介したつながりがあり、その上縁故関係もあったので、勢州の国司北畠殿の元へと参ることになった。その子の惣右衛門は、北畠家没落の後、勢州に隠居した。その子が私の祖父。玄甫という者である。さて、このように門地を自慢げに書き連ねるたのは理由があってのことである。祖父以来、武士として仕官はしないことにして医者となり、父までは医者として働いてきた。玄甫が当地にやってきたのは、秀忠様の時代、大阪の陣よりはるかに前のことであった。医者といえば、現在の医者連中のように思われるかもしれないが、その時代の医者というのは、人によることではあるけれど、大層な存在であった。祖父は、当時、老中になった青山大蔵殿に、医者ではなくもろくちの侍(当時の言葉で文武両道ということである)と呼ぶべきだと評され、その上洛の際に領地掛川の城で昼食を取った時には、二の丸の指揮が我が祖父に任されたほどであった。その際不敵にも大名たちを、みな同格の者として取り扱ったのだという。このような話も現在は風俗が移り変わった後なので、話しても、たいてい誇張や嘘と取られるので、誰にも話したことはない。この話の出所であるが、玄甫については、三歳の時に父を失ったので、北畠家の物語は聞いてはいなかった。しかし私の母方の高祖父は、秀忠様のときの大御番頭鳥居久兵衛という者であった。そのころの大御番頭は二人制で、組は二つしか存在しなかった。その後家光様の時代に一組を六組ずつに分け、大番頭は十二組になったのである。酒井空印の子息も大御番頭であった。この久兵衛は罪を犯して、切腹することになり、跡継ぎが絶えることになった。ところが母娘とも旗本に縁組みしていたため、結果私は旗本に母方の親類を多く持つことになった。この関係で三州のことは、我が家に伝わってきたのである。また私の父方の祖母は、関東侍の平山八郎という者の娘であった。その母は太田道灌の孫である。太田道灌は娘を喜連川御所、文字をどう書くかは忘れたが、かんとう院と言うところの、養子にして、北条家の侍尾崎常陸介という者へと嫁がせたのである。その娘の娘のことである。常陸介については、氏政の先手となって鉄砲を預かり、岩付城に滞在していた。今は名が変わっているとも聞いている。岩付城に尾崎曲輪という曲輪がある。百騎の与力が毎月の餅つきには餅を食いにきたと言われている。鉄砲は五百挺が配備されていた。常陸の子の源内は、氏政の御前で元服し、幸手と糟壁の地が馬の飼料のために源内に与えられた。武州鷲宮あたりは常陸の領地であって、神主がやってきて話をすることもあった。道灌の娘である上に、喜連川の養子となって、また源内が氏政の御前で元服したと言えば、そのころの相当の名家であったようであるが、そいういった過去も、現在となっては知る者もない状態である。この常陸の娘が私の祖父と暮らしていた、我が父の幼少時代には、北条家のことなど物語したと聞いている。女丈夫とも言うべき者で、数度の戦働きさえしたほどの女であった。当時は物師の大勢いた時代であったが、物師たちにも一目置かれていた。特に家系については、物師・大将にも崇敬されていたという。その時代の吉良上野介など、敷物を変えて敬っていた。これは喜連川の孫であったようである。さて祖父のことを続けると、事情があって、小笠原左衛門佐殿の領地関宿に十三年滞在し、父が誕生したのも関宿であった。左衛門佐殿の母親は信玄公の姪で、信廉の娘であった。そのため甲州家の侍がこの家には多く、武田家の物語を多く聞くことができたという。勝頼没落後の物語を、多く聞いたとのことである。信廉自筆の式目抄というものを、左衛門殿の母親からもらったという。かつて甲斐守が父美濃守のところに送った物である。我が祖父・父の二代は、こういう関係で、医者ではあったけれども、家庭の習わしとして、ともに武道を好んでおり、私も幼少の頃から物師の物語を多く聞くことができた。私の姑の婿は北畠の子孫で、清正の侍であった。その弟堀江小右衛門という者は、二十年前に八十歳ほどで亡くなった。清正家の戦物語を、詳細に聞かせてくれた。私の従姉妹は細川家の侍水間才兵衛というものに嫁いでいる。才兵衛の祖父はこの四年ほど前に、七十歳ほどで無くなった。天草の戦いについての覚書が残っている。