2014年 08月 16日
『南北朝女傑列伝』~南北朝動乱で輝いた?女傑たち~
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社会評論社『世界各国女傑列伝』では各国につき一人、代表的な女傑が紹介されています。
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当ブログ内紹介記事
そのうち我が国から選出されたのは残念ながら(?)南北朝の女性ではありませんでしたが、南北朝時代にも女傑と称して良さそうな人は何人かいます。という訳で、今回はその中から何人か思いつく面々を挙げてみます。政治的に力量をふるった女性あり、パワー型あり、バラエティはそれなりに豊かではないかと思っています。
・西園寺寧子(広義門院)
有力貴族・西園寺公衡の娘で、後伏見天皇の女御として光厳・光明天皇を生む。北朝において国母として重んじられていたが、更に正平七年(1352)には「治天の君」(皇室の家長)として北朝の代表者とされるに至った。皇室出身でなく女性である彼女がそうした待遇を受けるのは異例であるが、それには特別な事情があった。
この年、足利政権の内紛に乗じる形で南朝が京を占拠、光厳・光明両上皇や崇光天皇を拉致する。主を欠いた北朝は機能不全に陥り、足利政権は新たな天皇として弥仁王(光厳の皇子。仏門に入る予定であったため拉致を免れた)を擁立し北朝再建をもくろんだ。しかし皇位の証である神器もなく、「治天の君」も存在しないため正統性に不安があった。特に、当時は即位に当たり「治天の君」からそれを認める「伝国詔宣」を受ける事が慣例になっていたため猶更である。そこで足利政権は苦し紛れの策として広義門院に白羽の矢を立てたのである。
当初、広義門院は、北朝崩壊は足利政権の失策によるものとして厳しく糾弾し「治天の君」となる事を拒絶したが、繰り返し説得され遂にはこれを受諾する。「治天の君」が不在では新天皇も即位できず朝廷は空転し足利政権・伝統貴族・寺社とも困るからである。かくして北朝の再建に広義門院は決定的な役割を果たした。
その後も、広義門院は人事や皇室領の管理において裁断を下し、北朝の事実上最高責任者として力量をふるっている。没したのは延文二年(1357)。
・阿野廉子(新待賢門院)
中級貴族・阿野公廉の娘で、後醍醐天皇中宮西園寺禧子の侍女として宮中に入りやがて後醍醐の寵愛を受ける。恒良・成良・義良(後の後村上天皇)らをもうけ、内侍として宮廷内の政局運営にも力量を発揮したという。後醍醐が鎌倉政権打倒を目論んで一旦は失敗し、隠岐に配流された際はこれに同行。鎌倉政権が打倒され後醍醐による建武政権が成立した際は、政治運営に隠然たる影響力を有したとされる。これは彼女が『太平記』で非難を受ける原因となっている。
建武政権が瓦解し後醍醐が吉野に逃れた際もこれに従い、後醍醐死後は後継者である年少の後村上天皇を母として支え、味方の所領安堵などを行い南朝の運営を助けた。没したのは正平十四年(1359)。
・覚海円成
鎌倉政権最後の得宗(北条家家長)・高時の母。生没年不詳。安達氏の出身で、北条貞時との間に高時・泰家をもうける。高時の時代には得宗の母として鎌倉政権内部に隠然とした権勢を有し、執権(鎌倉政権首班)の地位に関しても影響力を有した。『保暦間記』によれば、高時が出家し執権を退いた際に覚海円成は泰家を擁立しようとしたが、意に反して金沢貞顕が後任となったため圧力をかけ間もなくこれを辞任に追い込んだという。
仏教に篤く帰依した事でも知られ、無窓疎石に参禅した他、建長寺華厳塔の建立、東慶寺への梵鐘寄進、法観寺仏舎利塔への助成を行っている。鎌倉政権滅亡後は、伊豆国北条に円成寺を建立し一族の菩提を弔った。
・楠木正成の妻
生没年・出自は不詳。織田完之『楠公夫人伝』では名を久子と推定しているが、真偽は明らかでない。夫・正成が湊川で討死し首級が郷里に届けられた際、長子正行が悲しんで自決しようとしたため父の志を継ぐよう説いて思いとどまらせたという逸話を『太平記』は伝える。正行が成長し楠木氏の長として活動するまでは、家長の役割を担ったものと推定される。なお、湊川合戦の時点で正行は成人していたとする説もあるが、正成戦死から正行が歴史の表舞台で活動を開始するまでに約十年の間隔がありその間は彼女が一族を取りまとめていた可能性は否定できない。
彼女に限らず、当時の武家では夫の死後に妻が家督権を握る事例は多かったようである。
・伊賀局
