2013年 05月 11日
娘義太夫と「どうする連」~アイドル、アイドルオタとそれを嫌悪する人々 in 明治~
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歌手・俳優といった芸能人の中でも、主に若く性的魅力のある人々は「アイドル」(偶像)として異性ファンたちから熱狂的支持を勝ち得ているのは男女を問いませんし今に始まった事ではありません。近年では、アニメでキャラの声を当てる声優にも似たような扱いを受ける人々がいるようですね。とはいえ、そうしたアイドルや声優のファンの中には世間から異様とみなされ「キモオタ」と呼ばれ嫌悪されたり、風紀・治安紊乱の要因になりうるとみなされりする事例も存在するようで。
そういえば、昔の記事で前近代に集団で巡礼をする人々が同様に世間から不気味がられたりした話がありましたが、前近代と現代の間をつなぐ存在と言うべき明治期においてはどうだったのでしょうか。今回はその辺りを少し見てみようかと思います。
明治期には、娘義太夫と呼ばれる女性話芸師たちが人気を博しました。義太夫というのは三味線に乗って浄瑠璃の演劇脚本を語る話芸です。女性が義太夫を語る事は徳川期からないわけではなかったようですが、芸人として一段下の存在とみられ人気もありませんでした。しかし明治十年(1877)に女性芸人が寄席に上がる事が解禁されたのを契機に東京でも音女・大吉・清花といった女性の義太夫語りが姿を見せるようになります。
明治十五年(1882)には名古屋から竹本京枝、明治十八年(1885)には大阪から竹本東玉がそれぞれ一門をつれて上京。東京の娘義太夫は大きく発展を見せました。そうした中で明治二十年(1887)、12歳の竹本綾之助が大阪から東京へと移りデビューを果たします。声と容姿に優れた妙齢の娘が高座で奮闘する姿は世間の関心を引き、男女を問わず幅広い人気を獲得。当時のマスコミは彼女のスキャンダルを書き立て、それがまた彼女の話題性を高めたようです。綾之助が引退した後も竹本京子が美声と美貌で人気を呼びましたし、その後には豊竹呂昇や豊竹昇菊・昇之助姉妹も名声を博しました。
娘義太夫に熱中した男たちは、それぞれファンクラブ、親衛隊というべきものを結成しています。有名な所では京子ファンによる「輝京連」「花菱連」「糸成連」、小政ファンによる「羽鶴連」や住之助ファンの「喃々連」といったものがあげられます。また有名な文学者にも娘義太夫愛好者は多かったと言われています。例えば明治二十五年(1892)頃には俳人・高浜虚子が竹本小土佐に熱をあげており、弟子の河東碧梧桐『寓居日記』によれば虚子は「吾は明かに小土佐に恋せり」と言ったとか。また文豪・志賀直哉も明治三十四年(1901)、昇之助に入れあげ、毎晩のように寄席へ通ったりファンレターを送ったりしたといいます。詩人・木下杢太郎も昇菊に熱中し初めての詩集『食後の歌』で彼女の頬の輪郭は仏像より美しいなどとのたまったそうで。
ここから見る限り、娘義太夫の人気がこれほどまでに盛り上がった背景には彼女たちの色香によるところも大きいようですね。実際、山本夏彦氏は
と語っていますし、別の書物でも娘義太夫は
との評価がされています。『日本大百科全書』に至っては
と容赦がありません。要は、非モテ状態で悶々としていた若い男が彼女たちの性的魅力に惹かれて溜め込んだものを(いろんな意味で)発散していたと見られているのです。現代におけるアイドルへのファンの熱狂もそうした面があると見られていますね。そう考えると、人間というのはいつの時代も変わらないようです。まあ、何にせよ芸能活動を通じて満たされなさを抱いた人々の魂を癒していたのなら、それは素晴らしい事には違いありますまい。
とはいえ、娘義太夫やそれを愛好する男連中を問題視し嫌悪する人々も世間には多数存在しました。京子が多くの男たちを惹きつけた事から「毒婦」「悪魔」呼ばわりされています。また。ファンクラブを結成した男たちも問題視されました。彼らはしばしば興奮して煙草盆や火鉢をたたいてリズムを取ったり、上述のように「どうする、どうする」と絶叫したりした事から「どうする連」と総称されていましたが、その中から問題行動を起こす者が続出。ある者は新聞に投書して娘義太夫の芸人声明を脅かしましたし、別の人物は後援する娘義太夫が乗る人力車を後押しして周囲を迷惑がらせました。他にも前座を務める娘に手出ししたり詐欺・脅迫・暴行といった行動も多々見られたようです。