この人物はもとは宇喜多家の侍で、細川家に移ったのであった。才兵衛の外祖父は伯耆国主南条玄宅の家来で、福西九郎太夫という者である。玄宅とは、太閤の怒りを受けて、小西行長にお預けの身となった者だが、小西の指揮下で玄宅とともに、九郎太夫は高麗の諸陣を務め、関ヶ原以後は、清正に仕え、忠広の没落後は、細川家に移ったのであった。玄宅は中国地方で名を知られた猛将で、越後の謙信に似た大将である。九郎太夫については、比類無き剛勇の士であった。清正の戦いのことは、才兵衛の物語から知ることができた。高麗の事も加藤・小西両家の計略についても、こういう縁で知ることができた。玄宅の息子の牛之助という者は浪人して江戸にやってきた。我が父は懇意にしており、ここからも話を聞くことができた。我が父の医術の弟子に、青木伊織という者がいて、蒲生忠行に仕官した。蒲生源左衛門などと懇意にしている。そのため氏郷の戦いについて知ることができた。氏郷の戦いも謙信に似ている。信長公に属した太陽寺左平次という者は武功ある侍で、『信長記』にも見えている。この者は駿河大納言忠長様に仕え、その自害の後、井伊掃部頭殿が奏上の上、手元にもらい受けたのであった。この者の息子の牧野孫九郎と、同じく息子の左平次については、私は上総の国で親しく付き合っていた。信長公の戦いについてはここから詳しく聞いている。その他、南部の侍の成田休三という者は、堀平左衛門に頼って暮らしていた者である。平左衛門とは、稲葉美濃守が十五の時に、手討ちにした者である。その時、休三は、平左衛門の妻子を引き連れ、鉄砲の火蓋を切り、小田原を白昼退去していった。平左衛門は、黒田家の侍の後藤又兵衛と互角といわれる者であって、高麗の諸陣を勤め、めざましい働きであった。この休三の物語から分かったことは、多くある。また長坂茶利九郎の子、六郎左衛門と、上総の国で面会して、家康様のことを聞いている。さらに井戸安兵衛という浪人は加賀侍で、細川三斎にも仕えた人物である。家光様の時代に、剣術で幕府に仕えようとしていた。久世大和守殿もこの者の弟子であった。程なく他界して願いは叶わなかったが、この地に滞在していたのであった。この三十三年前に、九十ほどで亡くなっている。北国の戦いは、この人の物語から知ることができた。これらの人々は皆この上ない実直者で、いずれも真の武士であった。近年では人の風俗が悪化し、武道の物語を好む人がいないために、私などを珍しがって、真実の物語を語ってくれたのである。この男達は皆、軍学者連中の軍法を非常に嫌っており、全て嘘だと断言していた。井戸安兵衛という者については、弁舌の徒でもあったが、これとて今の町人連中のような人物では全くなかった。とはいえ私が知る限り、軍学者の説にも良き内容が含まれているようにも思われる。そのため軍学も少々は学んでみた。そこで慰みまでにその詳細をも以下に記しておく。
総じて見れば、昔は軍法というものは世間に流行っていなかった。その理由は戦国で功を立て名を得た勇将・猛士といった人が、世間に充ち満ちていたため、誰も軍学などしなかったのである。家康様の時には、井伊掃部頭殿の侍で岡本半助という者が、軍学の名声を有していた。先述の牧野弥九郎・左平次もよく知られていた。その軍法は私の外祖父が伝授を受けている。十七、八の時に、軍書を学ぶこと六十巻に上った。みな雲の見方、軍配の使い方、また旗や幕、母衣の準備などについて梵字や陀羅尼で書き固めていた。合戦のことはせいぜい四、五巻しか書かれていなかった。実に立派なもので、軍法の古流はこういうものであった。これでは内容乏しく、今日では何の役にも立たなそうであるが、昔のものとはそういうものである。さて天草の陣後になって、松平伊豆守殿が、初めて小幡に軍法を学ぶことになった。これ以来武田流というものが、世間では流行することになる。そのほかの軍法、鉄砲術もこれ以後流行することになった。山本勘介の弟から謙信流を、家康様が学んだなどというのは、何の根拠もない虚偽の説である。実は小幡は人柄に偽りが多いということで、その時代の人は、信用することはなかった。伊豆守殿は、元来の生まれは、武家の家ではなく、天草で困ったためこういうことをやりだしたのである。甲陽軍鑑というものは、小幡の偽作であると聞いている。