2014年 07月 27日
北畠顕家(二)
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(一)より続く。目次はこちら。
4.陸奥将軍府
後醍醐天皇による統一政権は、その時代の元号から「建武政権」と呼ばれる。後醍醐は当時台頭しつつあった商業勢力を基盤としつつ専制的な政治を目指そうとしていた。そして政権確立のためには、北条氏の勢力基盤であった地域の安定化が必須であった。かくして関東と奥州に将軍府が設けられたのである。関東には鎌倉将軍府を置き、成良親王を将軍とし足利直義が補佐することとなった。そして奥州にも義良親王を奉じる陸奥将軍府が設けられる。そこに抜擢されたのが顕家だった。奥州は、金や馬の産地として知られ、更に北方との貿易により多大な富を生む地域と認識されていた。発足間もない建武政権にとって、その地を確保するのは必須と考えられたであろう。
顕家は出発に先立ち、奥州の豪族伊達氏にあてて所領安堵の文書を発給。現地の安定を策した。その上で元弘三年(1333)10月、義良親王を伴い父と共に陸奥の多賀国府へと向かっている。
ここで、「多賀国府」について少し述べておこう。古代における陸奥国府といえば多賀城であるが、既に10世紀半ばには使われなくなっていた。実際に顕家らが拠点を置いた「多賀国府」の位置は明らかではない。だが、陸奥在庁官人・留守氏に国宣を託している事からその居館が国府の役割を果たしていたのではないかと推定されている。ちなみに留守氏の勢力圏は、岩切(仙台市)から五万崎(多賀城市)にかけてであったという。
陸奥に入った顕家らは、政治機構の整備に入った。意志決定機関として奥羽式評定衆を設立。構成員は冷泉家房・藤原英房・元覚入道・結城宗広・二階堂行朝・結城親朝・二階堂顕行・伊達行朝である。そして三番編成の引付を置いた。一番の頭人に二階堂行朝、二番の頭人に結城親朝、三番の頭人に二階堂顕行を任じ、それぞれ7人ずつである。更に政所執事に二階堂顕行、評定奉行に二階堂行朝を任じ、寺社奉行・安堵奉行・侍所も設置した。その職制は、鎌倉幕府のそれを酷似しているが容易に見て取れよう。構成員も、旧幕府実務官僚や現地豪族から採用されており統治にあたっての配慮が見られる。
実際に現地豪族たちを支配するに際し、陸奥諸郡の検断を担当したのは結城宗広であった。しかし、一方で北陸奥に関しては八戸の南部師行が鎮定に当たったようである。また、結城親朝に陸奥国糠部郡内九戸を領有させた。糠部郡は旧北条氏領であり、その西にある津軽半島は、東に最北端「外ヶ浜」、西に十三湊を擁し北方との貿易の拠点をなす重要地域である。津軽周辺では北条残党が名越時如を擁立して反乱を起こしており、多田貞綱・南部師行・伊賀盛光らの働きにより翌年秋に至って鎮圧した。
こうして、鎌倉幕府の機構を見本としながら顕家は父・親房の補佐も受けながら奥州の鎮定にとりかかっていった。しかし、安息の日々は長くは続かなかったのである。
5.尊氏謀反
後醍醐天皇の政治は余りに急進的であった。そのため、人々の強い不満を招く。中でも不満の種となったのが恩賞処理であった。後醍醐が権力基盤確立のため広大な旧北条氏領を自身や側近の手に収めた事、そして倒幕戦中に自身や護良が乱発した領地安堵が相互に矛盾する事例が続出した事、恩賞事務の混乱などが原因である。不平を抱いた各地の豪族達は武家の名門・足利尊氏(高氏は後醍醐の名「尊治」から一字を賜り改名していた)に期待を抱くようになった。そして、新興豪族を朝廷の下に糾合しようとしていた護良親王は、尊氏と激しく対立する。顕家らの処遇もこの二人の対立軸の一環として捉えることができるようで、『保暦間記』によれば陸奥将軍府は護良が提唱し親房と共同で実現へと運んだのだという。例えば、上述した糠部郡には尊氏も恩賞として所領を与えられており、津軽地方の鎮定は北条氏残党の制圧だけでなく足利勢力への牽制も目的だったとみるべきだろう。