そうなるとこれを憂慮する人々が出るのも当然の流れで、明治三十一年(1898)には外山正一文相が寄席における風紀の乱れを懸念する旨のコメントを発表。更に大衆向けジャーナリスト・黒岩涙香は自身が主催する新聞『万朝報』で明治三十三年(1900)に二度にわたって娘義太夫ブームを批判しました。曰く、前途ある青年が「匹婦娘義太夫如きに狂する」のは遺憾であり「腐敗々々、青年道心の大腐敗。危険々々、社会風教の大危険」、と。またこうした風潮の中、警視庁も取締りを検討したとも言われ、娘義太夫ファンの身内はずいぶんと肩身の狭い思いをし、中には自殺する者すら出たそうです。一部の暴走によって世間から顰蹙を買うあたりも、既視感を覚える風景ですね。
明治時代は後世から理想的時代として渇仰される事も多々ありますが、その時代においてもアイドルとそれを巡る熱狂的ファンたちが騒動を起こしていたり現代と同様だったようです。人間てのは、やはりいつの時代もそうそう変わらないもののようですね。
ちなみにその後の娘義太夫ですが、二十世紀に入った辺りから人数が増えたこともあり東京だけでは商売が成り立たない娘義太夫も続出。地方で活動する者も見られるようになりますが、東京においてのような人気は得られなかったようです。やがて浪花節、更には映画などによって娯楽の地位を奪われ次第に姿を消していきました。戦後になると竹本素女の努力によって復興を果たし定期公演がなされるなど一定の活動が維持されているようです。
【参考文献】
明治大正の民衆娯楽 倉田喜弘著 岩波新書
誰か「戦前」を知らないか 山本夏彦 文春新書
日本大百科全書 小学館
関連記事:
「日本HENTAI帝国史 明治編」
「「淫祀邪教」といわれたり「キモオタ」と呼ばれたり~日本人の「聖地巡礼」今昔~」
「リアルを拒否した男たち ~現代ファンタジー創世記~ ただの現実には興味なし、僕らは仮想を創り出す」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021206.html)
そういえば、昔の記事で前近代に集団で巡礼をする人々が同様に世間から不気味がられたりした話がありましたが、前近代と現代の間をつなぐ存在と言うべき明治期においてはどうだったのでしょうか。今回はその辺りを少し見てみようかと思います。
明治期には、娘義太夫と呼ばれる女性話芸師たちが人気を博しました。義太夫というのは三味線に乗って浄瑠璃の演劇脚本を語る話芸です。女性が義太夫を語る事は徳川期からないわけではなかったようですが、芸人として一段下の存在とみられ人気もありませんでした。しかし明治十年(1877)に女性芸人が寄席に上がる事が解禁されたのを契機に東京でも音女・大吉・清花といった女性の義太夫語りが姿を見せるようになります。
明治十五年(1882)には名古屋から竹本京枝、明治十八年(1885)には大阪から竹本東玉がそれぞれ一門をつれて上京。東京の娘義太夫は大きく発展を見せました。そうした中で明治二十年(1887)、12歳の竹本綾之助が大阪から東京へと移りデビューを果たします。声と容姿に優れた妙齢の娘が高座で奮闘する姿は世間の関心を引き、男女を問わず幅広い人気を獲得。当時のマスコミは彼女のスキャンダルを書き立て、それがまた彼女の話題性を高めたようです。綾之助が引退した後も竹本京子が美声と美貌で人気を呼びましたし、その後には豊竹呂昇や豊竹昇菊・昇之助姉妹も名声を博しました。
娘義太夫に熱中した男たちは、それぞれファンクラブ、親衛隊というべきものを結成しています。有名な所では京子ファンによる「輝京連」「花菱連」「糸成連」、小政ファンによる「羽鶴連」や住之助ファンの「喃々連」といったものがあげられます。また有名な文学者にも娘義太夫愛好者は多かったと言われています。例えば明治二十五年(1892)頃には俳人・高浜虚子が竹本小土佐に熱をあげており、弟子の河東碧梧桐『寓居日記』によれば虚子は「吾は明かに小土佐に恋せり」と言ったとか。また文豪・志賀直哉も明治三十四年(1901)、昇之助に入れあげ、毎晩のように寄席へ通ったりファンレターを送ったりしたといいます。詩人・木下杢太郎も昇菊に熱中し初めての詩集『食後の歌』で彼女の頬の輪郭は仏像より美しいなどとのたまったそうで。
