2014年 08月 03日
和歌の詠み方に関するメモ(一)
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目次
1.和歌とは
まず最初に、和歌について概略を述べておきます。和歌は「やまとうた」ともいい、日本古来の定型詩です。「和歌」という呼び方は、中国から伝来した漢詩などと対比して用います。ただし同じ日本の定型詩でも後世に生まれた俳諧(俳句)とは区別します。和歌は、その形式によって大きく以下のように分かれます。
・短歌:最も多く見られる形式です。五・七・五・七・七で区切られる計三十一文字で構成されるのを原則とします。
・長歌:短歌に比べて長い定型詩です。五・七を三回以上繰り返して作り、多くは末尾に七語の句を追加して締めます。『万葉集』で多く見られましたが、『古今集』以降は少なくなりほとんど見られなくなりました。
・仏足石歌:五・七・五・七・七・七で区切られます。古代において少数ながら見られた形式ですが、やがて見られなくなりました。
短歌以外の形式は、やがて廃れていき王朝時代には「和歌」といえば通常は短歌をさすようになります。実際、長歌や仏足石歌を作るのは長くてしんどそうですし、本文でも特に断りがない限りは「歌」「和歌」といえば短歌を意味することになると思います。
2.なぜ和歌を詠むのか
なぜ和歌を詠むのか。これについての答えとして、多くの本は「心を強く動かされたのを表現する」ためといった内容を述べています。本居宣長『石上私淑言』がこれについて「物のあはれ」つまり心が動かされることによってやむにやまれず歌が生じてくると述べているのを筆頭に、正岡子規『歌よみに与ふる書』などもこれについては同意見のようです。元来歌は、喜び・驚き・楽しみ・悲しみ・怒りなどで感情が高ぶりそれを言葉に出すことにより生まれたもので、その感情を吐き出すことで言葉は自然と節のついた表現となり、それが時を経て定型的な形式となっていったというのです。歌の良し悪しは情念を如何に詠みこむかにかかっていますが、これは必ずしも道徳的な善悪とは関係しない事は宣長・子規などとも共通して強調する所です。
さて『古今集』以降は技巧的で機知や理屈を重んじるようになって行ったわけですが、子規などはそうした傾向を排撃しています。こうした点が強くなると、それが鼻について当初の「強く動かされた心情」を吐き出す事で人の心を動かすという事ができなくなるためでしょうか。王朝貴族の間では形式が固まり、生の感情をそのまま表出することは好まれなくなったようです。また、日常のコミュニケーションに短歌が用いられていることもあり、当意即妙の機知や技巧で飾られるようになりました。その場で相手に一目置かせるのを目的とした歌であり、「激しく動かされた心情」を吐露するためのものでは必ずしもなかったといえます。歌が詠まれた背景を説明してなぜ評価されたかを解説する長い詞書(説明)がしばしば設けられるようになったのはそのためでしょう。普遍的な感動よりその時々の状況を知って初めて理解できる作品を批判したという点では、子規の主張は俳句を論難した桑原武夫『第二芸術』と共通する面があると言えそうです。
まあ、歌の有り様は必ずしも一つではありませんし、宣長は機知や技巧によって自らを飾ろうとするのも情の一つと述べていますから『古今集』以降の和歌を否定する必要は決してありません。機知や技巧を見て楽しむのも和歌の味わい方の一つといえるでしょう。子規にしても「決してわれらの歌に非ざれば歌に非ずなどいふ狭い量見は少しも持たず」「古今調の歌にて善き者も出来べき」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 76頁)とも言っており『古今集』以後を必ずしも完全否定したわけではありません。ただ、「歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん」(同書 17頁)とあるように技巧や機知により情念の動きが見えなくなったことが本来のあり方と離れたと考えたようです。
実際に和歌を作るに当たっては、歌のやり取りがなされることがなく技巧も知らない我々が真似るには『古今集』以降の歌は不適であるし、真似ようとしても真似られるものではないでしょう。もっとも逆に、賀茂真淵のように『万葉集』を神聖化するのも、現代人としては必ずしも適切な態度とはいえないのかもしれません(事実、同時代でも香川景樹などから批判を受けていますし)。
