京周辺の城塞リスト~『戦国時代の貴族』から~
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ならば京全体を要塞化すればよさそうなものですが、足利時代までは京は貴族や比叡山などの有力寺社による権益が相当に入り込んでおり為政者が京を自由にする事は難しかったようで。それでは、為政者はこの守りにくい情態を手をこまねいていたのかと言えば無論そうではなく、周辺の要地に城塞を作って軍事的拠点としていたようです。そうした城塞のうちで昭和四十七年に京都府教育委員会『京都府遺跡地図―史跡・名勝・天然記念物および埋蔵文化財包蔵地所在地図』に記されているのは京都市・旧乙訓郡地域では山崎城・勝竜寺城・今里城・海印寺城のみです。しかし、徳川時代の京都名所案内記である『雍州府志』『山城名勝志』『山州名跡志』には数多くの城跡が記されています。これらの城跡について、京都大学人文科学研究所教授・上山春平氏が実地調査を行い『山城からの再出発』『山城を歩いて考える―京都・北白川城の場合』などに成果をまとめているそうです。それから判明した城塞について、歴史家・今谷明氏が戦国期貴族の日記を扱った『戦国時代の貴族』(リンク先はAmazon)で記しています。以下はそこから簡略に書き写した一覧です。
・勝竜寺城
文明六年(1474)に野田泰忠が細川勝元に提出した軍忠状に勝竜寺の名が見えますが、城だったかは不明です。一方で康正三年(1457)には将軍義政の八幡社参のため人夫をこの地によこすよう命じた畠山義就の文書が残っている事からここに郡代の政庁があったと推測され、それが城塞に発達したと思われます。長岡京市勝竜寺の神足神社付近とされています。
・山崎城
建武五年(1338)に林直弘が赤松則祐に提出した軍忠状に「鳥取尾状に馳せ参じ」山崎警固をしたとあり、文明六年の野田泰忠軍忠状にも「山崎に着陣仕」って「城を鳥取尾山に構へ」たとあります。大阪平野から京への入り口を塞ぐため天王山に設けられた城塞と思われます。戦国前期には三好元長・柳本氏や法華一揆が争奪戦を繰り返し細川晴元が京守備のため重視しています。宝積寺から尾根に沿って海抜270m地点とされています。
・開田城
『大乗院寺社雑事記』の記録では文明二年(1470)四月十八日に「開田城并びに勝竜寺城、山名弾正并びに丹波勢これを落つと云々」とあります。阪急長岡天神駅西北約100mに遺構があり東西南北の径が80m、堀幅は10mで深さが0.5m~1m、土塁幅5m、高さ1.7mの平城だったと推測されています。
・鶏冠井城
文明六年の野田泰忠軍忠状では、「西岡衆の者、御敵鶏冠井城を搦め」とあり山名方の城として存在したと推測されます。また『実隆公記』大永七年(1527)十月二十四日に「西岡に京勢乱入す」「鶏冠木井未だ退散せず」とありこの時期にも拠点として重んじられていた事が分かります。向日市鶏冠井町大極殿あたりとされ、大正期までは堀と土塁に旧跡が囲まれていたと言われています。
・野田城
『言継卿記』大永七年二月三日には「西岡野田城落ち候」とあります。野田泰忠の本拠地にあったのでしょうか?京都市西京区南春日野田あたりではないかとされています。
・峰ヶ城
『東寺百合文書』ひ函の文書から天文三年(1534)に細川晴元奉行人・茨木長隆により西岡の寺社領への半済が「峯城の米として仰せ付けらるる」とあります。京都市西京区御陵小字峯ヶ堂の、「峯の堂」法華山寺が廃絶された後に城塞に転用されたと考えられています。なお、寺院時代にも京攻防戦で陣地として使用されたことが『太平記』などから分かります。
・谷ノ城
