2014年 03月 22日
「法と詩歌が同じ揺籃から」in 日本~徳政令と万葉の恋歌~
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以前の雑記にありましたが、ドイツの童話で知られるグリム兄弟が民話収集・言語研究に勤しんだのは「法の担い手を平凡・猥雑な民衆の中に見出し、社会と文化と歴史の広く深い研究の基礎の上から、民衆生活の行為規範たる法を解明しようとして」の事だったそうです。彼らは著作において「法と詩歌は同じ揺籃から育って来た」と述べているとか。要は、法は偉い人の現実から空理した理論により成立したのではなく、実際の民衆生活や社会的事情を反映して作られてきたものでありその点で文学と通じるものがあるという事ですね。こうした考えに関連した日本の話題について今回は少し話そうかと。
条件を満たしていれば御家人が売買した土地を無償で取り戻せる「永仁の徳政令」や借金を棒引きして質草を得る事のできる足利期の徳政令。これらの現代の売買契約からはありえないような内容である法に関して、多くの歴史学者(特に法制史専門)が強い関心を寄せてきました。中でも背後にどのような思想が存在したのか、当時の所有に関する考え方はどのようなものだったかに注目が寄せられていたのです。それに関する手がかりは、意外なところで発見されていたようです。
昭和四年(1929)、近代民俗学の大家・折口信夫は長野県人会で『古代人の思考の基礎』と題した講演を行いました。それによれば折口氏は
という歌を引き合いに出して以下のように論じています。
まず「商返と言ふのは、社会経済状態を整へる為、或は一種の商業政策の上から、消極的な商行為であつて、売買した品物を、ある期間内ならば、各元の持ち主の方へとり戻し、又契約をとり消すことを得しめた、一種の徳政と見るべきもの」であり、「かうした習慣の元をなしたのは、天皇は一年限りの暦を持つて居られ、一年毎に総てのものが、元に戻り、復活すると言ふ信仰」であったと。何でも、太古の日本では年についての考えがまちまちであり、「天皇が高所に登つて、祝詞を下すと、何時でも初春になり、その登られた台が、高天原になつて了ふ。」といった具合だったためたびたび変化したのだとか。そういえば、本居宣長も『真暦考』で昔の暦はきわめて大雑把にしか定めがなかった(一月は上旬・中旬・下旬の区別があるのみで日数が決まっていなかったなど)と述べていますから、太古の日本人の日付感覚はかなりおおらかだったんですな。
しかしそうした一年限りの暦という信仰があっても、実際問題としては新たな年となっても変らないわけで時代が進むにつれそうした考え方は薄れていきます。とはいえ売買や貸借といった契約に苦しめられる人は多く、十年や二十年といった一定期間ごとに土地の所有を切り替えるといった風習が近代になるまで存在していたのだろうと折口氏は推測しています。その上で、折口氏は徳政令についても言及し
と述べています。
ちなみに下衣が云々というのは、「男女契りを結ぶと、下の衣を取りかへて著た」風習を踏まえており、「著物は、魂の著き場所で、著物を換へて身に著ける、と言ふ事は、魂を半分づゝ交換して著けてゐる事である」という意味があったのだそうで。だから、それを相手に返すと縁を切ったことを意味する。で、この歌では絶縁を拒む際には、商返が「ちようど、夫婦約束の変更、とりかはした記念品のとり戻しなどに似てゐるので、一種の皮肉な心持ちを寓して、用ゐた」のだろうという事です。
(以上、引用部分は「青空文庫」の「折口信夫 古代人の思考の基礎」より)
なるほど、してみると足利期に将軍が代わると「代替わりの徳政」を求めて徳政一揆が起こったのもその延長上で考えれば分かりますね。
以上から見ると、徳政令という鎌倉後期・足利期にしばしば見られた特殊ともいえる法令は、ただの無理やりな横槍というより当時の民衆生活や社会習慣を反映して生まれたものだった、ということが分かりますね。そして、奇しくも詩歌が「同じ揺籃」から生まれている事をも折口氏の文章は示しています。歴史の授業で厳しい字面構えをしていた法令と、古代の痴話喧嘩な歌がこんな形でリンクするとは学生時代には思いませんでした。グリム兄弟の持論は、我が国においても十分に通用する普遍性を持っているといえそうです。
なお、歴史学分野で最初に折口氏のこの講演内容に注目したのは中世法制史の第一人者・笠松宏至氏だったようで、約半世紀後の事だったそうです。これに関して笠松氏は、歴史学が長らく民俗学の成果に充分目を向けていなかったとコメントを著作で残されていました。どの学問でも言える事ですが、細分化するとどうしても他分野には目が行き届かなくなりますからね…。人間のエネルギーは有限ですから、ある程度やむを得ない話ではあります。そう考えると、笠松氏の視野の広さは驚愕に値しますね。専門以外のところにもアンテナを張り巡らす、というのは言うのは容易くとも実行は難しいものだな、とも痛感する話でもありました。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「折口信夫 古代人の思考の基礎」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18397_22466.html)
徳政令 笠松宏至 岩波新書
本居宣長全集 第八巻 筑摩書房
日本の歴史10下剋上の時代 永原慶二 中公新書
関連記事:
「古代日本の商業概観」
「神様に、ファインプレイを―神道における祭祀への一考察―」
「大和心はロリ心 ~ロリペド輝く『大和物語』~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「本居宣長」
(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/011214.html)
「室町時代の社会と経済発展」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021025a.html)
「政治家・足利義政」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021025c.html)
関連サイト:
「後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について-」
(http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/index.htm)より
「徳政・徳政令」(http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-tokusei.htm)
