2013年 12月 04日
もし直前三場所の成績で横綱昇進を評価したら~横審以前も見てみました~
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少し前、横綱審議委員会(横審)成立以降の横綱昇進について直前三場所で評価した場合どうなるかについて見ました。その際に用いた基準は、
というものでした。そういえば、これもだいぶ前ですが横審以前の、相撲家元とされる吉田司家が横綱免許を出す事で昇進が行われていた時代についても昇進直前二場所を対象として評価した事がありました。
関連記事:
「近代横綱の昇進について勝手に評価してみる~横綱審議委員会以前の時代~(上)」、「(下)」
せっかくなので今回は、彼らについても直前三場所での評価をしてみようかと思います。ただし、大阪相撲の横綱たちについては優勝経験は問わない事とします。なお、あらかじめ申し上げますと、前回の評価で戦後の基準なら昇進できなかったであろうと評価された横綱たち(鳳、二代目西ノ海、大錦大五郎、三代目西ノ海、武蔵山、男女ノ川)は三場所方式での評価を満たす時期はありませんでした。彼らは、やはり昇進基準がある程度固まった後の時代だと昇進が厳しいようです。
注意事項があります。この時代、現在のように1場所15日間と決まっていたわけではありません。時期によって10日だったり11日だったりと結構変動がありました。そこで、話を単純にするため比率によって15日相当の成績に換算する事にします。当時、「引き分け」や「勝負預かり」で勝敗が曖昧になる事も多かったので、「引き分け」「勝負預かり」は0.5勝相当として計算した上で、「引き分け」「預かり」の占める割合から改めて算出する方法を取りました。また、明治・大正の相撲では不戦勝がありませんでしたから力士は割と好き勝手に休んだりしていたようです。その際は、対戦相手も休み扱いとなりました。そのせいか、当時の幕内力士には休みが多いのです。これも、15日相当で換算しました。
こうした、甘くていい加減な計算なので、話半分にご覧いただければ幸いです。以下で述べる成績の括弧なしが正味の成績であり、括弧内が15日に換算した成績です。(優)が優勝、(優同)が優勝同点の略です。
・常陸山、二代目梅ヶ谷
明治を代表する名横綱として並び称される二人ですが、上記の基準を満たす時期はありませんでした。当時の角界は現在と比べるとかなり鷹揚で、上記の理由で一場所あたり実際に相撲を取った日数が少なくなる事も多く、星が延びなかったようです。彼らの時代は特にそれが顕著だった印象があります。そのため休場に関する規則がきっちりした後である現在の基準を当てはめるのは必ずしも適切じゃないのかもしれませんね。
・若嶋(大阪相撲)
大関は1901年5月場所より、横綱は1905年6月場所より(ただし五条家から1903年1月より免許)
大関直前から見ると
という好成績。1902年6月時点で三場所で40勝相当、1903年1月時点だと39勝相当。いずれにせよ文句なしですね。もっとも、実際には相撲協会が東京・大阪に分かれていた関係で横綱免許が遅れたのは以前に申し上げた通り。
・太刀山
大関は1909年6月場所より、横綱は1911年6月場所より
1910年6月時点で38.5勝相当、1911年2月時点で40勝相当。無論、史実の1911年2月場所後昇進でも妥当ですが、その前の1910年6月時点で昇進してもよさそうなものです。1月の勝利数そのものが少なめだったので一場所待ったものでしょうか(それでも実質12勝相当でしかも無敗なんですけどね)。彼の場合、三場所の成績を総合してという見方はされなかった模様。まあ、確かに星取表を見る限り本当に強くなったのは1910年1月からという気はしますけど。
・大木戸(大阪相撲)
大関は1905年1月場所より、横綱は1913年1月場所より
1909年5月時点で39勝相当。三場所方式で評価すればこの時期に昇進させるべきという事になります。しかし横綱免許が遅れた事情は若嶋と同様。彼の横綱免許をめぐって東京・大阪の協会と吉田司家の間で騒動がありましたが詳細は以前の記事を御参照ください。
・栃木山
