2014年 08月 03日
和歌の詠み方に関するメモ(三)
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目次
(二)はこちらです。
4.各時代の代表的歌人
というわけで、各時代の代表的な歌人を大雑把に挙げてみたいと思います。その時代の歌風や言葉遣いをこれを参考にして把握していただければ幸いです。
・『古事記』『日本書紀』時代
この時期は、他の時代と比較すると、素朴に心に浮かんだ内容を述べていたようです。スサノオや日本武尊など、神話の人物が主な歌人として挙げられており実際には仮託された歌もあるかもしれません。
・『万葉集』時代
『万葉集』も素朴な歌風と基本的にいえますが、この時期から枕詞(特定の語の前に付ける決まり文句)・序詞(特定の言葉を飾り立てる文句)など技巧の端緒が見られるようになったようです。後期には理知的な歌も見られるようになります。代表的な歌人としては書き野本人麻呂・山部赤人・大伴旅人・山上憶良・大伴家持などが挙げられるでしょう。東歌や防人歌に代表されるように下級官人や庶民の歌とされる作品も掲載されています。
・『古今集』時代
九世紀前半はしばらく漢詩が主流となりますが、和歌は日常の遣り取りに用いられるようになっていきます。そして漢詩の表現法をも取り入れて洗練された理知的・技巧的な歌が多く見られるようになります。代表的な歌人は小野小町・在原業平・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑などでしょうか。ちなみにこの時期に発達した技巧のうちで代表的なものに、同じ音の言葉に二つ以上の意味が重なっている「掛詞」、縁の深い言葉をいくつか使う「縁語」などが挙げられます。
・王朝文学時代
『源氏物語』など優れた文学が生まれる中、和歌は技巧的な性格を強める一方、駄洒落など機知に流れる傾向も。むろん、そうした中でも情熱的・叙情的な歌を詠んだ歌人も存在しました。この時期の代表的な歌人は和泉式部・小式部内侍などでしょうか。
・『新古今集』前後の時代
『千載集』を編纂した藤原俊成は機知よりも叙情性を重んじました。そしてその子・藤原定家は物語や絵巻物の世界をも意識して妖艶な美を表現するようになります。例えば昔の有名な歌の世界を借りて一層優美な幻想の世界を生出す「本歌取」という手法は知られています。後鳥羽院の命により定家らが編纂に当たった『新古今集』の歌はそうした傾向が強いといえます。この時期の歌人は、後鳥羽・定家の他に西行・寂蓮・式子内親王・藤原家隆などでしょう。また、『金塊和歌集』に力強い歌を残した源実朝も同時代人です。宣長は『新古今集』時代を和歌の大成期としています。なお、『新勅撰集』時代には定家も父・俊成同様に叙情的な作風を重んじるようになっています。
・鎌倉後期~南北朝時代
定家の子・為家以降は貴族の社会的実力低下もあり、定家系統の家系(二条家・冷泉家)により和歌の権威が独占継承され歌の形式化が進みます。ちなみに、二条家と冷泉家の歌風の違いは恥ずかしながら正直分かりませんでした。ひょっとすると、派閥争いという性格も強かったりしたんでしょうか?十三世紀末から十四世紀になると皇室が持明院統・大覚寺統に分裂し前者が京極家、後者が二条家の歌風を重んじました(京極家は冷泉家の分家で、為兼により前衛的な歌風がとられる)。南北朝の争乱に入っても北朝(持明院統)が京極家風、南朝(大覚寺統)が二条家風という流れは続きましたが、途中から北朝も二条家風を採用するようになっています。この時期の歌人としては頓阿・兼好法師、そして南朝方の和歌集『新葉集』を編纂した宗良親王が挙げられます。因みに『新葉集』は敗色濃厚の苦難の中で詠まれたためか当時としては珍しく生命力溢れ切実な感情の込められた歌が多いといわれています。なお、南北朝末期の冷泉派歌人として今川了俊が挙げられます。この時代を最後に和歌は文学の主流の座を失っていきます。
・室町期
その後も正徹などの歌人が比較的知られ、二条派による勅撰和歌集編纂はしばらく続けられていましたが、それも『新続古今集』を最後に廃絶。この際、二条家自体は断絶しており飛鳥井家による編纂が行われたのは王朝文化の衰退を象徴するものといえるかもしれません(無論、編纂に当たった飛鳥井雅世らは当代一流の歌人だったわけですが)。この時期は、むしろ多人数で上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を交互に詠み合う連歌が中心となっていました。
・それ以降
東常縁が『古今集』の秘伝を伝授すると称し、それが宗祇・西三条実隆などに受け継がれて以降、王朝和歌は閉鎖的・形式的な性格をより強める事になります。徳川中期以降には、契沖・荷田春満・賀茂真淵・本居宣長など民間にも古典研究・歌道研究に励む人々が現れますが、歌人として現在も評価されているのは隠遁生活の開放された精神を詠んだ良寛、幕末期に貧しい生活の中の喜びをうたった橘曙覧といったところでしょうか。共に独自の詠風で率直に自らの人生観を詠み上げています。