『言継卿記』天文三年八月三日に「谷城落」とあります。また野田泰忠軍忠状に「谷の堂に陣取り」「谷の陣に責め寄せ」「彼の城没落」とありますから応仁の乱時点で城塞となっていたことが分かります。「谷の堂」とは最福寺のことで、京都市西京区松室地家町に存在したとされます。これもまた寺院が廃絶された後に城塞とされた例です。
・嵐山城
『二水記』永正二年(1505)九月十一日、「山城へ罷り向かう間、香西嵯峨城へ引き退く」「今日より当国半済停止すと云々」とあり、『後法成寺尚通公記』永正四年(1507)七月二十九日には「香西又録の嵐山城を、西岡衆責むるの由」にある嵐山城と同一と見られています。山城下五郡守護代であった香西元長の居城であったと考えられ、山城国寺社領の半済が納められていたようです。軍事的要衝として細川晴元が重視したことで知られます。千光寺南方の海抜381.5m地点に土塁や曲輪が発見されています。
・高雄城
『厳助往年記』天文十六年(1547)閏七月三日には細川国慶が「高雄山に城きてこれあり」と記されています。天文八年に細川晴元が高雄に出陣し陣を構えている記録がありますが、この頃既に城があったのでしょうか。
・美豆城
『看聞日記』応永二十五年(1418)十一月一日に山城守護代三方範忠が「美豆に城郭を構へ居住すべしと云々」と記録され政庁があったと考えられています。淀と共に木津川・宇治川合流地であり戦国期には淀城に替わられたとされています。
・淀城
文明十年(1478)には乙訓郡代神保与三左衛門が淀に入っておりこの地がこの時期の郡代政庁であったとされます。永正元年(1504)に摂津守護代薬師寺元長がここに篭り細川政元に反乱しています。
・御牧城
『後法興院政家記』明応八年(1499)に「御牧城を責め落とし」と記録があります。ただし、美豆城と同一である可能性もあるとされています。
・槙島城
文明十年(1478)に久世郡代遊佐弥六が入部しており、上三郡の守護代政庁であったようです。「大乗院寺社雑事記」によれば明応六年(1497)に上三郡守護代赤沢朝経が居城としていたそうです。
・石原城
『厳助往年記』天文二十年(1551)二月七日には「三好は石原城まで罷り上ると云々」とあります。京都市南区吉祥院石原町と推測されます。
・吉祥院城
細川晴国書状(天文四年頃と推測)では「去年吉祥院に於いて入城の由」とあります。また、『親俊日記』天文八年(1539)七月二十一日に「吉祥城」との記述が見られます。郡代の在庁があったと推測され、石原城と共に東寺と呼応する連絡線であったと考えられています。
・小泉城
『言継卿記』天文十九年(1550)四月十七日に細川晴元軍が「西院小泉城に取り懸かりこれを責む」とあります。また、天文十八年(1549)以前に出来たと見られる上杉本洛中洛外図に「さいのしろ」とあるのが同一と考えられています。天文二十二年(1553)七月に将軍足利義輝は改修し環濠式平城としたと伝えられます。京都市右京区西院乾町とされています。
・松崎城
『鹿苑日録』天文五年(1536)七月二十二日に「法花衆打ち廻りす、松崎城落つ」とあります。松ヶ崎橋西北方の字城山に相当すると推測されています。
・東山新城
『山科家礼記重胤記』文明二年(1470)九月十八日に「山陣の処、逸見北白川上山に構沙汰するの由」とあるのが初見で、若狭守護武田氏の被官逸見氏が京と若狭の通路を確保するため築城したようです。『応仁別記』文明元年(1469)にも「武田大膳大夫に仰せ付けられ、北白河にに城郭を拵えて」とある事からもそれが分かります。『二水記』享禄四年(1531)六月六日には「東山新城」とあり「旧と武田の城なぢ、近日近江の衆新たにこれを拵へ、数千間木屋を懸け了んぬ」と注釈されています。瓜生山の東側ピークと推測されています。
・勝軍山城
