江戸の碩学達が語る、「悪徳」にどう対処するべきか~直接の実害がなければ大目に見なさい~
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熊沢蕃山は十七世紀の儒学者で、中江藤樹に学び岡山藩に仕えた大学者です。『集義和書』『集義外書』などの著作を残しましたが、『大学或問』などで徳川政権を批判し幽閉の身となりました。神道・日本古典研究にも造詣が深く、『源氏物語』の注釈書『源語外伝』といった著作もあります。
さて日本は男色大国としての歴史を長くたどっていましたが、彼が生きた時代には泰平が長くなった影響もあってか男色を否定的に見る見解が増えていました。男色を巡る鞘当がしばしば刃傷沙汰に発展し治安に悪影響があったためだと言われています。そうした男色否定論者の代表が儒学者中江藤樹の学派。藤樹自身は仏僧と稚児の関係にこの手の話題を限定していましたが、弟子達は男色全体に厳しい目を向けるものが多かったそうです。そうした中で、蕃山も男色自体には好感情を持っていなかったものの、藤樹一派とはやや異なった見解を持っていたようです。著作『集義外書』の巻十で男色に関する意見を見てみましょう。
まず彼は古代インドでも中国でも男色が存在していた事を指摘し、仏陀は男色を戒めたけれどなくならなかった事、孔子・周敦頤・程明道・程伊川・朱熹といった聖人や優れた学者は「人情の勢のとどむべからざる事を知給へば」(井上哲次郎・蟹江義丸共編『日本倫理彙編 巻之二』育成会 212頁)男色を戒めなかった事を論じています。その上で、藤樹学派が男色を禁じるのは「大禁にはあらで、大害」(同書同頁)と論じました。理由としては、
大道の行はるべき千歳の後に、おくれて発すべき小戒を、今だめぐまざるの前におけば也。近比男色の事をさがし出して人を失へる者あり。予これによりて云。男色をふせぎ仏者を退るの事は、道学のおこりなんとするめぐみをおさゆる也。たとへば草木の土中より生出る二葉の上に、大石を置がごとし。(同書 212-213頁)
【現代語訳】
世の中に大事な道徳が行き渡った遠い未来になってから、ゆっくりと手をつけても問題ないような些事を、まだ大事な道徳すら浸透していないうちから手をつけているからです。この頃では、男色に耽っているのを探り出して咎めだてする事で有為の人材を葬り去る人もあるとか。だから私は言っているのです。むやみに男色を禁じたり仏教を退けるのは、大事な道徳が広がっていく妨げになる、と。喩えて言うなら、草木が土の中から芽生え二葉を出そうとしているところに、大きな石を置いて押しつぶしてしまうようなものです。
という訳だそうで。ならばどうすればよいかと言えば、「ふせがずゆるさず、黙せんにはしかじ」(同書 213頁)。つまり否定も容認もせず黙って見ているのが良い、と。続けて曰く、
夫大道の行はるるは、よき人徐多道に入より先なるはなし。しかるに此英才の人々の、俗に落て道をきかざるうへ、習常と成て、不義ともしらず、このむ事を外より退けはぢしむ。其人は世に類多く、味方多し。わづかの学者のいふ事は、一派の事としておそれず。しかのみならず、いきどほりをふくみて、敵となれり。これ先にいひしおくれてなるべき小戒を先だてて、大道のさまたげをなすにあらずや。(同書 213-214頁)
【現代語訳】
世の中に大事な道徳が普及するためには、優秀な人が多数徐々に参入するのが何より大事です。しかしながらそうした英才の中には、俗世間の風に流れて大事な道を知らず、男色を良くないとも知らずに外から染まって習慣になってしまった人も多い。男色を弾劾するわずかな学者のいう事は少数派として恐れず、それどころか習慣である男色を非難されたのを怒って学派の敵に回ってしまうでしょう。これでは先ほど申し上げたように、後回しでも良い小事に拘ったせいで大事な道徳の実現を妨げてしまう事に他なりません。
とのこと。といっても野放しにしてよい訳ではなく「男色によりてけんくわ出来ぬる時は、ゆるす事なし」だが、男色の問題は「けんくわの用心ばかりの事」(ともに同書214頁)でありそれ自体に実害はない。それを踏まえ、彼は