結局、二人の対立は尊氏の勝利に終わる。後醍醐は尊氏に対しては無論警戒していたが、護良をも危険分子とみなしていた。何しろ、護良は、島流しにあっていた後醍醐に替わって倒幕戦で最高指揮官の役割を務めた人物である。取って代わられる事への恐れを抱いたとしても無理はない。尊氏の勢いが護良を凌いでいたのもあって、後醍醐は尊氏に妥協する形で護良を捕縛する。なお、この際に捕えられた護良の側近として、南部・工藤といった奥州出身と思われる人物が目立つ。孤立しつつあった護良にとって、北畠家との繋がりが頼みの綱だったのであろう。こうして、建武政権への不平分子の糾合先は尊氏に絞られる事となった。
そんな中で建武二年(1335)、信濃で北条氏嫡流の遺児・時行が蜂起し、鎌倉に攻め寄せた。鎌倉を守っていた足利直義はこれを防ぐ事ができず一旦関東から撤退する。この際、直義によって護良は殺害された。京に滞在していた尊氏は、直義救援のため関東に出陣。反乱を鎮圧した後、鎌倉に居座って独自の論功行賞を行なった。奥州に対しても、この際に足利一族の斯波家長が奥羽管領に任じられ盛岡周辺に拠点を置いたと『鎌倉大日記』などは伝えている。これは、明らかに建武政権からの自立を志向した動きである。朝廷では、これを足利氏の反逆とする声が高まる。
『太平記』によれば、親房はこの時に尊氏の罪がまだ明らかでないことから謀反扱いは時期尚早だと述べたとされている。親房が足利氏や武家政権に強い敵対心を抱いていた事、この時は奥州にいたと推定された事などからこの逸話は虚構だとみなされていた。しかし、結城親朝宛の書状によれば、この時期に親房は上洛しておりこの時期に朝廷で意見を述べることは可能だったようだ。『太平記』の記事が事実であるならば、それまで厚遇されていた足利氏を掌を返すように逆賊とみなす朝令暮改ぶりへの批判であったろうか。
結局、朝廷は足利氏を反乱軍とみなし、新田義貞に討伐を命じた。一方、顕家に対しても11月12日に鎮守府将軍に任じ、奥羽における文武双方の長官とした。顕家には奥州軍を率いて南下し、東海道から攻めのぼる新田軍と共同で関東の足利軍を挟撃する事が期待されたのである。しかし奥州にも足利方につくものが少なからずおり、軍勢を集めるのに時間を要した。一方、尊氏は当初、自らは出陣せず寺に篭っていた。後醍醐に正面切って反旗を翻す事へのふんぎりがつかなかったためである。尊氏を欠いた足利軍相手に新田軍は連戦連勝する。しかし直義の身が危ういとしった尊氏はついに出陣し、新田軍は12月12日に箱根・竹ノ下でこれと戦って敗北し撤退。足利軍はこれを追って京へ向かう。
顕家としては、それを見過ごす訳にはいかない。足利軍のあとを追う形で、12月22日に出陣し上洛の途につく。義良親王を名目上の総大将として擁し、伴う顔ぶれは伊達行朝・南部信政・結城宗広・同親朝である。留守居役は南部師行。顕家の名を天下に轟かせる事となる戦いが、ここに始まる。
6.京攻防戦
奥州から京へ向かうには、敵の拠点たる関東を突っ切る必要があった。冬の最中であり、北陸を通るのは非現実的と言わざるを得ない。となると、当然ながら妨害を受ける。まず相馬重胤が背後から追撃し、正面では佐竹貞義が佐竹楯で抵抗。また斯波家長も鎌倉で顕家の行く手を遮っていた。しかしながら顕家は、これらを突破して恐るべき早さで西上する。早くも翌年1月13日には近江愛知川の宿に到達し、佐々木氏頼の観音寺城を陥落させた。わずか20日余りの強行軍である。