・近代歌人
正岡子規が『万葉集』を模範に、情景・感情を飾らずに詠む「写生」を提唱し再び和歌は文学の主流として生命を注ぎ込まれます。子規に影響された長塚節・伊藤左千夫、更に『明星』からは官能的・情熱的な歌で知られた与謝野晶子、自然主義的な若山牧水、耽美的な北原白秋、生活苦の中で優れた作品を残した石川啄木が輩出されます。そして『アララギ』からは自我を見つめた斎藤茂吉や禁欲的な歌風で知られる島木赤彦などが育っています。その後もプロレタリア文学の影響を受けたりもしたようですが、短歌は再び文壇の中で閉鎖的な傾向を強めていったのか少しずつ影響力を弱めていきます。戦後にも馬場あき子や『サラダ記念日』で知られる俵万智などが活躍していますが、エリート層向け文学自体の影響力が低下しており苦戦を強いられています(一方でラジオ講座やインターネットなどによる裾野の広まりも見られてはいます)。
(二)はこちらです。
4.各時代の代表的歌人
というわけで、各時代の代表的な歌人を大雑把に挙げてみたいと思います。その時代の歌風や言葉遣いをこれを参考にして把握していただければ幸いです。
・『古事記』『日本書紀』時代
この時期は、他の時代と比較すると、素朴に心に浮かんだ内容を述べていたようです。スサノオや日本武尊など、神話の人物が主な歌人として挙げられており実際には仮託された歌もあるかもしれません。
八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を スサノオ(『古事記』)
(雲が盛んに沸き立つ出雲の国の、幾重にも重なった垣根のような雲よ。私は妻を迎えるために幾重にも重なった屋根の家を作ろう、あの見事に重なった雲のように。)
倭は国の真秀ろばたたなづく青垣山籠れる倭し麗し 日本武尊(『古事記』)
(大和は国の中で最も優れた地だ。重なり合う緑の山々よ、山の中に奥まってある大和は本当に美しいことよ。)
・『万葉集』時代
『万葉集』も素朴な歌風と基本的にいえますが、この時期から枕詞(特定の語の前に付ける決まり文句)・序詞(特定の言葉を飾り立てる文句)など技巧の端緒が見られるようになったようです。後期には理知的な歌も見られるようになります。代表的な歌人としては書き野本人麻呂・山部赤人・大伴旅人・山上憶良・大伴家持などが挙げられるでしょう。東歌や防人歌に代表されるように下級官人や庶民の歌とされる作品も掲載されています。
近江の湖夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 柿本人麻呂(『万葉集』)
(近江の琵琶湖で夕の波間を飛ぶ千鳥が鳴くと、昔の栄えていた大津宮が偲ばれてならぬ。)
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける 山部赤人(『万葉集』)
(田子の浦を通って出てみれば、真っ白に富士山の高い峰に雪が降っていることよ。)
韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして 防人歌(『万葉集』)
(旅立ちのための韓衣の裾に泣いて縋り付いた我が子たちを、置いてきてしまったよ。あの子たちには母親もないというのに。)
・『古今集』時代
九世紀前半はしばらく漢詩が主流となりますが、和歌は日常の遣り取りに用いられるようになっていきます。そして漢詩の表現法をも取り入れて洗練された理知的・技巧的な歌が多く見られるようになります。代表的な歌人は小野小町・在原業平・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑などでしょうか。ちなみにこの時期に発達した技巧のうちで代表的なものに、同じ音の言葉に二つ以上の意味が重なっている「掛詞」、縁の深い言葉をいくつか使う「縁語」などが挙げられます。
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に 小野小町(『古今集』)
(美しい桜の花も長雨が降る間に色あせてしまったように、私もただ時を経て物思いにふけっている間に年老いてしまったことだ。)
※「ながめ」は「長雨」と「眺め」を掛けた「掛詞」、「ふる」と「ながめ」は「雨」繋がりで関連する「縁語」です。
つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざりしを 在原業平(『古今集』)
(人は最後にはこの世を去らねばならぬという事はかねてから聞いてはいたが、我が身において昨日今日といった急な事とは思っていなかったことよ。)
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之(『古今集』)
