2014年 07月 27日
北畠顕家(四)
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(三)より続く。目次はこちら。
11.北畠顕信
正成に始まり顕家・義貞が戦没した今、南朝の柱石たりうるのは親房のみであった。親房は、東国の拠点を再建する計画を推進する。伊勢大湊から東海・関東・奥州へそれぞれ幹部を送り込み、味方の拠点を扶植しよう。それが親房の基本戦略だった。まず顕家の後継者として、その弟・顕信が陸奥介鎮守府将軍に任命された。彼には奥州に加え関東における軍権も委ねられる。
かくして延元三年(1338)秋、大湊から南朝の船団が出航した。義良親王・顕信・結城宗広は奥州、親房は関東、宗良親王は遠江を目指しての船旅である。しかし海上で暴風雨に遭遇。親房・宗良親王は何とか目的地に到達したものの、顕信らは伊勢まで吹き戻された。南朝の奥州軍再建は早くも挫折を余儀なくされる。結城宗広はその地で病没。義良親王は再び吉野へ戻り、翌年に後醍醐が病没すると皇位を継承。後村上天皇である。
延元四年(1339)、顕信は再び奥州へ向かおうと下野に入る。だが、東国の戦局は顕家生前と比べて更に悪化していた。顕信は多賀国府奪回を目論むもなかなか果たせない。宇津峰・霊山を固守する日々であったが、霊山も正平二年(1347)には陥落している。顕信の文書は多くが葛西氏の元で確認されており、石巻の葛西清貞を頼っていた可能性もあるようだ。
事態が動いたのは正平四年(1349)頃であった。圧倒的優勢を誇っていたはずの足利政権が分裂したのである。前年に高師直が畿内南朝軍の主力・楠木正行を四条畷で撃滅。南朝の勢威は著しく減衰した。しかし、足利政権内部でも師直の声望が高まるにつれ師直と足利直義との対立が顕在化する。元来、行政を担当する直義の下には保守的な有力豪族や実務官僚が集い、一方で尊氏を補佐して軍事を担う師直には急進的な振興豪族が傘下に入っていた。両者の利害は時が経つにつれ激突するようになる。かくして正平四年(1349)に師直がクーデターで直義を追放したのを契機に、両派は軍事衝突に至る。翌年には直義が南朝と結んで尊氏・師直と対抗し、師直一族を殺害した。事ここに至ると、尊氏と直義の関係ももはや修復不可能となる。今度は尊氏が南朝と結び、鎌倉に籠る直義を撃破し死に至らしめた。一方、南朝の親房は尊氏軍の隙に乗じて蜂起し、京・鎌倉を奪還しようと図る。無節操・無秩序ともいうべき政治状況に陥っていたのである。
顕信も足利政権の分裂に乗じ、正平六年(1351)に多賀国府奪還を果たした。更に翌年、関東の尊氏を討ち果たすべく東国の南朝方が一斉に挙兵。顕信もそれに応じて下野・白河方面に出撃した。
尊氏軍の不意を衝く形で京・鎌倉を一時奪回した南朝であったが、戦力の不足はどうにもならない。体勢を立て直した尊氏方によって畿内・関東とも南朝軍が撃退されたのは程なくであった。顕信も追い返され国府も失陥し、翌年には宇津峰城すら落城の憂き目を見た。その後もしばらく顕信は奥州で戦い続けたようで、正平十七年(1362)までは国宣(国司による命令書)が確認される。以降、顕信の消息は不明だ。『関城繹史』には晩年に吉野へ帰り右大臣になったとあるが、真偽は明らかでない。
12.それから
その後も、南朝は足利政権の分裂に乗じて何度か京を奪回している。しかしそれも一時的なものに過ぎなかった。内紛を乗り越えた足利政権が次第に安定するにつれ、南朝は対抗する術を失う。そうした中、足利政権第三代・義満の主導により南朝・北朝合一の交渉が行われた。かくして元中九年(1392)、南朝の後亀山天皇は京へ趣き、皇位の証たる「三種の神器」を北朝・後小松天皇に譲渡する。ここに約六十年の長きにわたった南北朝の動乱は収束した。その後も、旧南朝の残党が蜂起する事はあったが、足利方の武力に対抗できず次第に消滅していく。
さて、顕家の子・顕成は父の死後も陸奥の浪岡(青森市浪岡)に拠点を設け抗戦を続けたようだ。南北朝動乱が集結した後も、その歴代子孫は浪岡を統治した。「浪岡御所」である。顕信の子・守親の系統も浪岡に居住したとされる。しかし天正六年(1578)、津軽為信の手で浪岡御所は滅ぼされた。その後も顕家の子孫は津軽に留まったとされ、作家の今東光・今日出海兄弟はその末裔であるという。