なるほど、ありそうなことである。信用しがたい内容も多く含まれている。第一に高坂の仮名・実名が間違っている。これは高野山に高坂の書状が残っているので、明白に証拠あることである。そのほか川中島合戦は、本当は信玄公がこの上ない大敗を喫したのである。これにもまた明らかな証拠が残っている。これらの大きな問題を生じさせたのは、北条流、山鹿流など、みな家光様、家綱様の時代、平和な時代の人たちである。雄鑑抄・聖教要録・武功全書・雄備抄などについては、伝授は受けていないものの、一通り見たことがある。山鹿はその人柄さえ当時の人に受け入れられなかったような人物である。どう見ても口舌の徒としか見えない人物である。半端に学問があったため、概ね物師の語る内容とは調和しないことを言っている。学問は未熟で、異国の書を読み終えるほどの学問には残念ながら達していないようで、半端物とはこういう者のことを言うのである。楠流のことは人々が拒否するので、ついにその書を見ることができなかった。堀宗閑という軍学者がいた。孔明流を立てながら、その技は武田流であり、これについては我が父が宗閑と懇意になって弟子となり、学んでいたので、私も若年の日に父から聞いて、武田流の内容は大体把握している。とはいえ宗閑の人柄によっては、医者相手のこととして、教えが疎かになった可能性はある。太田道灌流というのも存在する。合戦のことに関しては半分くらいは立派なことを言っており、文言も立派なものである。特に鉄砲について言及がないという点から、偽作ではない考える人もいるようだが、これも偽作である。後に江嶋長左衛門という者が、様々に付け足しを行い、あらゆる事項を網羅した書になっている。主要二流派はともに、若年の頃に学んでいる。謙信流は伝授終了の印可も受けている。これもまた偽作の書であった。しかし武田流とは別物である。全体の傾向として武田流は軍略を主に扱う。節制については疎いのである。謙信流は節制を主に扱い、軍略については教えない。しかし節制のことは、学問を積んで、異国の軍法に通じていなくては、上手く扱えない問題である。謙信流の内容は、なるほど少しばかり学問の出来る人が、学問が無いかのように装って書いた書である。それゆえ節制の問題について行き届いていないのである。学者の目からは明らかに分かることである。その他の軍書は、たいていは武田流から派生したものである。私が学んだ軍法は、以上の通りである。さて物師の物語を聞かなくては、どの流派についても、どこが真実でどこが偽作であるか、見抜くことはできないものである。その真実の箇所も、物師の物語を聞いて魂を込めなければ、役に立たないものである。結局のところ、信玄公も謙信公も、信長公も秀吉公もみな百年前の乱世の人である。そしてその他の将兵もみな乱世の人であった。その軍法はどれも平和の時代には合致しないのである。この点は物師の物語を聞かなくては、知ることができないものである。日本には平和の時代の軍法というものは存在しない。異国には平和の時代の軍法が存在する。太閤の高麗陣の時、明朝は万暦年中で、平和の時代のまっただ中にあった。こちらの国から高麗に渡った将士は、皆百戦の辛苦を経て、磨き抜かれた生粋の武士達であった。人数も、明軍も十分、日本軍も十分、対等の兵力であった。それなのに明軍に出会い、全て敗北を喫したのである。そのため行長は和平の交渉を受け入れたのである。和平の交渉をひたすら拒んだのは清正一人である。その清正の家の古老の物語に、大明帝国の軍法は、兵士の動かし方が、日本と全く異なっていて、諸将はみなこれに仰天したと言っている。色々な物語を見てもそうである。しかし百戦の中で磨き抜かれた勇将・猛士だったので、無様な負け戦には陥らなかったというだけのことであった。明朝から高麗にやってきた大将は。それほどの人物ではなかったけれど、嘉靖年中に兪大猷・戚南塘といった名将達の打ち立て軍法が残っていたので、このような結果となったのである。これは異国の軍法をひいきしているわけではない。大体物の欠点、歪みというものは、大きく異なる物と比較してみなくては、理解することができないものである。そのため異国の軍法は、日本の軍法と比較してみなくては理解できないのである。