2013年 04月 21日
「昨日の敵は今日の友、敵の敵は味方」~「南朝の忠臣」として生きた「逆賊」の子孫たち~
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鎌倉政権最後の最高権力者・北条高時には時行という子息がいました。後醍醐天皇や護良親王の呼びかけに応じて新興豪族たちが反乱の烽火を挙げ、更に有力者である足利氏の寝返りを契機に一気に滅亡に追い込まれた鎌倉政権。しかし時行はその直前に諏訪氏の手によって鎌倉から脱出し、信濃に逃れて家臣たちと共に再挙の機会をうかがっていたのです。
そして、後醍醐の専制的政策への反発が強まった建武二年(1335)、時行は諏訪氏に奉じられて信濃で挙兵。この時、まず保科・四宮氏が挙兵して信濃守護小笠原貞宗の注意を引き、その間に時行直属軍が関東に攻め入る作戦を取っています。勢いに乗った時行軍は北条残党が加わって数万に膨れ上がり、関東を支配していた足利軍を各地で破って鎌倉を奪還しました。中先代の乱です。
しかし京から足利尊氏が大軍を率いて攻め入ってくると、時行らは一たまりもなく敗北して再び信濃に逃れざるを得ませんでした。やがて尊氏は自らの政権樹立を目指して挙兵し、戦いの末に後醍醐方は敗北して吉野に逃れます。こうして日本は尊氏らが擁立する北朝と吉野に逃れた後醍醐の南朝に分裂したのです。
ここで時行は、再び再起を図ります。といっても、独力で戦える力など残っていませんでした。そこで、彼は嘗て自分たちを滅ぼした後醍醐と連絡をとって朝敵赦免を受け、南朝方として挙兵。京奪回のため奥州から西上する北畠顕家軍に合流して戦ったり、関東で挙兵した新田軍に呼応したり、正平七年(1352)には足利政権の内紛に乗じて新田軍と共に鎌倉を一時的に占領したりとそれなりに活躍をしていますが、力及ばず正平八年(1353)に捕えられて鎌倉竜ノ口で処刑されました。後醍醐にとって最初の「朝敵」であった北条氏嫡流は、南朝方としてその歴史を閉じたのです。
これだけでも何ともいえない歴史の皮肉ですが、南朝から見た「朝敵の首魁」の一族でありながら「南朝の忠臣」となった例が他にもある可能性があります。
南朝方歌人による歌を集めた『新葉和歌集』は宗良親王によって編纂され長慶天皇により准勅撰とされた歌集ですが、その中に「右衛門督成直」なる人物の歌が十四首入集しています。彼は『南朝五百番歌合』でも「源成直」として掲載されておりそれなりの地位を占めていたと思われますが、その出自に関して意外な話が残されています。『新葉集作者部類』によれば彼は足利直冬の子であり、父が没した後に後村上天皇により父の官位・右兵衛佐を引き継いで後に右衛門督に昇進したものだというのです。『作者部類』は後世の史料なようですし、他に直冬の子として成直なる人物がいたと記すものがないので信頼性は微妙ですが。…でもまあ、ここでは敢えて成直を直冬の子として話を進めます。でないと、今回の主題が成り立たないので。
さて、もう少し成直に関して言及すると、国家主義全盛の中で太平洋戦争に向かいつつある昭和十六年(1941)に歌人川田順が編纂した『愛国百人一首』(川田自身も編集に参加した日本文学報国会版『愛国百人一首』とは別)に
という作品が採られています。そこでも彼は「足利成直」と記述され同族に背いて、吉野朝廷に忠勤を励んだ武将とされているのです。もし彼が本当に足利氏出身なら、なぜ南朝についたのでしょうか?そしてなぜ少なからぬ歌が採録されるほど南朝に信任されたのでしょう?後世の国家主義歌人をも感動させるような忠君の歌をなぜ残すに至ったのでしょう?手がかりとして当時の政治情勢を概観する事にしましょう。
南朝との戦いを圧倒的有利に進め安定したかにみえた足利政権でしたが、十四世紀半ばには新興豪族に支持される尊氏ら急進派と有力豪族を背景とした直義(尊氏の弟)ら保守派に分かれて分裂するようになります。観応元年(1350)には両派が軍事衝突するに至り、争いは泥沼化。キャスティングボートを握った南朝が勢いを取り戻すなど混乱を極めますが、結局は直義派が敗北。旧直義派は直義の養子である直冬を擁立して南朝と結んで再起を図ったのです。さて直冬は尊氏の庶子でしたが、出生に疑問を持ったのか尊氏は直冬を嫌って認知せず、直義が引き取って自分の子として元服させたという経緯がありました。それもあってか、直冬にとっては尊氏と戦うほかに選択肢はなく南朝と結んで一度は京占領を果たすもののこれを維持する事は出来ず、結局は山陰に逃れて歴史から姿を消しました。その直冬の子であったとすれば、旧直義派が弱体化・消滅した後は南朝に身を寄せるほかなかったのは理解できる気はします。尊氏は寛大で人を憎悪する事はなかったとされていますが、前述したように直冬に対しては珍しく強い嫌悪感を寄せていたようですから。また、尊氏の後継者である義詮にとっても直冬の系統は自身の正当性を脅かしかねない存在だったでしょうしね。成直の南朝に対する忠誠の念は、皇室への崇敬というよりは唯一自分を受け入れてくれる存在への感謝に近いものだった、それ故に上っ面でなく昭和の歌人をも感動させる本物でありえたのではないでしょうか。