大関は1917年5月場所より、横綱は1918年5月場所より
1918年1月場所終了時点で38.5勝、史実通りの昇進となります。
・大錦卯一郎
大関は1916年1月場所より、横綱は1917年5月場所より
大関時代三場所の成績は37勝相当ですから37勝基準なら史実通りの昇進。38勝基準なら一場所遅れた同年5月場所後の昇進となるようです。
・宮城山(大阪相撲)
大関は1917年6月場所より、横綱は1922年5月場所より
史実通りの1922年1月場所後の昇進はなりませんが、5月場所後に三場所で39勝相当となりますから5月の成績を12勝相当と評価すればこの時の昇進は可能かと。
・常ノ花
大関は1920年5月場所より、横綱は1924年5月場所より
名門出羽海部屋のホープとして実績を積み重ねた常ノ花ですが、昇進については厳格な評価がなされたのは以前述べた通り。それでも、三場所方式だと史実より更に厳しい評価になるようで
まで待たされる模様。なお1927年10月場所終了時点で、既に優勝は6回。これはきつい。三場所連続という目で見ると、史実で昇進に際して厳しい裁定がなされたのは長期的に少し不安定な印象だったのが一因だったのかも、という気はします。
・玉錦
大関は1930年5月場所より、横綱は1933年1月場所より
彼も昇進に当ってはかなり厳しく評価されており、三連覇を果たしたにもかかわらず昇進を見送られたりしています。
計37勝基準だと三連覇した1931年3月でようやく昇進が許されるレベル。計38勝基準だとそれすら昇進見送り。やはり三場所での評価は厳しいようです。その後、
と好成績を残しており計37勝基準だと1932年3月、計38勝基準だと同年5月場所後に昇進となります。
・双葉山
大関は1937年1月場所より、横綱は1938年1月場所より
史実通りの1937年5月時点で三場所計45戦全勝相当。流石は前人未到の69連勝の只中で昇進しただけの事はあります。
・羽黒山
大関は1940年1月場所より、横綱は1942年1月場所より
1942年1月時点で三場所計41勝、史実より一場所遅れての昇進となります。
・安芸ノ海
大関は1941年1月場所より、初優勝は1940年5月場所、横綱は1943年1月場所より
1943年1月時点で三場所計38勝、史実より一場所遅れての昇進です。
・照國
大関は1942年1月場所より、横綱は1943年1月場所より
1942年5月時点で三場所計38勝。優勝なしがネックですが、当時は優勝決定戦がなく自動的に番付上位力士が優勝となっていましたから仕方ありません。なお、照國は1942年5月の優勝力士である横綱双葉山を相手に勝ち越している稀有な力士の一人です。優勝決定戦がもし当時あったら…というifも考慮して史実通りの1942年5月昇進でよい気がします。
・前田山
大関は1938年5月場所より、横綱は1947年11月場所より
三場所の勝ち星が計37勝相当以上になる時期がありませんでした。二場所合計25勝になる時期は2回あったんですけどね。
・東富士
大関は1945年11月場所より、横綱は1949年1月場所より
1949年1月時点で三場所合計38勝、史実より一場所遅れての昇進になります。強かったけれどムラがあった力士だと言いますから、それが三場所評価では少し災いしましたか。
以上、三場所評価だと昇進を逃す横綱、昇進が遅れる横綱が結構いました。やはり、三場所での安定性を求められると厳しいようです。
なお、当時に惜しくも横綱昇進を逃した強豪大関の中に三場所評価で手が届いた可能性のある人が一人だけ。
・清水川
大関は1932年5月より、初優勝は1932年2月
数奇な運命をたどった力士です。若い頃から有望視されながら、小結時代に慢心して放蕩。酒と女に溺れ、ごろつきから脅迫されたり本場所を無断休場したりと目に余る素行だったため一旦は除名の憂き目に会っています。しかし父親が復帰・大関昇進を願った遺書を残して自殺したのを契機に特例として帰参が認められました。以降の彼は別人のように精進し優勝3回の名大関とうたわれるようになっています。そんな彼も、あと一歩で横綱に手が届く時期があったようです。
