2014年 07月 27日
北畠顕家(一)
|
目次はこちら。
1.当時の情勢
7世紀後半から8世紀初頭にかけて日本列島に中央集権的な古代政権が完成。だが、9世紀には早くも崩壊の兆しを見せた。地方では貧富の差が拡大。地方有力豪族は没落した農民を庇護下に収め、私有地の開発を進める。9世紀末から10世紀初頭にかけて、朝廷、すなわち中央政府は全国支配の貫徹が難しくなったと判断。豪族達の利権を部分的に黙認し、土地を可能な限り把握して税収入を確保する方針に転換した。一方、地方豪族たちは地方長官からの徴税を逃れようと腐心する。そのため、彼らが有力貴族や寺社に名目上寄進する現象が目立つようになる。こうして朝廷の実力は弱体化し、有力帰属や寺社が広大な土地を所有するようになる。しかし有力貴族・寺社などの権門はなお朝廷の権威を必要とした。かくして朝廷は彼らによって連合体の盟主として推戴され、なおも日本列島に君臨する。10世紀から11世紀前半にかけて確立されたこの体制を「王朝国家」と呼ぶ。
朝廷は軍事力が弱体化していた。そのため、地方豪族のそれを利用して有事に対応する方針をとる。やがて地方豪族は社会的実力を向上させ、彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が中央で台頭。12世紀末には有力軍事貴族である伊勢平氏が朝廷の実権を握るに至る。しかし地方豪族にはそれに反発するものも多く、各地でもう一つの有力軍事貴族・源氏一族を擁立して反乱した。
この内乱を経て、関東に拠点を置いた源頼朝が勝ち残り軍事政権を樹立する。鎌倉幕府である。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めてはいたが、東日本を中心とした独自の支配体制を確立させた。こうして朝廷が西日本を支配し、幕府が東日本に号令する形が出来上がる。13世紀前半の承久の乱では幕府が軍事力で朝廷を撃破し、圧倒的な優位に立った。こうして次第に西日本も含めた広い地域に幕府は支配権を広げる。13世紀末、モンゴル帝国が来襲すると、それを契機として幕府は全国規模で支配権を強化。国防体制を固めた。そしてこの頃に発達しつつあった商業勢力を支配下に組み込む事で、専制化を進める。
一方で、従来より幕府に従属していた豪族達は経済的負担に苦しんでいた。分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備が彼らを圧迫していた。彼らは専制化する北条氏やその側近たちに不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に新興豪族が台頭。彼らは貨幣経済発達に伴って非農業民を支配下に置いており、伝統的勢力としばしば衝突し「悪党」と呼ばれた。朝廷・幕府も統制しきれない「悪党」は、社会不安要素とみなされるようになる。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の「悪党」らは寧ろ自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多かった。
さて、承久の乱以降は勢力を弱めていた朝廷であるが、更に皇室や有力貴族が地位をめぐって争う。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂したのである。中でも皇位や「治天の君」(皇室の家長)をめぐっての持明院・大覚寺両統の対立は深刻だった。朝廷は自力での解決が困難と見て、幕府に調整を依頼する。これが、皇位争いに敗れた側の幕府への遺恨を生む火種ともなった。
経済発達を背景に専制化を進める北条氏だったが、その一方で各階層から反発を買い孤立しつつあった。人々の不満や社会不安も高まっており、幕府は火薬を満載した導火線の上に座しているかのようだった。
2.北畠家
