2013年 09月 29日
インカ帝国の成立から滅亡まで~インカ帝国史を概説してみる~
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このブログでユーラシア大陸周辺以外を取り上げる機会は、あまりないように思います。そこで今回は、インカ史を概観する事にいたします。
まず、モンゴロイド人種がアンデス周辺に住み着いたのは約一万年前まで遡るそうです。そして、彼らは紀元前2500年前後には石器文化を発達させ紀元前1200年頃に土器や装飾品を作る文化に発展、トウモロコシの栽培もこの時期から始まったんだとか。そして紀元前1150年頃にアマゾン上流で宝石細工や土器の華麗さで知られるチャビン文化が生まれ、更に紀元前六世紀には南米北部に土器で知られるモチーカ文明が、南には地上絵で知られるナスカ文明が生まれました。まとまった都市文明が生まれたのは六世紀であり、宗教都市を中心に栄えたティアワナコ文化が周辺に広がりました。その後も、北にチャンチャンを都とするチムー帝国、西にクイスマンク帝国、更にチゥキマンク帝国やチンチャ帝国が成立していたようです。
インカが成立したのは1200年前後といわれ、当時はインカ部族を中心とする中央アンデスの一地方国家に過ぎなかったようです。冒頭で言及した建国者マンコ・カパックはその実在が証明されておらず伝説上の人物といえますが、その事跡については長らく人々により語り継がれています。
クスコ東南28kmの位置にパカリ・タンプ(下の宿場)という土地があってそこにタンプ・トコ(窓の宿場)と呼ばれた三つの穴があったとか。で、その中央の穴からマンコ・カパックと三人の兄弟・四人の姉妹が現れ、両側の穴から出た10の氏族と共にクスコを目指したそうです。何だか我が国の神武東征神話に似ていますね。さて、その過程でマンコは妹の一人であるママ・オクヨを妻に迎え第二代皇帝となるシンチ・ロカを得、また兄弟アヤル・カチが乱暴であったため騙して殺害したりもう一人の弟は留まって石になったりでマンコだけが男兄弟では残ったとか。そういえば、神武東征でも神武の兄が苦戦を強いられる中で命を落としています。神話というのはやはり類似性を持つものなんでしょうな。それはさておき、マンコらはクスコの東に定住し、トウモロコシやラーマ(家畜)のための土地を求めて旧住民を追い払って太陽の神殿を建てたそうです。他、もう一つの神話としてチチカカ湖の太陽の島で生まれたマンコらはクスコへやってきて文明に目覚めていなかったインカの人々に農耕・織物を教えたという話もあります。
首都クスコの王廟にミイラが残っているのは第二代のシンチ・ロカからであるとされます。しかし長らくインカはクスコ周辺数km程度を支配するに過ぎない部族国家でしかなく、チャンカ族を始めとする周辺部族に脅かされる弱小勢力でした。例えば第七代ヤワル・ワカは少年時代に近隣のアヤマルカにおいて人質生活を余儀なくされていたのです。
インカが一部族国家から脱する契機となったのが十四世紀後半に在位したとされる第八代アツン・ツパック・インカの時代で、それまでは周辺に攻め入っては引き上げるに留めていた軍事活動を改め周辺地域を組織的に征服するようになりました。十五世紀半ばの第九代パチャクチは宿敵チャンカ族と激しく戦い、時には首都クスコが危うくなった事もあったものの北方へ進出しキト(現エクアドル首都)まで勢力を伸ばすと共にチムー帝国を吸収しリマ市周辺までを支配するにいたります。その子トパ・インカも有能な軍事指導者であり、チチカカ湖周辺の高地や東方ボリビア、北チリまでを征服するとともに内政面でも族長制を改め集権的な行政組織を確立したのです。インカの領地が最大となったのは十六世紀前半のワイナ・カパックの時代であり面積は十万平方kmで南北四千kmに及びました。しかし彼の死後、帝国は嫡男ワスカルと庶子ながら軍才に長じたアタワルパの内紛に突入し混乱します。更に、スペイン人はこの時期既に南米大陸に拠点を築きつつあり、インカを征服する事になるフランシスコ・ピサロが手勢を率いて領内に侵入を始めたのはアタワルパがワスカルを破り帝位を簒奪したまさにそのときの事だったのです。