しかし異国の軍法は学問が未熟では扱えないものであって、さらに学問が十分あっても、物師の物語を聞かなくては扱えない物である。兪大猷・戚継光の軍法は全て実践的な習慣の問題であって、七書などのように軍理ばかりを説くような物ではない。兪・戚の軍法を知ることなくしては、七書も上手くは扱えないであろう。今の時代に七書を見て、それだけが異国の軍法であると考えるのであれば、全て現在の日本の軍学者の説を受け入れて、日本式に物事を処理しているに過ぎないのであって、理論の上だけのことならば、何とでも辻褄が合うものであるから、見当違いの境地に達してしまうのである。軍学を好むというのであれば、日本式にやる一方で、もう少し異国の軍法を学んだ方が良いと思われる。ただし日本式とは軍法のあり方が異なっているので、混ぜ合わせて利用しようとすれば、何の役にも立たなくなるであろう。先述の通り、貴方個人の一身上の問題を離れた、軍学全般の問題として述べさせてもらった。以上。
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6巻より
書き付けの内容は、一覧したが、専ら軍学者たちの説ばかり聞き、武功で知られる者や物師の物語はこれまで聞いたことがないように見受けられる。これは軍学をやる上では大いなる欠陥と言わざるを得ない。もっとも軍学者達の説も、元をたどれば物師の物語に行き着くのであるが、軍学者という職業が成り立って弟子を取り、人々の問いに答えるようになって以後は、自然の流れとして偽作が生じてくることになる。しかも人それぞれに流派を立てるため、信玄流は信玄をひいきし、謙信流は謙信をひいきし、何事も良く評価しようとするのは、当然の人情というものではある。その上で、他流派と是非を争う結果、事実を曲げねばならぬ箇所も出てくることになる。さらには様々な事項を取りそろえることで、役に立つ事項の内容や意味も紛れて消えてしまうことになる。物師の物語というものは、本来は世間の人に広く聞かせるようなものでもない。志ある若者が、問い尋ねた際に、家庭教育のような態度で教えるものであり、知らぬことは知らぬと答えるものであった。とはいえ学問や軍学者の説ばかりを聞き、この物師の物語を聞かなければ、軍学は魂が入らず、役に立たないのである。我らの時代は既に戦国を去ること百年を超え、物師の物語を直に聞くこともできず、皆親類・子供の話を又聞きするより他はない。それでも再伝聞以下には下がりはしない。そういった話にはなるが、以下に一々書き付けておいて、お目にかけようと思う。何とも非難がましく、苦しくはあるが、貴方は書き付けの末で高名な師に付いたと言っているので、特別に色々お目にかけようと思う。他に見せるようなことが無いようお願いする。私の先祖は、三州の荻生城主であった。二歳の時、御当家のご先祖様に城を奪われ没落することとなった。荻生少目という者で、南朝を介したつながりがあり、その上縁故関係もあったので、勢州の国司北畠殿の元へと参ることになった。その子の惣右衛門は、北畠家没落の後、勢州に隠居した。その子が私の祖父。玄甫という者である。さて、このように門地を自慢げに書き連ねるたのは理由があってのことである。祖父以来、武士として仕官はしないことにして医者となり、父までは医者として働いてきた。玄甫が当地にやってきたのは、秀忠様の時代、大阪の陣よりはるかに前のことであった。医者といえば、現在の医者連中のように思われるかもしれないが、その時代の医者というのは、人によることではあるけれど、大層な存在であった。祖父は、当時、老中になった青山大蔵殿に、医者ではなくもろくちの侍(当時の言葉で文武両道ということである)と呼ぶべきだと評され、その上洛の際に領地掛川の城で昼食を取った時には、二の丸の指揮が我が祖父に任されたほどであった。その際不敵にも大名たちを、みな同格の者として取り扱ったのだという。このような話も現在は風俗が移り変わった後なので、話しても、たいてい誇張や嘘と取られるので、誰にも話したことはない。この話の出所であるが、玄甫については、三歳の時に父を失ったので、北畠家の物語は聞いてはいなかった。