北畠家は、村上源氏の流れを汲む家系である。村上源氏は名の通り村上天皇の孫・師房に端を発しており、藤原氏の全盛期においても彼らと縁戚関係にあることで朝廷の中枢に地位を占め続けた。やがて藤原氏の勢威が衰え、強力な指導力を持った天皇家の家長に主導権が移る。既に皇位を退いた天皇家の家長による院政の時代である。この時期にも、村上源氏は「治天の君」と結びつくことで権勢を誇った。そして12世紀末には、源頼朝と駆け引きを繰り広げた策謀家・源通親を輩出するに至る。その孫に当たる雅家が京都郊外の北畠に居を構えたことが北畠家の始まりである。村上源氏の嫡流は雅家の弟・通成が継いでいた。その母親が鎌倉と縁深い家柄であったためだという。そのため、北畠家は村上源氏の中でも傍流であり、昇進も正二位権大納言までというのが通例となっていた。一応は閣僚級であるが、首班にはなれない位置である。皇室が二つに分裂した後は、亀山天皇の家系すなわち大覚寺統に心を寄せていた。上流貴族には違いないが、斜陽にある貴族社会の中でいわば「上の下」というべき存在、それが北畠家であった。
3.少年時代
北畠顕家は、文保二年(1318)に北畠親房の長男として生まれた。父・親房はその賢才で既に知られており、後醍醐天皇によって世良親王の養育を任され存在感を示していた。そして顕家もまた早くも元享元年(1321)に従五位下の位を与えられている。その後も、彼は幼少にも関わらず徐々に昇進し、正中二年(1325)には侍従に任じられた。そして元徳二年(1330)には左中弁となり、元弘元年(1331)には参議となると共に蔵人頭を経ずに左中将に任じられる。これは、異例の昇進と言ってよい。無論、この時の顕家は一介の少年貴族に過ぎない。したがって彼自身がこのスピード出世に相応しい事績を挙げた訳ではない。昇進の速さは父・親房の影響に由来するだろう。後醍醐天皇は前例を無視した人事を行う事で知られていた。おそらくは、成長後に後醍醐の股肱となる事を期待する要因もあったろう。
この時期の顕家については、『増鏡』が記す一つの逸話が知られる程度である。元弘元年(1331)三月、後醍醐は北山第に行幸。それに扈従した顕家は、宴で天皇の笛に合わせて「陵王」を舞う。人々はその華麗さを賞賛し、中でも前関白二条道平は感嘆の余り彼に紅梅の衣を授けたという。余談であるが、「陵王」とは中国北斉で活躍した名将で、帝室出身だが悲劇的最期を遂げた人物である。やはり貴公子でありながら悲運の名将となった顕家と「陵王」を後世の人々が重ね合わせるのも無理はない。顕家がしばしば美少年として語られるのは、「陵王」が美貌でも知られていたためであろうか。「陵王」の舞は通常、仮面をつけて行うが、『體源抄』によれば素顔のまま紅梅をつけて舞う事もありえたようだ。そのあたりも、顕家美少年説の背景にあるかもしれない。
ところで、当時、後醍醐天皇は幕府を転覆させ天皇の手に全国の支配権を奪回しようと画策していた。まず、彼はジリ貧に陥っていた朝廷の再建を志す改革者だった。実権を握って以来、後醍醐は家柄にこだわらない人材登用を行うと共に精力的に改革を推し進め、京周辺の商工業者・非農業民の支持を獲得しようとする。それによって天皇による専制的な集権国家を志向した。だが、京周辺の支配にとどまらず全国的な支配権を手に入れるには、幕府は倒さねばならなかった。
そして、彼が倒幕を目論む理由はそれだけではなかった。幕府ある限り、彼は子孫に帝位を伝えることができなかったのである。そもそも大覚寺統の嫡流は本来、後醍醐の兄・後二条天皇の系統であった。しかしその後継者が幼少であった事が幸いし、一代限りという条件で後醍醐に帝位が転がり込む。だが後醍醐はそれに満足せず、自らの子孫に皇位を継承させようと考えた。そしてそれには調整役である幕府が邪魔である。調整役である以上、原理原則を尊重した裁定を行うであろう事は想像に難くなかった。