道理にあらぬとは、理をきはむる論に当てはいふべし。道理にあらぬとしらば、我のみせざるにてたれり。人をそしるべからず。(同書 214頁)
【現代語訳】
男色が道理に合わないというのは、厳密な論理では言えるかもしれません。男色が不義だと思うなら、自分さえそれに染まらなければ良いのです。他人についてどうこう言うべきではありません。
という結論を出しています。要は、「積極的に認めるべきではないが、かといって頑なに排斥する必要もない」(氏家幹人『武士道とエロス』講談社現代新書 117頁)と考えていたという話。男色の鞘当から喧嘩・刃傷沙汰になった際は容赦なく取り締まるべきだが、そうでないなら男色自体はやかましく言うべきでない、という事ですね。
ちょっと脱線しますが、この蕃山の見解から思いだすのが昭和の作家にして天台宗権大僧正であった今東光。彼も最晩年に雑誌で人生相談をした際、世間一般における性的モラルの乱れを憂慮する相談者に対し
そんなに性を抑制したいんだったら、てめえは自分のを抑えてたらいいじゃねえか!?人が助平だから、あの助平やめさせてもらいたいって言うのと同じでな。なんで人のことばかり心配してんのや、このあほんだら!(今東光『毒舌身の上相談』集英社文庫 44-45頁)
人間はアダムとイブの時代から、ちっとも変わってやしないさ。それをてめえは、まるで救世主みたいに、人類をみんなサカリのついた犬みたいに見て、人類の性がどんどんエスカレートしていって滅亡するんじゃないかって悩んでいやがる。てめえの方がよっぽど頭、おかしいぜ。まったく暇なんだね、おめえも。(同書 45頁)
と喝破しています。性愛関連に関しては、「悪徳」に思えてもそれ自体に実害がない範囲ではガタガタ言うべきでない、という点では蕃山も今東光も共通しているようです。
さて話を徳川期に戻しましょう。次に見てみるのは本居宣長。改めて申し上げるまでもなく、日本の太古における精神や言語、文学について研究する国学を大成したとされる大学者です。彼はそれまで難解だった歴史書『古事記』を解読し『古事記伝』として結実させており、古代史・古語・古典の研究に携わる人間は良かれ悪しかれ彼の影響から免れる事はできない大物と言えましょう。その宣長ですが、紀伊藩主に対して政治に関する意見書を建白した事があります。その書物『玉くしげ』の末尾において、宣長はこう述べているのです。
人のみならず、萬の物も、よき物ばかりはそろひがたくて、中にはあしきも必まじるものなるが、その甚悪きをば、棄ることもあり、また直しもすることなれば、人もさやうの悪き者をば、教へ直すも又道
(『本居宣長全集第八巻』筑摩書房 323頁)
【現代語訳】
人間だけでなく、世間の万物も、良いものばかり揃っているわけではなく、中には良くないものも必ず混じるものだが、その中でも際立って悪いものは、捨てる場合もあれば直す場合もあるのであり、人も同じでそうした悪い人間を、再教育するのも道である。
然れども大かた神は、物事大ように、ゆるさるる事は、大抵はゆるして、世人のゆるやかに打とけて楽むを、よろこばせたまふことなれば、さのみ悪くもあらざる者までを、なおほきびしくをしふべきことにはあらず、さように人の身のおこなひを、あまり瑣細にただして、窮屈にするは、皇神たちの御心にかなはぬこと故、おほく其益はなくして、返て人の心褊狭しくこざかしくなりて、おほくは悪くのみなることなり(同書 同頁)
【現代語訳】
しかしそもそも神は、万事に関して鷹揚であり、許す事ができる事は大概許し、世間の人がゆったりと打ち解けて楽しんでいるのを御喜びになるものだ。だから、大して悪い訳ではないような者までも、厳しく教戒すべきではない。そのように人間の振る舞いをあまり細かく咎め、世の中を窮屈にするのは、皇国の神々の御心には叶わない事だ。だから、そうした事は大概無益であり、逆に人の心を狭量にし小賢しくするばかりで、大体はかえって事態を悪化させるものだ。