さて、インカ滅亡について語る前に帝国の統治制度について少し話しておきましょう。インカ社会は母系的氏族(アイユウ)を基本的な単位としており、人々はアイユウ内部で婚姻し住民のアイユウ間での移動は少なかったそうです。なので、行政もこのアイユウを考慮に入れたものとなりました。国土を四つの地方(スウユ)に分けてそれぞれに長官を置き、更に県(ワマン)そしてその下の郡(サヤ)を設置して県長官の下にクラカと呼ばれる被征服部族の旧貴族を役人として任命しました。クラカは一万人長から百人長まで支配人数に差があるものの、その下にいくつかのアイユウがおかれたのです。時にアイユウ内部に五十人長・十人長がおかれる事もありました。このクラカやその下のアイユウが軍隊における下部組織でもあったとか。人々の労働は皇帝と太陽の土地に対する労働と賦役(公共工事、兵役)に大きく分けられました。また、共有牧場でラーマを飼育するのも重要な仕事でした。ラーマは運送に用いるだけでなく乳や毛を役立てる重要な家畜だったのです。また、租税として取り立てた農作物等を管理し、不足する地域に相互に国家の責任により流通させてもいました。例えば山間部で栽培されたトウモロコシやジャガイモを海岸地域に輸送し、海岸から魚介類・染料・果実を山岳地帯に送る事により各地域の物資不足に対応したのです。また、未亡人や孤児の生活を国家が保障するという制度もありました。インカ帝国はこのように高度な統制経済を採用しており、「社会主義的帝国」と評した学者も後世には存在したほどでした。このような政策を可能にしたのが組織化された行政組織であり、各地に張り巡らされた道路網でした。政府は各地方に巡察使を派遣して監視すると共に、征服した部族は移住させ再配置する事によって反乱を防いでいました。そして彼らの支配層をクラカとして帝国支配層に組み入れていたのは上述したとおりです。また、アイユウから優れた人物がいればユナコーナとして徴発し皇帝や貴族の奴隷として採用しました。彼らの中には主に取り立てられ地方官吏となる者も稀ではなかったのです。女性も同様にアクセフープとして美しい処女が選ばれ生贄とされたり皇帝の側室になるほか太陽神に仕える巫女となったりもしたそうです。インカでは覇権確立前後から(初代マンコの先例に倣ってでしょうか)皇帝の姉妹が后に立つのが通例となっていたようですが、実際に後継者を産むのはこうした女性たちであったとか。
一通り帝国の制度について語ったので、インカ滅亡の話に入りましょう。1532年、スペイン人フランシスコ・ピサロは黄金豊かな大帝国インカの情報を手に入れ、二百人弱の兵士を率いて帝国領内に入り込みました。ピサロは味方の数が少ないため現地民の案内人を立てて情報収集に努めると共に、現地住民を刺激しないようにして奥地へと進みました。皇帝アタワルパも早い段階から彼らの情報はつかんでいたものの、内乱が終わって間もなく事を荒立てて混乱を再発させるのを避けた(インカには白い肌の太陽神ビラコチャの伝説があり、ワスカル残党にはピサロらを神の使いとして期待する向きもあったようです)のと、珍しい白い人間を見てみたいという好奇心もあり手出しは避けていました。かくしてピサロはインカ中枢へ入るのに成功し、アタワルパと会見する約束を取り付けます。会見の席でピサロは隙をついて皇帝を捕えると共にその随伴者たちを殺害しクーデターに成功。「神の子」である皇帝を捕えられた帝国は、皇帝を押えたスペイン人たちの支配下にあっさりと入る事になります。ピサロはインカを支配し収益を上げる上で皇帝を傀儡として利用する事が得策と考えたためしばらくはアタワルパを帝位に残していました。