こうして、後醍醐は側近や北条氏に不平を抱く豪族と語らい、正中元年(1324)に挙兵計画を立てる。だがこれはあえなく露見し、側近たちが捕らえられ処罰された。もっとも、天皇自身には累が及ぶ事なく穏便な処置で決着する。後醍醐はなおも諦めることなく、皇子たちを送り込むなど様々な手段で寺社勢力を味方に引き入れようとする。その経済力・軍事力・情報網や新興豪族たちとの繋がりを利用することで倒幕を果たすためであった。
そして顕家が「陵王」の舞を見せた元弘元年(1331)、再び挙兵計画が幕府に漏れる。今度は言い逃れも叶わない。後醍醐は御所を脱出し、笠置山で挙兵した。これに呼応して河内の新興豪族・楠木正成も赤坂城で蜂起する。だが幕府の軍事力は圧倒的であり、笠置山は落城して後醍醐は虜囚の身となった。後醍醐は持明院統出身の皇太子・量仁親王に帝位の証である三種の神器を譲らざるを得なかった。こうして朝廷は光厳天皇の時代となる。譲位させられた後醍醐は、幕府の手によって隠岐へと流罪することに定められた。
これらの動きに、まだ少年であった顕家が関与すべくもなかった。そのためもあって、光厳天皇の下でも彼は咎められる事もなく従三位に昇進。参議・左中将の職は一旦辞しているものの、間もなく復職を果たしている。
後醍醐が流された後も、天下の動乱は収まることはなかった。後醍醐が囚われた頃、楠木正成は赤坂城でしばらく幕府軍を苦しめた後に脱出してしばし姿をくらましていた。その正成が元弘三年(1333)に再起し、更に後醍醐の皇子・護良親王も吉野周辺の豪族を糾合して挙兵するや反幕府の動きは再燃する。正成は幕府の手に落ちていた赤坂城を奪回し、河内・和泉・摂津で幕府方を撹乱。更に四天王寺で幕府軍を撃破して京の光厳天皇方や幕府方を恐怖に陥れると、千早城に篭城した。
これに呼応するように護良は吉野で挙兵し、事態を重く見た幕府は再び大軍を畿内に派遣。吉野は間もなく陥落したが正成の千早城は幕府の大軍を引き付けてこれを翻弄、護良もゲリラ戦によってこれを援助した。この篭城戦は、幕府軍が小城一つを落せない様を全国に示す結果となる。幕府の威信は低下した。そこへ挙兵を促す護良の令旨が全国に波及し、各地の不平派が蜂起する。まず播磨の赤松円心が挙兵し、軍勢を率いて京をしばしば攻撃。幕府方の心胆を寒からしめた。更に四国の河野氏らも蜂起。
そうした時に後醍醐が隠岐を脱出し、伯耆の豪族・名和長年の庇護を受け船上山に篭る。これにより倒幕への流れが更に加速し、数多くの豪族達が後醍醐方として立ち上がった。
情勢は徐々に後醍醐方に傾きつつあった、千早城を包囲していた軍勢の中にも、自分の領地を案じて帰国する者が続出する。幕府は危機感を抱き、第二陣として足利高氏・名越高家を西国へ派遣した。この足利氏は清和源氏の流れを汲み北条氏とも代々姻戚関係にある名門であったが、幕府内部で微妙な立場にあった。北条一門に準じて遇されてはいたが、権力中枢からは遠ざけられてもいた。また、有力者が次々と北条氏によって除かれるのを目にしており、粛清の危険に怯えていた。更に、本来なら格下であるはずの北条氏の下風に立っている現状を苦々しく感じてもいたのである。そうした背景もあって、足利軍は道中で密かに後醍醐と内通。そして名越高家が赤松勢に討ち取られたのを契機に丹波で挙兵する。寝返った足利軍は赤松軍・千種軍と共に京に攻め込み、京における幕府方の拠点・六波羅探題は陥落。この知らせを受けた千早攻囲軍も崩壊する。これで畿内は後醍醐方の手に落ち、形勢は完全に逆転。
時を同じくして関東では上野の新田義貞が挙兵し、鎌倉を陥落させた。天運尽きた北条一門は自害して果てる。ここに鎌倉幕府は130年余の歴史に幕を下ろしたのである。
勝利した後醍醐は京に戻り、光厳天皇時代の人事をすべて白紙に戻す。顕家も当時の官職を一旦取り消した上で、改めて従三位に任じられた。ここまでの顕家は出世速度こそ異例であったが、将来有望ながらも未だ実績のない一御曹司に過ぎない。だが、後醍醐がその政権構想の形を明らかにする中で、顕家は歴史の表舞台に押し出される。こうして顕家は貴族としては類を見ない数奇な命運を辿り始めた。
(二)に続く。
1.当時の情勢
