2014年 11月 15日
戦後に活躍した「数寄者」たち~あの実業家も実は茶人だ~
|
近代日本の実業家たちには、茶の湯に熱中する者が多数いました。何でも、自身の富と権勢を誇示するため、国産美術品の海外流出を阻止するため、といった理由で美術品の蒐集を行っていた結果、日本美術は実際に使用してこそ価値があるものが多いと感じるようになって茶の湯に手を出すようになるパターンが多いのだとか。彼らは「数寄者」と呼ばれ、彼ら自身の美的感覚によって独自の茶の世界を切り開いたと評価されています。
さて、戦後に活躍した実業家たちにも、そうした存在がいたのでしょうか。戦前から引き続き活動していた人々も含め、見ていくことにします。
・嘉納鶴翁(治兵衛) 1862-1951
奈良県出身。旧姓は中村、名は正久。明治二十年(1887)に兵庫県灘の白鶴醸造元嘉納家に婿養子となり、二年後に七代目嘉納治兵衛となる。様々な近代的改革を取り入れて白鶴酒造を成長させた。全国酒造組合連合会会長も務めている。奈良の仏教美術に興味をひかれ、中国古美術も幅広く蒐集。中でも古代銅器には世界的な逸品もあるという。当初は表千家から茶を学んだが、五代目が石州流であった縁で石州流を学び直し、生涯で百五十回以上の茶会を開いたという。豪華絢爛な道具立てで知られ、
「天目茶碗(中国由来の最高級の茶碗)を一席で一度に多数用いた」
「一度用いた道具は二度と茶会に用いない」
といった逸話が伝わる。そうした道具中心の茶の湯は批判も受けたが、彼は「美術報国、茶道衆楽」すなわち美術品は個人所有物であると同時に国家のものでもあるから広く客を招き美術品をあまねく共有する手段として茶会を開くのだと考えていたようだ。蒐集した美術品は白鶴美術館に収められている。
・山口滴翠(吉郎兵衛) 1883-1951
徳川後期以来の大阪の富商出身。慶応義塾卒。実家は両替商にも進出しており、それを引き継ぐ形で大正六年(1917)に山口銀行頭取となる。後に日本生命会長や共同火災保険社長などを歴任した。
薮内流の茶の湯を学び、若いころから数多くの美術品を収蔵した。中でも国焼に造詣が深く、窯元研究の第一人者であったという。所蔵していた美術品は滴翠美術館(兵庫県芦屋市)に収められている。
・小林逸翁(一三) 1873-1957
山梨県出身、慶応技術卒。三井銀行に勤務した後、昭和十六年(1940)に箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の創立に関与し、社長となる。鉄道経営のみならず、沿線の土地を買収して住宅地開発を行う、宝塚温泉など沿線の娯楽施設創設や大阪梅田のターミナルに阪急百貨店を開くなど多角的な経営戦略を展開し成功した。文化事業にも熱心で、宝塚歌劇団を設立したりやプロ野球草創時には大阪阪急野球協会(後の阪急ブレーブス、現オリックスバファローズ)を立ち上げている。東京宝塚劇場や東宝映画の創立者としても知られる。第二次近衛文麿内閣で商工相、幣原喜重郎内閣で国務相も歴任。
三井銀行時代に益田鈍翁・高橋箒庵といった代表的な数寄者に出会った影響もあり早くから茶の湯に親しんだ。生形貴一に師事し表千家の茶を学ぶ。仏教・能・歌舞伎など伝統文芸に広く通じ、西洋の陶磁器を茶道具に見立てるなど海外文化も柔軟に取り入れた茶の湯を展開。数多くの茶会グループを主宰している。有名なところでは、
「薬師寺会」:薬師寺で橋本凝胤師の講話をメインにした懐石・茶会。
「北摂丼会」:「丼一つあれば茶の湯はできる」と茶の湯における道具偏重の風潮に警鐘を鳴らし、簡素化を追求。懐石に卵丼やカレーライスを用いるなど親しみやすさにも心を用いた。