しかし、アタワルパが混乱に乗じてワスカルを暗殺するなど蠢動し、更に不穏分子が皇帝を奪回しようとするなど危険な動きがあったためピサロは皇帝を処刑したのです。その後もピサロはアタワルパの弟を傀儡皇帝として擁立していましたが、やがて皇帝マンコ(彼もアタワルパの弟にあたります)が首都クスコを脱出してスペイン人たちに反乱し、山間部のビルカバンバ地方ビトコスを拠点として抵抗を続けました。一時は皇帝の威光によりマンコ軍は優勢に立ちましたが、スペイン人達は旧インカ帝国の行政組織を吸収して支配体制を確立しつつあり次第に劣勢となっていきました。インカは内紛に陥ったスペイン人を味方に付けるなどして抵抗しましたが、そのスペイン人によりマンコが暗殺されます。インカはその後もマンコの子ティトゥ・クシが抵抗を続けますが劣勢は覆いがたく、その弟トゥパック・アマルの時代に皇帝らが捕えられ1572年に処刑されました。こうしてインカは歴史上から消滅し南米は西洋文明によって征服されるに至りましたが、その後もトゥパック・アマルの名は現地民に英雄として語り継がれ、民族運動のシンボルとなるに至ります。1996年にペルー日本大使館で人質事件を起こした武装組織が彼の名を冠していたのは記憶に新しいかと思います。
外部からの侵略者によって、紡ぎ続けてきた歴史を絶頂期において突如断ち切られた帝国インカ。しかしその名は後の世に神秘的な響きで人々を魅了すると共に、南米先住民にとっての誇りであり心の支えであり続けたのです。
【参考文献】
インカ帝国 泉靖一著 岩波新書
インカ帝国探検記 増田義郎 中公文庫
現代のエスプリ アステカとインカ 編集・解説 増田義郎 至文堂
カラー版インカを歩く 高野潤著 岩波新書
インカ帝国史 シエサ・デ・レオン 増田義郎訳 岩波文庫
インカ帝国地誌 シエサ・デ・レオン 増田義郎訳 岩波文庫
古事記 倉野憲司校注 岩波文庫
関連発表:
「【世界史最強女性武将 ベスト10 ~地球最強の女達~」
「「民族英雄考―楠木正成と諸国の英雄たち―」補足その2~民族英雄になるための簡単(?)な方法~」
「超三大陸周遊記 ~アトランティス、ムー、レムリアのお話~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
残念ながら、インカを扱った発表はありません。ただ、
「後醍醐天皇」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/010706.html)
スペイン人侵入後のインカ勢力の抵抗が「後南朝」とダブる気がします。
関連サイト:
「ブラジル・南米旅行のウニベルツール 南米大辞典」(http://www.univer.net/index.html)より
「地球がわかる南米の旅~インカ帝国」(http://www.univer.net/1_nanbei/0004_1.html)
「ようこそ!!浅川嘉富の世界へ」(http://www.y-asakawa.com/index.html)
クスコなどインカ関連の遺跡も多く訪れています。
「a Black Leaf」(http://blog.livedoor.jp/textsite/)より
「そんなに玉ねぎ食べてインカ帝国!? 「孤独のグルメ」 ペルー料理編」(http://blog.livedoor.jp/textsite/archives/51016212.html)
トゥパック・アマルの妻は、彼を実務面・軍事面で支えた傑物だったそうです。興味のある方は社会評論社『世界各国女傑列伝』を御覧ください。
楽天ブックス: 世界各国女傑列伝
ペルーの地は、インカ帝国滅亡後も試練に直面しました。興味にある方は社会評論社『敗戦処理首脳列伝』『戦後復興首脳列伝』を御参照ください。
