2013年 03月 10日
近代大相撲と力士の素行~今の角界はだいぶ品行方正です~
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以前から、大相撲では様々な問題が噴出しています。営業面以外に倫理面だけを見ても、「可愛がり」(暴行)やら野球賭博やら八百長やら薬物使用やらで追放された人が続出。これが相撲人気に大きく水を差しているのは否定しようもありません。
犯罪行為は論外としても、立ち会いやらの「マナー」も前々から口やかましく言われています。では、相撲が最大のプロスポーツであった時代においては、モラルについてはどのような感じだったのでしょうか。
まず、勝負判定について。現在の角界では、審判の裁定は公平である事が求められますし、当事者である力士がこれに異を唱える事はありません。しかし、明治期には負けとなった力士が土俵上に胡坐をかいて降りるのを拒否するといった事態が生じたり、審判も師弟関係に基づいて情実絡みの判定を下すことがしばしば新聞記事となっています。あと、現在でも実は控え力士に「物言い」をつける権利がありますが、めったに適用される事はありません。ですが、昔はしばしば控え力士が「物言い」をつけ、検査役を恫喝したりした事例もままあったとか。大横綱常陸山もそうした強硬な抗議をしばしばした人物で、明治四十四年には検査役12名を辞職に追いやっています。このように紛糾した審議の結果、「預り」という形で勝負があいまいにされる事が往々にあったそうです。
こうしたグダグダっぷりに対して観客はと言うと、こうした審議の行方をエキサイトして楽しんでいた人々も珍しくなかったと伝えられています。
次に、八百長問題について。明治期において、既に八百長は公然の秘密となっていました。当時の新聞には八百長を前提とした記事が散見され、例えば大正五年五月二十五日の『東京日日新聞』には「持越しの八百長」で「負る約束」がある力士の話があったりします。また、明治四十四年二月二日の『東京朝日新聞』には行司・木村庄之助の証言として
という話がありました。そういえば、昔の力士は現役生命が長かったそうですね。その裏には八百長があったとなると納得。まあ、考えてみれば徳川期は看板力士といって土俵に上がって巨体を誇示するだけで実際に相撲を取らない力士もいた時代です。プロスポーツ競技としての性格はまだまだ弱かったでしょう。
そして、八百長に対して世間も割合に寛容だったようで相手が病気だったり昇格・陥落がかかった一番にはむしろ情けある行為として肯定的にみられる事すらあったそうです。
次は、欠勤・休場について。現在、休場すると取り組みが既に組まれた一番については不戦敗がつきます。また、休場している力士が元気に土俵外で活動していると、ペナルティが課されますね。昔、横綱前田山は休場中に野球観戦して引退させられましたし、最近でも横綱朝青龍は巡業休場中にサッカーに興じて処分を受けています。
ところが、明治・大正の頃には力士が勝手に欠勤する事は珍しくありませんでした。酷い時は、場所中に幕内力士の半数近くが休んだ事すらあったとか。流石にこれは問題視されたらしく、明治四十四年一月二十二日の『萬朝報』は
と手厳しくやっつけています。また大正二年五月十七日の『時事新報』でも
と皮肉られる状況。この状況を改善すべく、休場・不戦勝制度が整えられたのです。その結果、現在の力士は実に真面目になったものと言えます。
出場したらしたで、取組み直前に飲酒する事例もめずらしくなかったようです。特に千秋楽は、力士たちが土俵上で酔態を晒すのが風物詩だったとか。大横綱・常陸山も取組前に観戦中のタニマチ(後援者)がいる桟敷にあいさつに赴き、飲み食いする事が常だったと言われています。
なお、当時まで力士は芸者・幇間と同様に金持ちの旦那に侍って楽しませる立場でもありました。欠勤中に客席などに出入りして飲み食いしていたのは、そのためです。
土俵態度も、実におおらかなものでした。現在、取組みの前後には相互に礼をするのは当然となっていますが、長らくこれは定着せず負けた力士はさっさと引き揚げてしまい勝利した方も勝ち名乗りすらうけず帰ってしまうケースもままあったそうです。更に、土俵上で唾や淡を吐いたり手鼻をかむという行儀の悪い行いも珍しくありませんでした。他にも、控え力士が土俵下でドテラを着ていたり土俵下の検査役が巻きたばこをふかしていたりと現在では考えられない光景が見られたとか。前者はともかく、後者は危ないですよ。
こうした事情が一変するのが昭和前期の事で、軍事色が強まる世相の中で角界も厳格化がすすめられていったそうです。当時、圧倒的な強さを誇った横綱双葉山が現在に至るまで力士の模範とされるのは、こうした時代において素行も理想的なものであったからというのは御存じの方も多いかと思います。
以上からわかるように、犯罪行為はともかくマナーという面において、昔の角界は実に緩かったようです。現在は、相撲の歴史から見るとかなり行儀がよくなった時代なのは間違いありません。これは喜ばしい事ではあるでしょうが、緩かった時代の相撲が人気を博していたのを思うと、マナーの改善と人気とは別問題なのだなあ、と複雑な思いに駆られてしまいます。
【参考文献】
角界モラル考 戦前の大相撲は「おおらか」だった 西村秀樹著 不昧堂出版
関連記事:
「過去のお騒がせ横綱たち」
「木鶏」
昔、横綱昇進基準はもっと緩かった~双羽黒廃業以前の横綱昇進裏基準を検討する~
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021206.html)