計37勝基準であれば、1932年10月で横綱になっていても不思議はありません。直前二場所での評価でも昇進していて不思議ではないんですけどね。同時期の玉錦といい、この時期の協会は随分評価が辛めな印象です。
関連サイト:
「相撲評論家之頁」(http://park11.wakwak.com/~tsubota/door1.html)
歴代横綱の成績および清水川の事跡は、このサイトを参考にさせていただきました。
なお、清水川の成績はWikipediaを参照しています。
※2013/12/5 大木戸、大錦、常ノ花の部分で誤字修正など少し手直ししました。
・直前三場所で計37勝、または計38勝以上
・直前場所は12勝以上
・三場所のうちに負け越しがない
・優勝経験あり(直前場所含む)
・大関昇進直前場所を含めるのは可
というものでした。そういえば、これもだいぶ前ですが横審以前の、相撲家元とされる吉田司家が横綱免許を出す事で昇進が行われていた時代についても昇進直前二場所を対象として評価した事がありました。
関連記事:
「近代横綱の昇進について勝手に評価してみる~横綱審議委員会以前の時代~(上)」、「(下)」
せっかくなので今回は、彼らについても直前三場所での評価をしてみようかと思います。ただし、大阪相撲の横綱たちについては優勝経験は問わない事とします。なお、あらかじめ申し上げますと、前回の評価で戦後の基準なら昇進できなかったであろうと評価された横綱たち(鳳、二代目西ノ海、大錦大五郎、三代目西ノ海、武蔵山、男女ノ川)は三場所方式での評価を満たす時期はありませんでした。彼らは、やはり昇進基準がある程度固まった後の時代だと昇進が厳しいようです。
注意事項があります。この時代、現在のように1場所15日間と決まっていたわけではありません。時期によって10日だったり11日だったりと結構変動がありました。そこで、話を単純にするため比率によって15日相当の成績に換算する事にします。当時、「引き分け」や「勝負預かり」で勝敗が曖昧になる事も多かったので、「引き分け」「勝負預かり」は0.5勝相当として計算した上で、「引き分け」「預かり」の占める割合から改めて算出する方法を取りました。また、明治・大正の相撲では不戦勝がありませんでしたから力士は割と好き勝手に休んだりしていたようです。その際は、対戦相手も休み扱いとなりました。そのせいか、当時の幕内力士には休みが多いのです。これも、15日相当で換算しました。
こうした、甘くていい加減な計算なので、話半分にご覧いただければ幸いです。以下で述べる成績の括弧なしが正味の成績であり、括弧内が15日に換算した成績です。(優)が優勝、(優同)が優勝同点の略です。
・常陸山、二代目梅ヶ谷
明治を代表する名横綱として並び称される二人ですが、上記の基準を満たす時期はありませんでした。当時の角界は現在と比べるとかなり鷹揚で、上記の理由で一場所あたり実際に相撲を取った日数が少なくなる事も多く、星が延びなかったようです。彼らの時代は特にそれが顕著だった印象があります。そのため休場に関する規則がきっちりした後である現在の基準を当てはめるのは必ずしも適切じゃないのかもしれませんね。
・若嶋(大阪相撲)
大関は1901年5月場所より、横綱は1905年6月場所より(ただし五条家から1903年1月より免許)
大関直前から見ると
1900年 6月(大関昇進直前):7勝0敗1預1分(11勝0敗2預2分)
1901年 5月:7勝0敗1預1休(11勝0敗2預2休)
1902年 6月:8勝0敗1預(13勝0敗2預)
1903年 1月:8勝1敗(13勝2敗)
という好成績。1902年6月時点で三場所で40勝相当、1903年1月時点だと39勝相当。いずれにせよ文句なしですね。もっとも、実際には相撲協会が東京・大阪に分かれていた関係で横綱免許が遅れたのは以前に申し上げた通り。
・太刀山
大関は1909年6月場所より、横綱は1911年6月場所より
1909年 6月:8勝2敗(12勝3敗)(※)
※優勝は高見山酉之助が7勝3分(10勝5分)。勝利数は太刀山が多いが、高見山を8.5勝相当(15日換算だと12.5勝相当)と見れば高見山の優勝は妥当。
