2013年 09月 07日
外交において「名を捨て実を取ろう」とした際の名目関係の問題~義満以降の日明貿易について~
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前回、外交において名と実のいずれかを捨てねばならぬ場合に君主・首脳たちはどうしたかという話をしました。戦乱後の体制においてかつての敵とどう関係を保つかという課題に苦心した人々の話を、『戦後復興首脳列伝』から題材をとって。
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今回、それに関連する話題として日中関係で日本が「名を捨て実をとった」とされる日明貿易を見てみましょう。中国は伝統的に日本を属国として見ていましたし、日本も日本で昔から中国と対等な関係だったと(少なくとも自分達では)考えてきましたから古来からややこしさをはらんだ関係だといえます。ましてや今は、中国との関係が領土問題も絡んでいますし、最近は好調な中国に対し停滞気味な我が国はどう接するべきかも難しい問題。日明貿易を振り返ってみるのもムダではないかもしれません。
日本を60年にわたり分裂に陥れた南北朝の動乱も終わって足利政権が安定期に入った十四世紀末から十五世紀初頭、時の最高権力者・足利義満が明(当時の中国における統一王朝)と国交関係を持って貿易を行い大きな利益を得た事は知らない人はほとんどいないと思われます。また義満がこの際に明に対し臣下の礼をとり、「日本国王」の号を貰った事も広く知られています。これに対しては当時から国辱として強い批判があり、義満の後を継いだ義持はこれを理由として一旦日明貿易を取りやめています。これを、体面に拘って実際的な利益や国際関係を損なったと後世の目で批判する事は簡単です。しかし、それですむ問題ではないように思います。
結論から言うと、義満が外交的に「名を捨て実を取った」事それ自体には合理的な理由があったと言えます。というのは、この時代に中国と国交を持つ場合は朝貢という形をとる必要がありましたし、特に明の場合は海賊に悩まされて海外交易を厳しく制限していましたから交易するには正式な国交を持たねばなりませんでした。したがって、義満が明に臣下の礼を取る事自体は国交を認められるために必要でしたし、「日本国王」の称号を受ける事も外交権を保有していると明に認識させるため必須でした。事実、義満は当初「征夷将軍源義満」という名義で使者を送っていますが傲慢として受け入れられていません。まあ、交易しないというのも一つの選択肢ではあるのですが、財政基盤の弱い足利政権には貿易による利益は魅力的でしたし、南北朝動乱が終結したとは言え国内の安定に不安要素を残している以上は中国を無視して元寇の二の舞は避けたいところした。そして、そこまで行かなくとも、貿易の利益を求めた有力地方勢力が「日本国王」を僭称して中国から日本代表と認識されると再分裂の要因になり得るという意味で面倒です。事実、九州を一時期支配していた南朝の懐良親王が明から「日本国王良懐」と称され日本の正統な主権者として認定された経緯があります。懐良が明との関係を受け入れた前例を鑑みると、今後も足利政権に敵対する地方勢力が中国の援助を受け中央政府と対抗を図る危険性がありました。実際、九州の島津氏が「日本国王良懐」を称して勝手に中国に使者を送ったりしています。こうした状況がある以上、国内の統一という面から言っても、義満は中国と正式な国交を開いて正統な日本の主権者と認識される必要があったのです。それを考えると、この場合には「名を取る」のが難しい以上、義満の選択自体は止むを得なかったと見ることもできるでしょう。
とはいえ、やはりこの時の義満のように外交で「名を捨て」た事をあからさまに露呈するかのような行動は問題がありました。貿易の利が大きいにもかかわらず彼の死後に一時的に遣明使が中断したのが何よりの証拠。何しろ自国の名誉が外交で傷つけられたと感じたら反発する向きがでるのは当然の反応でしょうから、場合によっては政敵に攻撃の口実を与える原因にすらなりかねません。この場合、実際に日明外交に関与した禅僧・瑞渓周鳳も『善隣国宝記』で「臣」を称する事、「王」を自称する事、明の元号を用いる事を批判しているくらいですから、外部の人間からの反発はそれどころではなかったと考えるべきでしょう。それに、外交は必ずしも二国間だけの問題とは限りませんから、第三者が「名を捨て」た側に付け入ってくる可能性も考慮するべきでしょうし。まあ、この時はそんな事態は生じなかったようですが。
