2014年 11月 08日
闘茶について~南北朝期における「茶道」の祖先~
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日本の伝統文芸の一つである茶の湯(茶道)。茶の湯においては、用いられる道具や調度の鑑賞も大きな要因をなす事は御存じの方も多いかと思います。そうした性格は南北朝期にまでさかのぼる事ができるようです。という訳で、今回は南北朝における「茶」について。
栄西によって茶がもたらされて以降、寺院を発信源として徐々に茶は日本で普及していきます。南北朝期になると、新興の武家を中心に「闘茶」と呼ばれる催しが行われるようになりました。
闘茶は、一言でいえば茶の産地や品質を飲み比べて当てる賭け事、という事になります。京・栂尾で取れた茶を「本茶」、それ以外の土地で取れたものを「非茶」と呼びました。その上で、本茶か非茶かを当てるのが主眼。なぜ栂尾が本茶扱いとされたのか。それは、明恵が栄西からもらい受けた茶の種をまいて栽培した、日本における茶の由緒ある土地だから。現在、茶と言えば宇治が有名ですが、当初の宇治茶は非茶扱いでした。しかし、やがて製茶技術が向上するにつれて宇治茶の品質も改善。栂尾の茶を凌いで「無上」「極無」という別称を受けるまでの扱いになります。需要の増大に伴って、栂尾だけではまかない切れなくなったのも大きな原因と言われています。
そうした産地拡大によって作法やルールも複雑化しました。例えば十種茶とか六色茶とか四種十服といった茶寄合も行われるようになったようです。その中でも本茶一種と非茶三種による四種を十服飲む「四種十服」が最も多かったそうで。後には七十服とか百服なんてのも登場。おそらくこれは十服のゲームを数回繰り返したものであろう、とされています。
当時の茶会について概観してみましょう。玄恵『喫茶往来』によれば、まず客殿で饗応、後に喫茶之房(または喫茶亭)で闘茶を行う事が多かったようです。闘茶会場は「会所」と呼ばれ、一階が客殿、二階が喫茶亭となっていました。喫茶亭の主人、すなわち会のホストを「亭主」と呼びました。
まず客たちは客殿で饗応を受け、食後に庭に降りて庭園を歩きながら鑑賞するのが通常でした。その間に、亭主らは喫茶亭で準備を整えて改めて客を迎え入れたのです。なお、日本庭園はそれまで建物から俯瞰する展望式が多かったそうですが、実際に歩き回る事を念頭に置いた廻遊式に変遷していくのもこうした習慣に影響されたものだとか。
さて闘茶の会場である喫茶亭には、正面に屏風を立てて三対の仏画が掲げられていました。中央には釈迦像、左右に観音や勢至などの像というパターンが多かったようです。そして仏画の前に金襴を敷いた卓が置かれ、その上に花瓶・香炉・燭台の「三具足」が据えられました。また部屋の隅には茶壺が棚あるいは机に点心(簡単な食事)、菓子(当時は珍しい果物が主)、賭物(賞品)と共に置かれていたのです。
さて喫茶亭に入った客は豹皮の敷かれた胡床に腰を下ろします。そして亭主は下座の竹でできた椅子に腰をかけます。そこへ、客たちの前に抹茶を入れた茶碗が出されます。給仕役の童子が湯を入れて茶筅で点てた後に客がそれを飲む。次に別の茶が運ばれてきて、同様にして飲む。このようにして本茶か非茶かを当てるものだったそうです。こうして点数を争い、それに応じて賭物が与えられました。なお、賭物としては、染物・小袖・沈香・麝香・鎧など高価なものが多かったとか。闘茶が終わると、また酒肴が出され酒宴に移るのが常だったようです。
こうした闘茶の会では唐物、すなわち中国由来の珍しい道具を用いるのが基本となっていました。日本産の文物が、茶において重んじられるようになるのはもっと後の事です。この時代において、こうした闘茶を派手に行ったことで知られるのが、佐々木導誉。足利政権初期の重鎮です。伝承によれば、彼は付藻茄子・京極文琳・打曇大海といった、唐物の茶入を多数所持していたとか。また、闘茶の会では、亭主が舶来の道具で派手に飾り立てて客の目を驚かせる事も多かったようです。導誉もその例にもれませんでした。『太平記』によれば、導誉は大原野で花見宴を行った際、咲き誇る桜の巨木の前に巨大な真鍮を据え、花瓶に生けた花に見立てたと言われています。さらに惜しげもなく香を焚き染めて盛大に闘茶を行ったとか。
こんな具合でしたから、闘茶は同時代においてすでに華美・猥雑であると批判もあったようです。例えば、『異制庭訓往来』では「淳素を失う」と批判しています。また、建武式目でも、好色や博奕と同類の代物として取り締まり対象に挙げられています。
これまで見てきた闘茶の姿からは、後の「侘び茶」のような人間修養やら「わび・さび」やらの影はうかがえません。しかし、よく見るとまぎれもなく闘茶は「侘び茶」の先祖であると言えるのです。
まず、「正面座敷に懸物・花・香が据えられ、客人を料理でもてなした後に茶や菓子を供する」という形式が一応は既に見られています。