犯罪行為は論外としても、立ち会いやらの「マナー」も前々から口やかましく言われています。では、相撲が最大のプロスポーツであった時代においては、モラルについてはどのような感じだったのでしょうか。
まず、勝負判定について。現在の角界では、審判の裁定は公平である事が求められますし、当事者である力士がこれに異を唱える事はありません。しかし、明治期には負けとなった力士が土俵上に胡坐をかいて降りるのを拒否するといった事態が生じたり、審判も師弟関係に基づいて情実絡みの判定を下すことがしばしば新聞記事となっています。あと、現在でも実は控え力士に「物言い」をつける権利がありますが、めったに適用される事はありません。ですが、昔はしばしば控え力士が「物言い」をつけ、検査役を恫喝したりした事例もままあったとか。大横綱常陸山もそうした強硬な抗議をしばしばした人物で、明治四十四年には検査役12名を辞職に追いやっています。このように紛糾した審議の結果、「預り」という形で勝負があいまいにされる事が往々にあったそうです。
こうしたグダグダっぷりに対して観客はと言うと、こうした審議の行方をエキサイトして楽しんでいた人々も珍しくなかったと伝えられています。
次に、八百長問題について。明治期において、既に八百長は公然の秘密となっていました。当時の新聞には八百長を前提とした記事が散見され、例えば大正五年五月二十五日の『東京日日新聞』には「持越しの八百長」で「負る約束」がある力士の話があったりします。また、明治四十四年二月二日の『東京朝日新聞』には行司・木村庄之助の証言として
昔は五十歳以上になって幕内で頑張れたのは、十三両二分取の関取をば十二両取の力士は負かすことが出来ぬ内規であって、若し之を負かしたなら大変。打ち出し後進物を持って詫びに行かねばならぬ
(西村秀樹著『角界モラル考 戦前の大相撲は「おおらか」だった』不昧堂出版 160頁)
という話がありました。そういえば、昔の力士は現役生命が長かったそうですね。その裏には八百長があったとなると納得。まあ、考えてみれば徳川期は看板力士といって土俵に上がって巨体を誇示するだけで実際に相撲を取らない力士もいた時代です。プロスポーツ競技としての性格はまだまだ弱かったでしょう。
そして、八百長に対して世間も割合に寛容だったようで相手が病気だったり昇格・陥落がかかった一番にはむしろ情けある行為として肯定的にみられる事すらあったそうです。
次は、欠勤・休場について。現在、休場すると取り組みが既に組まれた一番については不戦敗がつきます。また、休場している力士が元気に土俵外で活動していると、ペナルティが課されますね。昔、横綱前田山は休場中に野球観戦して引退させられましたし、最近でも横綱朝青龍は巡業休場中にサッカーに興じて処分を受けています。
ところが、明治・大正の頃には力士が勝手に欠勤する事は珍しくありませんでした。酷い時は、場所中に幕内力士の半数近くが休んだ事すらあったとか。流石にこれは問題視されたらしく、明治四十四年一月二十二日の『萬朝報』は
欠勤力士を見れバ、曰く病気なりと、其実客席に侍して豪飲高歌し夜ハ花柳の間に出没し毫も病る色なきもの多し(同書 181頁)
と手厳しくやっつけています。また大正二年五月十七日の『時事新報』でも
怠け学生の診断書が神経衰弱に限られてゐるやうに、相撲の届は大ていロイマチス(同書 182頁)
と皮肉られる状況。この状況を改善すべく、休場・不戦勝制度が整えられたのです。その結果、現在の力士は実に真面目になったものと言えます。
出場したらしたで、取組み直前に飲酒する事例もめずらしくなかったようです。特に千秋楽は、力士たちが土俵上で酔態を晒すのが風物詩だったとか。大横綱・常陸山も取組前に観戦中のタニマチ(後援者)がいる桟敷にあいさつに赴き、飲み食いする事が常だったと言われています。
なお、当時まで力士は芸者・幇間と同様に金持ちの旦那に侍って楽しませる立場でもありました。欠勤中に客席などに出入りして飲み食いしていたのは、そのためです。
土俵態度も、実におおらかなものでした。現在、取組みの前後には相互に礼をするのは当然となっていますが、長らくこれは定着せず負けた力士はさっさと引き揚げてしまい勝利した方も勝ち名乗りすらうけず帰ってしまうケースもままあったそうです。更に、土俵上で唾や淡を吐いたり手鼻をかむという行儀の悪い行いも珍しくありませんでした。他にも、控え力士が土俵下でドテラを着ていたり土俵下の検査役が巻きたばこをふかしていたりと現在では考えられない光景が見られたとか。前者はともかく、後者は危ないですよ。
こうした事情が一変するのが昭和前期の事で、軍事色が強まる世相の中で角界も厳格化がすすめられていったそうです。当時、圧倒的な強さを誇った横綱双葉山が現在に至るまで力士の模範とされるのは、こうした時代において素行も理想的なものであったからというのは御存じの方も多いかと思います。
以上からわかるように、犯罪行為はともかくマナーという面において、昔の角界は実に緩かったようです。現在は、相撲の歴史から見るとかなり行儀がよくなった時代なのは間違いありません。これは喜ばしい事ではあるでしょうが、緩かった時代の相撲が人気を博していたのを思うと、マナーの改善と人気とは別問題なのだなあ、と複雑な思いに駆られてしまいます。
【参考文献】
角界モラル考 戦前の大相撲は「おおらか」だった 西村秀樹著 不昧堂出版
関連記事:
「過去のお騒がせ横綱たち」
「木鶏」
昔、横綱昇進基準はもっと緩かった~双羽黒廃業以前の横綱昇進裏基準を検討する~
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021206.html)
by trushbasket
| 2013-03-10 16:54
| NF