そう考えると、「名を捨て」ざるを得なかった場合でも捨てていないように見せかける事は必要なのではないかと思います。たとえ「名を捨て」てでも実を取る事に意味や必要性がある場合ですら、国内的なアイデンティティーや譲れない建前に関わるものであれば拒絶されるのは珍しくないのですから。
上述のように国内からの批判が強く中断した日明貿易ですが、貿易の利益という魅力は大きかったのか、第六代将軍・義教の時代に明との国交を再開する事になります。この際、明に対する姿勢をどうするかが問題になりました。以前のように従属関係でいく事には国内からの反発が出るのが予想されますからね。仮に従属関係をとらざるを得ない場合には、国内向けにどう釣り合いを取るかも問題でした。これを義教時代の足利政権はどう処理したのでしょうか。
足利政権が再び明使節を迎えてこれを接待したのは永享六年(1434)のことでした。この際、基本的に義満時代しか前例がありませんが、明からの国書を見るときにどうするかが問題になりました。義満はこの時に華美を尽くし北山殿寝殿の母屋の前に「高机」を立て上に明からの国書を置き焼香して三拝し跪いて拝見したとか。これをそのまま受け入れることは日本側として問題がありますが、前例として存在する以上無視するわけにはいきません。そこで、義教のブレーンであった満済は義満時代の例を参考にしながらも寝殿に机を立て国書を置くだけに簡略化することで乗り切ろうとします。また、国書を拝礼するのが国辱であるという問題に対しても、満済は将軍が「日本国王」ではないという理屈によって大臣以下が他国の国書に「焼香・二拝」する外交儀礼に準じれば問題ないと判断。あくまで天皇の臣下が、外国への敬意によって国書に拝礼するという形で国内的な反発を封じ込めようとした訳ですね。
一方、日本からの返書をどうするかも問題でした。義満は「日本国王」と自署し中国の年号を記していましたが、これも天皇への不敬や国辱という問題がありました。これに関しても満済は、義満が既に「日本国王」と署名した以上はこれを変えると義満が虚言を吐いた事になるとして敢えて「日本国王」の署名を継続。年号についても今回は明の年号を用いるが、今後は日本が「神国」であるため日本の年号を用いるという内容の書を別に付けるという案を出しています。ただし、それ以降の日本からの国書がどうしたかについては分かっていないようです。
ただ、それ以後の遣明使に関して言える事として、相手国と対等な意識で臨もうという気概はあったらしい事が挙げられます。雪舟が渡航した際の使節団一行が寧波に到着した際、随員の一人が明人を傷害する事件が起こりました。明の当局者は明の法律で処刑しようとしましたが、日本側の正使・天与清啓は「まさに本国(日本)の刑を用ふべし」と主張して譲らず最終的には明の皇帝の勅によって無罪になったとか。これに関して、歴史学者・松本新八郎氏は
と高く評価しています。松本氏がマルクス主義・唯物史観の影響を強く受けた人物である事を考えると、日本が対中外交で対等な関係を求め強い態度に出た事を高く評価しているのは興味深い思いをさせられます。
さて義満以降の日明関係をまとめると、基本的に義満の前例を踏襲しながらも(国内的に)問題ある部分は適宜変えているようです。特に将軍が「日本国王」であるか否かについては国内と国外で使い分けて対応しています。ちなみに満済はその日記で「王位」という言葉を天皇の位という意味で用いており本音では「日本国王」は天皇であるという立場だったようです。外面と本音を別にする事で双方の(国内的な)対面が立つように計らったという点で、なかなか見事といえます。
一般的に、我が国は聖徳太子以来、中国王朝に臣下の礼をとらなかったとされています。ただし、外交現場を見る限り実際問題としては怪しいようです。例えば遣唐使は対等な国交関係という事に国内的にはなっているものの、実際には新年の各国使節が皇帝に謁見する儀式に間に合うよう日程調節して渡航しており事実上は朝貢使節であったと考えるのが妥当だとか。
そう考えると、国内と国外で態度の違う外交は満済の発明ではなく我が国の伝統だったわけですね。それにのっとって玉虫色を交えながら日明両国の対面が立つようにした満済は外交的に中々のやり手であったといえます。
もっとも、日本以外でも似たような事例はあるようで。例えば清にタイが朝貢した時には、黄金板にタイ語で書かれた国書と別の国書を用意していました。うち、黄金板には両国を対等関係とみなした文章が書かれていましたが、清側は献上品として鋳溶かしてしまうため証拠は隠滅される仕組みだったそうです。国内向けの「対等関係」と国外向けの「朝貢関係」をこうして両立させていたわけですね。