1910年 1月:6勝0敗2分1預1休(10勝0敗3分1預1休) 6月:9勝0敗1部(優)(14勝0敗1分)
1911年 2月:8勝0敗1分1預(優)(12勝0敗2分1預)
1910年6月時点で38.5勝相当、1911年2月時点で40勝相当。無論、史実の1911年2月場所後昇進でも妥当ですが、その前の1910年6月時点で昇進してもよさそうなものです。1月の勝利数そのものが少なめだったので一場所待ったものでしょうか(それでも実質12勝相当でしかも無敗なんですけどね)。彼の場合、三場所の成績を総合してという見方はされなかった模様。まあ、確かに星取表を見る限り本当に強くなったのは1910年1月からという気はしますけど。
・大木戸(大阪相撲)
大関は1905年1月場所より、横綱は1913年1月場所より
1908年 6月:9勝0敗1休(13勝0敗2休)
1909年 1月:9勝0敗1休(13勝0敗2休) 5月:9勝0敗1休(13勝0敗2休)
1909年5月時点で39勝相当。三場所方式で評価すればこの時期に昇進させるべきという事になります。しかし横綱免許が遅れた事情は若嶋と同様。彼の横綱免許をめぐって東京・大阪の協会と吉田司家の間で騒動がありましたが詳細は以前の記事を御参照ください。
・栃木山
大関は1917年5月場所より、横綱は1918年5月場所より
1917年 1月(大関昇進直前):6勝3敗1休(9勝4敗2休) 5月:9勝0敗1預(優)(14勝0敗1預)
1918年 1月:10戦全勝(優)(15戦全勝)
1918年1月場所終了時点で38.5勝、史実通りの昇進となります。
・大錦卯一郎
大関は1916年1月場所より、横綱は1917年5月場所より
1916年 1月:8勝2敗(12勝3敗) 5月:7勝3敗(10勝5敗)
1917年 1月:10戦全勝(優)(15戦全勝) 5月:9勝1敗(13勝2敗)
大関時代三場所の成績は37勝相当ですから37勝基準なら史実通りの昇進。38勝基準なら一場所遅れた同年5月場所後の昇進となるようです。
・宮城山(大阪相撲)
大関は1917年6月場所より、横綱は1922年5月場所より
1921年 1月:2勝4敗1分3休(3勝6敗1分5休) 6月:8勝2敗(12勝3敗)
1922年 1月:10戦全勝(15戦全勝) 5月:7勝1敗2分(11勝2敗2分)
史実通りの1922年1月場所後の昇進はなりませんが、5月場所後に三場所で39勝相当となりますから5月の成績を12勝相当と評価すればこの時の昇進は可能かと。
・常ノ花
大関は1920年5月場所より、横綱は1924年5月場所より
名門出羽海部屋のホープとして実績を積み重ねた常ノ花ですが、昇進については厳格な評価がなされたのは以前述べた通り。それでも、三場所方式だと史実より更に厳しい評価になるようで
1927年 3月:10勝1敗(優)(13勝2敗) 5月:10勝1敗(優)(13勝2敗) 10月:10勝1敗(優)(13勝2敗)
まで待たされる模様。なお1927年10月場所終了時点で、既に優勝は6回。これはきつい。三場所連続という目で見ると、史実で昇進に際して厳しい裁定がなされたのは長期的に少し不安定な印象だったのが一因だったのかも、という気はします。
・玉錦
大関は1930年5月場所より、横綱は1933年1月場所より
彼も昇進に当ってはかなり厳しく評価されており、三連覇を果たしたにもかかわらず昇進を見送られたりしています。
1930年 5月:9勝2敗(12勝3敗) 10月:9勝2敗(優)(12勝3敗)
1931年 1月:9勝2敗(優)(12勝3敗) 3月:10勝1敗(優)(13勝2敗)
計37勝基準だと三連覇した1931年3月でようやく昇進が許されるレベル。計38勝基準だとそれすら昇進見送り。やはり三場所での評価は厳しいようです。その後、
1931年 10月:9勝2敗(12勝3敗)
1932年 2月:7勝1敗(13勝2敗) 3月:8勝2敗(12勝3敗) 5月:10勝1敗(優)(13勝2敗)
と好成績を残しており計37勝基準だと1932年3月、計38勝基準だと同年5月場所後に昇進となります。
・双葉山
大関は1937年1月場所より、横綱は1938年1月場所より