以下、『吉野拾遺』の記述による。阿野廉子に仕えた女官。新田義貞の下で活躍した武将・篠塚伊賀守の娘である。怪力で知られ、以下の逸話を残す。
吉野に攻め入った高師直から南朝の人々がのがれた際、吉野川の橋が壊れて渡れなかった。その時、彼女は太い松や桜の枝を折り取って川を渡し、人々を川向うへ安全に通過させた。後日に男性に同様の事をさせても、うまく枝を折れなかったという。
また、廉子のため命を捨てた藤原基任の怨霊が現れ、苦しみと恨みを訴えたため廉子に報告し供養・成仏させたという逸話もある。
楠木正儀(正成の子、正行の弟)の妻になったといわれる。
なお、『吉野拾遺』の史料としての信憑性には疑問の余地があり、上記の内容がどれだけ事実を反映しているかは不明。
【参考文献】
『日本古典文学大系太平記』一~三 岩波書店
佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』中公文庫
今谷明『象徴天皇の発見』文春新書
今谷明『室町の王権』中公新書
村松剛『帝王後醍醐』中公文庫
秋山哲雄『敗者の日本史7鎌倉幕府の滅亡と北条氏一門』吉川弘文館
植村清二『楠木正成』中公文庫
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
「近代デジタルライブラリー」(http://kindai.ndl.go.jp/)より
「第一高等学校国文学科 編『高等国文. 巻4 太平記,吉野拾遺』吉川弘文館」(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/868010)
「塙保己一編『群書類従. 第拾七輯』経済雑誌社」(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879818)
『百科事典マイぺディア』平凡社
関連記事:
「南北朝動乱とメイドさん再び~戦乱に火を注ぐ花々~」
「世界史上もっとも偉大な女帝トップ5(性的な意味で)」
「【沼の住人の皆様に】「とらっしゅのーと」関係者本に登場する南北朝人物【宣伝】」
当ブログ関係者の著作と南北朝な宣伝記事です。興味のある方は、手に取っていただけたら幸いです。
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連は
「南北朝関連発表まとめ」
でまとめています。
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当ブログ内紹介記事
そのうち我が国から選出されたのは残念ながら(?)南北朝の女性ではありませんでしたが、南北朝時代にも女傑と称して良さそうな人は何人かいます。という訳で、今回はその中から何人か思いつく面々を挙げてみます。政治的に力量をふるった女性あり、パワー型あり、バラエティはそれなりに豊かではないかと思っています。
・西園寺寧子(広義門院)
有力貴族・西園寺公衡の娘で、後伏見天皇の女御として光厳・光明天皇を生む。北朝において国母として重んじられていたが、更に正平七年(1352)には「治天の君」(皇室の家長)として北朝の代表者とされるに至った。皇室出身でなく女性である彼女がそうした待遇を受けるのは異例であるが、それには特別な事情があった。
この年、足利政権の内紛に乗じる形で南朝が京を占拠、光厳・光明両上皇や崇光天皇を拉致する。主を欠いた北朝は機能不全に陥り、足利政権は新たな天皇として弥仁王(光厳の皇子。仏門に入る予定であったため拉致を免れた)を擁立し北朝再建をもくろんだ。しかし皇位の証である神器もなく、「治天の君」も存在しないため正統性に不安があった。特に、当時は即位に当たり「治天の君」からそれを認める「伝国詔宣」を受ける事が慣例になっていたため猶更である。そこで足利政権は苦し紛れの策として広義門院に白羽の矢を立てたのである。
当初、広義門院は、北朝崩壊は足利政権の失策によるものとして厳しく糾弾し「治天の君」となる事を拒絶したが、繰り返し説得され遂にはこれを受諾する。「治天の君」が不在では新天皇も即位できず朝廷は空転し足利政権・伝統貴族・寺社とも困るからである。かくして北朝の再建に広義門院は決定的な役割を果たした。
その後も、広義門院は人事や皇室領の管理において裁断を下し、北朝の事実上最高責任者として力量をふるっている。没したのは延文二年(1357)。
・阿野廉子(新待賢門院)