楽天ブックス:敗戦処理首脳列伝
楽天ブックス:戦後復興首脳列伝
セブンネット : 戦後復興首脳列伝
まず、モンゴロイド人種がアンデス周辺に住み着いたのは約一万年前まで遡るそうです。そして、彼らは紀元前2500年前後には石器文化を発達させ紀元前1200年頃に土器や装飾品を作る文化に発展、トウモロコシの栽培もこの時期から始まったんだとか。そして紀元前1150年頃にアマゾン上流で宝石細工や土器の華麗さで知られるチャビン文化が生まれ、更に紀元前六世紀には南米北部に土器で知られるモチーカ文明が、南には地上絵で知られるナスカ文明が生まれました。まとまった都市文明が生まれたのは六世紀であり、宗教都市を中心に栄えたティアワナコ文化が周辺に広がりました。その後も、北にチャンチャンを都とするチムー帝国、西にクイスマンク帝国、更にチゥキマンク帝国やチンチャ帝国が成立していたようです。
インカが成立したのは1200年前後といわれ、当時はインカ部族を中心とする中央アンデスの一地方国家に過ぎなかったようです。冒頭で言及した建国者マンコ・カパックはその実在が証明されておらず伝説上の人物といえますが、その事跡については長らく人々により語り継がれています。
クスコ東南28kmの位置にパカリ・タンプ(下の宿場)という土地があってそこにタンプ・トコ(窓の宿場)と呼ばれた三つの穴があったとか。で、その中央の穴からマンコ・カパックと三人の兄弟・四人の姉妹が現れ、両側の穴から出た10の氏族と共にクスコを目指したそうです。何だか我が国の神武東征神話に似ていますね。さて、その過程でマンコは妹の一人であるママ・オクヨを妻に迎え第二代皇帝となるシンチ・ロカを得、また兄弟アヤル・カチが乱暴であったため騙して殺害したりもう一人の弟は留まって石になったりでマンコだけが男兄弟では残ったとか。そういえば、神武東征でも神武の兄が苦戦を強いられる中で命を落としています。神話というのはやはり類似性を持つものなんでしょうな。それはさておき、マンコらはクスコの東に定住し、トウモロコシやラーマ(家畜)のための土地を求めて旧住民を追い払って太陽の神殿を建てたそうです。他、もう一つの神話としてチチカカ湖の太陽の島で生まれたマンコらはクスコへやってきて文明に目覚めていなかったインカの人々に農耕・織物を教えたという話もあります。
首都クスコの王廟にミイラが残っているのは第二代のシンチ・ロカからであるとされます。しかし長らくインカはクスコ周辺数km程度を支配するに過ぎない部族国家でしかなく、チャンカ族を始めとする周辺部族に脅かされる弱小勢力でした。例えば第七代ヤワル・ワカは少年時代に近隣のアヤマルカにおいて人質生活を余儀なくされていたのです。
インカが一部族国家から脱する契機となったのが十四世紀後半に在位したとされる第八代アツン・ツパック・インカの時代で、それまでは周辺に攻め入っては引き上げるに留めていた軍事活動を改め周辺地域を組織的に征服するようになりました。十五世紀半ばの第九代パチャクチは宿敵チャンカ族と激しく戦い、時には首都クスコが危うくなった事もあったものの北方へ進出しキト(現エクアドル首都)まで勢力を伸ばすと共にチムー帝国を吸収しリマ市周辺までを支配するにいたります。その子トパ・インカも有能な軍事指導者であり、チチカカ湖周辺の高地や東方ボリビア、北チリまでを征服するとともに内政面でも族長制を改め集権的な行政組織を確立したのです。インカの領地が最大となったのは十六世紀前半のワイナ・カパックの時代であり面積は十万平方kmで南北四千kmに及びました。しかし彼の死後、帝国は嫡男ワスカルと庶子ながら軍才に長じたアタワルパの内紛に突入し混乱します。更に、スペイン人はこの時期既に南米大陸に拠点を築きつつあり、インカを征服する事になるフランシスコ・ピサロが手勢を率いて領内に侵入を始めたのはアタワルパがワスカルを破り帝位を簒奪したまさにそのときの事だったのです。