さて、足利軍は新田軍を追撃して東海道を登り、正月には京を攻め落としていた。そして後醍醐らは難を逃れ、比叡山に移っている。14日、顕家は坂本の行在所に参着を報告。敗戦により落胆していた朝廷軍は、これで意気が上がった。『太平記』によれば、さっそく行われた軍議において顕家は自軍の長旅での疲労を考えて数日の休息を求める。しかし、大館氏明は休むことでかえって奥州軍の力が抜け役に立たなくなる事を憂慮。更に今なら敵の不意を衝ける利点がある事も説き、即時決戦を主張した。結局はそれが容れられ、志賀・唐崎へと出撃し足利軍の篭る園城寺に押し寄せる事になった。先遣隊として大館氏明が額田・羽川ら六千を率いて唐崎に向かい、堅田らの在地勢力は湖上で待機し、僧兵二万が叡山山上で守りを固めた。園城寺を守る足利方の細川定禅は朝廷軍の不穏な動きを察し、本陣に急報したが援軍は届かず。
かくして、志賀・唐崎に集結した朝廷軍が園城寺に押し寄せた。『太平記』はその兵力を顕家二万・義貞三万・脇屋義助一万五千、守る足利軍は六万と伝えるが、実際はいずれももっと少数だったと思われる。奥州軍を主力として朝廷軍は寺境内に切り込み、足利方と激戦を繰り広げる。やがて結城宗広・伊達らの部隊五千が一旦退却したのに乗じ、足利軍は攻勢に出た。しかし琵琶湖を東に臨んだ隘路で混乱に陥ったところへ、新田軍が突撃。更に船からは堅田・和仁の住人たちが弓を射かけたため足利軍は崩れ立ち園城寺へ逃げ込む。勢い込んだ朝廷軍は再び寺に攻撃をかけ、義助軍が突入。園城寺は陥落し、炎上した。
勢いに乗った朝廷軍は一気に京を奪回すべく追撃。山科で敗走する細川勢に追いついた。ここに至り尊氏も大軍を率いて四条から五条にいたる河原で新田軍と衝突。義貞は敵軍に少数の勇士を潜伏させて混乱に陥れる事で戦闘を有利に進めたが、兵力が劣るため京を確保するに至らない。
そこで改めて総攻撃の構えがとられた。『太平記』の記述に従うと、楠木正成・結城宗広・名和長年ら三千が西坂本から一乗寺へ向かい、顕家軍二万が大津を経て山科へ。そして延暦寺の僧兵一万は鹿ケ谷、洞院実世ら二万は赤山、新田軍二万は北白川に布陣した。
叡山の山法師たちが神楽岡の宇都宮軍を撃破した事で合戦が始まり、更に正成らが糺の森に進出して弓兵・騎兵を巧みに使い分け上杉重能・畠山国清・斯波高経の大軍を蹴散らす。そして顕家は粟田口から攻め入った。尊氏は北畠軍を重大視し、自ら四条・五条間の河原で迎え撃った。顕家軍は数的劣勢をものともせず尊氏本隊と互角の戦いを繰り広げ、両軍はやがて疲労の極に達する。そこへ新田軍が双林寺・法勝寺・将軍塚から三手に分かれて突入し足利軍を突破。足利軍は敗走した。園城寺・洛中の合戦で最終的に勝利を決定づけたのは義貞であった。楠木軍や叡山の僧兵もよく貢献した。が、いずれの戦いでも寡兵よく敵本隊を食い止め疲弊させ、舞台を整えたのは顕家だった。
さて、一旦は京を奪回した朝廷軍であるが、これを確保する事なく坂本へ引き上げた。何しろ、京を守り抜くにはなお兵力が足りない。そこで、あえて再び足利軍をこの守りにくい京へ導いた上で撃滅しようと正成が義貞に進言したのだと『太平記』は伝える。一方、やはり『太平記』によれば京を再占領した足利勢に驚くべき情報がもたらされた。何と、義貞・顕家・正成が先の戦いで討死したというのである。その故に朝廷軍は勝利しながらも引き上げたのかと足利軍将士は納得し、油断する。そこを見透かした形で、西坂本から下山した朝廷軍が二条河原で合流し総攻撃。足利方は大打撃を受け、兵庫で敗軍をまとめた。
二月に入り、新田軍・北畠軍を中心とした朝廷軍は勝利に乗じて追撃。豊島河原で北畠軍・脇屋義助軍と足利軍が接触、正面から激突し膠着状態となる。そこへ遅れて到着した楠木軍が神崎方面に迂回して背後をつく体勢をとり、足利軍は敗走。西宮・豊島河原で敗北した足利軍は九州へ逃れた。ここに、朝廷軍は畿内奪回を一旦は成功させ、後醍醐も京に還幸する。足利軍に大きく傾いた流れを引き戻す契機となったのが顕家と彼の率いる奥州の精鋭だったのは明らかだった。これによってその武名が広く鳴り響いたであろう事は想像に難くない。