中級貴族・阿野公廉の娘で、後醍醐天皇中宮西園寺禧子の侍女として宮中に入りやがて後醍醐の寵愛を受ける。恒良・成良・義良(後の後村上天皇)らをもうけ、内侍として宮廷内の政局運営にも力量を発揮したという。後醍醐が鎌倉政権打倒を目論んで一旦は失敗し、隠岐に配流された際はこれに同行。鎌倉政権が打倒され後醍醐による建武政権が成立した際は、政治運営に隠然たる影響力を有したとされる。これは彼女が『太平記』で非難を受ける原因となっている。
建武政権が瓦解し後醍醐が吉野に逃れた際もこれに従い、後醍醐死後は後継者である年少の後村上天皇を母として支え、味方の所領安堵などを行い南朝の運営を助けた。没したのは正平十四年(1359)。
・覚海円成
鎌倉政権最後の得宗(北条家家長)・高時の母。生没年不詳。安達氏の出身で、北条貞時との間に高時・泰家をもうける。高時の時代には得宗の母として鎌倉政権内部に隠然とした権勢を有し、執権(鎌倉政権首班)の地位に関しても影響力を有した。『保暦間記』によれば、高時が出家し執権を退いた際に覚海円成は泰家を擁立しようとしたが、意に反して金沢貞顕が後任となったため圧力をかけ間もなくこれを辞任に追い込んだという。
仏教に篤く帰依した事でも知られ、無窓疎石に参禅した他、建長寺華厳塔の建立、東慶寺への梵鐘寄進、法観寺仏舎利塔への助成を行っている。鎌倉政権滅亡後は、伊豆国北条に円成寺を建立し一族の菩提を弔った。
・楠木正成の妻
生没年・出自は不詳。織田完之『楠公夫人伝』では名を久子と推定しているが、真偽は明らかでない。夫・正成が湊川で討死し首級が郷里に届けられた際、長子正行が悲しんで自決しようとしたため父の志を継ぐよう説いて思いとどまらせたという逸話を『太平記』は伝える。正行が成長し楠木氏の長として活動するまでは、家長の役割を担ったものと推定される。なお、湊川合戦の時点で正行は成人していたとする説もあるが、正成戦死から正行が歴史の表舞台で活動を開始するまでに約十年の間隔がありその間は彼女が一族を取りまとめていた可能性は否定できない。
彼女に限らず、当時の武家では夫の死後に妻が家督権を握る事例は多かったようである。
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以下、『吉野拾遺』の記述による。阿野廉子に仕えた女官。新田義貞の下で活躍した武将・篠塚伊賀守の娘である。怪力で知られ、以下の逸話を残す。
吉野に攻め入った高師直から南朝の人々がのがれた際、吉野川の橋が壊れて渡れなかった。その時、彼女は太い松や桜の枝を折り取って川を渡し、人々を川向うへ安全に通過させた。後日に男性に同様の事をさせても、うまく枝を折れなかったという。
また、廉子のため命を捨てた藤原基任の怨霊が現れ、苦しみと恨みを訴えたため廉子に報告し供養・成仏させたという逸話もある。
楠木正儀(正成の子、正行の弟)の妻になったといわれる。
なお、『吉野拾遺』の史料としての信憑性には疑問の余地があり、上記の内容がどれだけ事実を反映しているかは不明。
【参考文献】
『日本古典文学大系太平記』一~三 岩波書店
佐藤進一『日本の歴史9南北朝の動乱』中公文庫
今谷明『象徴天皇の発見』文春新書
今谷明『室町の王権』中公新書
村松剛『帝王後醍醐』中公文庫
秋山哲雄『敗者の日本史7鎌倉幕府の滅亡と北条氏一門』吉川弘文館
植村清二『楠木正成』中公文庫
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
「近代デジタルライブラリー」(http://kindai.ndl.go.jp/)より
「第一高等学校国文学科 編『高等国文. 巻4 太平記,吉野拾遺』吉川弘文館」(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/868010)
「塙保己一編『群書類従. 第拾七輯』経済雑誌社」(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879818)
『百科事典マイぺディア』平凡社
関連記事:
「南北朝動乱とメイドさん再び~戦乱に火を注ぐ花々~」
「世界史上もっとも偉大な女帝トップ5(性的な意味で)」
「【沼の住人の皆様に】「とらっしゅのーと」関係者本に登場する南北朝人物【宣伝】」
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歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝関連は
「南北朝関連発表まとめ」
でまとめています。
by trushbasket
| 2014-08-16 00:05
| NF








