2013年 11月 24日
徳川期の歴史人口学から見る経済状況と少子化の関係~やっぱり貧しいと人口増加は厳しい~
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現代日本では、少子化が深刻な社会問題になっています。その原因としては様々な要素が言われていますし、ここでも過去記事で扱った事があります。
中でも囁かれている有力な説としては、長らくの経済的退潮もあって若年層の経済力が弱く家庭を営む自信が持てないからではないか、というものがあります。そこで今回は、浜野潔氏の『歴史人口学から読む江戸日本』(吉川弘文館)(リンク先はAmazon)を題材に徳川期の人口統計からこの問題に関連した話題を拾ってみようかと思います。
速水融氏の『近世濃尾地方の人口・経済・社会』によれば、美濃国西条村(岐阜県輪之内町西条)の人口動態について以下のような指摘があります。宗門改帳に記載された情報から十八世紀後半から十九世紀半ばまでの村の人口動態を分析した結果、農民のうちでも比較的裕福な階層では出生率が高く分家を出しながら拡大していきました。一方で経済的に余裕がない階層では出生率が低く家系が絶える割合が高かったとか。また岡田あおい氏も『近世村落社会の家と世帯継承』で東北地方の農村における家の継承でも同様な傾向があったと指摘しています。
経済力に余裕がなければ、多くの子供を養うのはリスクがある、そう考えるのは昔の農村でも見られた傾向だったのですね。昔の農村では子供は労働力とみなされ多くの子が作られる傾向がある、というイメージを持っていたのですが必ずしもそうでもなかったようで。
当時の東北地方でよく見られた世帯構成からも、興味深い事が分ります。十一世紀から十三世紀までは比較的温暖で豊かな農業生産力を誇っていた東北地方ですが、十三世紀から進行した寒冷化の影響を強く受けこの頃には凶作がしばしばとなっていました。そうした時代における東北地方農村の特徴的な家族パターンは、女子は数え十五歳前後・男子は十七歳前後という早婚、そしてそれに関わらずの低い出生率(といっても現代とは比べ物にならないほど高いですが)でした。速水氏は『歴史人口学研究』でこれらの現象を、各世帯が厳しい環境の中を生き延びられるよう適応した結果だと述べています。結婚年齢が低いのは世代感覚を狭くして三世代世帯を多くする事で世帯内労働人口を増やすため、子供が少ないのは扶養人口を抑える事で負担を減らすためだとか。
なお、出生率が低い直接の原因としては離婚率の高さ(三年で一割、十年で四割が離婚)、生計を助けるため男女とも婚姻後に出稼ぎに出ており子作り可能な期間が短めな事、間引きによる出産調整が上げられています。
やはり、経済的に余裕がない家庭では子供は経済的負担だった事を裏付けています。それでも世帯別出生数だけを見れば人口再生産に必要な水準はクリアされていたのですが、死亡率の高さや移住などにより東北では人口減少傾向が十九世紀半ばまで継続したそうです。
なお、東北の諸藩はこの事態を重視し、出産を奨励すべく子供の数が一定数を超えた世帯には手当てを出す、という政策を十八世紀半ばから打ち出しています。一般に「赤子養育仕法」と呼ばれるこれらの政策ですが、明らかな効果を見せた様子は残念ながらなかったとか。
仙台藩の儒者・芦東山は『芦東山上書』で出生数の低下は世の中が「奢侈」になった結果として「多子ヨリ少子ノ労ナキハ勝リ候トテ」すなわち子供の食い扶持だけでなく養育に伴う出費・労力を負担と考える人が増えたためと述べています。昔より社会が豊かになった結果、ただ食わせれば良いのではなく教育・手間を子育てにかけるようになったのが少子化に拍車をかけた、という辺りは現代にも似ていますね。
余談になりますが、十八世紀前半に荻生徂徠は『政談』で娘を嫁がせる際に高額な持参金を持たせる風習がネックになって貧乏な旗本(領地が一万石未満の徳川政権直属家臣)が結婚できずその子孫確保に支障が出ている、と指摘しているとか。これも徳川期に経済問題が非婚・少子化に影響を与えた一例なんでしょう。
話を戻しますと、このように打つ手なしと思われた少子化と人口減少。しかし、十九世紀後半に入ると東日本全体が人口増加傾向に転じるようになります。一体何が起こったのでしょう。
慢性的な財政赤字に悩まされていた米沢藩では、十八世紀半ばから藩主・上杉鷹山が主導する積極的な政治改革が行われました。改革は守旧派の反発や試行錯誤もあって必ずしも順風満帆だったわけではありませんが、それでも十八世紀末から導入された養蚕・織物の奨励を契機として財政状況は改善。それに伴うかのように数年後には人口増加が見られるようになりました。