北条氏と足利氏。いずれも南朝にとっては不倶戴天の仇敵である筈の存在です。しかしそれぞれから、「南風競わず」劣勢の南朝に忠勤を励んだ存在が出たらしいのは興味深い話ですね。
時行が最初に挙兵した際は父の仇である後醍醐を敵にしていますから分りやすいですが、二度目以降には仇敵である後醍醐についているのは何故なんでしょうか。考えてみれば、時行にとっては後醍醐も尊氏も父の仇である事には変わりありません。そして、北条氏にとってかわって全国支配を目指しつつある足利氏にとって、北条氏嫡流は自らの正統性を脅かす存在であり絶対に相容れなかったでしょう。一方で後醍醐にとっては劣勢で少しでも味方がほしい状態であり、元来が形式上は君臣関係ですから「嘗ての罪を許す」という形で名分は立ちます。引き入れられるものは引き入れたい南朝と他に行き場のなかった時行とで、利害は見事に一致したわけです。
上述したように、成直についても同様な事がいえました。尊氏・義詮にとっては直冬系統は義詮の正統性に疑問を持たせる存在でしたから、やはり受け入れる事は出来ません。結局は彼も南朝のほかに居場所はなかったのです。
それにしても、人間は生まれる場所を選べませんし、どこに生まれたかで運命の少なからぬ部分が決まってしまう事は珍しくありません。なまじ名門として生まれたために時の権力者により存在自体が脅威として敵視され、滅び行くものに身を寄せざるを得なかったこの二人には、同情の念を禁じえません。「北条」「足利」でありながら南朝に尽した点といい、名門ゆえに「負け組」足らざるを得なかった運命といい、「昨日の敵は今日の友」「敵の敵は味方」というのは常であるとはいえ歴史の皮肉としか言いようがありませんね。
【参考文献】
鎌倉北条氏の興亡 奥富敬之 吉川弘文館
日本の歴史9 南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
日本古典文学大系太平記一~三 岩波書店
「校註国歌大系第九巻 講談社」より「新葉和歌集」
「近代デジタルライブラリー」(http://kindai.ndl.go.jp/)掲載「校訂増補 引勅撰作者部類」
愛国百人一首 川田順 河出書房新社
人物叢書足利直冬 瀬野精一郎 吉川弘文館
関連記事:
「輪廻転生と南北朝~オーラの泉を抱く英雄たち~」
「南北朝における歴史人物の筆跡」
「南朝五忠臣」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連発表は
「南北朝関連発表まとめ」
にまとめてリンクしています。その他に関連してそうなものとして、
「日本民衆文化史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021206.html)
関連サイト:
「かたつむり行進曲」(http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/index.htm)より
「新葉和歌集」(http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/waka3/sinyo/index.htm)
「校訂足利氏系図」(http://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/keizu/asikagakeizu.html)
「Reichsarchiv~世界帝王事典~」(http://nekhet.ddo.jp/)より
「北条氏(得宗家)」(http://nekhet.ddo.jp/people/japan/houjou.html)
「足利氏」(http://nekhet.ddo.jp/people/japan/asikaga01.html)
成直はここには載っていません。
なお、直接関係ありませんが「濃っ!! 顔写真入り北条氏系図」(http://nekhet.ddo.jp/item/1246/catid/1)は一見の価値があるかも。あと、このサイトにはなぜかノートン1世やゴールデンバウム王朝なんかものっています。
「短歌研究室」(http://homepage2.nifty.com/tankatsushin/kenkyuusitu.htm)より