以上から、日明貿易を生んだのは義満ですがが育てたのは満済といえるかも知れない、という結論が出ました。そしてそれは決して彼の独創ではなく遠い先祖が(実務レベルで)培った智恵を活用したものだったのです。まあ、この手の工作は露見すると問題になりますし現代ではすぐにばれるでしょうからそのまま参考にするわけにはいかないでしょうけどね。
ここで少しだけ義満を弁護しておくと、彼も国内外で顔を使い分ける事でこの手の問題への対処をしなかった訳ではない、という説もあるようです。明への国書に書かれた「日本国王臣源道義」という署名は「日本国王」である「臣・源道義」と通常は読みますし明側にもそう読ませたようですが、国内向けには「日本国」の「王臣」(天皇の臣下)である「源道義」と読ませたのではないかという話も。真偽は不明ですが、だとすれば彼も伝統的な手法に倣おうとはしたのかもしれません。
外交において、時には名を捨て実をとる必要性が出る事は確かにありえる話です。それでも、外交はしばしば国内情勢にも左右されますし、名を捨てる事でそれ以外の国との力関係に影響が出るという問題も生じます(外交は当面の相手との二国間だけで完結する事はむしろまれですし)。ですから、名を捨てざるを得なかった際も、ただ単純にそのままにするのではなく体面や面子に関して何らかのフォローが必要なことが多々あるし、何とか相手と対等な関係を持とうという心構えは捨てるべきではない。そうした教訓が日明貿易からは読み取れるのではないかと思います。
あと、「名を捨てた」事で相手に建前上の強みを与えた訳ですから、実をも失うことがないよう細心の注意が必要になるのも言うまでもありません。
【参考文献】
満済 森茂暁 ミネルヴァ書房
遣唐使船 東野治之 朝日選書
中世日本の内と外 村井章介 筑摩文庫
日本史探訪8南北朝と室町文化 角川文庫
偽りの外交使節 室町時代の日朝関係 橋本雄 吉川弘文館
トンデモニセ天皇の世界 原田実 文芸社
関連記事:
「【『戦後復興首脳列伝』出版記念】旧敵との落とし前の付け方~名を取るか、実を取るか~」
「神国日本のしょんぼりナショナリズムと鬼子・第六天魔王信長」
「三国志の時代と日本」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「遣唐使~その歴史的経緯と役割~」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2003/030418.html)
義満が最高権力者であった時代において、朝廷では後小松天皇が皇室の生き残りをかけて苦闘の日々を送っていました。興味のある方は社会評論社『戦後復興首脳列伝』を御参照いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。
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今回、それに関連する話題として日中関係で日本が「名を捨て実をとった」とされる日明貿易を見てみましょう。中国は伝統的に日本を属国として見ていましたし、日本も日本で昔から中国と対等な関係だったと(少なくとも自分達では)考えてきましたから古来からややこしさをはらんだ関係だといえます。ましてや今は、中国との関係が領土問題も絡んでいますし、最近は好調な中国に対し停滞気味な我が国はどう接するべきかも難しい問題。日明貿易を振り返ってみるのもムダではないかもしれません。
日本を60年にわたり分裂に陥れた南北朝の動乱も終わって足利政権が安定期に入った十四世紀末から十五世紀初頭、時の最高権力者・足利義満が明(当時の中国における統一王朝)と国交関係を持って貿易を行い大きな利益を得た事は知らない人はほとんどいないと思われます。また義満がこの際に明に対し臣下の礼をとり、「日本国王」の号を貰った事も広く知られています。これに対しては当時から国辱として強い批判があり、義満の後を継いだ義持はこれを理由として一旦日明貿易を取りやめています。これを、体面に拘って実際的な利益や国際関係を損なったと後世の目で批判する事は簡単です。しかし、それですむ問題ではないように思います。