徳川中期以降、尊皇思想の高まりに伴い南朝の忠臣たちへの関心が高まった。顕家も注目され顕彰された一人であったのは言うまでもない。
近代に入ると、その他の「南朝忠臣」たちと共に彼も神として崇められるようになる。明治十四年(1881)、霊山城跡に親房・顕家・顕信・守親を祭神とする霊山神社が創建された。更に翌年、『太平記』が顕家戦没の地と伝える大阪・阿倍野の地にも阿部野神社の創建が定められる。祭神は親房・顕家。
こうした流れの一貫として、顕家の墓所も論議の的となる。従来、阿倍野の大名塚が顕家の墓ではないかとの伝承があった。そして享保十八年(1733)には並河誠所がこの地に墓碑を建立。
しかし明治に入ると、これに異論が称えられた。古文書から石津で戦没した事がわかっており、そこにある塚こそが顕家の墓ではないかと明治三十六年(1903)に東大教授・星野恒が主張する。その塚は、従来は源平合戦期の武将・源行家の墓と伝えられたものであった。その説に従う形で、昭和十二年(1937)に南部日実男爵が顕家・南部師行らの供養塔を建立する。
いったいどちらが顕家の墓所なのか。阿倍野派と石津派の間で激しい論争が交された事もあったが、決着には至っていない。そうした理由で、現在、北畠顕家の墓は二つ存在するのである。
13.おわりに
北畠顕家の生涯は極めて短い。わずか二十年である。そして彼が歴史の表舞台に登場した期間も短い。六年弱である。だが、その間における彼の足跡は鮮烈であった。顕家は二度にわたり兵を率いて奥州・畿内間を踏破、天下を鳴動させる。一度は敵を撃退し、次も敗れはしたが大いに相手を震撼せしめた。その移動距離、突破力、戦果、そして情勢への影響力。いずれも我が国の武将としては史上屈指と言わねばなるまい。南北朝期にとどまらず、全時代を通じても彼の事績は引けを取らないものであろう。戦いを生業とする武家でなく、伝統貴族からこのような人材が生まれたのは興味深い事実である。
しかしかくの如き名将をもってしても、南朝の劣勢を覆す事は遂にできなかった。時代の大きな流れを向こうに回しては、傑出した個人といえど無力である事を痛感せずにはおれない。そして、時を経て南北朝がマイナー分野になるにつれ、顕家の名を知る者も少なくなった。これも世の無常であろうか。
そういえば、「風林火山」の旗を武田信玄に先立って顕家が用いていたという話がネット上で一時見られたが、その真偽に関する信頼すべき情報は得られなかった。残念な事である。
14.参考文献
中村孝也著『北畠顕家卿』 小学館
岡野友彦『北畠親房』 ミネルヴァ書房
『日本古典文学大系太平記』一~三 岩波書店
『群書類従 第二十一号 合戦部』より『難太平記』 続群書類従完成会
『京大本梅松論』 京都大学国文学会
佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』 中公文庫
田中義成『南北朝時代史』 講談社学術文庫
林屋辰三郎『南北朝』 創元新書
中村直勝『吉野朝史』 星野書店
高柳光寿著『足利尊氏』 春秋社
村松剛『帝王後醍醐』 中公文庫
山路愛山著『足利尊氏』 岩波文庫
森茂暁『建武政権』 教育社歴史新書
森茂暁『皇子たちの南北朝』 中公新書
森茂暁『太平記の群像』 角川選書
松本新八郎著『中世社会の研究』東京大学出版会
『ピクトリアル足利尊氏南北朝の動乱』 学研
伊藤喜良著『南北朝動乱と王権』 東京堂出版
『歴史群像シリーズ10戦乱南北朝』 学研
新田一郎『日本の歴史11太平記の時代』 講談社
桑田忠親『新編日本合戦全集2鎌倉南北朝編』 秋田書店
北畠親房『神皇正統記』岩佐正校注 岩波文庫
『天皇皇族歴史伝説大事典』 勉誠出版
『日本大百科全書』 小学館
小和田哲男著『日本史小百科武将』 近藤出版社
上横手雅敬『日本史の快楽』 角川ソフィア文庫
今東光『毒舌日本史』 文春文庫
海津一朗『楠木正成と悪党』 ちくま新書
陳舜臣『山河太平記』 ちくま文庫
戸部新十郎『日本異譚太平記』 毎日新聞社
田中芳樹『中国武将列伝(上)』 中央公論新社