「愛国百人一首」(http://homepage2.nifty.com/tankatsushin/kenkyushitu/aikoku.htm)
こちらは日本文学報国会版ですので、成直の歌はありません。
そして、後醍醐の専制的政策への反発が強まった建武二年(1335)、時行は諏訪氏に奉じられて信濃で挙兵。この時、まず保科・四宮氏が挙兵して信濃守護小笠原貞宗の注意を引き、その間に時行直属軍が関東に攻め入る作戦を取っています。勢いに乗った時行軍は北条残党が加わって数万に膨れ上がり、関東を支配していた足利軍を各地で破って鎌倉を奪還しました。中先代の乱です。
しかし京から足利尊氏が大軍を率いて攻め入ってくると、時行らは一たまりもなく敗北して再び信濃に逃れざるを得ませんでした。やがて尊氏は自らの政権樹立を目指して挙兵し、戦いの末に後醍醐方は敗北して吉野に逃れます。こうして日本は尊氏らが擁立する北朝と吉野に逃れた後醍醐の南朝に分裂したのです。
ここで時行は、再び再起を図ります。といっても、独力で戦える力など残っていませんでした。そこで、彼は嘗て自分たちを滅ぼした後醍醐と連絡をとって朝敵赦免を受け、南朝方として挙兵。京奪回のため奥州から西上する北畠顕家軍に合流して戦ったり、関東で挙兵した新田軍に呼応したり、正平七年(1352)には足利政権の内紛に乗じて新田軍と共に鎌倉を一時的に占領したりとそれなりに活躍をしていますが、力及ばず正平八年(1353)に捕えられて鎌倉竜ノ口で処刑されました。後醍醐にとって最初の「朝敵」であった北条氏嫡流は、南朝方としてその歴史を閉じたのです。
これだけでも何ともいえない歴史の皮肉ですが、南朝から見た「朝敵の首魁」の一族でありながら「南朝の忠臣」となった例が他にもある可能性があります。
南朝方歌人による歌を集めた『新葉和歌集』は宗良親王によって編纂され長慶天皇により准勅撰とされた歌集ですが、その中に「右衛門督成直」なる人物の歌が十四首入集しています。彼は『南朝五百番歌合』でも「源成直」として掲載されておりそれなりの地位を占めていたと思われますが、その出自に関して意外な話が残されています。『新葉集作者部類』によれば彼は足利直冬の子であり、父が没した後に後村上天皇により父の官位・右兵衛佐を引き継いで後に右衛門督に昇進したものだというのです。『作者部類』は後世の史料なようですし、他に直冬の子として成直なる人物がいたと記すものがないので信頼性は微妙ですが。…でもまあ、ここでは敢えて成直を直冬の子として話を進めます。でないと、今回の主題が成り立たないので。
さて、もう少し成直に関して言及すると、国家主義全盛の中で太平洋戦争に向かいつつある昭和十六年(1941)に歌人川田順が編纂した『愛国百人一首』(川田自身も編集に参加した日本文学報国会版『愛国百人一首』とは別)に
神路山いづる月日や君が代をよるひる守る光なるらむ(『新葉集』巻九 神祇)
(伊勢内宮にある神路山よ、そこから出る日や月は我が君の御世を夜昼となく守護する光であるのであろうなあ)
という作品が採られています。そこでも彼は「足利成直」と記述され同族に背いて、吉野朝廷に忠勤を励んだ武将とされているのです。もし彼が本当に足利氏出身なら、なぜ南朝についたのでしょうか?そしてなぜ少なからぬ歌が採録されるほど南朝に信任されたのでしょう?後世の国家主義歌人をも感動させるような忠君の歌をなぜ残すに至ったのでしょう?手がかりとして当時の政治情勢を概観する事にしましょう。
南朝との戦いを圧倒的有利に進め安定したかにみえた足利政権でしたが、十四世紀半ばには新興豪族に支持される尊氏ら急進派と有力豪族を背景とした直義(尊氏の弟)ら保守派に分かれて分裂するようになります。観応元年(1350)には両派が軍事衝突するに至り、争いは泥沼化。キャスティングボートを握った南朝が勢いを取り戻すなど混乱を極めますが、結局は直義派が敗北。旧直義派は直義の養子である直冬を擁立して南朝と結んで再起を図ったのです。さて直冬は尊氏の庶子でしたが、出生に疑問を持ったのか尊氏は直冬を嫌って認知せず、直義が引き取って自分の子として元服させたという経緯がありました。それもあってか、直冬にとっては尊氏と戦うほかに選択肢はなく南朝と結んで一度は京占領を果たすもののこれを維持する事は出来ず、結局は山陰に逃れて歴史から姿を消しました。その直冬の子であったとすれば、旧直義派が弱体化・消滅した後は南朝に身を寄せるほかなかったのは理解できる気はします。尊氏は寛大で人を憎悪する事はなかったとされていますが、前述したように直冬に対しては珍しく強い嫌悪感を寄せていたようですから。また、尊氏の後継者である義詮にとっても直冬の系統は自身の正当性を脅かしかねない存在だったでしょうしね。成直の南朝に対する忠誠の念は、皇室への崇敬というよりは唯一自分を受け入れてくれる存在への感謝に近いものだった、それ故に上っ面でなく昭和の歌人をも感動させる本物でありえたのではないでしょうか。