結論から言うと、義満が外交的に「名を捨て実を取った」事それ自体には合理的な理由があったと言えます。というのは、この時代に中国と国交を持つ場合は朝貢という形をとる必要がありましたし、特に明の場合は海賊に悩まされて海外交易を厳しく制限していましたから交易するには正式な国交を持たねばなりませんでした。したがって、義満が明に臣下の礼を取る事自体は国交を認められるために必要でしたし、「日本国王」の称号を受ける事も外交権を保有していると明に認識させるため必須でした。事実、義満は当初「征夷将軍源義満」という名義で使者を送っていますが傲慢として受け入れられていません。まあ、交易しないというのも一つの選択肢ではあるのですが、財政基盤の弱い足利政権には貿易による利益は魅力的でしたし、南北朝動乱が終結したとは言え国内の安定に不安要素を残している以上は中国を無視して元寇の二の舞は避けたいところした。そして、そこまで行かなくとも、貿易の利益を求めた有力地方勢力が「日本国王」を僭称して中国から日本代表と認識されると再分裂の要因になり得るという意味で面倒です。事実、九州を一時期支配していた南朝の懐良親王が明から「日本国王良懐」と称され日本の正統な主権者として認定された経緯があります。懐良が明との関係を受け入れた前例を鑑みると、今後も足利政権に敵対する地方勢力が中国の援助を受け中央政府と対抗を図る危険性がありました。実際、九州の島津氏が「日本国王良懐」を称して勝手に中国に使者を送ったりしています。こうした状況がある以上、国内の統一という面から言っても、義満は中国と正式な国交を開いて正統な日本の主権者と認識される必要があったのです。それを考えると、この場合には「名を取る」のが難しい以上、義満の選択自体は止むを得なかったと見ることもできるでしょう。
とはいえ、やはりこの時の義満のように外交で「名を捨て」た事をあからさまに露呈するかのような行動は問題がありました。貿易の利が大きいにもかかわらず彼の死後に一時的に遣明使が中断したのが何よりの証拠。何しろ自国の名誉が外交で傷つけられたと感じたら反発する向きがでるのは当然の反応でしょうから、場合によっては政敵に攻撃の口実を与える原因にすらなりかねません。この場合、実際に日明外交に関与した禅僧・瑞渓周鳳も『善隣国宝記』で「臣」を称する事、「王」を自称する事、明の元号を用いる事を批判しているくらいですから、外部の人間からの反発はそれどころではなかったと考えるべきでしょう。それに、外交は必ずしも二国間だけの問題とは限りませんから、第三者が「名を捨て」た側に付け入ってくる可能性も考慮するべきでしょうし。まあ、この時はそんな事態は生じなかったようですが。
そう考えると、「名を捨て」ざるを得なかった場合でも捨てていないように見せかける事は必要なのではないかと思います。たとえ「名を捨て」てでも実を取る事に意味や必要性がある場合ですら、国内的なアイデンティティーや譲れない建前に関わるものであれば拒絶されるのは珍しくないのですから。
上述のように国内からの批判が強く中断した日明貿易ですが、貿易の利益という魅力は大きかったのか、第六代将軍・義教の時代に明との国交を再開する事になります。この際、明に対する姿勢をどうするかが問題になりました。以前のように従属関係でいく事には国内からの反発が出るのが予想されますからね。仮に従属関係をとらざるを得ない場合には、国内向けにどう釣り合いを取るかも問題でした。これを義教時代の足利政権はどう処理したのでしょうか。
足利政権が再び明使節を迎えてこれを接待したのは永享六年(1434)のことでした。この際、基本的に義満時代しか前例がありませんが、明からの国書を見るときにどうするかが問題になりました。義満はこの時に華美を尽くし北山殿寝殿の母屋の前に「高机」を立て上に明からの国書を置き焼香して三拝し跪いて拝見したとか。これをそのまま受け入れることは日本側として問題がありますが、前例として存在する以上無視するわけにはいきません。そこで、義教のブレーンであった満済は義満時代の例を参考にしながらも寝殿に机を立て国書を置くだけに簡略化することで乗り切ろうとします。また、国書を拝礼するのが国辱であるという問題に対しても、満済は将軍が「日本国王」ではないという理屈によって大臣以下が他国の国書に「焼香・二拝」する外交儀礼に準じれば問題ないと判断。あくまで天皇の臣下が、外国への敬意によって国書に拝礼するという形で国内的な反発を封じ込めようとした訳ですね。
一方、日本からの返書をどうするかも問題でした。義満は「日本国王」と自署し中国の年号を記していましたが、これも天皇への不敬や国辱という問題がありました。これに関しても満済は、義満が既に「日本国王」と署名した以上はこれを変えると義満が虚言を吐いた事になるとして敢えて「日本国王」の署名を継続。年号についても今回は明の年号を用いるが、今後は日本が「神国」であるため日本の年号を用いるという内容の書を別に付けるという案を出しています。ただし、それ以降の日本からの国書がどうしたかについては分かっていないようです。