(二)に続きます。
1.和歌とは
まず最初に、和歌について概略を述べておきます。和歌は「やまとうた」ともいい、日本古来の定型詩です。「和歌」という呼び方は、中国から伝来した漢詩などと対比して用います。ただし同じ日本の定型詩でも後世に生まれた俳諧(俳句)とは区別します。和歌は、その形式によって大きく以下のように分かれます。
・短歌:最も多く見られる形式です。五・七・五・七・七で区切られる計三十一文字で構成されるのを原則とします。
・長歌:短歌に比べて長い定型詩です。五・七を三回以上繰り返して作り、多くは末尾に七語の句を追加して締めます。『万葉集』で多く見られましたが、『古今集』以降は少なくなりほとんど見られなくなりました。
・仏足石歌:五・七・五・七・七・七で区切られます。古代において少数ながら見られた形式ですが、やがて見られなくなりました。
短歌以外の形式は、やがて廃れていき王朝時代には「和歌」といえば通常は短歌をさすようになります。実際、長歌や仏足石歌を作るのは長くてしんどそうですし、本文でも特に断りがない限りは「歌」「和歌」といえば短歌を意味することになると思います。
2.なぜ和歌を詠むのか
なぜ和歌を詠むのか。これについての答えとして、多くの本は「心を強く動かされたのを表現する」ためといった内容を述べています。本居宣長『石上私淑言』がこれについて「物のあはれ」つまり心が動かされることによってやむにやまれず歌が生じてくると述べているのを筆頭に、正岡子規『歌よみに与ふる書』などもこれについては同意見のようです。元来歌は、喜び・驚き・楽しみ・悲しみ・怒りなどで感情が高ぶりそれを言葉に出すことにより生まれたもので、その感情を吐き出すことで言葉は自然と節のついた表現となり、それが時を経て定型的な形式となっていったというのです。歌の良し悪しは情念を如何に詠みこむかにかかっていますが、これは必ずしも道徳的な善悪とは関係しない事は宣長・子規などとも共通して強調する所です。
さて『古今集』以降は技巧的で機知や理屈を重んじるようになって行ったわけですが、子規などはそうした傾向を排撃しています。こうした点が強くなると、それが鼻について当初の「強く動かされた心情」を吐き出す事で人の心を動かすという事ができなくなるためでしょうか。王朝貴族の間では形式が固まり、生の感情をそのまま表出することは好まれなくなったようです。また、日常のコミュニケーションに短歌が用いられていることもあり、当意即妙の機知や技巧で飾られるようになりました。その場で相手に一目置かせるのを目的とした歌であり、「激しく動かされた心情」を吐露するためのものでは必ずしもなかったといえます。歌が詠まれた背景を説明してなぜ評価されたかを解説する長い詞書(説明)がしばしば設けられるようになったのはそのためでしょう。普遍的な感動よりその時々の状況を知って初めて理解できる作品を批判したという点では、子規の主張は俳句を論難した桑原武夫『第二芸術』と共通する面があると言えそうです。
まあ、歌の有り様は必ずしも一つではありませんし、宣長は機知や技巧によって自らを飾ろうとするのも情の一つと述べていますから『古今集』以降の和歌を否定する必要は決してありません。機知や技巧を見て楽しむのも和歌の味わい方の一つといえるでしょう。子規にしても「決してわれらの歌に非ざれば歌に非ずなどいふ狭い量見は少しも持たず」「古今調の歌にて善き者も出来べき」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 76頁)とも言っており『古今集』以後を必ずしも完全否定したわけではありません。ただ、「歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん」(同書 17頁)とあるように技巧や機知により情念の動きが見えなくなったことが本来のあり方と離れたと考えたようです。
実際に和歌を作るに当たっては、歌のやり取りがなされることがなく技巧も知らない我々が真似るには『古今集』以降の歌は不適であるし、真似ようとしても真似られるものではないでしょう。もっとも逆に、賀茂真淵のように『万葉集』を神聖化するのも、現代人としては必ずしも適切な態度とはいえないのかもしれません(事実、同時代でも香川景樹などから批判を受けていますし)。
(二)に続きます。
by trushbasket
| 2014-08-03 22:06
| NF








