2014年 07月 27日
北畠顕家(三)
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(二)より続く。目次はこちら。
7.再び奥州へ
勝利の余韻冷めやらぬ中、朝廷では論功行賞や人事が行われていた。顕家は2月に右衛門督・検非違使別当に任じられ、更に3月には権中納言となった。そしてこの頃、顕家は昨年に帯びた鎮守府将軍に一字を加え「鎮守府大将軍」と称する事を願い出て許可されている。鎮守府将軍の官職が顕家の位と比べて低すぎたためであるという。伝統貴族らしい気位の高さというべきであろうか。
さて、顕家は再び義良親王を擁して奥州に赴く事が定められた。というのは、顕家らが留守の間に、足利方によって奥州が制圧される危険が大きかったためである。足利軍主力を西に追い落としたとはいえ、建武政権への反発や足利氏への信望はいまだ高い。そして関東には未だ尊氏の子・義詮や斯波家長が健在。彼らによる奥州への工作を防ぎ、朝廷側の東日本における重鎮として睨みを利かす必要があった。かくして義良親王は急遽元服を済ませ、三品の位と陸奥太守の地位を与えられた。そして顕家は、義良を補佐する存在として陸奥大介(次官、ただしこの場合は実質上の長官)に任じられている。『保暦間記』によれば、彼らの管轄すべき地域として従来の陸奥・出羽に加え新たに常陸・下野も追加されたという。そして3月24日、顕家は義良親王と共に再び東下。父・親房は病のため都に留まった。顕家が京の地を踏んだのは、この時が最後であった。
顕家の道中は、どうしても敵中突破となる。その通過を関東の足利方が看過するはずはなかった。4月16日には斯波家長と相模片瀬川で戦ってこれを破り、鎌倉へ入る。そして24日には宇都宮へ到着。顕家が奥州の入口まで到着した事実は、東国の豪族たちに刺激となった。相馬一族のなかから胤平が朝廷側に寝返り宇都宮へ合流している。その勢いに乗り、顕家は5月24日には相馬光胤の篭る陸奥小高城を陥落させた。また、北関東でも楠木正家が瓜連城を拠点として小田治久と共に常陸南部に勢力を広げており、顕家も時に常陸へ侵入し援護射撃を試みている。
とはいえ、時代の潮流は足利方を向いていた。この延元元年(1336)も8月に入ると、支配下にあった曽我貞光・佐竹義篤・伊賀盛光らが足利方に陣営を移している。こうした動きは、中央での情勢急変を反映したものであった。
先に朝廷軍に敗れた尊氏は、瀬戸内の要所に有力武将を配置した上で九州に向かう。そして多々良浜で菊池氏の大軍を破り、九州の豪族たちを味方につけた。更に彼は光厳院から院宣(上皇からの命令書)を密かに入手。もはや朝敵の汚名を憂える必要はなくなっていた。かくして足利軍は西国各地から続々と味方を増やし、水陸双方から再び京へ攻めのぼる。
一方、新田義貞は足利軍を討伐すべく西国へと出陣するが、播磨の赤松円心を相手に苦戦を余儀なくされた。この時期、戦局が芳しくないのを憂慮した正成が義貞を諦め尊氏と和睦するよう奏上したと『梅松論』は伝える。そうこうするうちに足利の大軍が畿内に迫り、義貞は兵庫まで退いた。正成は正面から戦っては勝ち目がないと考え、足利軍を京に引き入れ兵糧攻めにするよう天皇に進言。だが、それは容れられる事なく、正成は義貞への援軍として兵庫に出陣。
延元元年(1336)5月25日、摂津湊川で新田・楠木軍は水陸から押し寄せる足利軍を迎え撃つ。大軍の展開に適さない地形を利用して楠木軍は奮闘し、一時は敵陸軍を率いる足利直義を追い詰めた。だが衆寡敵せず、尊氏の水軍が背後に回ったのを契機に新田軍が敗北。楠木軍は包囲殲滅される体勢となり、正成は自害した。正成は戦術家として卓越していたばかりでなく、長期戦略の読みにも長けた当時として稀有な武将であった。彼の指揮する軍勢が常に小勢であったのが惜しまれる。一方、義貞は重大な戦いでの敗北が目立ち、しかもそれが戦役そのものの失敗に直結している印象は否めない。とはいえ決して無能ではなく、上述した足利軍との戦いでは新田軍の一撃が勝敗を決めているように戦術指揮官としては相応に優秀であった。しかしながら、同時代で比類ないレベルとまでは言えない。そして、戦略レベルの視野をも求められる総司令官としての適性については、尊氏らと比較すると見劣りする感があるのは致し方ない。
さて、辛うじて逃れた義貞から敗報を受け、後醍醐は再び叡山に逃れる。そして、入京した足利軍を相手に抗戦。だが兵力不足は如何ともしがたく、河内方面で敵を撹乱するはずの正成を欠いたのも痛かった。朝廷軍は千種忠顕・名和長年ら有力武将を失って次第に敗色濃厚となる。そして近江の佐々木氏が足利方として参戦するに至って後醍醐側が逆に兵糧攻めにあう形となった。
