2014年 08月 03日
和歌の詠み方に関するメモ(二)
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目次
(一)はこちらです。
3.初心者が心がけるべきこと
歌の入門書は数多くあるようですが、初心者向けに具体的にどうすればよいかを述べたものはそう多くないようです。特に、王朝時代の和歌手引書は随筆的・感覚的だったり作品論・歌人論が多かったりと初心者には優しくない事この上ありません。まあ、それでも後世の人間が歌を詠む上で参考になる部分がないでもありません。例えば、藤原俊成『古来風体抄』は
と読み上げ抑揚をつけて歌い上げる事で心を打つ効果が生じると指摘しています。賀茂真淵『新学』でも「古の歌は調をもはらとせり。うたふものなればなり」(同書 137頁)と同様の事を述べています。歌が元来は音読すべきものである事は頭の片隅に置いておくべきかと思います。
さて以下では、初心者に参考になる手引きとして『排蘆小船・石上私淑言』『短歌の作り方』『歌よみに与ふる書』あたりを主に参考にメモ書きを作ってみます。王朝時代の歌人たちの歌論からも、参考になるものがあれば適宜引用します。
・題材
まず、歌に詠み込むべきものは、あくまでも歌を詠む当人の自己です。人生の中で感じたこと、生き方、好みをどのように表現するかが大切だという点はいずれの書も一致しています。最初は身の周辺のことを何でも三十一文字に定型化してみることから始まります。題材は、生活・恋愛・仕事・時事・風景に分類して探すと見つけやすいかもしれません。また、手っ取り早く格好よい物を作りたければ流行の言い回しを模倣して定型化し、自分の情感を込めるのも最初は一つの方法だということです。
子規も幕末の歌人・橘曙覧を評価する際に「見る処聴く処触るる処悉く三十一字中に収めざるなし」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 123頁)という点を重視しています。また、宣長も『排蘆小船』で初心者の詠み方について「まづいかやうにもかまはず、我しらぬことは其分に打すてて、覚えてゐるほどの才覚にて、思ふとをり何ごともかまはずよみ出だし」(『排蘆小船・石上私淑言』岩波文庫 33頁)といっておりまずは何でもよいから作ってみることが大事なようです。
・歌風
この際、子規以降の歌人たちは技巧・理屈を排して「写生」を重んじています。「むやみに地口駄洒落を並べたがる半可通」は不可で「ただ自己が美を感じたる趣味をなるべく善くなるやうに現すが本来の主意」だというのがその理由です。また、実際問題として「紀行的写実的の歌は初学の歌よみ…(中略)…に佳什を与ふる者とおぼし」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 163頁)い事からも写生が勧められるそうです。感情を述べるにしても飾らずそのままに力強く詠み込む方が読み手の心に響きやすいとも言われています。ただし、主観的言葉が多すぎても興を殺ぐという意見もあり心する必要がありそうです。
あと、『古今集』以降の技巧的・機知的、あるいは幻想的といった洗練された歌は初心者にはまねようとしても真似られるものではありませんから少なくとも最初のうちはやめておいたほうがよさそうですね。宣長は『古今集』『後撰集』『拾遺集』を主に熟読し参考にする事を勧めていますが、これは『新古今集』が良いからといってむやみに真似るのでなく、当時において王道的な歌集から基本を学ぶようにという意味ですし。よほど自信がつくまでは、ここは近代歌人の助言に従うことにした方が無難そうです。足利期の歌人・正徹も『正徹物語』で
と下手に格好をつけて名人を真似るより筋道・道理が素直に通った歌を詠んだ方が良いと述べています。
・習熟のための多作
初心者があるものに慣れる際には、とにかく数をこなすことを勧められることが多いです。和歌に関しても同様な事が言える様で、子規は「歌の議論するより自ら歌を作ること」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 164頁)を良しとし、「一題を作る事に、三十首に及ばば、やや陳腐を脱するを得べき」(同書 165頁)と述べています。宣長も「よみ方も何もかまはずに、何首も歌かずをよむほどよき稽古はなきと覚ゆる也」(『排蘆小船・石上私淑言』岩波文庫 34-35頁)といっており、やはりコツを掴むまでは数をこなしたほうがよいようです。『短歌の作り方』でも同様に数をこなすことを勧めており、題をあらかじめ決めて作ったり、頭に一から十までの数を織り込んで十首作るなどの工夫があげられています。実際、昔には経典の一字ずつを織り込んで作った例もあるようですね。また『後鳥羽院御口伝』でも百首を時間を限って詠むのは練習のためによいと述べています。