しかし私の母方の高祖父は、秀忠様のときの大御番頭鳥居久兵衛という者であった。そのころの大御番頭は二人制で、組は二つしか存在しなかった。その後家光様の時代に一組を六組ずつに分け、大番頭は十二組になったのである。酒井空印の子息も大御番頭であった。この久兵衛は罪を犯して、切腹することになり、跡継ぎが絶えることになった。ところが母娘とも旗本に縁組みしていたため、結果私は旗本に母方の親類を多く持つことになった。この関係で三州のことは、我が家に伝わってきたのである。また私の父方の祖母は、関東侍の平山八郎という者の娘であった。その母は太田道灌の孫である。太田道灌は娘を喜連川御所、文字をどう書くかは忘れたが、かんとう院と言うところの、養子にして、北条家の侍尾崎常陸介という者へと嫁がせたのである。その娘の娘のことである。常陸介については、氏政の先手となって鉄砲を預かり、岩付城に滞在していた。今は名が変わっているとも聞いている。岩付城に尾崎曲輪という曲輪がある。百騎の与力が毎月の餅つきには餅を食いにきたと言われている。鉄砲は五百挺が配備されていた。常陸の子の源内は、氏政の御前で元服し、幸手と糟壁の地が馬の飼料のために源内に与えられた。武州鷲宮あたりは常陸の領地であって、神主がやってきて話をすることもあった。道灌の娘である上に、喜連川の養子となって、また源内が氏政の御前で元服したと言えば、そのころの相当の名家であったようであるが、そいういった過去も、現在となっては知る者もない状態である。この常陸の娘が私の祖父と暮らしていた、我が父の幼少時代には、北条家のことなど物語したと聞いている。女丈夫とも言うべき者で、数度の戦働きさえしたほどの女であった。当時は物師の大勢いた時代であったが、物師たちにも一目置かれていた。特に家系については、物師・大将にも崇敬されていたという。その時代の吉良上野介など、敷物を変えて敬っていた。これは喜連川の孫であったようである。さて祖父のことを続けると、事情があって、小笠原左衛門佐殿の領地関宿に十三年滞在し、父が誕生したのも関宿であった。左衛門佐殿の母親は信玄公の姪で、信廉の娘であった。そのため甲州家の侍がこの家には多く、武田家の物語を多く聞くことができたという。勝頼没落後の物語を、多く聞いたとのことである。信廉自筆の式目抄というものを、左衛門殿の母親からもらったという。かつて甲斐守が父美濃守のところに送った物である。我が祖父・父の二代は、こういう関係で、医者ではあったけれども、家庭の習わしとして、ともに武道を好んでおり、私も幼少の頃から物師の物語を多く聞くことができた。私の姑の婿は北畠の子孫で、清正の侍であった。その弟堀江小右衛門という者は、二十年前に八十歳ほどで亡くなった。清正家の戦物語を、詳細に聞かせてくれた。私の従姉妹は細川家の侍水間才兵衛というものに嫁いでいる。才兵衛の祖父はこの四年ほど前に、七十歳ほどで無くなった。天草の戦いについての覚書が残っている。この人物はもとは宇喜多家の侍で、細川家に移ったのであった。才兵衛の外祖父は伯耆国主南条玄宅の家来で、福西九郎太夫という者である。玄宅とは、太閤の怒りを受けて、小西行長にお預けの身となった者だが、小西の指揮下で玄宅とともに、九郎太夫は高麗の諸陣を務め、関ヶ原以後は、清正に仕え、忠広の没落後は、細川家に移ったのであった。玄宅は中国地方で名を知られた猛将で、越後の謙信に似た大将である。九郎太夫については、比類無き剛勇の士であった。清正の戦いのことは、才兵衛の物語から知ることができた。高麗の事も加藤・小西両家の計略についても、こういう縁で知ることができた。玄宅の息子の牛之助という者は浪人して江戸にやってきた。我が父は懇意にしており、ここからも話を聞くことができた。我が父の医術の弟子に、青木伊織という者がいて、蒲生忠行に仕官した。蒲生源左衛門などと懇意にしている。そのため氏郷の戦いについて知ることができた。氏郷の戦いも謙信に似ている。信長公に属した太陽寺左平次という者は武功ある侍で、『信長記』にも見えている。この者は駿河大納言忠長様に仕え、その自害の後、井伊掃部頭殿が奏上の上、手元にもらい受けたのであった。この者の息子の牧野孫九郎と、同じく息子の左平次については、私は上総の国で親しく付き合っていた。