(人の心は、さあ、分からないが、馴染み深いこの地は花が昔と同じ香りを漂わせている。)
・王朝文学時代
『源氏物語』など優れた文学が生まれる中、和歌は技巧的な性格を強める一方、駄洒落など機知に流れる傾向も。むろん、そうした中でも情熱的・叙情的な歌を詠んだ歌人も存在しました。この時期の代表的な歌人は和泉式部・小式部内侍などでしょうか。
あらざらんこのよの外の思ひ出にいま一度のあふこともがな 和泉式部(『後拾遺集』)
(私はこの世を間もなく去るであろう、この世の思い出にあの人にもう一度会いたいものだ。)
大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立 小式部内侍(『金葉集』)
(大江山を越えて生野を通っていく道が遠いので、まだ母のいる天橋立には足を踏み入れた事もありませんし、母からの手紙も見ておりません。)
※歌合に選ばれた際に、母(和泉式部)に代作を頼んだのかと尋ねられた際に詠んだもの。「いくの」は「行く」と「生野」、「ふみ」は「文」と「踏み」の掛詞です。
・『新古今集』前後の時代
『千載集』を編纂した藤原俊成は機知よりも叙情性を重んじました。そしてその子・藤原定家は物語や絵巻物の世界をも意識して妖艶な美を表現するようになります。例えば昔の有名な歌の世界を借りて一層優美な幻想の世界を生出す「本歌取」という手法は知られています。後鳥羽院の命により定家らが編纂に当たった『新古今集』の歌はそうした傾向が強いといえます。この時期の歌人は、後鳥羽・定家の他に西行・寂蓮・式子内親王・藤原家隆などでしょう。また、『金塊和歌集』に力強い歌を残した源実朝も同時代人です。宣長は『新古今集』時代を和歌の大成期としています。なお、『新勅撰集』時代には定家も父・俊成同様に叙情的な作風を重んじるようになっています。
見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕暮 藤原定家(『新古今集』)
(周りを見渡しても、桜の花も紅葉もありはしない。海辺の漁師小屋付近の秋の夕暮れよ。)
玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王(『新古今集』)
(玉の紐のように短い我が命よ、絶えるなら絶えてしまえ。生きながらえれば、あの人への想いを押し殺している心が弱まってしまうだろうから。)
こころなき身にもあはれはしられけり鴫たつ沢の秋の夕暮 西行(『新古今集』)
(出家して情趣を知らぬ我が身でもしみじみとした情趣は自然と分かるものだ、鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れの物寂しさには。)
時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ 源実朝(『金塊集』)
(いつもは恵みとなる雨も時によりけりで、度が過ぎれば民の嘆きの種である。雨を司る八大竜王よ、雨をこれ以上降らすのをやめなさい。)
・鎌倉後期~南北朝時代
定家の子・為家以降は貴族の社会的実力低下もあり、定家系統の家系(二条家・冷泉家)により和歌の権威が独占継承され歌の形式化が進みます。ちなみに、二条家と冷泉家の歌風の違いは恥ずかしながら正直分かりませんでした。ひょっとすると、派閥争いという性格も強かったりしたんでしょうか?十三世紀末から十四世紀になると皇室が持明院統・大覚寺統に分裂し前者が京極家、後者が二条家の歌風を重んじました(京極家は冷泉家の分家で、為兼により前衛的な歌風がとられる)。南北朝の争乱に入っても北朝(持明院統)が京極家風、南朝(大覚寺統)が二条家風という流れは続きましたが、途中から北朝も二条家風を採用するようになっています。この時期の歌人としては頓阿・兼好法師、そして南朝方の和歌集『新葉集』を編纂した宗良親王が挙げられます。因みに『新葉集』は敗色濃厚の苦難の中で詠まれたためか当時としては珍しく生命力溢れ切実な感情の込められた歌が多いといわれています。なお、南北朝末期の冷泉派歌人として今川了俊が挙げられます。この時代を最後に和歌は文学の主流の座を失っていきます。
鵜飼舟瀬々さかのぼる白浪に映りてくだる篝火のかげ 二条為世(『続千載集』)
(鵜飼舟よ、あちこちの瀬をさかのぼっていく白波に、篝火の光が映りながらくだっていくことよ)
しぐれゆく雲間に弱き冬の日のかげろひあへず暮るる空かな 冷泉為相(『風雅集』)
(時雨が降り始めた雲の間から弱い冬の日差しが差し込み、再び雲が多くなっていく中で暮れていく空であることだ)
沈み果つる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峯 京極為兼(『風雅集』)
(沈みきろうとする夕日の残光にはっきりとあらわれた、霞のかかる山の更に奥にある峰よ)