しかし、一方で島木赤彦『歌道小見』のように集中力が続かないし質が落ちる事になるから多作・連作は勧められないという意見もあるようです。
・題詠
上の項目で少し述べた、題をあらかじめ決めて歌を詠む事を「題詠」といいます。王朝時代にはしばしばこうした形で歌のよしあしを競う(歌合)が行われました。宣長は、感情が先にあってそれに言葉を合わせるのが歌の本来の形であり、まず題があるというのは実はおかしいと述べています。まったく正論だと思います。ただ、歌に慣れるまでは仕方がないというニュアンスの発言もしています。
現在でも、題詠についてはこれに慣れると真の創作が出来なくなるという反対意見もある一方で、同じ条件で工夫する楽しみを知ることが出来る、題材があらかじめあって気が楽になるという長所も指摘されています。初心者が比較的気楽な気分で、数をこなすには有効といえるのかもしれません。なお、この際に「歌合」のように同好の仲間内で競い合って相互批評するのも上達への早道だとも言われています。また『後鳥羽院御口伝』は無題の歌や結び題(二つのものを結合した題材)の歌を普段から作っておけば、急場で歌を詠んでみせねばならなくなった際に間に合う事もあると述べています。
・集中すること
多作について述べた際に集中力が問題になりましたが、歌を詠む際には集中することが必須である事は誰もが一致して述べています。まあ、当たり前ですね。感情を、魂を三十一文字に込める訳ですから他に気が散っていては話になりません。
ただ、集中するのが必要なのは分かっていてもいざとなると難しかったりします。宣長は『排蘆小船』で集中するコツを述べています。まず、「まづ妄念をしりぞけて後に案ぜんとすれば、いつまでも、その妄念はやむことなき也。妄念やまざれば歌は出で来ぬ也。」(『排蘆小船・石上私淑言』岩波文庫 60頁)ということなので「心散乱して妄念きそひおこりたる中に、まづこれをしづむることをばさしおきて、そのよまむと思ふ歌の題などに心をつけ、或は趣向のよりどころ、辞のはし、縁語などにても、少しにても、手がかりいできなば、それをはしとして、とりはなさぬやうに、心のうちにうかめ置きて、とかくして思ひ案ず」(同書 61頁)ることで「次第に妄想妄念はしりぞきゆきて、心しづまり、よく案じらるるもの」(同書 61頁)だそうです。要は、とにかく作歌に入り、題でも思いついた句の一部でもそこに心を付ける事で自然と雑念を去らせる事が出来ると言うことですね。
定家の作とされる『毎月抄』では、深く心情をこめた歌が作れれば最上としつつも上手くいかない場合の対応策として
まず景気の歌にして、姿詞のそそめきたるが、なにとなく心はなけれども、歌ざまのよろしく聞ゆるやうをよむべきにて候ふ
(山岸徳平『歌論・連歌論』学燈文庫 81頁)
、すなわち威勢の良い感じの歌を数首作っているうちに、気分も乗ってきて心情を込めた歌もつくれるようになってくるといっています。これも参考にしても良いかと思います。
・言葉遣い
和歌を詠む際の言葉遣いですが、これも文語体にするか口語体にするか、カタカナ語は良いのかなど様々に気になることがあります。宣長は伝統的に行われてきた通りにするよう述べていますが、これは王朝風の和歌が一般で「写実」以前の時代であったためでしょう。赤彦は文語体・口語体などの区別に心を配る余裕は本来ないはずと述べていますし、子規もまた洋語であっても文学的に用いられれば和歌の言葉として問題ないとしています。子規は『万葉集』の精神を高く評価していますが、これについても「あらゆる語を用ゐて趣向を詠みくる者即ち万葉なり」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 122頁)と言い放っており進取の気風にあふれた明治という時代を偲ばせます。『短歌の作り方』でも口語体・文語体にこだわる必要はなくカタカナ語も用いて問題ないが、無造作に文語と口語を混ぜることなく両者をわきまえた上で用いるべきだとしています。そのためには、やはり古い和歌や古典文学などに触れて古語に慣れておくのが良いかもしれません。また、『毎月抄』は強い調子の言葉は強い調子の言葉で、優美な言葉は優美な言葉で続けるのがよいとも述べています。