また、十八世紀半ばに欧米列強の圧力もあって日本は開国に踏み切ります。その結果、生糸が主要な輸出品として大量に海外へ流出するようになります。これは東東北南部・西関東といった養蚕地域に経済発展をもたらしました。この現象は同地域が人口増加に転じた時期と重なるのではないかと推測されており、事実として武蔵国新町村(東京都青梅市新町)ではこの時期から世帯ごとの平均出生数が上昇し、世帯ごとの経済格差の縮小も見られているのだとか。
この二つの事例からは、従来の経済域の外に新たな市場を開拓する事で「外貨」が流入し経済発展すると人口増加が見込める、という法則が読み取れるのだそうで。
以上の事例を見る限り、経済的に貧しい地域や裕福でない階層では子育ての経費・労力を払う余裕がないと考えて子を産まなくなる可能性がある、したがって経済の低迷や所得格差の拡大は少子化・人口減少を招く要因になりうる、という事が徳川時代の人口動態から導き出せそうです。あと、経済発展こそが少子化解決・格差縮小の最も有効な処方箋である事も。
どうやら現代の非婚化・少子化進行を改善させるためには、経済再建と格差縮小が成るか否かがやはり大きな鍵を握っている。その可能性が高そうですね。
【参考文献】
歴史人口学と江戸日本 浜野潔 吉川弘文館
江戸のエロスは血の香り 氏家幹人 朝日新聞出版
関連記事:
「歴史を手がかりに「非婚」化の原因を考えてみる~異性不信、経済的自立、不安感~」
「若年層を結婚させるため、昔の日本人がとっていた試み~血縁・地縁の力は偉大でした~」
「結婚に関する歴史の一真理 ~モテない男は悟りを開く~ 歴史上に見る「結婚しなくても平気になった人々」」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「中国の人口間題」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/011109.html)
多ければ多いで問題があるようです。
国を立て直すにはイデオロギーよりもまずは経済再建。社会評論社『戦後復興首脳列伝』にもそうした話が多数収録されています。興味のある方は御参照ください。
楽天ブックス:戦後復興首脳列伝
セブンネット : 戦後復興首脳列伝
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中でも囁かれている有力な説としては、長らくの経済的退潮もあって若年層の経済力が弱く家庭を営む自信が持てないからではないか、というものがあります。そこで今回は、浜野潔氏の『歴史人口学から読む江戸日本』(吉川弘文館)(リンク先はAmazon)を題材に徳川期の人口統計からこの問題に関連した話題を拾ってみようかと思います。
速水融氏の『近世濃尾地方の人口・経済・社会』によれば、美濃国西条村(岐阜県輪之内町西条)の人口動態について以下のような指摘があります。宗門改帳に記載された情報から十八世紀後半から十九世紀半ばまでの村の人口動態を分析した結果、農民のうちでも比較的裕福な階層では出生率が高く分家を出しながら拡大していきました。一方で経済的に余裕がない階層では出生率が低く家系が絶える割合が高かったとか。また岡田あおい氏も『近世村落社会の家と世帯継承』で東北地方の農村における家の継承でも同様な傾向があったと指摘しています。
経済力に余裕がなければ、多くの子供を養うのはリスクがある、そう考えるのは昔の農村でも見られた傾向だったのですね。昔の農村では子供は労働力とみなされ多くの子が作られる傾向がある、というイメージを持っていたのですが必ずしもそうでもなかったようで。
当時の東北地方でよく見られた世帯構成からも、興味深い事が分ります。十一世紀から十三世紀までは比較的温暖で豊かな農業生産力を誇っていた東北地方ですが、十三世紀から進行した寒冷化の影響を強く受けこの頃には凶作がしばしばとなっていました。そうした時代における東北地方農村の特徴的な家族パターンは、女子は数え十五歳前後・男子は十七歳前後という早婚、そしてそれに関わらずの低い出生率(といっても現代とは比べ物にならないほど高いですが)でした。速水氏は『歴史人口学研究』でこれらの現象を、各世帯が厳しい環境の中を生き延びられるよう適応した結果だと述べています。結婚年齢が低いのは世代感覚を狭くして三世代世帯を多くする事で世帯内労働人口を増やすため、子供が少ないのは扶養人口を抑える事で負担を減らすためだとか。