11.北畠顕信
正成に始まり顕家・義貞が戦没した今、南朝の柱石たりうるのは親房のみであった。親房は、東国の拠点を再建する計画を推進する。伊勢大湊から東海・関東・奥州へそれぞれ幹部を送り込み、味方の拠点を扶植しよう。それが親房の基本戦略だった。まず顕家の後継者として、その弟・顕信が陸奥介鎮守府将軍に任命された。彼には奥州に加え関東における軍権も委ねられる。
かくして延元三年(1338)秋、大湊から南朝の船団が出航した。義良親王・顕信・結城宗広は奥州、親房は関東、宗良親王は遠江を目指しての船旅である。しかし海上で暴風雨に遭遇。親房・宗良親王は何とか目的地に到達したものの、顕信らは伊勢まで吹き戻された。南朝の奥州軍再建は早くも挫折を余儀なくされる。結城宗広はその地で病没。義良親王は再び吉野へ戻り、翌年に後醍醐が病没すると皇位を継承。後村上天皇である。
延元四年(1339)、顕信は再び奥州へ向かおうと下野に入る。だが、東国の戦局は顕家生前と比べて更に悪化していた。顕信は多賀国府奪回を目論むもなかなか果たせない。宇津峰・霊山を固守する日々であったが、霊山も正平二年(1347)には陥落している。顕信の文書は多くが葛西氏の元で確認されており、石巻の葛西清貞を頼っていた可能性もあるようだ。
事態が動いたのは正平四年(1349)頃であった。圧倒的優勢を誇っていたはずの足利政権が分裂したのである。前年に高師直が畿内南朝軍の主力・楠木正行を四条畷で撃滅。南朝の勢威は著しく減衰した。しかし、足利政権内部でも師直の声望が高まるにつれ師直と足利直義との対立が顕在化する。元来、行政を担当する直義の下には保守的な有力豪族や実務官僚が集い、一方で尊氏を補佐して軍事を担う師直には急進的な振興豪族が傘下に入っていた。両者の利害は時が経つにつれ激突するようになる。かくして正平四年(1349)に師直がクーデターで直義を追放したのを契機に、両派は軍事衝突に至る。翌年には直義が南朝と結んで尊氏・師直と対抗し、師直一族を殺害した。事ここに至ると、尊氏と直義の関係ももはや修復不可能となる。今度は尊氏が南朝と結び、鎌倉に籠る直義を撃破し死に至らしめた。一方、南朝の親房は尊氏軍の隙に乗じて蜂起し、京・鎌倉を奪還しようと図る。無節操・無秩序ともいうべき政治状況に陥っていたのである。
顕信も足利政権の分裂に乗じ、正平六年(1351)に多賀国府奪還を果たした。更に翌年、関東の尊氏を討ち果たすべく東国の南朝方が一斉に挙兵。顕信もそれに応じて下野・白河方面に出撃した。
尊氏軍の不意を衝く形で京・鎌倉を一時奪回した南朝であったが、戦力の不足はどうにもならない。体勢を立て直した尊氏方によって畿内・関東とも南朝軍が撃退されたのは程なくであった。顕信も追い返され国府も失陥し、翌年には宇津峰城すら落城の憂き目を見た。その後もしばらく顕信は奥州で戦い続けたようで、正平十七年(1362)までは国宣(国司による命令書)が確認される。以降、顕信の消息は不明だ。『関城繹史』には晩年に吉野へ帰り右大臣になったとあるが、真偽は明らかでない。
12.それから
その後も、南朝は足利政権の分裂に乗じて何度か京を奪回している。しかしそれも一時的なものに過ぎなかった。内紛を乗り越えた足利政権が次第に安定するにつれ、南朝は対抗する術を失う。そうした中、足利政権第三代・義満の主導により南朝・北朝合一の交渉が行われた。かくして元中九年(1392)、南朝の後亀山天皇は京へ趣き、皇位の証たる「三種の神器」を北朝・後小松天皇に譲渡する。ここに約六十年の長きにわたった南北朝の動乱は収束した。その後も、旧南朝の残党が蜂起する事はあったが、足利方の武力に対抗できず次第に消滅していく。
さて、顕家の子・顕成は父の死後も陸奥の浪岡(青森市浪岡)に拠点を設け抗戦を続けたようだ。南北朝動乱が集結した後も、その歴代子孫は浪岡を統治した。「浪岡御所」である。顕信の子・守親の系統も浪岡に居住したとされる。しかし天正六年(1578)、津軽為信の手で浪岡御所は滅ぼされた。その後も顕家の子孫は津軽に留まったとされ、作家の今東光・今日出海兄弟はその末裔であるという。