さて、インカ滅亡について語る前に帝国の統治制度について少し話しておきましょう。インカ社会は母系的氏族(アイユウ)を基本的な単位としており、人々はアイユウ内部で婚姻し住民のアイユウ間での移動は少なかったそうです。なので、行政もこのアイユウを考慮に入れたものとなりました。国土を四つの地方(スウユ)に分けてそれぞれに長官を置き、更に県(ワマン)そしてその下の郡(サヤ)を設置して県長官の下にクラカと呼ばれる被征服部族の旧貴族を役人として任命しました。クラカは一万人長から百人長まで支配人数に差があるものの、その下にいくつかのアイユウがおかれたのです。時にアイユウ内部に五十人長・十人長がおかれる事もありました。このクラカやその下のアイユウが軍隊における下部組織でもあったとか。人々の労働は皇帝と太陽の土地に対する労働と賦役(公共工事、兵役)に大きく分けられました。また、共有牧場でラーマを飼育するのも重要な仕事でした。ラーマは運送に用いるだけでなく乳や毛を役立てる重要な家畜だったのです。また、租税として取り立てた農作物等を管理し、不足する地域に相互に国家の責任により流通させてもいました。例えば山間部で栽培されたトウモロコシやジャガイモを海岸地域に輸送し、海岸から魚介類・染料・果実を山岳地帯に送る事により各地域の物資不足に対応したのです。また、未亡人や孤児の生活を国家が保障するという制度もありました。インカ帝国はこのように高度な統制経済を採用しており、「社会主義的帝国」と評した学者も後世には存在したほどでした。このような政策を可能にしたのが組織化された行政組織であり、各地に張り巡らされた道路網でした。政府は各地方に巡察使を派遣して監視すると共に、征服した部族は移住させ再配置する事によって反乱を防いでいました。そして彼らの支配層をクラカとして帝国支配層に組み入れていたのは上述したとおりです。また、アイユウから優れた人物がいればユナコーナとして徴発し皇帝や貴族の奴隷として採用しました。彼らの中には主に取り立てられ地方官吏となる者も稀ではなかったのです。女性も同様にアクセフープとして美しい処女が選ばれ生贄とされたり皇帝の側室になるほか太陽神に仕える巫女となったりもしたそうです。インカでは覇権確立前後から(初代マンコの先例に倣ってでしょうか)皇帝の姉妹が后に立つのが通例となっていたようですが、実際に後継者を産むのはこうした女性たちであったとか。
一通り帝国の制度について語ったので、インカ滅亡の話に入りましょう。1532年、スペイン人フランシスコ・ピサロは黄金豊かな大帝国インカの情報を手に入れ、二百人弱の兵士を率いて帝国領内に入り込みました。ピサロは味方の数が少ないため現地民の案内人を立てて情報収集に努めると共に、現地住民を刺激しないようにして奥地へと進みました。皇帝アタワルパも早い段階から彼らの情報はつかんでいたものの、内乱が終わって間もなく事を荒立てて混乱を再発させるのを避けた(インカには白い肌の太陽神ビラコチャの伝説があり、ワスカル残党にはピサロらを神の使いとして期待する向きもあったようです)のと、珍しい白い人間を見てみたいという好奇心もあり手出しは避けていました。かくしてピサロはインカ中枢へ入るのに成功し、アタワルパと会見する約束を取り付けます。会見の席でピサロは隙をついて皇帝を捕えると共にその随伴者たちを殺害しクーデターに成功。「神の子」である皇帝を捕えられた帝国は、皇帝を押えたスペイン人たちの支配下にあっさりと入る事になります。ピサロはインカを支配し収益を上げる上で皇帝を傀儡として利用する事が得策と考えたためしばらくはアタワルパを帝位に残していました。しかし、アタワルパが混乱に乗じてワスカルを暗殺するなど蠢動し、更に不穏分子が皇帝を奪回しようとするなど危険な動きがあったためピサロは皇帝を処刑したのです。