(三)へ続く。
4.陸奥将軍府
後醍醐天皇による統一政権は、その時代の元号から「建武政権」と呼ばれる。後醍醐は当時台頭しつつあった商業勢力を基盤としつつ専制的な政治を目指そうとしていた。そして政権確立のためには、北条氏の勢力基盤であった地域の安定化が必須であった。かくして関東と奥州に将軍府が設けられたのである。関東には鎌倉将軍府を置き、成良親王を将軍とし足利直義が補佐することとなった。そして奥州にも義良親王を奉じる陸奥将軍府が設けられる。そこに抜擢されたのが顕家だった。奥州は、金や馬の産地として知られ、更に北方との貿易により多大な富を生む地域と認識されていた。発足間もない建武政権にとって、その地を確保するのは必須と考えられたであろう。
顕家は出発に先立ち、奥州の豪族伊達氏にあてて所領安堵の文書を発給。現地の安定を策した。その上で元弘三年(1333)10月、義良親王を伴い父と共に陸奥の多賀国府へと向かっている。
ここで、「多賀国府」について少し述べておこう。古代における陸奥国府といえば多賀城であるが、既に10世紀半ばには使われなくなっていた。実際に顕家らが拠点を置いた「多賀国府」の位置は明らかではない。だが、陸奥在庁官人・留守氏に国宣を託している事からその居館が国府の役割を果たしていたのではないかと推定されている。ちなみに留守氏の勢力圏は、岩切(仙台市)から五万崎(多賀城市)にかけてであったという。
陸奥に入った顕家らは、政治機構の整備に入った。意志決定機関として奥羽式評定衆を設立。構成員は冷泉家房・藤原英房・元覚入道・結城宗広・二階堂行朝・結城親朝・二階堂顕行・伊達行朝である。そして三番編成の引付を置いた。一番の頭人に二階堂行朝、二番の頭人に結城親朝、三番の頭人に二階堂顕行を任じ、それぞれ7人ずつである。更に政所執事に二階堂顕行、評定奉行に二階堂行朝を任じ、寺社奉行・安堵奉行・侍所も設置した。その職制は、鎌倉幕府のそれを酷似しているが容易に見て取れよう。構成員も、旧幕府実務官僚や現地豪族から採用されており統治にあたっての配慮が見られる。
実際に現地豪族たちを支配するに際し、陸奥諸郡の検断を担当したのは結城宗広であった。しかし、一方で北陸奥に関しては八戸の南部師行が鎮定に当たったようである。また、結城親朝に陸奥国糠部郡内九戸を領有させた。糠部郡は旧北条氏領であり、その西にある津軽半島は、東に最北端「外ヶ浜」、西に十三湊を擁し北方との貿易の拠点をなす重要地域である。津軽周辺では北条残党が名越時如を擁立して反乱を起こしており、多田貞綱・南部師行・伊賀盛光らの働きにより翌年秋に至って鎮圧した。
こうして、鎌倉幕府の機構を見本としながら顕家は父・親房の補佐も受けながら奥州の鎮定にとりかかっていった。しかし、安息の日々は長くは続かなかったのである。
5.尊氏謀反
後醍醐天皇の政治は余りに急進的であった。そのため、人々の強い不満を招く。中でも不満の種となったのが恩賞処理であった。後醍醐が権力基盤確立のため広大な旧北条氏領を自身や側近の手に収めた事、そして倒幕戦中に自身や護良が乱発した領地安堵が相互に矛盾する事例が続出した事、恩賞事務の混乱などが原因である。不平を抱いた各地の豪族達は武家の名門・足利尊氏(高氏は後醍醐の名「尊治」から一字を賜り改名していた)に期待を抱くようになった。そして、新興豪族を朝廷の下に糾合しようとしていた護良親王は、尊氏と激しく対立する。顕家らの処遇もこの二人の対立軸の一環として捉えることができるようで、『保暦間記』によれば陸奥将軍府は護良が提唱し親房と共同で実現へと運んだのだという。例えば、上述した糠部郡には尊氏も恩賞として所領を与えられており、津軽地方の鎮定は北条氏残党の制圧だけでなく足利勢力への牽制も目的だったとみるべきだろう。