1936年 5月(大関昇進直前):11戦全勝(優)(15戦全勝)
1937年 1月:11戦全勝(優)(15戦全勝) 5月:11戦全勝(優)(15戦全勝)
史実通りの1937年5月時点で三場所計45戦全勝相当。流石は前人未到の69連勝の只中で昇進しただけの事はあります。
・羽黒山
大関は1940年1月場所より、横綱は1942年1月場所より
1940年 1月:11勝4敗 5月:7勝5敗3休
1941年 1月:14勝1敗(優同) 5月:14勝1敗(優)
1942年 1月:13勝2敗
1942年1月時点で三場所計41勝、史実より一場所遅れての昇進となります。
・安芸ノ海
大関は1941年1月場所より、初優勝は1940年5月場所、横綱は1943年1月場所より
1941年 1月:12勝3敗 5月:9勝6敗
1942年 1月:13勝2敗 5月:13勝2敗(優同)
1943年 1月:12勝3敗
1943年1月時点で三場所計38勝、史実より一場所遅れての昇進です。
・照國
大関は1942年1月場所より、横綱は1943年1月場所より
1941年 5月(大関昇進直前):13勝2敗
1942年 1月:12勝3敗 5月:13勝2敗(優同)
1942年5月時点で三場所計38勝。優勝なしがネックですが、当時は優勝決定戦がなく自動的に番付上位力士が優勝となっていましたから仕方ありません。なお、照國は1942年5月の優勝力士である横綱双葉山を相手に勝ち越している稀有な力士の一人です。優勝決定戦がもし当時あったら…というifも考慮して史実通りの1942年5月昇進でよい気がします。
・前田山
大関は1938年5月場所より、横綱は1947年11月場所より
三場所の勝ち星が計37勝相当以上になる時期がありませんでした。二場所合計25勝になる時期は2回あったんですけどね。
・東富士
大関は1945年11月場所より、横綱は1949年1月場所より
1947年 11月:6勝5敗(8勝7敗)
1948年 5月:10勝1敗(優)(13勝2敗) 10月:10勝1敗(優同)(13勝2敗)
1949年 1月:10勝2敗(優)(12勝3敗)
1949年1月時点で三場所合計38勝、史実より一場所遅れての昇進になります。強かったけれどムラがあった力士だと言いますから、それが三場所評価では少し災いしましたか。
以上、三場所評価だと昇進を逃す横綱、昇進が遅れる横綱が結構いました。やはり、三場所での安定性を求められると厳しいようです。
なお、当時に惜しくも横綱昇進を逃した強豪大関の中に三場所評価で手が届いた可能性のある人が一人だけ。
・清水川
大関は1932年5月より、初優勝は1932年2月
数奇な運命をたどった力士です。若い頃から有望視されながら、小結時代に慢心して放蕩。酒と女に溺れ、ごろつきから脅迫されたり本場所を無断休場したりと目に余る素行だったため一旦は除名の憂き目に会っています。しかし父親が復帰・大関昇進を願った遺書を残して自殺したのを契機に特例として帰参が認められました。以降の彼は別人のように精進し優勝3回の名大関とうたわれるようになっています。そんな彼も、あと一歩で横綱に手が届く時期があったようです。
1932年 3月(大関昇進直前):8勝2敗(12勝3敗) 5月:10勝1敗(13勝2敗) 10月:9勝2敗(優)(12勝3敗)
計37勝基準であれば、1932年10月で横綱になっていても不思議はありません。直前二場所での評価でも昇進していて不思議ではないんですけどね。同時期の玉錦といい、この時期の協会は随分評価が辛めな印象です。
関連サイト:
「相撲評論家之頁」(http://park11.wakwak.com/~tsubota/door1.html)
歴代横綱の成績および清水川の事跡は、このサイトを参考にさせていただきました。
なお、清水川の成績はWikipediaを参照しています。
※2013/12/5 大木戸、大錦、常ノ花の部分で誤字修正など少し手直ししました。
by trushbasket
| 2013-12-04 19:33
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