信長公の戦いについてはここから詳しく聞いている。その他、南部の侍の成田休三という者は、堀平左衛門に頼って暮らしていた者である。平左衛門とは、稲葉美濃守が十五の時に、手討ちにした者である。その時、休三は、平左衛門の妻子を引き連れ、鉄砲の火蓋を切り、小田原を白昼退去していった。平左衛門は、黒田家の侍の後藤又兵衛と互角といわれる者であって、高麗の諸陣を勤め、めざましい働きであった。この休三の物語から分かったことは、多くある。また長坂茶利九郎の子、六郎左衛門と、上総の国で面会して、家康様のことを聞いている。さらに井戸安兵衛という浪人は加賀侍で、細川三斎にも仕えた人物である。家光様の時代に、剣術で幕府に仕えようとしていた。久世大和守殿もこの者の弟子であった。程なく他界して願いは叶わなかったが、この地に滞在していたのであった。この三十三年前に、九十ほどで亡くなっている。北国の戦いは、この人の物語から知ることができた。これらの人々は皆この上ない実直者で、いずれも真の武士であった。近年では人の風俗が悪化し、武道の物語を好む人がいないために、私などを珍しがって、真実の物語を語ってくれたのである。この男達は皆、軍学者連中の軍法を非常に嫌っており、全て嘘だと断言していた。井戸安兵衛という者については、弁舌の徒でもあったが、これとて今の町人連中のような人物では全くなかった。とはいえ私が知る限り、軍学者の説にも良き内容が含まれているようにも思われる。そのため軍学も少々は学んでみた。そこで慰みまでにその詳細をも以下に記しておく。
総じて見れば、昔は軍法というものは世間に流行っていなかった。その理由は戦国で功を立て名を得た勇将・猛士といった人が、世間に充ち満ちていたため、誰も軍学などしなかったのである。家康様の時には、井伊掃部頭殿の侍で岡本半助という者が、軍学の名声を有していた。先述の牧野弥九郎・左平次もよく知られていた。その軍法は私の外祖父が伝授を受けている。十七、八の時に、軍書を学ぶこと六十巻に上った。みな雲の見方、軍配の使い方、また旗や幕、母衣の準備などについて梵字や陀羅尼で書き固めていた。合戦のことはせいぜい四、五巻しか書かれていなかった。実に立派なもので、軍法の古流はこういうものであった。これでは内容乏しく、今日では何の役にも立たなそうであるが、昔のものとはそういうものである。さて天草の陣後になって、松平伊豆守殿が、初めて小幡に軍法を学ぶことになった。これ以来武田流というものが、世間では流行することになる。そのほかの軍法、鉄砲術もこれ以後流行することになった。山本勘介の弟から謙信流を、家康様が学んだなどというのは、何の根拠もない虚偽の説である。実は小幡は人柄に偽りが多いということで、その時代の人は、信用することはなかった。伊豆守殿は、元来の生まれは、武家の家ではなく、天草で困ったためこういうことをやりだしたのである。甲陽軍鑑というものは、小幡の偽作であると聞いている。なるほど、ありそうなことである。信用しがたい内容も多く含まれている。第一に高坂の仮名・実名が間違っている。これは高野山に高坂の書状が残っているので、明白に証拠あることである。そのほか川中島合戦は、本当は信玄公がこの上ない大敗を喫したのである。これにもまた明らかな証拠が残っている。これらの大きな問題を生じさせたのは、北条流、山鹿流など、みな家光様、家綱様の時代、平和な時代の人たちである。雄鑑抄・聖教要録・武功全書・雄備抄などについては、伝授は受けていないものの、一通り見たことがある。山鹿はその人柄さえ当時の人に受け入れられなかったような人物である。どう見ても口舌の徒としか見えない人物である。半端に学問があったため、概ね物師の語る内容とは調和しないことを言っている。学問は未熟で、異国の書を読み終えるほどの学問には残念ながら達していないようで、半端物とはこういう者のことを言うのである。楠流のことは人々が拒否するので、ついにその書を見ることができなかった。堀宗閑という軍学者がいた。孔明流を立てながら、その技は武田流であり、これについては我が父が宗閑と懇意になって弟子となり、学んでいたので、私も若年の日に父から聞いて、武田流の内容は大体把握している。