ここから見る限り、娘義太夫の人気がこれほどまでに盛り上がった背景には彼女たちの色香によるところも大きいようですね。実際、山本夏彦氏は
高島田に結った娘が朱房のたれた漆ぬりの見台に両手をついて、身をのりだして「さわり」になると〽そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さんと、身をもむとかんざしはゆれます、島田は乱れます、つまりエロだったのです。
(山本夏彦『誰か「戦前」を知らないか』文春新書 58頁)
と語っていますし、別の書物でも娘義太夫は
しょせん東京で持てはやされたのは、男女間の正常な交際が許されない時代にあって、数十万人の学生が青春のはけ口を求めたからにほかならない。(倉田喜弘著『明治大正の民衆娯楽』岩波新書 164頁)
との評価がされています。『日本大百科全書』に至っては
当時の聴衆は、芸の鑑賞よりも、10代から20代前半の娘たちの容貌や身ぶりに熱狂したのであり、ことに書生連中は感極まると「どうするどうする」と奇声をあげ
と容赦がありません。要は、非モテ状態で悶々としていた若い男が彼女たちの性的魅力に惹かれて溜め込んだものを(いろんな意味で)発散していたと見られているのです。現代におけるアイドルへのファンの熱狂もそうした面があると見られていますね。そう考えると、人間というのはいつの時代も変わらないようです。まあ、何にせよ芸能活動を通じて満たされなさを抱いた人々の魂を癒していたのなら、それは素晴らしい事には違いありますまい。
とはいえ、娘義太夫やそれを愛好する男連中を問題視し嫌悪する人々も世間には多数存在しました。京子が多くの男たちを惹きつけた事から「毒婦」「悪魔」呼ばわりされています。また。ファンクラブを結成した男たちも問題視されました。彼らはしばしば興奮して煙草盆や火鉢をたたいてリズムを取ったり、上述のように「どうする、どうする」と絶叫したりした事から「どうする連」と総称されていましたが、その中から問題行動を起こす者が続出。ある者は新聞に投書して娘義太夫の芸人声明を脅かしましたし、別の人物は後援する娘義太夫が乗る人力車を後押しして周囲を迷惑がらせました。他にも前座を務める娘に手出ししたり詐欺・脅迫・暴行といった行動も多々見られたようです。
そうなるとこれを憂慮する人々が出るのも当然の流れで、明治三十一年(1898)には外山正一文相が寄席における風紀の乱れを懸念する旨のコメントを発表。更に大衆向けジャーナリスト・黒岩涙香は自身が主催する新聞『万朝報』で明治三十三年(1900)に二度にわたって娘義太夫ブームを批判しました。曰く、前途ある青年が「匹婦娘義太夫如きに狂する」のは遺憾であり「腐敗々々、青年道心の大腐敗。危険々々、社会風教の大危険」、と。またこうした風潮の中、警視庁も取締りを検討したとも言われ、娘義太夫ファンの身内はずいぶんと肩身の狭い思いをし、中には自殺する者すら出たそうです。一部の暴走によって世間から顰蹙を買うあたりも、既視感を覚える風景ですね。
明治時代は後世から理想的時代として渇仰される事も多々ありますが、その時代においてもアイドルとそれを巡る熱狂的ファンたちが騒動を起こしていたり現代と同様だったようです。人間てのは、やはりいつの時代もそうそう変わらないもののようですね。
ちなみにその後の娘義太夫ですが、二十世紀に入った辺りから人数が増えたこともあり東京だけでは商売が成り立たない娘義太夫も続出。地方で活動する者も見られるようになりますが、東京においてのような人気は得られなかったようです。やがて浪花節、更には映画などによって娯楽の地位を奪われ次第に姿を消していきました。戦後になると竹本素女の努力によって復興を果たし定期公演がなされるなど一定の活動が維持されているようです。
【参考文献】
明治大正の民衆娯楽 倉田喜弘著 岩波新書
誰か「戦前」を知らないか 山本夏彦 文春新書
日本大百科全書 小学館
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「日本民衆文化史」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021206.html)
by trushbasket
| 2013-05-11 23:23
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