追い詰められた後醍醐は足利方と和平を結ぶ。既に尊氏が擁立していた光明天皇(光厳院の弟)に譲位する代わり、皇位継承は持明院統・大覚寺統交互に行う事が条件だったと推測される。この和議は義貞に無断で行われたため、後醍醐は新田一族から抗議を受けた。そこで後醍醐は恒良親王に譲位した上で恒良を義貞に預け、彼らを北陸に向かわせる。新田氏を宥めるためではあったが、和平が破れた時の備えでもあったろう。
こうして足利氏の支配する京に入った後醍醐だったが、隠居の身として花山院に幽閉されたのを不満としてかすぐに脱出。密かに吉野へ入った後醍醐は、依然として自分が正統な天皇であると宣言。ここに、複数の天皇が存在する南北朝の動乱が幕を開けた。足利氏が擁立する京の朝廷を北朝、後醍醐による吉野の朝廷を南朝と呼ぶ。なお、先に後醍醐から譲位された恒良も、越前金ヶ崎城から綸旨を発給し天皇として振舞っていた。しかし恒良を支える新田軍は越前に向かう際の冬山越えで多くの兵力を失っていた。また、越前は彼らにとって異郷であり、苦しい戦いを余儀なくされる。結局、越前の恒良による「朝廷」は足利軍の攻撃により短期間で瓦解。恒良親王は虜囚の身となった。義貞は辛うじて逃れ、潜伏しながらも捲土重来を期するが、南朝方は早々と試練の時を迎えていたのである。
こうした情勢が、東国にも及んでいた。そんな中、顕家は延元元年(1336)10月に中尊寺建立供養願文を書写。神仏の加護を得ようとしたものであろうか。一方、畿内周辺の南朝方もまた苦戦を強いられており、顕家の来援を強く望むようになる。11月には越前の恒良親王から結城宗広に上洛命令が届いており、12月には吉野の後醍醐からも江戸忠重を勅使として上洛を命じてきた。しかし奥州の戦局も極めて厳しいものとなりつつあった。12月には瓜連城も陥落し、常陸も足利方の手に落ちている。そして翌延元二年(1337)1月8日には、顕家は多賀国府を捨てて義良と共に南の霊山に移った。奥州でも顕家の威令が及ぶ地域が少なくなり、支配領域は周辺の伊達郡・行方郡などに限局されていた。恐らくは敵の鋭鋒を避けるための国府移動であったろう。それでも1月25日に後醍醐の出陣要請に奉答した書状に「凶徒城を囲み候のあいだ、近日合戦をとぐべく候也」とあり、霊山もまた敵方の包囲を受けていたようだ。
それでも顕家は後醍醐や義貞の求めに応え西上の準備を整える。そして同年8月11日、義良親王を大将として結城宗広を補佐、更に南部師行や伊達氏・信夫氏も率い六千の軍勢で出陣した。留守居役は結城親朝と南部政長である。顕家が名将としての評価を不動とした最も輝かしく、そして悲愴な戦役が幕を開けた。
8.鎌倉陥落
顕家の出陣に関して、『保暦間記』はこう記す。
ずいぶんと手厳しい評価であるが、不当とは言えないようだ。今回の遠征は、奥州からの逃亡とも映ったようである。とはいえ、南朝の主力が関東へ出撃してきた事は関東の南朝方にも刺激となった。そのためか8月19日に白河関を越え下野に入った際にはその軍勢は万を超えていたという。
12月13日、顕家軍は利根川に達した。鎌倉の足利方から派遣された上杉憲顕・細川和氏・高重茂らが対岸に対峙しこれを防ごうとする。『太平記』は、この戦いを以下のように述べる。両軍はそれぞれ渡河地点を捜索していたが、顕家軍が先手を取った。騎兵が連なって流れを和らげ、そのすぐ下流を歩兵が渡る「馬筏」をとって渡り始めたのだ。足利軍も負けじと川を渡ろうとするが、先に顕家軍が東側の流れをせき止めていたため、足利軍のいた西側の流れが強まっていた。足利軍の馬筏は急流に押し負ける。彼らはあわてて岸に戻ったが、陣形は崩れており立て直しは容易ではない。顕家はそこを衝いて攻撃し、勝利を得た。
勢いに乗った顕家軍は武蔵国府に到達、鎌倉へ向かう。そこへ伊豆から北条時行、入間川から新田義興(義貞の次男)が合流した。時行は北条氏の嫡流であり、本来は後醍醐にとって宿敵である。だが、時行にとっては父を裏切って天下人となった尊氏こそが不倶戴天の仇であった。そして今や後醍醐も京を追われ劣勢の戦いを余儀なくされている。敵の敵は味方、ここに両者の利害は一致した。かくして、時行は「朝敵の罪を赦免」され南朝方となったのである。