7世紀後半から8世紀初頭にかけて日本列島に中央集権的な古代政権が完成。だが、9世紀には早くも崩壊の兆しを見せた。地方では貧富の差が拡大。地方有力豪族は没落した農民を庇護下に収め、私有地の開発を進める。9世紀末から10世紀初頭にかけて、朝廷、すなわち中央政府は全国支配の貫徹が難しくなったと判断。豪族達の利権を部分的に黙認し、土地を可能な限り把握して税収入を確保する方針に転換した。一方、地方豪族たちは地方長官からの徴税を逃れようと腐心する。そのため、彼らが有力貴族や寺社に名目上寄進する現象が目立つようになる。こうして朝廷の実力は弱体化し、有力帰属や寺社が広大な土地を所有するようになる。しかし有力貴族・寺社などの権門はなお朝廷の権威を必要とした。かくして朝廷は彼らによって連合体の盟主として推戴され、なおも日本列島に君臨する。10世紀から11世紀前半にかけて確立されたこの体制を「王朝国家」と呼ぶ。
朝廷は軍事力が弱体化していた。そのため、地方豪族のそれを利用して有事に対応する方針をとる。やがて地方豪族は社会的実力を向上させ、彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が中央で台頭。12世紀末には有力軍事貴族である伊勢平氏が朝廷の実権を握るに至る。しかし地方豪族にはそれに反発するものも多く、各地でもう一つの有力軍事貴族・源氏一族を擁立して反乱した。
この内乱を経て、関東に拠点を置いた源頼朝が勝ち残り軍事政権を樹立する。鎌倉幕府である。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めてはいたが、東日本を中心とした独自の支配体制を確立させた。こうして朝廷が西日本を支配し、幕府が東日本に号令する形が出来上がる。13世紀前半の承久の乱では幕府が軍事力で朝廷を撃破し、圧倒的な優位に立った。こうして次第に西日本も含めた広い地域に幕府は支配権を広げる。13世紀末、モンゴル帝国が来襲すると、それを契機として幕府は全国規模で支配権を強化。国防体制を固めた。そしてこの頃に発達しつつあった商業勢力を支配下に組み込む事で、専制化を進める。
一方で、従来より幕府に従属していた豪族達は経済的負担に苦しんでいた。分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備が彼らを圧迫していた。彼らは専制化する北条氏やその側近たちに不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に新興豪族が台頭。彼らは貨幣経済発達に伴って非農業民を支配下に置いており、伝統的勢力としばしば衝突し「悪党」と呼ばれた。朝廷・幕府も統制しきれない「悪党」は、社会不安要素とみなされるようになる。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の「悪党」らは寧ろ自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多かった。
さて、承久の乱以降は勢力を弱めていた朝廷であるが、更に皇室や有力貴族が地位をめぐって争う。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂したのである。中でも皇位や「治天の君」(皇室の家長)をめぐっての持明院・大覚寺両統の対立は深刻だった。朝廷は自力での解決が困難と見て、幕府に調整を依頼する。これが、皇位争いに敗れた側の幕府への遺恨を生む火種ともなった。
経済発達を背景に専制化を進める北条氏だったが、その一方で各階層から反発を買い孤立しつつあった。人々の不満や社会不安も高まっており、幕府は火薬を満載した導火線の上に座しているかのようだった。
2.北畠家