なお、出生率が低い直接の原因としては離婚率の高さ(三年で一割、十年で四割が離婚)、生計を助けるため男女とも婚姻後に出稼ぎに出ており子作り可能な期間が短めな事、間引きによる出産調整が上げられています。
やはり、経済的に余裕がない家庭では子供は経済的負担だった事を裏付けています。それでも世帯別出生数だけを見れば人口再生産に必要な水準はクリアされていたのですが、死亡率の高さや移住などにより東北では人口減少傾向が十九世紀半ばまで継続したそうです。
なお、東北の諸藩はこの事態を重視し、出産を奨励すべく子供の数が一定数を超えた世帯には手当てを出す、という政策を十八世紀半ばから打ち出しています。一般に「赤子養育仕法」と呼ばれるこれらの政策ですが、明らかな効果を見せた様子は残念ながらなかったとか。
仙台藩の儒者・芦東山は『芦東山上書』で出生数の低下は世の中が「奢侈」になった結果として「多子ヨリ少子ノ労ナキハ勝リ候トテ」すなわち子供の食い扶持だけでなく養育に伴う出費・労力を負担と考える人が増えたためと述べています。昔より社会が豊かになった結果、ただ食わせれば良いのではなく教育・手間を子育てにかけるようになったのが少子化に拍車をかけた、という辺りは現代にも似ていますね。
余談になりますが、十八世紀前半に荻生徂徠は『政談』で娘を嫁がせる際に高額な持参金を持たせる風習がネックになって貧乏な旗本(領地が一万石未満の徳川政権直属家臣)が結婚できずその子孫確保に支障が出ている、と指摘しているとか。これも徳川期に経済問題が非婚・少子化に影響を与えた一例なんでしょう。
話を戻しますと、このように打つ手なしと思われた少子化と人口減少。しかし、十九世紀後半に入ると東日本全体が人口増加傾向に転じるようになります。一体何が起こったのでしょう。
慢性的な財政赤字に悩まされていた米沢藩では、十八世紀半ばから藩主・上杉鷹山が主導する積極的な政治改革が行われました。改革は守旧派の反発や試行錯誤もあって必ずしも順風満帆だったわけではありませんが、それでも十八世紀末から導入された養蚕・織物の奨励を契機として財政状況は改善。それに伴うかのように数年後には人口増加が見られるようになりました。
また、十八世紀半ばに欧米列強の圧力もあって日本は開国に踏み切ります。その結果、生糸が主要な輸出品として大量に海外へ流出するようになります。これは東東北南部・西関東といった養蚕地域に経済発展をもたらしました。この現象は同地域が人口増加に転じた時期と重なるのではないかと推測されており、事実として武蔵国新町村(東京都青梅市新町)ではこの時期から世帯ごとの平均出生数が上昇し、世帯ごとの経済格差の縮小も見られているのだとか。
この二つの事例からは、従来の経済域の外に新たな市場を開拓する事で「外貨」が流入し経済発展すると人口増加が見込める、という法則が読み取れるのだそうで。
以上の事例を見る限り、経済的に貧しい地域や裕福でない階層では子育ての経費・労力を払う余裕がないと考えて子を産まなくなる可能性がある、したがって経済の低迷や所得格差の拡大は少子化・人口減少を招く要因になりうる、という事が徳川時代の人口動態から導き出せそうです。あと、経済発展こそが少子化解決・格差縮小の最も有効な処方箋である事も。
どうやら現代の非婚化・少子化進行を改善させるためには、経済再建と格差縮小が成るか否かがやはり大きな鍵を握っている。その可能性が高そうですね。
【参考文献】
歴史人口学と江戸日本 浜野潔 吉川弘文館
江戸のエロスは血の香り 氏家幹人 朝日新聞出版
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「若年層を結婚させるため、昔の日本人がとっていた試み~血縁・地縁の力は偉大でした~」
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「中国の人口間題」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/011109.html)
多ければ多いで問題があるようです。
国を立て直すにはイデオロギーよりもまずは経済再建。社会評論社『戦後復興首脳列伝』にもそうした話が多数収録されています。興味のある方は御参照ください。
楽天ブックス:戦後復興首脳列伝
セブンネット : 戦後復興首脳列伝
by trushbasket
| 2013-11-24 10:43
| NF