『太平記』によれば利根川での敗報を聞いた鎌倉では、善後策をめぐり混乱に陥った。中には撤退論すら出たが、これを一喝したのが足利義詮である。彼は人々に檄を入れて曰く。父・尊氏から守りを託された以上は、一戦もせずに退いては面目が立たない。戦った末に退くのはやむを得ないが、敵の一角を破って上総か安房に赴けばいずれは敵は京へ進む。それを追って西の味方と共に挟み撃ちにすべきであろう、と。義詮はまだ幼少ながら、その意気や軒昂、大将としての自覚は充分というべきか。足利方はその言葉によって士気挙がり、鎌倉に立てこもる。かくして足利軍は攻め入った顕家軍を相手に奮闘したが、勢いの差は如何ともし難い。12月23日、斯波家長が戦死したのを契機に足利軍は崩れたつ。彼らはやむを得ず、義詮を守りながら血路を開き脱出。ここに関東の中心地・鎌倉は顕家の手によって南朝方の手に落ちたのである。
9.血戦青野原
鎌倉を奪取した顕家だったが、安息の暇はなかった。あくまで目標は京である。年が明けた延元三年(1338)1月2日、彼は再び西上の途についた。道中、遠江で宗良親王が合流、熱田では熱田大宮司や新田一族の堀口貞満もこれに加わった。こうして顕家の軍勢はその数を増しつつあったが、彼らを賄うのは容易な事ではない。必然、道中の略奪に多くを拠らざるを得なかった。『太平記』は、東海道を移動する顕家軍について
と記す。遭遇した人々の惨状が伺える。
一方、関東で敗れた足利軍も顕家軍の進撃を看過するつもりはなかった。上杉憲顕・上杉藤成・桃井直常や高重茂らは軍勢を立て直し、遠江の今川範国や三河の吉良満義らと共に顕家軍の背後を衝くべく追撃。これに江戸市・葛西氏・三浦氏・鎌倉氏や武蔵七党といった関東在地豪族たちも加わった。これに美濃の土岐頼遠も参入し顕家軍の背後を捉えつつあった。挟撃を恐れた顕家は、まず彼らを叩こうと決意。
かくして1月下旬、美濃・尾張国境の各地で両軍が対峙し、激突した。まず足利方の小笠原定宗・芳賀高名の二千が伊達・信夫ら三千と志貴(印食、岐阜県羽島郡岐南町)と衝突し、足利軍が敗走。次いで高重茂の三千が墨俣川を渡ろうとした所を、北条時行の五千(写本によっては二千)が襲撃しこれを打ち破る。更に今川範国・三浦高継の軍勢が足近川(岐阜県羽島市)に出たところを、結城宗広・南部・下山らの一万(写本によっては三千)が襲い蹴散らした。上杉憲顕・藤成と新田軍数万(写本によっては五千)は青野原(岐阜県大垣市赤坂町)で激戦を繰り広げ、新田軍が勝利。そんな中、桃井直常・土岐頼遠は千人の精鋭で顕家本隊を襲撃するが、衆寡敵せず退却した。かくして、顕家は背後を追跡した足利軍を撃破する。
この頃、京の足利政権はその他の戦線への対応に追われ、顕家軍に対処できなかった。そのためか、直義が園城寺に兵を督促していた事が知られている。そうした事情もあり、東国・美濃の足利方が敗北した知らせは尊氏らを震撼させた。『太平記』によれば宇治・瀬田の守りを固め待機しようという意見も見られたが、高師泰がそれに反対する。彼は、そうした弱腰の作戦で京を守り抜けた事例はなく、逆に積極的に打って出るべきと主張した。その方針に沿う形で、師泰・師冬・細川頼春・佐々木氏頼・佐々木導誉・秀綱の一万が美濃・近江国境の黒地川に布陣。これが、足利方にとっては功を奏した。顕家は黒地川の新手とぶつかるのを避け、方向を南に転じ2月1日に伊勢に入るのである。青野原で勝利したとはいえ、自軍が受けた損害も決して小さなものではなかったのであろう。
この顕家の転進について、『太平記』は顕家を批判している。曰く、もし北に向かい新田軍と合流していれば、京を脅かし奪還する事もできたであろうに。顕家は貴族出身であり、武家の義貞を卑しみ彼が功を挙げるのを嫌ったのだ、と。
この評価について一言しておきたい。確かに「鎮守府大将軍」の一件からも分かるように、顕家は伝統貴族らしい気位の高い価値観を持っていたようだ。彼が義貞を足利と同じ貉として内心で軽く見ていたとしても不思議はない。だが、それが新田軍との合流をしなかった原因かといえば話は別である。この時点で顕家・義貞とも南朝方の数少ない主力であり、選り好みをしている余裕はない。ましてや、顕家軍には新田義興・堀口貞満ら新田一族も加わっていた。特に貞満は、先に後醍醐が新田一族を無視して足利と和睦した際、後醍醐への直言も辞さなかった硬骨の士である。彼らの意見は無視できまい。顕家一人の好悪の念で進軍先が決定しえたはずはない。
また、この時期はまだ北国では雪が溶けていなかったと思われる。そんな中を長旅で疲弊し、補給もままならない顕家軍が北近江の山地を越え北陸に向かうのは自殺行為だ。寒さに慣れた奥州兵だけならともかく、今の顕家軍には関東・東海で加わった者も多いのだから。新田軍が南下して合流するとしても、同様に無茶であったろう。
以上を考えると、正面突破を断念した顕家が伊勢に方向を転じたのは、自然な選択であった。顕家にとっては、小さからぬ挫折である。一方、足利方にとってはひとまず危機を脱した形となった。
10.泉州石津