徳川中期以降、尊皇思想の高まりに伴い南朝の忠臣たちへの関心が高まった。顕家も注目され顕彰された一人であったのは言うまでもない。
近代に入ると、その他の「南朝忠臣」たちと共に彼も神として崇められるようになる。明治十四年(1881)、霊山城跡に親房・顕家・顕信・守親を祭神とする霊山神社が創建された。更に翌年、『太平記』が顕家戦没の地と伝える大阪・阿倍野の地にも阿部野神社の創建が定められる。祭神は親房・顕家。
こうした流れの一貫として、顕家の墓所も論議の的となる。従来、阿倍野の大名塚が顕家の墓ではないかとの伝承があった。そして享保十八年(1733)には並河誠所がこの地に墓碑を建立。
しかし明治に入ると、これに異論が称えられた。古文書から石津で戦没した事がわかっており、そこにある塚こそが顕家の墓ではないかと明治三十六年(1903)に東大教授・星野恒が主張する。その塚は、従来は源平合戦期の武将・源行家の墓と伝えられたものであった。その説に従う形で、昭和十二年(1937)に南部日実男爵が顕家・南部師行らの供養塔を建立する。
いったいどちらが顕家の墓所なのか。阿倍野派と石津派の間で激しい論争が交された事もあったが、決着には至っていない。そうした理由で、現在、北畠顕家の墓は二つ存在するのである。
13.おわりに
北畠顕家の生涯は極めて短い。わずか二十年である。そして彼が歴史の表舞台に登場した期間も短い。六年弱である。だが、その間における彼の足跡は鮮烈であった。顕家は二度にわたり兵を率いて奥州・畿内間を踏破、天下を鳴動させる。一度は敵を撃退し、次も敗れはしたが大いに相手を震撼せしめた。その移動距離、突破力、戦果、そして情勢への影響力。いずれも我が国の武将としては史上屈指と言わねばなるまい。南北朝期にとどまらず、全時代を通じても彼の事績は引けを取らないものであろう。戦いを生業とする武家でなく、伝統貴族からこのような人材が生まれたのは興味深い事実である。
しかしかくの如き名将をもってしても、南朝の劣勢を覆す事は遂にできなかった。時代の大きな流れを向こうに回しては、傑出した個人といえど無力である事を痛感せずにはおれない。そして、時を経て南北朝がマイナー分野になるにつれ、顕家の名を知る者も少なくなった。これも世の無常であろうか。
そういえば、「風林火山」の旗を武田信玄に先立って顕家が用いていたという話がネット上で一時見られたが、その真偽に関する信頼すべき情報は得られなかった。残念な事である。
14.参考文献
中村孝也著『北畠顕家卿』 小学館
岡野友彦『北畠親房』 ミネルヴァ書房
『日本古典文学大系太平記』一~三 岩波書店
『群書類従 第二十一号 合戦部』より『難太平記』 続群書類従完成会
『京大本梅松論』 京都大学国文学会
佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』 中公文庫
田中義成『南北朝時代史』 講談社学術文庫
林屋辰三郎『南北朝』 創元新書
中村直勝『吉野朝史』 星野書店
高柳光寿著『足利尊氏』 春秋社
村松剛『帝王後醍醐』 中公文庫
山路愛山著『足利尊氏』 岩波文庫
森茂暁『建武政権』 教育社歴史新書
森茂暁『皇子たちの南北朝』 中公新書
森茂暁『太平記の群像』 角川選書
松本新八郎著『中世社会の研究』東京大学出版会
『ピクトリアル足利尊氏南北朝の動乱』 学研
伊藤喜良著『南北朝動乱と王権』 東京堂出版
『歴史群像シリーズ10戦乱南北朝』 学研
新田一郎『日本の歴史11太平記の時代』 講談社
桑田忠親『新編日本合戦全集2鎌倉南北朝編』 秋田書店
北畠親房『神皇正統記』岩佐正校注 岩波文庫
『天皇皇族歴史伝説大事典』 勉誠出版
『日本大百科全書』 小学館
小和田哲男著『日本史小百科武将』 近藤出版社
上横手雅敬『日本史の快楽』 角川ソフィア文庫
今東光『毒舌日本史』 文春文庫
海津一朗『楠木正成と悪党』 ちくま新書
陳舜臣『山河太平記』 ちくま文庫
戸部新十郎『日本異譚太平記』 毎日新聞社
田中芳樹『中国武将列伝(上)』 中央公論新社
by trushbasket
| 2014-07-27 23:37
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