2014年 06月 29日
「足利義満」補足~南北朝合併時の約束を別に無視したわけではない?~
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だいぶ昔ですが、足利政権第三代・義満の伝記レジュメを作成したことがあります。
約六十年にわたった南北朝の争いを一応終結させた足利義満ですが、彼が南朝と北朝の合体を実現した際、条件として出されたのが
というものでした。しかし結局は御存知の通り皇位は北朝の系統によって受け継がれ、旧南朝系統は歴史から姿を消していきます。そのためもあり、義満は当初から反故にするつもりでこれらの約束をしたのだ、と非難されたりした時代もありました。しかし、詳細に見ると話はそう単純でもないようです。
まず①ですが、もし実行するとこれまで奉じてきた北朝の正統性を否定する事になり、それは北朝により将軍が任命されていた足利政権自体の正統性にも傷を付ける結果となります。したがってこれは無理な話なのは上述のレジュメでも述べたとおりです。
その観点からすると、南朝最後の天皇・後亀山に「太上天皇」号を「特例」として許可するのが精一杯出来る事だったといえます。この事例は、「皇位になかった人」に「院」号を与える例であることから義満自身に将来「太上天皇」号が与えられるための下準備とする見方も存在しますが、同時代の北朝貴族にとって憂慮すべき事は他にあったようです。具体的に言えば、当時の上級貴族はこの後亀山への「院」号認定について
と慨嘆しているのです。つまり、義満は北朝朝廷の意思に反して、旧南朝の皇位継承者資格を否定しなかった。それが当時においては問題だったようです。自らが皇位簒奪しようとしていたとか言われる割に、旧敵方であった皇族にも微温的な対応といえますね。
次に②ですが、結論から言えば義満がどうするつもりだったかは分からないのです。というのは、義満在世中には後小松天皇の皇太子は未定のままだったからです。つまり、理論上は義満が旧南朝皇族を皇位継承者に推薦する可能性が残されたままの状況だったわけです。①で述べたように、旧南朝も皇族として扱われ、皇位継承権を主張しえる状態でしたしね。後小松の皇子が称光天皇として擁立されたのは、義満死後間もない応永十九年(1412)の事。これを主導した将軍義持は父義満の施策に反発し逆コースを選ぶ事が少なからずありましたから、これも義満の意思に反したものだったかもしれません。
因みに、義持の時代にも旧南朝皇族は軟禁・出家を勧められていたものの依然として皇族として扱われてはいました。後亀山は義持に反発して一時は吉野に出奔していますが、義持は後亀山を宥めて帰京してもらうという妥協的な解決で事を収めています。旧南朝が本格的に弾圧されるようになるのは義教時代です。彼の時代には、旧南朝皇族が反足利将軍勢力によって旗印に擁立される事が多くなっており、当然の処置といえるでしょう。寧ろ、そうした「危険分子」に対して義満・義持らが寛大に過ぎたように思います。
最後に③です。後亀山は嵯峨で隠退生活に入った後、「院」として紀伊・若狭の国衙領に関連した院宣を出していましたから、この約束はある程度実行されたと見てよいようです。
以上を見ると、義満は寧ろ現実問題として可能な範囲で合体時の約束を守ろうとしていたと言えなくもないようです。南朝の実力が足利政権のそれと比較すると飛べば吹くような程度でしかなかった事も考慮すると、意外な厚遇と見る事も出来ます。まあ、後亀山や旧南朝派には憤懣もあったでしょうが。それでも、義満は嵯峨の後亀山に何度か対面をしているようですし、単なる「敗者」に対するものとは異なる扱いをしているとは言っても差し支えないと思います。
一方、義満は北朝系皇族に対して寧ろ圧迫的態度に出ていました。例えば後円融天皇に対しては精神的圧力をかけノイローゼに追い込んでおり、一時は自殺未遂や出家騒ぎになったりもしています。また、崇光院系統の伏見宮家に対しても、伝来の所領を取り上げ後小松天皇の系統が継承するよう計らって経済基盤を奪っているのです。これらと比べると、旧南朝への態度が不思議なほど寛容であるように思えて興味深いのです。
【参考文献】
森茂暁『闇の歴史、後南朝』 角川選書
小島毅『足利義満 消された日本国王』 光文社新書
臼井信義著『人物叢書 足利義満』 吉川弘文館
関連記事:
「南北朝・室町を中心に性的年齢の範囲について考える」
「外交において「名を捨て実を取ろう」とした際の名目関係の問題~義満以降の日明貿易について~」
「南北朝研究史概論」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連発表は
「南北朝関連発表まとめ」
にまとめてリンクしています。
足利義満については、社会評論社『ダメ人間の日本史』で、南朝最後の君主・後亀山天皇について同『敗戦処理首脳列伝』、南北朝合一を果たした際の後小松天皇については同『戦後復興首脳列伝』で取り上げています。興味のある方は御参照ください。
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※2014年6月30日 参考文献の書式を変更。
2014年7月1日 関連する著書に関する宣伝を追加。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「足利義満」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshimitsu.html)