結局、二人の対立は尊氏の勝利に終わる。後醍醐は尊氏に対しては無論警戒していたが、護良をも危険分子とみなしていた。何しろ、護良は、島流しにあっていた後醍醐に替わって倒幕戦で最高指揮官の役割を務めた人物である。取って代わられる事への恐れを抱いたとしても無理はない。尊氏の勢いが護良を凌いでいたのもあって、後醍醐は尊氏に妥協する形で護良を捕縛する。なお、この際に捕えられた護良の側近として、南部・工藤といった奥州出身と思われる人物が目立つ。孤立しつつあった護良にとって、北畠家との繋がりが頼みの綱だったのであろう。こうして、建武政権への不平分子の糾合先は尊氏に絞られる事となった。
そんな中で建武二年(1335)、信濃で北条氏嫡流の遺児・時行が蜂起し、鎌倉に攻め寄せた。鎌倉を守っていた足利直義はこれを防ぐ事ができず一旦関東から撤退する。この際、直義によって護良は殺害された。京に滞在していた尊氏は、直義救援のため関東に出陣。反乱を鎮圧した後、鎌倉に居座って独自の論功行賞を行なった。奥州に対しても、この際に足利一族の斯波家長が奥羽管領に任じられ盛岡周辺に拠点を置いたと『鎌倉大日記』などは伝えている。これは、明らかに建武政権からの自立を志向した動きである。朝廷では、これを足利氏の反逆とする声が高まる。
『太平記』によれば、親房はこの時に尊氏の罪がまだ明らかでないことから謀反扱いは時期尚早だと述べたとされている。親房が足利氏や武家政権に強い敵対心を抱いていた事、この時は奥州にいたと推定された事などからこの逸話は虚構だとみなされていた。しかし、結城親朝宛の書状によれば、この時期に親房は上洛しておりこの時期に朝廷で意見を述べることは可能だったようだ。『太平記』の記事が事実であるならば、それまで厚遇されていた足利氏を掌を返すように逆賊とみなす朝令暮改ぶりへの批判であったろうか。
結局、朝廷は足利氏を反乱軍とみなし、新田義貞に討伐を命じた。一方、顕家に対しても11月12日に鎮守府将軍に任じ、奥羽における文武双方の長官とした。顕家には奥州軍を率いて南下し、東海道から攻めのぼる新田軍と共同で関東の足利軍を挟撃する事が期待されたのである。しかし奥州にも足利方につくものが少なからずおり、軍勢を集めるのに時間を要した。一方、尊氏は当初、自らは出陣せず寺に篭っていた。後醍醐に正面切って反旗を翻す事へのふんぎりがつかなかったためである。尊氏を欠いた足利軍相手に新田軍は連戦連勝する。しかし直義の身が危ういとしった尊氏はついに出陣し、新田軍は12月12日に箱根・竹ノ下でこれと戦って敗北し撤退。足利軍はこれを追って京へ向かう。
顕家としては、それを見過ごす訳にはいかない。足利軍のあとを追う形で、12月22日に出陣し上洛の途につく。義良親王を名目上の総大将として擁し、伴う顔ぶれは伊達行朝・南部信政・結城宗広・同親朝である。留守居役は南部師行。顕家の名を天下に轟かせる事となる戦いが、ここに始まる。
6.京攻防戦
奥州から京へ向かうには、敵の拠点たる関東を突っ切る必要があった。冬の最中であり、北陸を通るのは非現実的と言わざるを得ない。となると、当然ながら妨害を受ける。まず相馬重胤が背後から追撃し、正面では佐竹貞義が佐竹楯で抵抗。また斯波家長も鎌倉で顕家の行く手を遮っていた。しかしながら顕家は、これらを突破して恐るべき早さで西上する。早くも翌年1月13日には近江愛知川の宿に到達し、佐々木氏頼の観音寺城を陥落させた。わずか20日余りの強行軍である。
さて、足利軍は新田軍を追撃して東海道を登り、正月には京を攻め落としていた。そして後醍醐らは難を逃れ、比叡山に移っている。14日、顕家は坂本の行在所に参着を報告。敗戦により落胆していた朝廷軍は、これで意気が上がった。『太平記』によれば、さっそく行われた軍議において顕家は自軍の長旅での疲労を考えて数日の休息を求める。しかし、大館氏明は休むことでかえって奥州軍の力が抜け役に立たなくなる事を憂慮。更に今なら敵の不意を衝ける利点がある事も説き、即時決戦を主張した。結局はそれが容れられ、志賀・唐崎へと出撃し足利軍の篭る園城寺に押し寄せる事になった。先遣隊として大館氏明が額田・羽川ら六千を率いて唐崎に向かい、堅田らの在地勢力は湖上で待機し、僧兵二万が叡山山上で守りを固めた。園城寺を守る足利方の細川定禅は朝廷軍の不穏な動きを察し、本陣に急報したが援軍は届かず。