北畠家は、村上源氏の流れを汲む家系である。村上源氏は名の通り村上天皇の孫・師房に端を発しており、藤原氏の全盛期においても彼らと縁戚関係にあることで朝廷の中枢に地位を占め続けた。やがて藤原氏の勢威が衰え、強力な指導力を持った天皇家の家長に主導権が移る。既に皇位を退いた天皇家の家長による院政の時代である。この時期にも、村上源氏は「治天の君」と結びつくことで権勢を誇った。そして12世紀末には、源頼朝と駆け引きを繰り広げた策謀家・源通親を輩出するに至る。その孫に当たる雅家が京都郊外の北畠に居を構えたことが北畠家の始まりである。村上源氏の嫡流は雅家の弟・通成が継いでいた。その母親が鎌倉と縁深い家柄であったためだという。そのため、北畠家は村上源氏の中でも傍流であり、昇進も正二位権大納言までというのが通例となっていた。一応は閣僚級であるが、首班にはなれない位置である。皇室が二つに分裂した後は、亀山天皇の家系すなわち大覚寺統に心を寄せていた。上流貴族には違いないが、斜陽にある貴族社会の中でいわば「上の下」というべき存在、それが北畠家であった。
3.少年時代
北畠顕家は、文保二年(1318)に北畠親房の長男として生まれた。父・親房はその賢才で既に知られており、後醍醐天皇によって世良親王の養育を任され存在感を示していた。そして顕家もまた早くも元享元年(1321)に従五位下の位を与えられている。その後も、彼は幼少にも関わらず徐々に昇進し、正中二年(1325)には侍従に任じられた。そして元徳二年(1330)には左中弁となり、元弘元年(1331)には参議となると共に蔵人頭を経ずに左中将に任じられる。これは、異例の昇進と言ってよい。無論、この時の顕家は一介の少年貴族に過ぎない。したがって彼自身がこのスピード出世に相応しい事績を挙げた訳ではない。昇進の速さは父・親房の影響に由来するだろう。後醍醐天皇は前例を無視した人事を行う事で知られていた。おそらくは、成長後に後醍醐の股肱となる事を期待する要因もあったろう。
この時期の顕家については、『増鏡』が記す一つの逸話が知られる程度である。元弘元年(1331)三月、後醍醐は北山第に行幸。それに扈従した顕家は、宴で天皇の笛に合わせて「陵王」を舞う。人々はその華麗さを賞賛し、中でも前関白二条道平は感嘆の余り彼に紅梅の衣を授けたという。余談であるが、「陵王」とは中国北斉で活躍した名将で、帝室出身だが悲劇的最期を遂げた人物である。やはり貴公子でありながら悲運の名将となった顕家と「陵王」を後世の人々が重ね合わせるのも無理はない。顕家がしばしば美少年として語られるのは、「陵王」が美貌でも知られていたためであろうか。「陵王」の舞は通常、仮面をつけて行うが、『體源抄』によれば素顔のまま紅梅をつけて舞う事もありえたようだ。そのあたりも、顕家美少年説の背景にあるかもしれない。
ところで、当時、後醍醐天皇は幕府を転覆させ天皇の手に全国の支配権を奪回しようと画策していた。まず、彼はジリ貧に陥っていた朝廷の再建を志す改革者だった。実権を握って以来、後醍醐は家柄にこだわらない人材登用を行うと共に精力的に改革を推し進め、京周辺の商工業者・非農業民の支持を獲得しようとする。それによって天皇による専制的な集権国家を志向した。だが、京周辺の支配にとどまらず全国的な支配権を手に入れるには、幕府は倒さねばならなかった。
そして、彼が倒幕を目論む理由はそれだけではなかった。幕府ある限り、彼は子孫に帝位を伝えることができなかったのである。そもそも大覚寺統の嫡流は本来、後醍醐の兄・後二条天皇の系統であった。しかしその後継者が幼少であった事が幸いし、一代限りという条件で後醍醐に帝位が転がり込む。だが後醍醐はそれに満足せず、自らの子孫に皇位を継承させようと考えた。そしてそれには調整役である幕府が邪魔である。調整役である以上、原理原則を尊重した裁定を行うであろう事は想像に難くなかった。
こうして、後醍醐は側近や北条氏に不平を抱く豪族と語らい、正中元年(1324)に挙兵計画を立てる。だがこれはあえなく露見し、側近たちが捕らえられ処罰された。もっとも、天皇自身には累が及ぶ事なく穏便な処置で決着する。後醍醐はなおも諦めることなく、皇子たちを送り込むなど様々な手段で寺社勢力を味方に引き入れようとする。その経済力・軍事力・情報網や新興豪族たちとの繋がりを利用することで倒幕を果たすためであった。