然るに此道理をしらずして、惣体の人を、きびしくをしへたてて、悉にすぐれたる善人ばかりになさんとするは、かの唐戎風の強事にして、これ譬へば、一年の間を、いつも三四月ごろのごとく、和暖にのみあらせんとするがごとし、寒暑は人も何もいたむものなれども、冬夏の時候もあるによりてこそ、萬の物は成育することなれ(同書 同頁)
【現代語訳】
しかしこの事を弁えず、全ての人を厳しく教戒し、全てにおいて欠陥のない完璧超人ばかりにしようとするのは、外国かぶれのさかしらな無理難題であって、たとえるならば、一年通じて、いつでも三月や四月ごろのように温暖な気候にだけしようとするようなものだ。暑さ寒さは人にとってもその他にとっても厄介なものだが、冬や夏の季節があるからこそ、全ての物は生まれ育つ事が出来るのだ。
宣長はこう説いた上で、人間も同じ事で凶事があってこそ吉事があり、悪事があってこそ善もあるので良い所取りはできないと述べ、現代の心構えとしてこう結論しています。
しかれば今の世とても、おなじことにて、悪き事する者は、その軽重によりて、上よりもゆるしたまはず、世人もゆるさねば、其余は、いささかは道理にあはざる事などのあればとて、人をさのみ深くとがむべきにもあらず(同書 同頁)
【現代語訳】
だから現代でも同じ事で、実害をもたらすような悪さをする者は、害悪の軽重によって、お上もお許しにならず、世間の人も許さないものである。それ以外は、多少は感心できない事をしているからといって、他人をさほど深く咎めるべきではない。
「悪徳」を云々している人物も含め人間は不完全な生き物なのだから、他人を傷つける実害がない限りは「悪徳」であっても寛大な視線で大目に見るべきである。彼らの意見をまとめるとそうなりそうです。熊沢蕃山は儒者で宣長は国学者。余談として挙げた今東光は仏僧です。しかしそうした立場の違いを越えて人間のダメさへの暖かい視線、実害がない限りにおいての「悪徳」への寛容さを説いているのは興味深いところですね。思えば仏教学者ひろさちや氏は宗教的な考え方として
人間は神や仏のような完全な存在ではない。人間は不完全で、醜く、愚かな存在です。だから、そんなに立派でなくてもいいではないか(ひろさちや『やまと教』新潮選書 213頁)
という見方を紹介し、人間に完全さを求め少しの過ちも許さず糾弾する姿勢は人間世界を窮屈にし自縄自縛とする、と警鐘を鳴らしています。社会の秩序を守るためには実害のある事は取り締まらねばなりませんが、そのレベルに達していない「悪徳」に関しては為政者も含めた人間の不完全さを慮ると余りやかましく言うべきでない。そうした教えを、今回取り上げた言説からは汲み取る事ができるようです。
【参考文献】
「近代デジタルライブラリー」(http://kindai.ndl.go.jp/)より
「日本倫理彙編. 巻之2」中の「集義外書十六卷」(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913247/10)
武士道とエロス 氏家幹人 講談社現代新書
毒舌身の上相談 今東光 集英社文庫
本居宣長全集第八巻 筑摩書房
やまと教 ひろさちや 新潮選書
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「本居宣長」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/011214.html)
「本居宣長『玉くしげ』」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/tamakushi.html)
人間の不完全さ、実害がない限り多少の「悪徳」をも大目に見る寛容さを学ぶ上では、社会評論社『ダメ人間の世界史』『ダメ人間の日本史』も参考になるかもしれません。偉人でさえ、様々な不完全さや「悪徳」を有していたのですから、いわんや我々凡俗をや、という事。
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