顕家が向かった先の伊勢では、父・親房が勢力を扶植していた。伊勢は伊勢神宮のお膝元であり、伊勢湾に面した大湊は東国と海上交通でつながる要所である。ここに下総相馬・相模大庭・駿河鮎沢など東国の伊勢御厨から年貢が集積し、問丸・廻船業者が発達していた。親房は、外宮の禰宜・度会氏や大湊の有力者・光明寺恵観を味方に引き入れていた。そして、田丸城を中心にして水軍を掌握していたのである。顕家は、この地で味方の軍勢を立て直そうとしたのであろう。だが、京奪回のためには、長居は許されなかった。伊勢まで追撃してきた高師直・師泰らをかわし、2月21日には奈良に入る。この時にも顕家軍は物資確保に悩まされ略奪を余儀なくされたようで、『興福寺略年代記抄出』は「宮方軍勢数万騎南都に充満、追捕狼藉、先代未聞也」と記している。28日、京から派遣された桃井直常らと戦って敗北。奥州から無理に無理を重ねてきたが、ここに来て勢いも鈍りつつあった。顕家は万一を慮ってか、義良親王とここで別れ吉野へと送り届けている。親王の安全を確保した上で、顕家は河内へ逃れた。この地は楠木氏の勢力圏である。そこで現地の軍勢も組み入れ、再び挽回を図った。
かくて3月8日、兵を立て直した顕家は天王寺で細川顕氏を破る。そして弟・顕信を男山へ進出させ、ついに京攻略の橋頭堡を築いた。危機感を抱いた足利方は高師直を男山に派遣したが、これを攻め倦む。そこで、師直は楠木氏の動きを警戒しつつ天王寺の顕家軍を叩く方針に切り替え3月16日に遭遇した。前日に渡辺で上杉憲藤を討ち取り意気上がっていた顕家軍であったが、師直・師冬・今川範国らとの戦いで敗北。再び潜伏を余儀なくされた。
顕家が勢いを取り戻したのは5月。彼は堺浦を襲い、和泉の坂本郷や観音寺に城郭を構える。その上で、吉野とも連絡を取りつつ、熊取・佐野などを襲撃した。大阪平野は、畿内と西国を海路で繋ぐ要地である。足利方にとっては顕家の蠢動は捨て置けなかった。再び師直が細川顕氏・武田信武を従えて出撃する。そして運命の5月22日、堺浦・石津で両軍は遭遇した。『上杉古文書』によれば、陸戦のみならず堺浦海上で船戦も行われたという。激戦であった。だが、顕家はもはや兵力において劣勢であった。善戦するも、ついに及ばず。南部師行・名和義高・名和義重ら配下の有力武将を失い、顕家は敗北。彼は吉野へ逃れようと突破を図ったが、果たせずに討死する。『太平記』によれば顕家を打ち取ったのは越生四郎左衛門尉で、首級を挙げたのは武藤政清であったという。数え年にして二十一歳。南朝方にとっては大きな衝撃であった。伊勢にあった父・親房は『神皇正統記』で
と悲嘆を漏らしている。
さて討死の7日前である5月15日、顕家は吉野の後醍醐に宛てて七ヶ条の献言を残している。これは建武政権における後醍醐の失政を痛烈に批判し、今後の方策を進言するものであった。内容は以下の通りである。
その上で、「この献言が受け入れられないなら自分は天皇のもとを去り山林に隠れる」という激しい言葉で結ばれている。この諌奏が顕家の政治的遺言となった。ここからは地方に赴任して現地の混乱を目の当たりにした人間ならではの視点と、保守的な伝統貴族としての建武政権への不満の双方が垣間見られる。現場を知るが故の見識と固陋な身分意識が混在したこの奏上文は、顕家の精神を象徴すると言えようか。
男山の顕信は、兄の戦死後もしばらくは踏ん張り続けた。だが、ついに7月11日に陥落。顕信は辛うじて逃れた。ここに奥州軍による京奪回の戦いは完全に頓挫する。
そして閏7月、越前の新田義貞も討死。この頃の義貞は勢いを盛り返し、越前のほぼ全域を制圧するまでになっていた。更に越後の新田一族が越中方面へ進出、北陸一帯で新田軍が勢いを振るう。一旦は完全に叩き潰されたかに見えた義貞は、ここに至って総指揮官として、そして武家の棟梁として一皮むけつつあるかに見えていた。だが、天運は最後まで彼に微笑まなかった。黒丸城攻撃の最中、少数の兵で督戦に出向いた義貞は流れ矢に当たりあっけなく落命する。
こうして、顕家に続き義貞と相次いで南朝軍の重鎮が失われた。戦力的に著しく弱体化した南朝は、その戦略の再編を余儀なくされたのである。
(四)へ続く。
7.再び奥州へ
勝利の余韻冷めやらぬ中、朝廷では論功行賞や人事が行われていた。顕家は2月に右衛門督・検非違使別当に任じられ、更に3月には権中納言となった。そしてこの頃、顕家は昨年に帯びた鎮守府将軍に一字を加え「鎮守府大将軍」と称する事を願い出て許可されている。鎮守府将軍の官職が顕家の位と比べて低すぎたためであるという。伝統貴族らしい気位の高さというべきであろうか。
