日本人のセックスレスの背後にあるかもしれない文化的事情~日本人と肉体忌避~
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関連サイト:
「AllAbout」(http://allabout.co.jp/)より
「セックス負け国! 世界最低のsex回数の理由」(http://allabout.co.jp/gm/gc/64768/)
回数だけでなく、セックスを重視する人の割合や満足度も低いようですね。世界に冠するhentai国家であるはずなのに、これはどうしたことでしょうか。要因は色々とあるのでしょうけれど、今回は歴史的に日本人の性質を振り返ってこうした現象における背後事情を見てみたいと思います。
演出家・鴨下信一氏は昭和20年代後半の映画事情を振り返り、「挙げてある外国女優には<肉体>があった。日本映画にはそれがなかった。」(鴨下信一『誰も「戦後」を覚えていない[昭和20年代後半篇]』文春新書 197頁)と述べています。何でも、外国映画は肉体の直接的な描写がふんだんにあったのに対し、日本映画は間接的な描写やチラリズムが中心であり性的興奮の対象としては「代用品」というべき存在だったとか。ちなみに、当時流行した「代用品」には映画の他に女剣劇もありました。女剣劇とは股旅物のヒーロー役を女性が演じる形式の演劇です。クライマックスにおける立ち回りになると、主人公の女優は裾を尻からげにするため白い太腿と肌着が丸見えになったといわれています。で、ヒロインは悪役たちを切り倒し、倒した男の背中に足をかけて見得を切るのが通例でしたが、それも倒錯的な魅力があったそうで。ちなみに、この女剣劇を通じて台頭した中には大江美智子・不二嶺子・筑波澄子・朝香光代といった錚々たる面々もいたとか。
閑話休題、こうした風潮を総括して鴨下氏曰く、「この代用品で興奮することが、日本人は巧いのだ」(同書 198頁)と。してみると、日本人は肉体への直接的な関心は比較的薄いのかもしれません。もっとも、肉体描写が直接的な外国映画もそれはそれで人気があったようですから一概には言えないのかもですが。
そういえば、食品の嗜好という面から見ても、牛乳の生々しさを嫌ってバターよりマーガリン、コーヒーミルクより植物油のコーヒーフレシュを好む傾向がある可能性をパオロ・マッツァリーノ氏が指摘していた記憶が。直接関係のない話ではありますが、生々しさを嫌って「代用品」のはずのものを積極的に選ぶという点では通じるものがあるかも。
さて、こうした傾向は昔からのようで、徳川期の春画においても肉体より髪型・衣装で性差を表す傾向があったと言われています。性器を殊更に巨大に描いたのはその裏返しであり、そうしないと男女の区別がつきにくいからだとか。
言語学的な視点から見ても同様な傾向は見出せるようで、国語学者・金田一春彦氏によれば日本人は昔から肉体を直接表す言葉を用いるのを避ける向きがあったとか。例えば『古今集』『新古今集』では「目」「鼻」「手」「足」といった語彙がほとんど見られず、文学でも人物を顔立ち・身体的特徴ではなく装束で描く傾向があるそうです。そういえば、恋愛ばかり扱っているはずの王朝文学も(例外はあるものの)直接的な行為について触れる事は少ないようですね。もっともこれも時代や社会階層によって差があるようですが。『万葉集』は割合肉体への描写があった気もしますし。
そういえば現代日本語でも身体部位を区別する単語が大雑把な傾向があるようで、armもhandも日本語では「て」ですしlegもfootも日本語では「あし」です。身体部位を用いた慣用句はそれなりにありますが、「大手を振る」「小膝を叩く」のように殊更に接頭語を付ける事も多々あり、これも肉体を意味する言葉を直接口にする事を避ける心理が働いた結果ではないかと見る向きがあるようです。
以上から見ると、日本人は肉体そのものへの忌避傾向が少なくとも一部にはあって、それが現代ではセックスレスの一要因になっている可能性を感じます。一方、肉体の代用品で興奮する性癖が、hentaiクオリティを高めている面もあるのではないでしょうか。そんな気がする話でした。
【参考文献】
誰も「戦後」を覚えていない[昭和20年代後半篇] 鴨下信一 文春新書
春画 片手で読む江戸の絵 タイモン・スクリーチ 高山宏訳 講談社選書メチエ
日本語(上)(下) 金田一春彦著 岩波新書
新訂新訓万葉集(上)(下) 佐佐木信綱 岩波文庫
パオロ・マッツァリーノの日本史漫談 パオロ・マッツァリーノ 二見書房
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直接的に性器に言及する事例もないわけではないようで。