なお、かつては俗語や堅苦しい漢語は和歌には原則として用いず、基本的に和語で詠むものとされました。言葉遣いが砕けすぎたり堅すぎたりすると滑稽になるためという理由です。逆に滑稽さを狙う歌や連歌・俳諧では俗語や漢語が用いられたのです。また、『古今風体抄』からは、漢詩が盛んになった関係からその影響を受けて「歌の病」すなわち作歌の上での禁忌が当時は生じており、同じ言葉を反復する事や、同じ意味の言葉を二度言うのを嫌っていた事も分かります。まあ、現在では別にこうした縛りはありませんけどね。
・字余り
基本は五・七・五・七・七の三十一文字ですが、時に五文字のところが六文字、七文字のところが八文字になる事もあります。これを字余りといいます。必要も無く字余りをする事は「中鈍」といって戒められていますが、うまく利用すれば印象を強められるからか西行などは意図的に多用したようです。とはいえ、勿論無暗に出来るわけでなく、本居宣長によれば「古今集」等から見る限り元来は「あ」「い」「う」「お」の母音が字余り句に含まれている場合に限られていたとか。古代日本語は母音発音が重なるのを嫌う傾向があるため前の音の母音と結合して片方が脱落するからだそうです。例えば、「ナガアメ」が「ナガメ」、「カリイホ」が「カリホ」、「ニアリ」が「ナリ」といった具合。この辺りを考えると、初心者が無暗に字余りをするのはやはり良くないのかもしれません。余らせたい場合も、宣長が指摘した事実を念頭に置くのはありかも。
・詠む際の留意点
歌を作る上でも、様々に留意すべきことがあります。子規は「全く空間的の趣向を詠まんよりは、少しく時間を含みたる趣向を詠む」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 139頁)方が良いと述べており、目の前の物をそのまま描写するのが向いている俳句と異なり、時間的経過をも視野に入れて詠んだ方が奥行きが出るということでしょう。他にも、『短歌の作り方』あたりから心がけることを引用すると、具象性があるか、創造性があるか、つまり誰もが見ているものを誰もしなかった見方をしているか、叙情的であるか、そして平易であるかという事を注意すべきだということです。また、社会的視野(大局)と個人的視野(細部)の両方が込められている方が奥行きが出るのではないか、とも述べられています。なんにせよ、自分の人生観や思いを率直に述べる事が大事であろうという点では皆一致しているようです。
・詠んだ後の手直し
ただ詠んだあとも詠みっぱなしでは質の向上は見込めません。足利期の貴族・二条良基も『近来風体抄』で当座の歌は悪くとも詠んでおいて後から直すのが良いと述べています。手直しの上で一番効果があるのは上級者に添削してもらうことですが、その前に自分でチェックすべき点について『短歌の作り方』から。まず、一読して意味が通っているか、つまり何が言いたいか明らかか、次に自分の言葉になっているか、そして歌の中に詠み手の観点・主張が読み取れるか。更に、中に感動が込められているか、柱となる主題が歌に存在しているか、発想・表現に独自性があるか、決まり文句・美辞麗句に頼っていないかが挙げられます。また、上述したことと矛盾しているようですが、俗語や定着していない言葉は用いないほうが無難です。そして、同じ言葉を重複させるのも上達するまでは避けたほうが良いでしょうね。また、用言(動詞、形容詞、形容動詞)が多すぎると内容の焦点がしぼれないとの指摘もあります。
・優れた作品に触れ、好きな歌風を追う
優れた歌を詠むためには、過去の優れた歌や歌人に多く触れることが重要です。まずは比較的目にしやすい小倉百人一首や教科書(現代文・古文問わず)に掲載された和歌を意識して目を通し、どのような言葉遣いをしているか、どのような歌が良いとされているかなどを大体で良いですので把握しましょう。そこから『万葉集』や『古今集』、有名歌人の個人歌集などに興味を広げていくと良いと思われます。また、大事なのはその中で自分が好きな歌人を見つけること。惹かれる歌人の生涯や作品を追い、取り入れられそうな所を取り入れるのも上達への手段でしょう。
(三)に続きます。
(一)はこちらです。
3.初心者が心がけるべきこと