さて、顕家は再び義良親王を擁して奥州に赴く事が定められた。というのは、顕家らが留守の間に、足利方によって奥州が制圧される危険が大きかったためである。足利軍主力を西に追い落としたとはいえ、建武政権への反発や足利氏への信望はいまだ高い。そして関東には未だ尊氏の子・義詮や斯波家長が健在。彼らによる奥州への工作を防ぎ、朝廷側の東日本における重鎮として睨みを利かす必要があった。かくして義良親王は急遽元服を済ませ、三品の位と陸奥太守の地位を与えられた。そして顕家は、義良を補佐する存在として陸奥大介(次官、ただしこの場合は実質上の長官)に任じられている。『保暦間記』によれば、彼らの管轄すべき地域として従来の陸奥・出羽に加え新たに常陸・下野も追加されたという。そして3月24日、顕家は義良親王と共に再び東下。父・親房は病のため都に留まった。顕家が京の地を踏んだのは、この時が最後であった。
顕家の道中は、どうしても敵中突破となる。その通過を関東の足利方が看過するはずはなかった。4月16日には斯波家長と相模片瀬川で戦ってこれを破り、鎌倉へ入る。そして24日には宇都宮へ到着。顕家が奥州の入口まで到着した事実は、東国の豪族たちに刺激となった。相馬一族のなかから胤平が朝廷側に寝返り宇都宮へ合流している。その勢いに乗り、顕家は5月24日には相馬光胤の篭る陸奥小高城を陥落させた。また、北関東でも楠木正家が瓜連城を拠点として小田治久と共に常陸南部に勢力を広げており、顕家も時に常陸へ侵入し援護射撃を試みている。
とはいえ、時代の潮流は足利方を向いていた。この延元元年(1336)も8月に入ると、支配下にあった曽我貞光・佐竹義篤・伊賀盛光らが足利方に陣営を移している。こうした動きは、中央での情勢急変を反映したものであった。
先に朝廷軍に敗れた尊氏は、瀬戸内の要所に有力武将を配置した上で九州に向かう。そして多々良浜で菊池氏の大軍を破り、九州の豪族たちを味方につけた。更に彼は光厳院から院宣(上皇からの命令書)を密かに入手。もはや朝敵の汚名を憂える必要はなくなっていた。かくして足利軍は西国各地から続々と味方を増やし、水陸双方から再び京へ攻めのぼる。
一方、新田義貞は足利軍を討伐すべく西国へと出陣するが、播磨の赤松円心を相手に苦戦を余儀なくされた。この時期、戦局が芳しくないのを憂慮した正成が義貞を諦め尊氏と和睦するよう奏上したと『梅松論』は伝える。そうこうするうちに足利の大軍が畿内に迫り、義貞は兵庫まで退いた。正成は正面から戦っては勝ち目がないと考え、足利軍を京に引き入れ兵糧攻めにするよう天皇に進言。だが、それは容れられる事なく、正成は義貞への援軍として兵庫に出陣。
延元元年(1336)5月25日、摂津湊川で新田・楠木軍は水陸から押し寄せる足利軍を迎え撃つ。大軍の展開に適さない地形を利用して楠木軍は奮闘し、一時は敵陸軍を率いる足利直義を追い詰めた。だが衆寡敵せず、尊氏の水軍が背後に回ったのを契機に新田軍が敗北。楠木軍は包囲殲滅される体勢となり、正成は自害した。正成は戦術家として卓越していたばかりでなく、長期戦略の読みにも長けた当時として稀有な武将であった。彼の指揮する軍勢が常に小勢であったのが惜しまれる。一方、義貞は重大な戦いでの敗北が目立ち、しかもそれが戦役そのものの失敗に直結している印象は否めない。とはいえ決して無能ではなく、上述した足利軍との戦いでは新田軍の一撃が勝敗を決めているように戦術指揮官としては相応に優秀であった。しかしながら、同時代で比類ないレベルとまでは言えない。そして、戦略レベルの視野をも求められる総司令官としての適性については、尊氏らと比較すると見劣りする感があるのは致し方ない。
さて、辛うじて逃れた義貞から敗報を受け、後醍醐は再び叡山に逃れる。そして、入京した足利軍を相手に抗戦。だが兵力不足は如何ともしがたく、河内方面で敵を撹乱するはずの正成を欠いたのも痛かった。朝廷軍は千種忠顕・名和長年ら有力武将を失って次第に敗色濃厚となる。そして近江の佐々木氏が足利方として参戦するに至って後醍醐側が逆に兵糧攻めにあう形となった。
追い詰められた後醍醐は足利方と和平を結ぶ。既に尊氏が擁立していた光明天皇(光厳院の弟)に譲位する代わり、皇位継承は持明院統・大覚寺統交互に行う事が条件だったと推測される。この和議は義貞に無断で行われたため、後醍醐は新田一族から抗議を受けた。そこで後醍醐は恒良親王に譲位した上で恒良を義貞に預け、彼らを北陸に向かわせる。新田氏を宥めるためではあったが、和平が破れた時の備えでもあったろう。