かくして、志賀・唐崎に集結した朝廷軍が園城寺に押し寄せた。『太平記』はその兵力を顕家二万・義貞三万・脇屋義助一万五千、守る足利軍は六万と伝えるが、実際はいずれももっと少数だったと思われる。奥州軍を主力として朝廷軍は寺境内に切り込み、足利方と激戦を繰り広げる。やがて結城宗広・伊達らの部隊五千が一旦退却したのに乗じ、足利軍は攻勢に出た。しかし琵琶湖を東に臨んだ隘路で混乱に陥ったところへ、新田軍が突撃。更に船からは堅田・和仁の住人たちが弓を射かけたため足利軍は崩れ立ち園城寺へ逃げ込む。勢い込んだ朝廷軍は再び寺に攻撃をかけ、義助軍が突入。園城寺は陥落し、炎上した。
勢いに乗った朝廷軍は一気に京を奪回すべく追撃。山科で敗走する細川勢に追いついた。ここに至り尊氏も大軍を率いて四条から五条にいたる河原で新田軍と衝突。義貞は敵軍に少数の勇士を潜伏させて混乱に陥れる事で戦闘を有利に進めたが、兵力が劣るため京を確保するに至らない。
そこで改めて総攻撃の構えがとられた。『太平記』の記述に従うと、楠木正成・結城宗広・名和長年ら三千が西坂本から一乗寺へ向かい、顕家軍二万が大津を経て山科へ。そして延暦寺の僧兵一万は鹿ケ谷、洞院実世ら二万は赤山、新田軍二万は北白川に布陣した。
叡山の山法師たちが神楽岡の宇都宮軍を撃破した事で合戦が始まり、更に正成らが糺の森に進出して弓兵・騎兵を巧みに使い分け上杉重能・畠山国清・斯波高経の大軍を蹴散らす。そして顕家は粟田口から攻め入った。尊氏は北畠軍を重大視し、自ら四条・五条間の河原で迎え撃った。顕家軍は数的劣勢をものともせず尊氏本隊と互角の戦いを繰り広げ、両軍はやがて疲労の極に達する。そこへ新田軍が双林寺・法勝寺・将軍塚から三手に分かれて突入し足利軍を突破。足利軍は敗走した。園城寺・洛中の合戦で最終的に勝利を決定づけたのは義貞であった。楠木軍や叡山の僧兵もよく貢献した。が、いずれの戦いでも寡兵よく敵本隊を食い止め疲弊させ、舞台を整えたのは顕家だった。
さて、一旦は京を奪回した朝廷軍であるが、これを確保する事なく坂本へ引き上げた。何しろ、京を守り抜くにはなお兵力が足りない。そこで、あえて再び足利軍をこの守りにくい京へ導いた上で撃滅しようと正成が義貞に進言したのだと『太平記』は伝える。一方、やはり『太平記』によれば京を再占領した足利勢に驚くべき情報がもたらされた。何と、義貞・顕家・正成が先の戦いで討死したというのである。その故に朝廷軍は勝利しながらも引き上げたのかと足利軍将士は納得し、油断する。そこを見透かした形で、西坂本から下山した朝廷軍が二条河原で合流し総攻撃。足利方は大打撃を受け、兵庫で敗軍をまとめた。
二月に入り、新田軍・北畠軍を中心とした朝廷軍は勝利に乗じて追撃。豊島河原で北畠軍・脇屋義助軍と足利軍が接触、正面から激突し膠着状態となる。そこへ遅れて到着した楠木軍が神崎方面に迂回して背後をつく体勢をとり、足利軍は敗走。西宮・豊島河原で敗北した足利軍は九州へ逃れた。ここに、朝廷軍は畿内奪回を一旦は成功させ、後醍醐も京に還幸する。足利軍に大きく傾いた流れを引き戻す契機となったのが顕家と彼の率いる奥州の精鋭だったのは明らかだった。これによってその武名が広く鳴り響いたであろう事は想像に難くない。
(三)へ続く。
by trushbasket
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