ゆき暮るる雲路の末に宿なくば都に帰れ春の雁がね 兼好法師(『兼好法師集』)
(日が暮れていく雲の向こうに宿がないのならば、去るのをやめて都に残りなさい、春の雁よ)
五月雨は晴れむとやする山の端にかかれる雲のうすくなりゆく 花園院(『玉葉集』)
(五月雨の空は晴れようとしているのだろう、山の端にかかっている雲が薄くなっていくことよ)
思ひきや手もふれざりし梓弓おきふし我が身なれんものとは 宗良親王(『新葉集』)
(思ってもみなかった。かつて文人生活で手も触れなかった弓が、戦場生活が長くなって寝ても覚めても我が身に慣れ親しむことになろうとは。)
今更に知らぬ命を歎く哉かはらぬ世々といひしちぎりに 今川了俊(『道ゆきぶり』)
(別離に当たって今更のように明日をも知れない命を嘆く事だ、決して変わる事はないと言い合った関係であるのに。)
・室町期
その後も正徹などの歌人が比較的知られ、二条派による勅撰和歌集編纂はしばらく続けられていましたが、それも『新続古今集』を最後に廃絶。この際、二条家自体は断絶しており飛鳥井家による編纂が行われたのは王朝文化の衰退を象徴するものといえるかもしれません(無論、編纂に当たった飛鳥井雅世らは当代一流の歌人だったわけですが)。この時期は、むしろ多人数で上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を交互に詠み合う連歌が中心となっていました。
時雨まで曇りて深く見し山の雪に奥なき木々の下折 正徹(『草根集』)
(時雨の時期までは曇って奥深く見えていた山だが、今は雪が降って枝の折れた木々を埋め尽くし奥が見えないほど一面真っ白であることよ)
山河や岩越す波の音しるく晴れぬ高嶺のさみだれの雲 東常縁(『常縁集』)
(山河の岩を越える波の音がはっきりと聞こえて晴れないことだ、高い峰にかかる五月雨の音は)
・それ以降
東常縁が『古今集』の秘伝を伝授すると称し、それが宗祇・西三条実隆などに受け継がれて以降、王朝和歌は閉鎖的・形式的な性格をより強める事になります。徳川中期以降には、契沖・荷田春満・賀茂真淵・本居宣長など民間にも古典研究・歌道研究に励む人々が現れますが、歌人として現在も評価されているのは隠遁生活の開放された精神を詠んだ良寛、幕末期に貧しい生活の中の喜びをうたった橘曙覧といったところでしょうか。共に独自の詠風で率直に自らの人生観を詠み上げています。
霞立つ長き春日を子供らと手まりつきつつ今日もくらしつ 良寛(『良寛歌集』)
(霞の立つ春の日に、子供たちと手毬をつきながら夢中になって今日も一日を暮らしてしまったことだ。)
たのしみはまれに魚烹て児等皆がうましうましといひて食ふ時 橘曙覧(『志濃夫廼舎歌集』)
(楽しみは、ごくまれに魚を煮て子供たちがみなうまいうまいといって食べるのを見るときだよ。)
・近代歌人
正岡子規が『万葉集』を模範に、情景・感情を飾らずに詠む「写生」を提唱し再び和歌は文学の主流として生命を注ぎ込まれます。子規に影響された長塚節・伊藤左千夫、更に『明星』からは官能的・情熱的な歌で知られた与謝野晶子、自然主義的な若山牧水、耽美的な北原白秋、生活苦の中で優れた作品を残した石川啄木が輩出されます。そして『アララギ』からは自我を見つめた斎藤茂吉や禁欲的な歌風で知られる島木赤彦などが育っています。その後もプロレタリア文学の影響を受けたりもしたようですが、短歌は再び文壇の中で閉鎖的な傾向を強めていったのか少しずつ影響力を弱めていきます。戦後にも馬場あき子や『サラダ記念日』で知られる俵万智などが活躍していますが、エリート層向け文学自体の影響力が低下しており苦戦を強いられています(一方でラジオ講座やインターネットなどによる裾野の広まりも見られてはいます)。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規(『竹の里歌』)
ほおずきを口にふくみて鳴らすごとかわずは鳴くも夏の浅夜を 長塚節(『長塚節歌集』)
おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落ち葉深く 伊藤左千夫(『増訂伊藤左千夫歌集』)
やわ肌のあつき血汐にふれもみでさびしからずや道を説く君 与謝野晶子(『みだれ髪』)
白鳥はかなしからずや空の青海のあおにも染まずただよう 若山牧水(『海の声』)
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きに行く 石川啄木(『一握の砂』)
夕焼け空焦げきわまれる下にして氷らんとする湖の静けさ 島木赤彦(『切火』)
みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる 斎藤茂吉(『赤光』)
by trushbasket
| 2014-08-03 22:20
| NF