こうして足利氏の支配する京に入った後醍醐だったが、隠居の身として花山院に幽閉されたのを不満としてかすぐに脱出。密かに吉野へ入った後醍醐は、依然として自分が正統な天皇であると宣言。ここに、複数の天皇が存在する南北朝の動乱が幕を開けた。足利氏が擁立する京の朝廷を北朝、後醍醐による吉野の朝廷を南朝と呼ぶ。なお、先に後醍醐から譲位された恒良も、越前金ヶ崎城から綸旨を発給し天皇として振舞っていた。しかし恒良を支える新田軍は越前に向かう際の冬山越えで多くの兵力を失っていた。また、越前は彼らにとって異郷であり、苦しい戦いを余儀なくされる。結局、越前の恒良による「朝廷」は足利軍の攻撃により短期間で瓦解。恒良親王は虜囚の身となった。義貞は辛うじて逃れ、潜伏しながらも捲土重来を期するが、南朝方は早々と試練の時を迎えていたのである。
こうした情勢が、東国にも及んでいた。そんな中、顕家は延元元年(1336)10月に中尊寺建立供養願文を書写。神仏の加護を得ようとしたものであろうか。一方、畿内周辺の南朝方もまた苦戦を強いられており、顕家の来援を強く望むようになる。11月には越前の恒良親王から結城宗広に上洛命令が届いており、12月には吉野の後醍醐からも江戸忠重を勅使として上洛を命じてきた。しかし奥州の戦局も極めて厳しいものとなりつつあった。12月には瓜連城も陥落し、常陸も足利方の手に落ちている。そして翌延元二年(1337)1月8日には、顕家は多賀国府を捨てて義良と共に南の霊山に移った。奥州でも顕家の威令が及ぶ地域が少なくなり、支配領域は周辺の伊達郡・行方郡などに限局されていた。恐らくは敵の鋭鋒を避けるための国府移動であったろう。それでも1月25日に後醍醐の出陣要請に奉答した書状に「凶徒城を囲み候のあいだ、近日合戦をとぐべく候也」とあり、霊山もまた敵方の包囲を受けていたようだ。
それでも顕家は後醍醐や義貞の求めに応え西上の準備を整える。そして同年8月11日、義良親王を大将として結城宗広を補佐、更に南部師行や伊達氏・信夫氏も率い六千の軍勢で出陣した。留守居役は結城親朝と南部政長である。顕家が名将としての評価を不動とした最も輝かしく、そして悲愴な戦役が幕を開けた。
8.鎌倉陥落
顕家の出陣に関して、『保暦間記』はこう記す。
顕家卿打ち負て落ち、当国伊達郡に霊山と云ふ寺に籠けるを攻ければ、是をも落ちて、下野国宇都宮に往けり
ずいぶんと手厳しい評価であるが、不当とは言えないようだ。今回の遠征は、奥州からの逃亡とも映ったようである。とはいえ、南朝の主力が関東へ出撃してきた事は関東の南朝方にも刺激となった。そのためか8月19日に白河関を越え下野に入った際にはその軍勢は万を超えていたという。
12月13日、顕家軍は利根川に達した。鎌倉の足利方から派遣された上杉憲顕・細川和氏・高重茂らが対岸に対峙しこれを防ごうとする。『太平記』は、この戦いを以下のように述べる。両軍はそれぞれ渡河地点を捜索していたが、顕家軍が先手を取った。騎兵が連なって流れを和らげ、そのすぐ下流を歩兵が渡る「馬筏」をとって渡り始めたのだ。足利軍も負けじと川を渡ろうとするが、先に顕家軍が東側の流れをせき止めていたため、足利軍のいた西側の流れが強まっていた。足利軍の馬筏は急流に押し負ける。彼らはあわてて岸に戻ったが、陣形は崩れており立て直しは容易ではない。顕家はそこを衝いて攻撃し、勝利を得た。
勢いに乗った顕家軍は武蔵国府に到達、鎌倉へ向かう。そこへ伊豆から北条時行、入間川から新田義興(義貞の次男)が合流した。時行は北条氏の嫡流であり、本来は後醍醐にとって宿敵である。だが、時行にとっては父を裏切って天下人となった尊氏こそが不倶戴天の仇であった。そして今や後醍醐も京を追われ劣勢の戦いを余儀なくされている。敵の敵は味方、ここに両者の利害は一致した。かくして、時行は「朝敵の罪を赦免」され南朝方となったのである。
『太平記』によれば利根川での敗報を聞いた鎌倉では、善後策をめぐり混乱に陥った。中には撤退論すら出たが、これを一喝したのが足利義詮である。彼は人々に檄を入れて曰く。父・尊氏から守りを託された以上は、一戦もせずに退いては面目が立たない。戦った末に退くのはやむを得ないが、敵の一角を破って上総か安房に赴けばいずれは敵は京へ進む。それを追って西の味方と共に挟み撃ちにすべきであろう、と。義詮はまだ幼少ながら、その意気や軒昂、大将としての自覚は充分というべきか。足利方はその言葉によって士気挙がり、鎌倉に立てこもる。かくして足利軍は攻め入った顕家軍を相手に奮闘したが、勢いの差は如何ともし難い。12月23日、斯波家長が戦死したのを契機に足利軍は崩れたつ。彼らはやむを得ず、義詮を守りながら血路を開き脱出。ここに関東の中心地・鎌倉は顕家の手によって南朝方の手に落ちたのである。
9.血戦青野原