そして顕家が「陵王」の舞を見せた元弘元年(1331)、再び挙兵計画が幕府に漏れる。今度は言い逃れも叶わない。後醍醐は御所を脱出し、笠置山で挙兵した。これに呼応して河内の新興豪族・楠木正成も赤坂城で蜂起する。だが幕府の軍事力は圧倒的であり、笠置山は落城して後醍醐は虜囚の身となった。後醍醐は持明院統出身の皇太子・量仁親王に帝位の証である三種の神器を譲らざるを得なかった。こうして朝廷は光厳天皇の時代となる。譲位させられた後醍醐は、幕府の手によって隠岐へと流罪することに定められた。
これらの動きに、まだ少年であった顕家が関与すべくもなかった。そのためもあって、光厳天皇の下でも彼は咎められる事もなく従三位に昇進。参議・左中将の職は一旦辞しているものの、間もなく復職を果たしている。
後醍醐が流された後も、天下の動乱は収まることはなかった。後醍醐が囚われた頃、楠木正成は赤坂城でしばらく幕府軍を苦しめた後に脱出してしばし姿をくらましていた。その正成が元弘三年(1333)に再起し、更に後醍醐の皇子・護良親王も吉野周辺の豪族を糾合して挙兵するや反幕府の動きは再燃する。正成は幕府の手に落ちていた赤坂城を奪回し、河内・和泉・摂津で幕府方を撹乱。更に四天王寺で幕府軍を撃破して京の光厳天皇方や幕府方を恐怖に陥れると、千早城に篭城した。
これに呼応するように護良は吉野で挙兵し、事態を重く見た幕府は再び大軍を畿内に派遣。吉野は間もなく陥落したが正成の千早城は幕府の大軍を引き付けてこれを翻弄、護良もゲリラ戦によってこれを援助した。この篭城戦は、幕府軍が小城一つを落せない様を全国に示す結果となる。幕府の威信は低下した。そこへ挙兵を促す護良の令旨が全国に波及し、各地の不平派が蜂起する。まず播磨の赤松円心が挙兵し、軍勢を率いて京をしばしば攻撃。幕府方の心胆を寒からしめた。更に四国の河野氏らも蜂起。
そうした時に後醍醐が隠岐を脱出し、伯耆の豪族・名和長年の庇護を受け船上山に篭る。これにより倒幕への流れが更に加速し、数多くの豪族達が後醍醐方として立ち上がった。
情勢は徐々に後醍醐方に傾きつつあった、千早城を包囲していた軍勢の中にも、自分の領地を案じて帰国する者が続出する。幕府は危機感を抱き、第二陣として足利高氏・名越高家を西国へ派遣した。この足利氏は清和源氏の流れを汲み北条氏とも代々姻戚関係にある名門であったが、幕府内部で微妙な立場にあった。北条一門に準じて遇されてはいたが、権力中枢からは遠ざけられてもいた。また、有力者が次々と北条氏によって除かれるのを目にしており、粛清の危険に怯えていた。更に、本来なら格下であるはずの北条氏の下風に立っている現状を苦々しく感じてもいたのである。そうした背景もあって、足利軍は道中で密かに後醍醐と内通。そして名越高家が赤松勢に討ち取られたのを契機に丹波で挙兵する。寝返った足利軍は赤松軍・千種軍と共に京に攻め込み、京における幕府方の拠点・六波羅探題は陥落。この知らせを受けた千早攻囲軍も崩壊する。これで畿内は後醍醐方の手に落ち、形勢は完全に逆転。
時を同じくして関東では上野の新田義貞が挙兵し、鎌倉を陥落させた。天運尽きた北条一門は自害して果てる。ここに鎌倉幕府は130年余の歴史に幕を下ろしたのである。
勝利した後醍醐は京に戻り、光厳天皇時代の人事をすべて白紙に戻す。顕家も当時の官職を一旦取り消した上で、改めて従三位に任じられた。ここまでの顕家は出世速度こそ異例であったが、将来有望ながらも未だ実績のない一御曹司に過ぎない。だが、後醍醐がその政権構想の形を明らかにする中で、顕家は歴史の表舞台に押し出される。こうして顕家は貴族としては類を見ない数奇な命運を辿り始めた。
(二)に続く。
by trushbasket
| 2014-07-27 23:20
| NF