『二水記』享禄三年(1530)十二月十二日に「勝軍に取り懸かる」とあり「内藤彦七城也」と注釈されていますからこの時期にはここに城郭があったようです。当初は細川高国・足利義晴側でしたが翌年六月には細川晴元軍が落としています。その後も、京の将軍に危急が迫ると近江から番替衆がこの城に詰めていたようです。天文十五年(1546)には義晴が晴元と対立した際に大修築を加えて拠点としようとしており、『言継卿記』によれば天文十九年(1550)にも義輝が再建して守りを固めています。永禄元年(1558)に将軍義輝と三好長慶が争った際には六角義賢がこの城に詰めており、足利将軍家が軍事拠点としてしばしば用いたのが分かります。元亀元年(1570)に明智光秀が入城していた事が分かっており、少なくともこの時期までは用いられていたことになります。瓜生山の東北方面に存在したようです。
・中尾城
『万松院殿穴太記』には天分十九年(1550)に「大たけ中尾といふ山にて」「要害を構へ」と記されています。将軍義輝が三好との戦いに備えて築城し、翌年には二重に壁を作りその間に石を詰めて鉄砲への備えをしています。銀閣寺庭園より東方約600mと推定されています。
・如意嶽城
大文字山山頂にあり、如意寺跡の中です。廃寺を城郭とした例といえます。
・霊山城
『異本年代記』天文二十一年(1552)十月二十七日には「義藤霊山御城普請始」とあり、『厳助往年記』にも「東山霊山の峠に、公方様御城」とあります。義輝と三好との戦いの中で拠点として築城されたようです。正法寺の場所にあります。
・四手井城
『言継卿記』永禄元年(1558)七月二十四日に「四手野井城の辺放火す」とあります。四手井氏の居城であり、山科区厨子奥矢倉町に存在します。現在も子孫の方が居住されているそうです。
冒頭でも述べましたように、これは『戦国時代の貴族』からメモしたリストをまとめたものなので、正確な詳細や地図などを知りたい方は原著を読んでいただきますようお願いいたします。戦国期の朝廷貴族の姿を知るうえでも名著だと思いますので。
さて、京周辺には、数多くの城塞が存在したのですね。南側の城は守護代の政庁が転じたものが多かったようで、交通の要所が政治的拠点として利用されていたことがわかります。また、廃絶した寺院を転用しているケースもいくつかありました。寺院は当時の最新建築技術が投入されており、防衛機能にも優れておりしばしば軍陣として利用されていましたから、廃寺を城郭として利用するのはまあ当然の選択と思えます。
戦国期に特徴的なのは足利将軍家が京郊外に軍事拠点を建設している事だそうです。近接する有力豪族に圧迫され地の利を頼んで抵抗する地方勢力に転落した事を象徴するような事象といえます。なお、勝軍山城や霊山城築城の際に周辺住民から人足徴発を行なっていますが、今谷氏はこれを山城一国の守護としての権限で行なったのであろうと推測しています。ゲーム『信長の野望』シリーズなどで足利将軍家が京都周辺の一大名として扱われていたのは正に的を射ていたのですね(ただし、全国規模で大名間の調停を行なうなど精神的影響力は侮れなかったようですが)。
織田・豊臣による統一政権が樹立されると、京を取り囲んでいた様々な権門は統一政権に膝を屈し中央政府による強力な支配が実現します。それに基づいて秀吉は京全体を要塞化しようと画策、御土居建設にそれが現れています。しかしそれ以降は京が戦場になることはなく、徳川氏の下で二百年以上にわたる平和が実現し「要塞都市」京が歴史上に姿を現す事はなかったのです。
【参考文献】
戦国時代の貴族 今谷明 講談社学術文庫
戦国時代の室町幕府 今谷明 講談社学術文庫
日本の中世寺院 伊藤正敏 芳川弘文館
日本古典文学大系太平記 一~三 岩波書店
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史」
また南北朝期・足利期に関しては
「南北朝関連発表まとめ」
を御覧ください。