鎌倉を奪取した顕家だったが、安息の暇はなかった。あくまで目標は京である。年が明けた延元三年(1338)1月2日、彼は再び西上の途についた。道中、遠江で宗良親王が合流、熱田では熱田大宮司や新田一族の堀口貞満もこれに加わった。こうして顕家の軍勢はその数を増しつつあったが、彼らを賄うのは容易な事ではない。必然、道中の略奪に多くを拠らざるを得なかった。『太平記』は、東海道を移動する顕家軍について
路地ノ民屋ヲ追捕シ神社仏閣ヲ焼払フ、惣ジテ此勢ノ打過ケル跡、塵ヲ払テ海道二三里ガ間ニハ、在家ノ一宇モ残ラズ草木ノ一本モナカリケリ
と記す。遭遇した人々の惨状が伺える。
一方、関東で敗れた足利軍も顕家軍の進撃を看過するつもりはなかった。上杉憲顕・上杉藤成・桃井直常や高重茂らは軍勢を立て直し、遠江の今川範国や三河の吉良満義らと共に顕家軍の背後を衝くべく追撃。これに江戸市・葛西氏・三浦氏・鎌倉氏や武蔵七党といった関東在地豪族たちも加わった。これに美濃の土岐頼遠も参入し顕家軍の背後を捉えつつあった。挟撃を恐れた顕家は、まず彼らを叩こうと決意。
かくして1月下旬、美濃・尾張国境の各地で両軍が対峙し、激突した。まず足利方の小笠原定宗・芳賀高名の二千が伊達・信夫ら三千と志貴(印食、岐阜県羽島郡岐南町)と衝突し、足利軍が敗走。次いで高重茂の三千が墨俣川を渡ろうとした所を、北条時行の五千(写本によっては二千)が襲撃しこれを打ち破る。更に今川範国・三浦高継の軍勢が足近川(岐阜県羽島市)に出たところを、結城宗広・南部・下山らの一万(写本によっては三千)が襲い蹴散らした。上杉憲顕・藤成と新田軍数万(写本によっては五千)は青野原(岐阜県大垣市赤坂町)で激戦を繰り広げ、新田軍が勝利。そんな中、桃井直常・土岐頼遠は千人の精鋭で顕家本隊を襲撃するが、衆寡敵せず退却した。かくして、顕家は背後を追跡した足利軍を撃破する。
この頃、京の足利政権はその他の戦線への対応に追われ、顕家軍に対処できなかった。そのためか、直義が園城寺に兵を督促していた事が知られている。そうした事情もあり、東国・美濃の足利方が敗北した知らせは尊氏らを震撼させた。『太平記』によれば宇治・瀬田の守りを固め待機しようという意見も見られたが、高師泰がそれに反対する。彼は、そうした弱腰の作戦で京を守り抜けた事例はなく、逆に積極的に打って出るべきと主張した。その方針に沿う形で、師泰・師冬・細川頼春・佐々木氏頼・佐々木導誉・秀綱の一万が美濃・近江国境の黒地川に布陣。これが、足利方にとっては功を奏した。顕家は黒地川の新手とぶつかるのを避け、方向を南に転じ2月1日に伊勢に入るのである。青野原で勝利したとはいえ、自軍が受けた損害も決して小さなものではなかったのであろう。
この顕家の転進について、『太平記』は顕家を批判している。曰く、もし北に向かい新田軍と合流していれば、京を脅かし奪還する事もできたであろうに。顕家は貴族出身であり、武家の義貞を卑しみ彼が功を挙げるのを嫌ったのだ、と。
この評価について一言しておきたい。確かに「鎮守府大将軍」の一件からも分かるように、顕家は伝統貴族らしい気位の高い価値観を持っていたようだ。彼が義貞を足利と同じ貉として内心で軽く見ていたとしても不思議はない。だが、それが新田軍との合流をしなかった原因かといえば話は別である。この時点で顕家・義貞とも南朝方の数少ない主力であり、選り好みをしている余裕はない。ましてや、顕家軍には新田義興・堀口貞満ら新田一族も加わっていた。特に貞満は、先に後醍醐が新田一族を無視して足利と和睦した際、後醍醐への直言も辞さなかった硬骨の士である。彼らの意見は無視できまい。顕家一人の好悪の念で進軍先が決定しえたはずはない。
また、この時期はまだ北国では雪が溶けていなかったと思われる。そんな中を長旅で疲弊し、補給もままならない顕家軍が北近江の山地を越え北陸に向かうのは自殺行為だ。寒さに慣れた奥州兵だけならともかく、今の顕家軍には関東・東海で加わった者も多いのだから。新田軍が南下して合流するとしても、同様に無茶であったろう。
以上を考えると、正面突破を断念した顕家が伊勢に方向を転じたのは、自然な選択であった。顕家にとっては、小さからぬ挫折である。一方、足利方にとってはひとまず危機を脱した形となった。
10.泉州石津
顕家が向かった先の伊勢では、父・親房が勢力を扶植していた。伊勢は伊勢神宮のお膝元であり、伊勢湾に面した大湊は東国と海上交通でつながる要所である。ここに下総相馬・相模大庭・駿河鮎沢など東国の伊勢御厨から年貢が集積し、問丸・廻船業者が発達していた。親房は、外宮の禰宜・度会氏や大湊の有力者・光明寺恵観を味方に引き入れていた。そして、田丸城を中心にして水軍を掌握していたのである。顕家は、この地で味方の軍勢を立て直そうとしたのであろう。だが、京奪回のためには、長居は許されなかった。伊勢まで追撃してきた高師直・師泰らをかわし、2月21日には奈良に入る。この時にも顕家軍は物資確保に悩まされ略奪を余儀なくされたようで、『興福寺略年代記抄出』は「宮方軍勢数万騎南都に充満、追捕狼藉、先代未聞也」と記している。28日、京から派遣された桃井直常らと戦って敗北。奥州から無理に無理を重ねてきたが、ここに来て勢いも鈍りつつあった。顕家は万一を慮ってか、義良親王とここで別れ吉野へと送り届けている。親王の安全を確保した上で、顕家は河内へ逃れた。この地は楠木氏の勢力圏である。そこで現地の軍勢も組み入れ、再び挽回を図った。