その後もピサロはアタワルパの弟を傀儡皇帝として擁立していましたが、やがて皇帝マンコ(彼もアタワルパの弟にあたります)が首都クスコを脱出してスペイン人たちに反乱し、山間部のビルカバンバ地方ビトコスを拠点として抵抗を続けました。一時は皇帝の威光によりマンコ軍は優勢に立ちましたが、スペイン人達は旧インカ帝国の行政組織を吸収して支配体制を確立しつつあり次第に劣勢となっていきました。インカは内紛に陥ったスペイン人を味方に付けるなどして抵抗しましたが、そのスペイン人によりマンコが暗殺されます。インカはその後もマンコの子ティトゥ・クシが抵抗を続けますが劣勢は覆いがたく、その弟トゥパック・アマルの時代に皇帝らが捕えられ1572年に処刑されました。こうしてインカは歴史上から消滅し南米は西洋文明によって征服されるに至りましたが、その後もトゥパック・アマルの名は現地民に英雄として語り継がれ、民族運動のシンボルとなるに至ります。1996年にペルー日本大使館で人質事件を起こした武装組織が彼の名を冠していたのは記憶に新しいかと思います。
外部からの侵略者によって、紡ぎ続けてきた歴史を絶頂期において突如断ち切られた帝国インカ。しかしその名は後の世に神秘的な響きで人々を魅了すると共に、南米先住民にとっての誇りであり心の支えであり続けたのです。
【参考文献】
インカ帝国 泉靖一著 岩波新書
インカ帝国探検記 増田義郎 中公文庫
現代のエスプリ アステカとインカ 編集・解説 増田義郎 至文堂
カラー版インカを歩く 高野潤著 岩波新書
インカ帝国史 シエサ・デ・レオン 増田義郎訳 岩波文庫
インカ帝国地誌 シエサ・デ・レオン 増田義郎訳 岩波文庫
古事記 倉野憲司校注 岩波文庫
関連発表:
「【世界史最強女性武将 ベスト10 ~地球最強の女達~」
「「民族英雄考―楠木正成と諸国の英雄たち―」補足その2~民族英雄になるための簡単(?)な方法~」
「超三大陸周遊記 ~アトランティス、ムー、レムリアのお話~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
残念ながら、インカを扱った発表はありません。ただ、
「後醍醐天皇」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/010706.html)
スペイン人侵入後のインカ勢力の抵抗が「後南朝」とダブる気がします。
関連サイト:
「ブラジル・南米旅行のウニベルツール 南米大辞典」(http://www.univer.net/index.html)より
「地球がわかる南米の旅~インカ帝国」(http://www.univer.net/1_nanbei/0004_1.html)
「ようこそ!!浅川嘉富の世界へ」(http://www.y-asakawa.com/index.html)
クスコなどインカ関連の遺跡も多く訪れています。
「a Black Leaf」(http://blog.livedoor.jp/textsite/)より
「そんなに玉ねぎ食べてインカ帝国!? 「孤独のグルメ」 ペルー料理編」(http://blog.livedoor.jp/textsite/archives/51016212.html)
トゥパック・アマルの妻は、彼を実務面・軍事面で支えた傑物だったそうです。興味のある方は社会評論社『世界各国女傑列伝』を御覧ください。
楽天ブックス: 世界各国女傑列伝
ペルーの地は、インカ帝国滅亡後も試練に直面しました。興味にある方は社会評論社『敗戦処理首脳列伝』『戦後復興首脳列伝』を御参照ください。
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セブンネット : 戦後復興首脳列伝
by trushbasket
| 2013-09-29 22:07
| NF