条件を満たしていれば御家人が売買した土地を無償で取り戻せる「永仁の徳政令」や借金を棒引きして質草を得る事のできる足利期の徳政令。これらの現代の売買契約からはありえないような内容である法に関して、多くの歴史学者(特に法制史専門)が強い関心を寄せてきました。中でも背後にどのような思想が存在したのか、当時の所有に関する考え方はどのようなものだったかに注目が寄せられていたのです。それに関する手がかりは、意外なところで発見されていたようです。
昭和四年(1929)、近代民俗学の大家・折口信夫は長野県人会で『古代人の思考の基礎』と題した講演を行いました。それによれば折口氏は
商返しろすと、みのりあらばこそ。わが下衣 かへしたばらめ(万葉集巻一六)
商返を、天皇がお認めになる、と言ふ祝詞が下つたら、私の下衣を返して貰ひませうが、お生憎さま。商返の祝詞がございませんから、返して頂く訣にはゆきません
という歌を引き合いに出して以下のように論じています。
まず「商返と言ふのは、社会経済状態を整へる為、或は一種の商業政策の上から、消極的な商行為であつて、売買した品物を、ある期間内ならば、各元の持ち主の方へとり戻し、又契約をとり消すことを得しめた、一種の徳政と見るべきもの」であり、「かうした習慣の元をなしたのは、天皇は一年限りの暦を持つて居られ、一年毎に総てのものが、元に戻り、復活すると言ふ信仰」であったと。何でも、太古の日本では年についての考えがまちまちであり、「天皇が高所に登つて、祝詞を下すと、何時でも初春になり、その登られた台が、高天原になつて了ふ。」といった具合だったためたびたび変化したのだとか。そういえば、本居宣長も『真暦考』で昔の暦はきわめて大雑把にしか定めがなかった(一月は上旬・中旬・下旬の区別があるのみで日数が決まっていなかったなど)と述べていますから、太古の日本人の日付感覚はかなりおおらかだったんですな。
しかしそうした一年限りの暦という信仰があっても、実際問題としては新たな年となっても変らないわけで時代が進むにつれそうした考え方は薄れていきます。とはいえ売買や貸借といった契約に苦しめられる人は多く、十年や二十年といった一定期間ごとに土地の所有を切り替えるといった風習が近代になるまで存在していたのだろうと折口氏は推測しています。その上で、折口氏は徳政令についても言及し
商返は、日本の歴史の上では、長い間隠れてゐた。歴史の上に見えないと言ふ理由で、事実が無かつたと思ふのは、早計に過ぎる。室町時代以後になつて、徳政と言ふ不思議なことが、突然記録に現れて来たが、此は今まで、記録にも歴史にも現れずに、長い間、民間に行はれてゐたのが、時代の変化に伴うて、民衆の力が強くなつて来たので、歴史の表面に出たのである。
と述べています。
ちなみに下衣が云々というのは、「男女契りを結ぶと、下の衣を取りかへて著た」風習を踏まえており、「著物は、魂の著き場所で、著物を換へて身に著ける、と言ふ事は、魂を半分づゝ交換して著けてゐる事である」という意味があったのだそうで。だから、それを相手に返すと縁を切ったことを意味する。で、この歌では絶縁を拒む際には、商返が「ちようど、夫婦約束の変更、とりかはした記念品のとり戻しなどに似てゐるので、一種の皮肉な心持ちを寓して、用ゐた」のだろうという事です。
(以上、引用部分は「青空文庫」の「折口信夫 古代人の思考の基礎」より)
なるほど、してみると足利期に将軍が代わると「代替わりの徳政」を求めて徳政一揆が起こったのもその延長上で考えれば分かりますね。
以上から見ると、徳政令という鎌倉後期・足利期にしばしば見られた特殊ともいえる法令は、ただの無理やりな横槍というより当時の民衆生活や社会習慣を反映して生まれたものだった、ということが分かりますね。そして、奇しくも詩歌が「同じ揺籃」から生まれている事をも折口氏の文章は示しています。歴史の授業で厳しい字面構えをしていた法令と、古代の痴話喧嘩な歌がこんな形でリンクするとは学生時代には思いませんでした。グリム兄弟の持論は、我が国においても十分に通用する普遍性を持っているといえそうです。
なお、歴史学分野で最初に折口氏のこの講演内容に注目したのは中世法制史の第一人者・笠松宏至氏だったようで、約半世紀後の事だったそうです。これに関して笠松氏は、歴史学が長らく民俗学の成果に充分目を向けていなかったとコメントを著作で残されていました。どの学問でも言える事ですが、細分化するとどうしても他分野には目が行き届かなくなりますからね…。人間のエネルギーは有限ですから、ある程度やむを得ない話ではあります。そう考えると、笠松氏の視野の広さは驚愕に値しますね。専門以外のところにもアンテナを張り巡らす、というのは言うのは容易くとも実行は難しいものだな、とも痛感する話でもありました。
【参考文献】
「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/)より
「折口信夫 古代人の思考の基礎」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18397_22466.html)
徳政令 笠松宏至 岩波新書
本居宣長全集 第八巻 筑摩書房
日本の歴史10下剋上の時代 永原慶二 中公新書
関連記事:
「古代日本の商業概観」
「神様に、ファインプレイを―神道における祭祀への一考察―」
「大和心はロリ心 ~ロリペド輝く『大和物語』~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「本居宣長」
(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/011214.html)
「室町時代の社会と経済発展」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021025a.html)
「政治家・足利義政」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/2002/021025c.html)
関連サイト:
「後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について-」
(http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/index.htm)より
「徳政・徳政令」(http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-tokusei.htm)
by trushbasket
| 2014-03-22 20:23
| NF