とはいえ宗閑の人柄によっては、医者相手のこととして、教えが疎かになった可能性はある。太田道灌流というのも存在する。合戦のことに関しては半分くらいは立派なことを言っており、文言も立派なものである。特に鉄砲について言及がないという点から、偽作ではない考える人もいるようだが、これも偽作である。後に江嶋長左衛門という者が、様々に付け足しを行い、あらゆる事項を網羅した書になっている。主要二流派はともに、若年の頃に学んでいる。謙信流は伝授終了の印可も受けている。これもまた偽作の書であった。しかし武田流とは別物である。全体の傾向として武田流は軍略を主に扱う。節制については疎いのである。謙信流は節制を主に扱い、軍略については教えない。しかし節制のことは、学問を積んで、異国の軍法に通じていなくては、上手く扱えない問題である。謙信流の内容は、なるほど少しばかり学問の出来る人が、学問が無いかのように装って書いた書である。それゆえ節制の問題について行き届いていないのである。学者の目からは明らかに分かることである。その他の軍書は、たいていは武田流から派生したものである。私が学んだ軍法は、以上の通りである。さて物師の物語を聞かなくては、どの流派についても、どこが真実でどこが偽作であるか、見抜くことはできないものである。その真実の箇所も、物師の物語を聞いて魂を込めなければ、役に立たないものである。結局のところ、信玄公も謙信公も、信長公も秀吉公もみな百年前の乱世の人である。そしてその他の将兵もみな乱世の人であった。その軍法はどれも平和の時代には合致しないのである。この点は物師の物語を聞かなくては、知ることができないものである。日本には平和の時代の軍法というものは存在しない。異国には平和の時代の軍法が存在する。太閤の高麗陣の時、明朝は万暦年中で、平和の時代のまっただ中にあった。こちらの国から高麗に渡った将士は、皆百戦の辛苦を経て、磨き抜かれた生粋の武士達であった。人数も、明軍も十分、日本軍も十分、対等の兵力であった。それなのに明軍に出会い、全て敗北を喫したのである。そのため行長は和平の交渉を受け入れたのである。和平の交渉をひたすら拒んだのは清正一人である。その清正の家の古老の物語に、大明帝国の軍法は、兵士の動かし方が、日本と全く異なっていて、諸将はみなこれに仰天したと言っている。色々な物語を見てもそうである。しかし百戦の中で磨き抜かれた勇将・猛士だったので、無様な負け戦には陥らなかったというだけのことであった。明朝から高麗にやってきた大将は。それほどの人物ではなかったけれど、嘉靖年中に兪大猷・戚南塘といった名将達の打ち立て軍法が残っていたので、このような結果となったのである。これは異国の軍法をひいきしているわけではない。大体物の欠点、歪みというものは、大きく異なる物と比較してみなくては、理解することができないものである。そのため異国の軍法は、日本の軍法と比較してみなくては理解できないのである。しかし異国の軍法は学問が未熟では扱えないものであって、さらに学問が十分あっても、物師の物語を聞かなくては扱えない物である。兪大猷・戚継光の軍法は全て実践的な習慣の問題であって、七書などのように軍理ばかりを説くような物ではない。兪・戚の軍法を知ることなくしては、七書も上手くは扱えないであろう。今の時代に七書を見て、それだけが異国の軍法であると考えるのであれば、全て現在の日本の軍学者の説を受け入れて、日本式に物事を処理しているに過ぎないのであって、理論の上だけのことならば、何とでも辻褄が合うものであるから、見当違いの境地に達してしまうのである。軍学を好むというのであれば、日本式にやる一方で、もう少し異国の軍法を学んだ方が良いと思われる。ただし日本式とは軍法のあり方が異なっているので、混ぜ合わせて利用しようとすれば、何の役にも立たなくなるであろう。先述の通り、貴方個人の一身上の問題を離れた、軍学全般の問題として述べさせてもらった。以上。
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by trushbasket
| 2013-02-16 00:36
| My(山田昌弘)