また、導誉は中国で日常の雑器を茶器として見立てて用いその美を高く評価したと言われ、例えば導誉が所持したという上記の茶入は元来なら薬味・香油などを入れる器だったとか。もし事実なら、こうした美意識による道具の見立てという面も後の茶人たちに通じると言えるでしょう。
更に、茶の湯の作法に対しても導誉は大きな影響を与えたと言われています。『太平記』が伝えるところでは、京が南朝軍に攻め落とされた際、導誉は自邸に茶道具一式を並べ酒肴も整え給仕も置いて進駐する敵将をもてなす準備をした上で退去したそうで。この時に行った茶道具の飾り方が「書院の七所飾」と呼ばれ、足利義政時代には能阿弥によって書院の台子飾りの原型とされたのだとか。
亭主が己の美意識を傾けて客をもてなす、という点においては確かに通じるところがありそうにも思えますね。この闘茶が、やがて義政時代には洗練された書院の茶へと発展し、更に珠光・千利休らによって精神性を重んじる「侘び茶」へとなっていくわけです。千利休は『数奇道大意』で「京極導誉、群をぬきんでて茶香を賞す。赤松則祐之に従ふ。かたじけなくも鹿苑相公深くこの道をしたひ」と茶の湯の歴史における導誉の存在意義の大きさに言及しているそうですが、なるほどと思わされる話ですね。無論、闘茶だけでなく、寺院における修道生活の儀礼としての茶も侘び茶には影響を与えている訳ですけれど。
現代からうかがえる茶の湯からすれば華美で時には奇異にすら移る南北朝期の闘茶。しかし、まぎれもない「侘び茶」の先祖に当たる存在と言えるようです。能・狂言といい、連歌の発句が俳句の遠祖である事といい、いわゆる「日本伝統文化」には南北朝期にその源流を見る事ができるものが少なからずある、と言ってよさそうです。
【参考文献】
西堀一三『日本茶道史』創元社
井口海仙『茶道入門』カラーブックス
『淡交』平成十五年二月号 淡交社より米田該典『茶人と香 婆娑羅大名の茶会と香』
『茶の湯便利手帳4 茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
森茂暁『人物叢書 佐々木導誉』吉川弘文館
林屋辰三郎『佐々木道誉』平凡社ライブラリー
『大辞泉』小学館
関連記事:
「とある茶人の穏健な文化ナショナリズム発露の一例?~「和漢のさかひをまぎらかす」~」
「「佐々木導誉」補足その2~闇に降り立った「ばさら」~」
「<言葉>茶人が残した人付き合いの心得~主人も客も、それぞれの価値観・人格に敬意と尊重を~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「佐々木導誉」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/douyo.html)
栄西によって茶がもたらされて以降、寺院を発信源として徐々に茶は日本で普及していきます。南北朝期になると、新興の武家を中心に「闘茶」と呼ばれる催しが行われるようになりました。
闘茶は、一言でいえば茶の産地や品質を飲み比べて当てる賭け事、という事になります。京・栂尾で取れた茶を「本茶」、それ以外の土地で取れたものを「非茶」と呼びました。その上で、本茶か非茶かを当てるのが主眼。なぜ栂尾が本茶扱いとされたのか。それは、明恵が栄西からもらい受けた茶の種をまいて栽培した、日本における茶の由緒ある土地だから。現在、茶と言えば宇治が有名ですが、当初の宇治茶は非茶扱いでした。しかし、やがて製茶技術が向上するにつれて宇治茶の品質も改善。栂尾の茶を凌いで「無上」「極無」という別称を受けるまでの扱いになります。需要の増大に伴って、栂尾だけではまかない切れなくなったのも大きな原因と言われています。
そうした産地拡大によって作法やルールも複雑化しました。例えば十種茶とか六色茶とか四種十服といった茶寄合も行われるようになったようです。その中でも本茶一種と非茶三種による四種を十服飲む「四種十服」が最も多かったそうで。後には七十服とか百服なんてのも登場。おそらくこれは十服のゲームを数回繰り返したものであろう、とされています。
当時の茶会について概観してみましょう。玄恵『喫茶往来』によれば、まず客殿で饗応、後に喫茶之房(または喫茶亭)で闘茶を行う事が多かったようです。闘茶会場は「会所」と呼ばれ、一階が客殿、二階が喫茶亭となっていました。喫茶亭の主人、すなわち会のホストを「亭主」と呼びました。
まず客たちは客殿で饗応を受け、食後に庭に降りて庭園を歩きながら鑑賞するのが通常でした。その間に、亭主らは喫茶亭で準備を整えて改めて客を迎え入れたのです。なお、日本庭園はそれまで建物から俯瞰する展望式が多かったそうですが、実際に歩き回る事を念頭に置いた廻遊式に変遷していくのもこうした習慣に影響されたものだとか。
さて闘茶の会場である喫茶亭には、正面に屏風を立てて三対の仏画が掲げられていました。中央には釈迦像、左右に観音や勢至などの像というパターンが多かったようです。そして仏画の前に金襴を敷いた卓が置かれ、その上に花瓶・香炉・燭台の「三具足」が据えられました。また部屋の隅には茶壺が棚あるいは机に点心(簡単な食事)、菓子(当時は珍しい果物が主)、賭物(賞品)と共に置かれていたのです。