歌の入門書は数多くあるようですが、初心者向けに具体的にどうすればよいかを述べたものはそう多くないようです。特に、王朝時代の和歌手引書は随筆的・感覚的だったり作品論・歌人論が多かったりと初心者には優しくない事この上ありません。まあ、それでも後世の人間が歌を詠む上で参考になる部分がないでもありません。例えば、藤原俊成『古来風体抄』は
歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし
(山岸徳平『歌論・連歌論』学燈文庫 38頁)
と読み上げ抑揚をつけて歌い上げる事で心を打つ効果が生じると指摘しています。賀茂真淵『新学』でも「古の歌は調をもはらとせり。うたふものなればなり」(同書 137頁)と同様の事を述べています。歌が元来は音読すべきものである事は頭の片隅に置いておくべきかと思います。
さて以下では、初心者に参考になる手引きとして『排蘆小船・石上私淑言』『短歌の作り方』『歌よみに与ふる書』あたりを主に参考にメモ書きを作ってみます。王朝時代の歌人たちの歌論からも、参考になるものがあれば適宜引用します。
・題材
まず、歌に詠み込むべきものは、あくまでも歌を詠む当人の自己です。人生の中で感じたこと、生き方、好みをどのように表現するかが大切だという点はいずれの書も一致しています。最初は身の周辺のことを何でも三十一文字に定型化してみることから始まります。題材は、生活・恋愛・仕事・時事・風景に分類して探すと見つけやすいかもしれません。また、手っ取り早く格好よい物を作りたければ流行の言い回しを模倣して定型化し、自分の情感を込めるのも最初は一つの方法だということです。
子規も幕末の歌人・橘曙覧を評価する際に「見る処聴く処触るる処悉く三十一字中に収めざるなし」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 123頁)という点を重視しています。また、宣長も『排蘆小船』で初心者の詠み方について「まづいかやうにもかまはず、我しらぬことは其分に打すてて、覚えてゐるほどの才覚にて、思ふとをり何ごともかまはずよみ出だし」(『排蘆小船・石上私淑言』岩波文庫 33頁)といっておりまずは何でもよいから作ってみることが大事なようです。
・歌風
この際、子規以降の歌人たちは技巧・理屈を排して「写生」を重んじています。「むやみに地口駄洒落を並べたがる半可通」は不可で「ただ自己が美を感じたる趣味をなるべく善くなるやうに現すが本来の主意」だというのがその理由です。また、実際問題として「紀行的写実的の歌は初学の歌よみ…(中略)…に佳什を与ふる者とおぼし」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 163頁)い事からも写生が勧められるそうです。感情を述べるにしても飾らずそのままに力強く詠み込む方が読み手の心に響きやすいとも言われています。ただし、主観的言葉が多すぎても興を殺ぐという意見もあり心する必要がありそうです。
あと、『古今集』以降の技巧的・機知的、あるいは幻想的といった洗練された歌は初心者にはまねようとしても真似られるものではありませんから少なくとも最初のうちはやめておいたほうがよさそうですね。宣長は『古今集』『後撰集』『拾遺集』を主に熟読し参考にする事を勧めていますが、これは『新古今集』が良いからといってむやみに真似るのでなく、当時において王道的な歌集から基本を学ぶようにという意味ですし。よほど自信がつくまでは、ここは近代歌人の助言に従うことにした方が無難そうです。足利期の歌人・正徹も『正徹物語』で
初心の時はただうちむきて、一首さはさはと理のきこゆるやうによむべし。その位にいたらずして、達者のまねをすれば、をかしき事出で奉るなり。
(山岸徳平『歌論・連歌論』学燈文庫 126頁)
と下手に格好をつけて名人を真似るより筋道・道理が素直に通った歌を詠んだ方が良いと述べています。
・習熟のための多作
初心者があるものに慣れる際には、とにかく数をこなすことを勧められることが多いです。和歌に関しても同様な事が言える様で、子規は「歌の議論するより自ら歌を作ること」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 164頁)を良しとし、「一題を作る事に、三十首に及ばば、やや陳腐を脱するを得べき」(同書 165頁)と述べています。宣長も「よみ方も何もかまはずに、何首も歌かずをよむほどよき稽古はなきと覚ゆる也」(『排蘆小船・石上私淑言』岩波文庫 34-35頁)といっており、やはりコツを掴むまでは数をこなしたほうがよいようです。『短歌の作り方』でも同様に数をこなすことを勧めており、題をあらかじめ決めて作ったり、頭に一から十までの数を織り込んで十首作るなどの工夫があげられています。実際、昔には経典の一字ずつを織り込んで作った例もあるようですね。また『後鳥羽院御口伝』でも百首を時間を限って詠むのは練習のためによいと述べています。