約六十年にわたった南北朝の争いを一応終結させた足利義満ですが、彼が南朝と北朝の合体を実現した際、条件として出されたのが
①譲国の儀式を行いそこで後亀山天皇から後小松天皇に神器を譲渡する
②皇位は今後持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互に即位する
③諸国国衙領(国司を通じて朝廷が支配する土地)は大覚寺統、長講堂領(皇室領最大の荘園)は持明院統が支配する
というものでした。しかし結局は御存知の通り皇位は北朝の系統によって受け継がれ、旧南朝系統は歴史から姿を消していきます。そのためもあり、義満は当初から反故にするつもりでこれらの約束をしたのだ、と非難されたりした時代もありました。しかし、詳細に見ると話はそう単純でもないようです。
まず①ですが、もし実行するとこれまで奉じてきた北朝の正統性を否定する事になり、それは北朝により将軍が任命されていた足利政権自体の正統性にも傷を付ける結果となります。したがってこれは無理な話なのは上述のレジュメでも述べたとおりです。
その観点からすると、南朝最後の天皇・後亀山に「太上天皇」号を「特例」として許可するのが精一杯出来る事だったといえます。この事例は、「皇位になかった人」に「院」号を与える例であることから義満自身に将来「太上天皇」号が与えられるための下準備とする見方も存在しますが、同時代の北朝貴族にとって憂慮すべき事は他にあったようです。具体的に言えば、当時の上級貴族はこの後亀山への「院」号認定について
後醍醐天皇々胤なほ絶つべからざるか」(『経嗣公記』)
【現代語訳】後醍醐の血統はまだ断絶しないのか。
と慨嘆しているのです。つまり、義満は北朝朝廷の意思に反して、旧南朝の皇位継承者資格を否定しなかった。それが当時においては問題だったようです。自らが皇位簒奪しようとしていたとか言われる割に、旧敵方であった皇族にも微温的な対応といえますね。
次に②ですが、結論から言えば義満がどうするつもりだったかは分からないのです。というのは、義満在世中には後小松天皇の皇太子は未定のままだったからです。つまり、理論上は義満が旧南朝皇族を皇位継承者に推薦する可能性が残されたままの状況だったわけです。①で述べたように、旧南朝も皇族として扱われ、皇位継承権を主張しえる状態でしたしね。後小松の皇子が称光天皇として擁立されたのは、義満死後間もない応永十九年(1412)の事。これを主導した将軍義持は父義満の施策に反発し逆コースを選ぶ事が少なからずありましたから、これも義満の意思に反したものだったかもしれません。
因みに、義持の時代にも旧南朝皇族は軟禁・出家を勧められていたものの依然として皇族として扱われてはいました。後亀山は義持に反発して一時は吉野に出奔していますが、義持は後亀山を宥めて帰京してもらうという妥協的な解決で事を収めています。旧南朝が本格的に弾圧されるようになるのは義教時代です。彼の時代には、旧南朝皇族が反足利将軍勢力によって旗印に擁立される事が多くなっており、当然の処置といえるでしょう。寧ろ、そうした「危険分子」に対して義満・義持らが寛大に過ぎたように思います。
最後に③です。後亀山は嵯峨で隠退生活に入った後、「院」として紀伊・若狭の国衙領に関連した院宣を出していましたから、この約束はある程度実行されたと見てよいようです。
以上を見ると、義満は寧ろ現実問題として可能な範囲で合体時の約束を守ろうとしていたと言えなくもないようです。南朝の実力が足利政権のそれと比較すると飛べば吹くような程度でしかなかった事も考慮すると、意外な厚遇と見る事も出来ます。まあ、後亀山や旧南朝派には憤懣もあったでしょうが。それでも、義満は嵯峨の後亀山に何度か対面をしているようですし、単なる「敗者」に対するものとは異なる扱いをしているとは言っても差し支えないと思います。
一方、義満は北朝系皇族に対して寧ろ圧迫的態度に出ていました。例えば後円融天皇に対しては精神的圧力をかけノイローゼに追い込んでおり、一時は自殺未遂や出家騒ぎになったりもしています。また、崇光院系統の伏見宮家に対しても、伝来の所領を取り上げ後小松天皇の系統が継承するよう計らって経済基盤を奪っているのです。これらと比べると、旧南朝への態度が不思議なほど寛容であるように思えて興味深いのです。
【参考文献】
森茂暁『闇の歴史、後南朝』 角川選書
小島毅『足利義満 消された日本国王』 光文社新書
臼井信義著『人物叢書 足利義満』 吉川弘文館
関連記事:
「南北朝・室町を中心に性的年齢の範囲について考える」
「外交において「名を捨て実を取ろう」とした際の名目関係の問題~義満以降の日明貿易について~」
「南北朝研究史概論」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連発表は
「南北朝関連発表まとめ」
にまとめてリンクしています。
足利義満については、社会評論社『ダメ人間の日本史』で、南朝最後の君主・後亀山天皇について同『敗戦処理首脳列伝』、南北朝合一を果たした際の後小松天皇については同『戦後復興首脳列伝』で取り上げています。興味のある方は御参照ください。
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※2014年6月30日 参考文献の書式を変更。
2014年7月1日 関連する著書に関する宣伝を追加。
by trushbasket
| 2014-06-29 23:37
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