かくて3月8日、兵を立て直した顕家は天王寺で細川顕氏を破る。そして弟・顕信を男山へ進出させ、ついに京攻略の橋頭堡を築いた。危機感を抱いた足利方は高師直を男山に派遣したが、これを攻め倦む。そこで、師直は楠木氏の動きを警戒しつつ天王寺の顕家軍を叩く方針に切り替え3月16日に遭遇した。前日に渡辺で上杉憲藤を討ち取り意気上がっていた顕家軍であったが、師直・師冬・今川範国らとの戦いで敗北。再び潜伏を余儀なくされた。
顕家が勢いを取り戻したのは5月。彼は堺浦を襲い、和泉の坂本郷や観音寺に城郭を構える。その上で、吉野とも連絡を取りつつ、熊取・佐野などを襲撃した。大阪平野は、畿内と西国を海路で繋ぐ要地である。足利方にとっては顕家の蠢動は捨て置けなかった。再び師直が細川顕氏・武田信武を従えて出撃する。そして運命の5月22日、堺浦・石津で両軍は遭遇した。『上杉古文書』によれば、陸戦のみならず堺浦海上で船戦も行われたという。激戦であった。だが、顕家はもはや兵力において劣勢であった。善戦するも、ついに及ばず。南部師行・名和義高・名和義重ら配下の有力武将を失い、顕家は敗北。彼は吉野へ逃れようと突破を図ったが、果たせずに討死する。『太平記』によれば顕家を打ち取ったのは越生四郎左衛門尉で、首級を挙げたのは武藤政清であったという。数え年にして二十一歳。南朝方にとっては大きな衝撃であった。伊勢にあった父・親房は『神皇正統記』で
同五月和泉国にてのたたかひに、時いたらざりけむ、忠孝の道ここにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬ、ただいたづらに名をのみぞとどめてし、心うき世にはべるかな。
(岩佐正校注『神皇正統記』岩波文庫 187頁)
と悲嘆を漏らしている。
さて討死の7日前である5月15日、顕家は吉野の後醍醐に宛てて七ヶ条の献言を残している。これは建武政権における後醍醐の失政を痛烈に批判し、今後の方策を進言するものであった。内容は以下の通りである。
一、一ヶ所のみで全国について決裁するのは現実的でなく、政治が乱れる元である。都だけでなく、九州・奥州など地方にも然るべき人を置いて備えるべきである。
二、諸国の租税を三年間免じ倹約する事。新任の地頭にも賦課を減らし、人民の負担を軽減する。
三、むやみに官職をさずけず、前例のない破格の人事を行わない事。
四、恩賞はしかるべき形で与える。貴族・僧侶には国衙領・荘園を与え武士には地頭職を授けるようにする。
五、臨時の行幸や宴会は慎み、出費を抑える事。
六、法令が朝令暮改で人心を不安にしていた。そのような事がないよう、法を厳密にすること。
七、天皇の個人的な寵臣を政治に口出しさせない事。
その上で、「この献言が受け入れられないなら自分は天皇のもとを去り山林に隠れる」という激しい言葉で結ばれている。この諌奏が顕家の政治的遺言となった。ここからは地方に赴任して現地の混乱を目の当たりにした人間ならではの視点と、保守的な伝統貴族としての建武政権への不満の双方が垣間見られる。現場を知るが故の見識と固陋な身分意識が混在したこの奏上文は、顕家の精神を象徴すると言えようか。
男山の顕信は、兄の戦死後もしばらくは踏ん張り続けた。だが、ついに7月11日に陥落。顕信は辛うじて逃れた。ここに奥州軍による京奪回の戦いは完全に頓挫する。
そして閏7月、越前の新田義貞も討死。この頃の義貞は勢いを盛り返し、越前のほぼ全域を制圧するまでになっていた。更に越後の新田一族が越中方面へ進出、北陸一帯で新田軍が勢いを振るう。一旦は完全に叩き潰されたかに見えた義貞は、ここに至って総指揮官として、そして武家の棟梁として一皮むけつつあるかに見えていた。だが、天運は最後まで彼に微笑まなかった。黒丸城攻撃の最中、少数の兵で督戦に出向いた義貞は流れ矢に当たりあっけなく落命する。
こうして、顕家に続き義貞と相次いで南朝軍の重鎮が失われた。戦力的に著しく弱体化した南朝は、その戦略の再編を余儀なくされたのである。
(四)へ続く。
by trushbasket
| 2014-07-27 23:33
| NF