しかし、一方で島木赤彦『歌道小見』のように集中力が続かないし質が落ちる事になるから多作・連作は勧められないという意見もあるようです。
・題詠
上の項目で少し述べた、題をあらかじめ決めて歌を詠む事を「題詠」といいます。王朝時代にはしばしばこうした形で歌のよしあしを競う(歌合)が行われました。宣長は、感情が先にあってそれに言葉を合わせるのが歌の本来の形であり、まず題があるというのは実はおかしいと述べています。まったく正論だと思います。ただ、歌に慣れるまでは仕方がないというニュアンスの発言もしています。
現在でも、題詠についてはこれに慣れると真の創作が出来なくなるという反対意見もある一方で、同じ条件で工夫する楽しみを知ることが出来る、題材があらかじめあって気が楽になるという長所も指摘されています。初心者が比較的気楽な気分で、数をこなすには有効といえるのかもしれません。なお、この際に「歌合」のように同好の仲間内で競い合って相互批評するのも上達への早道だとも言われています。また『後鳥羽院御口伝』は無題の歌や結び題(二つのものを結合した題材)の歌を普段から作っておけば、急場で歌を詠んでみせねばならなくなった際に間に合う事もあると述べています。
・集中すること
多作について述べた際に集中力が問題になりましたが、歌を詠む際には集中することが必須である事は誰もが一致して述べています。まあ、当たり前ですね。感情を、魂を三十一文字に込める訳ですから他に気が散っていては話になりません。
ただ、集中するのが必要なのは分かっていてもいざとなると難しかったりします。宣長は『排蘆小船』で集中するコツを述べています。まず、「まづ妄念をしりぞけて後に案ぜんとすれば、いつまでも、その妄念はやむことなき也。妄念やまざれば歌は出で来ぬ也。」(『排蘆小船・石上私淑言』岩波文庫 60頁)ということなので「心散乱して妄念きそひおこりたる中に、まづこれをしづむることをばさしおきて、そのよまむと思ふ歌の題などに心をつけ、或は趣向のよりどころ、辞のはし、縁語などにても、少しにても、手がかりいできなば、それをはしとして、とりはなさぬやうに、心のうちにうかめ置きて、とかくして思ひ案ず」(同書 61頁)ることで「次第に妄想妄念はしりぞきゆきて、心しづまり、よく案じらるるもの」(同書 61頁)だそうです。要は、とにかく作歌に入り、題でも思いついた句の一部でもそこに心を付ける事で自然と雑念を去らせる事が出来ると言うことですね。
定家の作とされる『毎月抄』では、深く心情をこめた歌が作れれば最上としつつも上手くいかない場合の対応策として
まず景気の歌にして、姿詞のそそめきたるが、なにとなく心はなけれども、歌ざまのよろしく聞ゆるやうをよむべきにて候ふ
(山岸徳平『歌論・連歌論』学燈文庫 81頁)
、すなわち威勢の良い感じの歌を数首作っているうちに、気分も乗ってきて心情を込めた歌もつくれるようになってくるといっています。これも参考にしても良いかと思います。
・言葉遣い
和歌を詠む際の言葉遣いですが、これも文語体にするか口語体にするか、カタカナ語は良いのかなど様々に気になることがあります。宣長は伝統的に行われてきた通りにするよう述べていますが、これは王朝風の和歌が一般で「写実」以前の時代であったためでしょう。赤彦は文語体・口語体などの区別に心を配る余裕は本来ないはずと述べていますし、子規もまた洋語であっても文学的に用いられれば和歌の言葉として問題ないとしています。子規は『万葉集』の精神を高く評価していますが、これについても「あらゆる語を用ゐて趣向を詠みくる者即ち万葉なり」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 122頁)と言い放っており進取の気風にあふれた明治という時代を偲ばせます。『短歌の作り方』でも口語体・文語体にこだわる必要はなくカタカナ語も用いて問題ないが、無造作に文語と口語を混ぜることなく両者をわきまえた上で用いるべきだとしています。そのためには、やはり古い和歌や古典文学などに触れて古語に慣れておくのが良いかもしれません。また、『毎月抄』は強い調子の言葉は強い調子の言葉で、優美な言葉は優美な言葉で続けるのがよいとも述べています。