北条氏と足利氏。いずれも南朝にとっては不倶戴天の仇敵である筈の存在です。しかしそれぞれから、「南風競わず」劣勢の南朝に忠勤を励んだ存在が出たらしいのは興味深い話ですね。
時行が最初に挙兵した際は父の仇である後醍醐を敵にしていますから分りやすいですが、二度目以降には仇敵である後醍醐についているのは何故なんでしょうか。考えてみれば、時行にとっては後醍醐も尊氏も父の仇である事には変わりありません。そして、北条氏にとってかわって全国支配を目指しつつある足利氏にとって、北条氏嫡流は自らの正統性を脅かす存在であり絶対に相容れなかったでしょう。一方で後醍醐にとっては劣勢で少しでも味方がほしい状態であり、元来が形式上は君臣関係ですから「嘗ての罪を許す」という形で名分は立ちます。引き入れられるものは引き入れたい南朝と他に行き場のなかった時行とで、利害は見事に一致したわけです。
上述したように、成直についても同様な事がいえました。尊氏・義詮にとっては直冬系統は義詮の正統性に疑問を持たせる存在でしたから、やはり受け入れる事は出来ません。結局は彼も南朝のほかに居場所はなかったのです。
それにしても、人間は生まれる場所を選べませんし、どこに生まれたかで運命の少なからぬ部分が決まってしまう事は珍しくありません。なまじ名門として生まれたために時の権力者により存在自体が脅威として敵視され、滅び行くものに身を寄せざるを得なかったこの二人には、同情の念を禁じえません。「北条」「足利」でありながら南朝に尽した点といい、名門ゆえに「負け組」足らざるを得なかった運命といい、「昨日の敵は今日の友」「敵の敵は味方」というのは常であるとはいえ歴史の皮肉としか言いようがありませんね。
【参考文献】
鎌倉北条氏の興亡 奥富敬之 吉川弘文館
日本の歴史9 南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
日本古典文学大系太平記一~三 岩波書店
「校註国歌大系第九巻 講談社」より「新葉和歌集」
「近代デジタルライブラリー」(http://kindai.ndl.go.jp/)掲載「校訂増補 引勅撰作者部類」
愛国百人一首 川田順 河出書房新社
人物叢書足利直冬 瀬野精一郎 吉川弘文館
関連記事:
「輪廻転生と南北朝~オーラの泉を抱く英雄たち~」
「南北朝における歴史人物の筆跡」
「南朝五忠臣」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連発表は
「南北朝関連発表まとめ」
にまとめてリンクしています。その他に関連してそうなものとして、
「日本民衆文化史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021206.html)
関連サイト:
「かたつむり行進曲」(http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/index.htm)より
「新葉和歌集」(http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/waka3/sinyo/index.htm)
「校訂足利氏系図」(http://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/keizu/asikagakeizu.html)
「Reichsarchiv~世界帝王事典~」(http://nekhet.ddo.jp/)より
「北条氏(得宗家)」(http://nekhet.ddo.jp/people/japan/houjou.html)
「足利氏」(http://nekhet.ddo.jp/people/japan/asikaga01.html)
成直はここには載っていません。
なお、直接関係ありませんが「濃っ!! 顔写真入り北条氏系図」(http://nekhet.ddo.jp/item/1246/catid/1)は一見の価値があるかも。あと、このサイトにはなぜかノートン1世やゴールデンバウム王朝なんかものっています。
「短歌研究室」(http://homepage2.nifty.com/tankatsushin/kenkyuusitu.htm)より
「愛国百人一首」(http://homepage2.nifty.com/tankatsushin/kenkyushitu/aikoku.htm)
こちらは日本文学報国会版ですので、成直の歌はありません。
by trushbasket
| 2013-04-21 15:06
| NF