さて喫茶亭に入った客は豹皮の敷かれた胡床に腰を下ろします。そして亭主は下座の竹でできた椅子に腰をかけます。そこへ、客たちの前に抹茶を入れた茶碗が出されます。給仕役の童子が湯を入れて茶筅で点てた後に客がそれを飲む。次に別の茶が運ばれてきて、同様にして飲む。このようにして本茶か非茶かを当てるものだったそうです。こうして点数を争い、それに応じて賭物が与えられました。なお、賭物としては、染物・小袖・沈香・麝香・鎧など高価なものが多かったとか。闘茶が終わると、また酒肴が出され酒宴に移るのが常だったようです。
こうした闘茶の会では唐物、すなわち中国由来の珍しい道具を用いるのが基本となっていました。日本産の文物が、茶において重んじられるようになるのはもっと後の事です。この時代において、こうした闘茶を派手に行ったことで知られるのが、佐々木導誉。足利政権初期の重鎮です。伝承によれば、彼は付藻茄子・京極文琳・打曇大海といった、唐物の茶入を多数所持していたとか。また、闘茶の会では、亭主が舶来の道具で派手に飾り立てて客の目を驚かせる事も多かったようです。導誉もその例にもれませんでした。『太平記』によれば、導誉は大原野で花見宴を行った際、咲き誇る桜の巨木の前に巨大な真鍮を据え、花瓶に生けた花に見立てたと言われています。さらに惜しげもなく香を焚き染めて盛大に闘茶を行ったとか。
こんな具合でしたから、闘茶は同時代においてすでに華美・猥雑であると批判もあったようです。例えば、『異制庭訓往来』では「淳素を失う」と批判しています。また、建武式目でも、好色や博奕と同類の代物として取り締まり対象に挙げられています。
これまで見てきた闘茶の姿からは、後の「侘び茶」のような人間修養やら「わび・さび」やらの影はうかがえません。しかし、よく見るとまぎれもなく闘茶は「侘び茶」の先祖であると言えるのです。
まず、「正面座敷に懸物・花・香が据えられ、客人を料理でもてなした後に茶や菓子を供する」という形式が一応は既に見られています。
また、導誉は中国で日常の雑器を茶器として見立てて用いその美を高く評価したと言われ、例えば導誉が所持したという上記の茶入は元来なら薬味・香油などを入れる器だったとか。もし事実なら、こうした美意識による道具の見立てという面も後の茶人たちに通じると言えるでしょう。
更に、茶の湯の作法に対しても導誉は大きな影響を与えたと言われています。『太平記』が伝えるところでは、京が南朝軍に攻め落とされた際、導誉は自邸に茶道具一式を並べ酒肴も整え給仕も置いて進駐する敵将をもてなす準備をした上で退去したそうで。この時に行った茶道具の飾り方が「書院の七所飾」と呼ばれ、足利義政時代には能阿弥によって書院の台子飾りの原型とされたのだとか。
亭主が己の美意識を傾けて客をもてなす、という点においては確かに通じるところがありそうにも思えますね。この闘茶が、やがて義政時代には洗練された書院の茶へと発展し、更に珠光・千利休らによって精神性を重んじる「侘び茶」へとなっていくわけです。千利休は『数奇道大意』で「京極導誉、群をぬきんでて茶香を賞す。赤松則祐之に従ふ。かたじけなくも鹿苑相公深くこの道をしたひ」と茶の湯の歴史における導誉の存在意義の大きさに言及しているそうですが、なるほどと思わされる話ですね。無論、闘茶だけでなく、寺院における修道生活の儀礼としての茶も侘び茶には影響を与えている訳ですけれど。
現代からうかがえる茶の湯からすれば華美で時には奇異にすら移る南北朝期の闘茶。しかし、まぎれもない「侘び茶」の先祖に当たる存在と言えるようです。能・狂言といい、連歌の発句が俳句の遠祖である事といい、いわゆる「日本伝統文化」には南北朝期にその源流を見る事ができるものが少なからずある、と言ってよさそうです。
【参考文献】
西堀一三『日本茶道史』創元社
井口海仙『茶道入門』カラーブックス
『淡交』平成十五年二月号 淡交社より米田該典『茶人と香 婆娑羅大名の茶会と香』
『茶の湯便利手帳4 茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
森茂暁『人物叢書 佐々木導誉』吉川弘文館
林屋辰三郎『佐々木道誉』平凡社ライブラリー
『大辞泉』小学館
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「「佐々木導誉」補足その2~闇に降り立った「ばさら」~」
「<言葉>茶人が残した人付き合いの心得~主人も客も、それぞれの価値観・人格に敬意と尊重を~」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「佐々木導誉」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/douyo.html)
by trushbasket
| 2014-11-08 10:10
| NF