なお、かつては俗語や堅苦しい漢語は和歌には原則として用いず、基本的に和語で詠むものとされました。言葉遣いが砕けすぎたり堅すぎたりすると滑稽になるためという理由です。逆に滑稽さを狙う歌や連歌・俳諧では俗語や漢語が用いられたのです。また、『古今風体抄』からは、漢詩が盛んになった関係からその影響を受けて「歌の病」すなわち作歌の上での禁忌が当時は生じており、同じ言葉を反復する事や、同じ意味の言葉を二度言うのを嫌っていた事も分かります。まあ、現在では別にこうした縛りはありませんけどね。
・字余り
基本は五・七・五・七・七の三十一文字ですが、時に五文字のところが六文字、七文字のところが八文字になる事もあります。これを字余りといいます。必要も無く字余りをする事は「中鈍」といって戒められていますが、うまく利用すれば印象を強められるからか西行などは意図的に多用したようです。とはいえ、勿論無暗に出来るわけでなく、本居宣長によれば「古今集」等から見る限り元来は「あ」「い」「う」「お」の母音が字余り句に含まれている場合に限られていたとか。古代日本語は母音発音が重なるのを嫌う傾向があるため前の音の母音と結合して片方が脱落するからだそうです。例えば、「ナガアメ」が「ナガメ」、「カリイホ」が「カリホ」、「ニアリ」が「ナリ」といった具合。この辺りを考えると、初心者が無暗に字余りをするのはやはり良くないのかもしれません。余らせたい場合も、宣長が指摘した事実を念頭に置くのはありかも。
・詠む際の留意点
歌を作る上でも、様々に留意すべきことがあります。子規は「全く空間的の趣向を詠まんよりは、少しく時間を含みたる趣向を詠む」(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 139頁)方が良いと述べており、目の前の物をそのまま描写するのが向いている俳句と異なり、時間的経過をも視野に入れて詠んだ方が奥行きが出るということでしょう。他にも、『短歌の作り方』あたりから心がけることを引用すると、具象性があるか、創造性があるか、つまり誰もが見ているものを誰もしなかった見方をしているか、叙情的であるか、そして平易であるかという事を注意すべきだということです。また、社会的視野(大局)と個人的視野(細部)の両方が込められている方が奥行きが出るのではないか、とも述べられています。なんにせよ、自分の人生観や思いを率直に述べる事が大事であろうという点では皆一致しているようです。
・詠んだ後の手直し
ただ詠んだあとも詠みっぱなしでは質の向上は見込めません。足利期の貴族・二条良基も『近来風体抄』で当座の歌は悪くとも詠んでおいて後から直すのが良いと述べています。手直しの上で一番効果があるのは上級者に添削してもらうことですが、その前に自分でチェックすべき点について『短歌の作り方』から。まず、一読して意味が通っているか、つまり何が言いたいか明らかか、次に自分の言葉になっているか、そして歌の中に詠み手の観点・主張が読み取れるか。更に、中に感動が込められているか、柱となる主題が歌に存在しているか、発想・表現に独自性があるか、決まり文句・美辞麗句に頼っていないかが挙げられます。また、上述したことと矛盾しているようですが、俗語や定着していない言葉は用いないほうが無難です。そして、同じ言葉を重複させるのも上達するまでは避けたほうが良いでしょうね。また、用言(動詞、形容詞、形容動詞)が多すぎると内容の焦点がしぼれないとの指摘もあります。
・優れた作品に触れ、好きな歌風を追う
優れた歌を詠むためには、過去の優れた歌や歌人に多く触れることが重要です。まずは比較的目にしやすい小倉百人一首や教科書(現代文・古文問わず)に掲載された和歌を意識して目を通し、どのような言葉遣いをしているか、どのような歌が良いとされているかなどを大体で良いですので把握しましょう。そこから『万葉集』や『古今集』、有名歌人の個人歌集などに興味を広げていくと良いと思われます。また、大事なのはその中で自分が好きな歌人を見つけること。惹かれる歌人の生涯や作品を追い、取り入れられそうな所を取り入れるのも上達への手段でしょう。
(三)に続きます。
by trushbasket
| 2014-08-03 22:13
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