ただ、それ以後の遣明使に関して言える事として、相手国と対等な意識で臨もうという気概はあったらしい事が挙げられます。雪舟が渡航した際の使節団一行が寧波に到着した際、随員の一人が明人を傷害する事件が起こりました。明の当局者は明の法律で処刑しようとしましたが、日本側の正使・天与清啓は「まさに本国(日本)の刑を用ふべし」と主張して譲らず最終的には明の皇帝の勅によって無罪になったとか。これに関して、歴史学者・松本新八郎氏は
これなんかにも、この当時の日本人の健全な時代精神を感じますね。
海外文化の摂取にしても、外交折衝にしても、主体的な精神を持ち続けたところに、この時代の日本人の進取の精神があります。これは、自由と平和を愛した農民や市民たちの精神でもあったのでしょうね。(『日本史探訪8南北朝と室町文化』角川文庫 249頁)
と高く評価しています。松本氏がマルクス主義・唯物史観の影響を強く受けた人物である事を考えると、日本が対中外交で対等な関係を求め強い態度に出た事を高く評価しているのは興味深い思いをさせられます。
さて義満以降の日明関係をまとめると、基本的に義満の前例を踏襲しながらも(国内的に)問題ある部分は適宜変えているようです。特に将軍が「日本国王」であるか否かについては国内と国外で使い分けて対応しています。ちなみに満済はその日記で「王位」という言葉を天皇の位という意味で用いており本音では「日本国王」は天皇であるという立場だったようです。外面と本音を別にする事で双方の(国内的な)対面が立つように計らったという点で、なかなか見事といえます。
一般的に、我が国は聖徳太子以来、中国王朝に臣下の礼をとらなかったとされています。ただし、外交現場を見る限り実際問題としては怪しいようです。例えば遣唐使は対等な国交関係という事に国内的にはなっているものの、実際には新年の各国使節が皇帝に謁見する儀式に間に合うよう日程調節して渡航しており事実上は朝貢使節であったと考えるのが妥当だとか。
そう考えると、国内と国外で態度の違う外交は満済の発明ではなく我が国の伝統だったわけですね。それにのっとって玉虫色を交えながら日明両国の対面が立つようにした満済は外交的に中々のやり手であったといえます。
もっとも、日本以外でも似たような事例はあるようで。例えば清にタイが朝貢した時には、黄金板にタイ語で書かれた国書と別の国書を用意していました。うち、黄金板には両国を対等関係とみなした文章が書かれていましたが、清側は献上品として鋳溶かしてしまうため証拠は隠滅される仕組みだったそうです。国内向けの「対等関係」と国外向けの「朝貢関係」をこうして両立させていたわけですね。
以上から、日明貿易を生んだのは義満ですがが育てたのは満済といえるかも知れない、という結論が出ました。そしてそれは決して彼の独創ではなく遠い先祖が(実務レベルで)培った智恵を活用したものだったのです。まあ、この手の工作は露見すると問題になりますし現代ではすぐにばれるでしょうからそのまま参考にするわけにはいかないでしょうけどね。
ここで少しだけ義満を弁護しておくと、彼も国内外で顔を使い分ける事でこの手の問題への対処をしなかった訳ではない、という説もあるようです。明への国書に書かれた「日本国王臣源道義」という署名は「日本国王」である「臣・源道義」と通常は読みますし明側にもそう読ませたようですが、国内向けには「日本国」の「王臣」(天皇の臣下)である「源道義」と読ませたのではないかという話も。真偽は不明ですが、だとすれば彼も伝統的な手法に倣おうとはしたのかもしれません。
外交において、時には名を捨て実をとる必要性が出る事は確かにありえる話です。それでも、外交はしばしば国内情勢にも左右されますし、名を捨てる事でそれ以外の国との力関係に影響が出るという問題も生じます(外交は当面の相手との二国間だけで完結する事はむしろまれですし)。ですから、名を捨てざるを得なかった際も、ただ単純にそのままにするのではなく体面や面子に関して何らかのフォローが必要なことが多々あるし、何とか相手と対等な関係を持とうという心構えは捨てるべきではない。そうした教訓が日明貿易からは読み取れるのではないかと思います。
あと、「名を捨てた」事で相手に建前上の強みを与えた訳ですから、実をも失うことがないよう細心の注意が必要になるのも言うまでもありません。
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「神国日本のしょんぼりナショナリズムと鬼子・第六天魔王信長」
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by trushbasket
| 2013-09-07 21:05
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