「芦葉会」:知人・友人などから譲り受けた道具を愛でる茶会。「ロハ」(タダで手に入れた)に通じる命名。写真も用いた絵日記風の茶会記を用いた事でも知られる。
といったところが挙げられる。また彼が考案した茶室「即庵」は畳に座っても椅子を用いても茶ができる和洋両用の構造になっていたという。
逸翁がこのような大胆な試みを様々に行っていた背景には、
「お茶は茶室内に持ち込まれる種々の美術品、工芸品を通じて、真善美に関する同志的結合を歓び合うのである」(『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社 93頁)
という考え方が基本にあり、
「お客を窮屈がらせるお茶は下の下だ」(同書 同頁)
とも述べている。所蔵していた道具は逸翁美術館(大阪府池田市)に収蔵されている。
・五島古経楼(慶太) 1882-1959
長野県出身、東京帝大卒。農商務省・鉄道院といった官僚経験を経て鉄道運営に転身する。武蔵電気鉄道や目黒蒲田電鉄に関与し、後に東京近郊の私鉄を統合し、昭和十七年(1942)には東京急行電鉄社長。東条内閣の運輸通信相も経験している。
古写経から始まり、墨絵・和歌集、茶道具へと美術品蒐集の幅を広げ、小林逸翁の影響を受け六十歳頃より茶の湯に傾倒する。戦後、前田家の道具売り出しの際には福島正則が所蔵したという茶碗「福島井戸」を競り落とすが、前田家からの懇望により返還。変わりに名高い墨跡「梅渓」を入手している。所蔵道具は五島美術館(東京・上野毛)に収められている。
・藤原暁雲(銀次郎) 1869-1960
長野県出身、慶応義塾卒。「松江日報」の主筆、三井銀行を経て富岡製糸場支配人などを歴任。王子製紙の再建に成功して社長となり、「製紙王」と呼ばれた。米内内閣で商工相、小磯内閣で軍需相も務めている。藤原工業大(現慶大理工学部)や藤原科学財団を設立するなど科学技術の育成を重視した。
三井物産時代に益田鈍翁から懐石を振る舞われ茶の湯に関心を持つ。道具を集める際は、無理に金に物を言わせるのでなく、自ら苦心して掘り出しものを見つけるのを旨としていた。日常生活は質素であったが、茶席においては最大限に客をもてなす心配りをしていたという。
昭和十年(1935)にスウェーデン国立博物館に茶室「瑞暉亭」を寄贈している。
・松永耳庵(安左衛門) 1875-1971
長崎県出身。慶應義塾卒。福松商会を開いて石炭業を営む一方、電力事業にも尽力し九州水力電気・東邦電力を創業した。第二次大戦後には電気事業再編成審議会会長として電力事業の地域ブロック別民営化などに活躍し、「電力の鬼」と称された。
茶の湯は「耳順」と呼ばれた六十歳より本格的に始めた事から「耳庵」と号した。昭和四年(1929)には有楽井戸を益田鈍翁と競り合った末に法外な値段で購入し名を挙げている。戦時中から戦後にかけ、政治家・学者・芸術家を招いてしばしば茶会を催した。
「茶道は生活であり、理念ではなく実践である」
という言葉を残している。著作は体験した茶会の様子や道具立てを記した『茶道春秋』など。蒐集した道具は東京国立美術館・福岡市美術館などに収められている。
・畠山即翁(一清) 1881-1971
石川県出身。同地の守護大名であった能登畠山氏の末裔であるという。東京帝大卒。大学時代の恩師井口在屋教授が発明した渦巻きポンプを事業化し大正九年(1920)に荏原製作所を創立。昭和九年(1934)に社長。畠山文化財団を設立し、発明協会会長も歴任。
裏千家より茶の湯を学び、戦後も関東の大師会や関西の光悦会といった数寄者の名だたる茶会で重きをなすに至る。かつて、益田鈍翁から「お茶をやる精神で仕事をやりたまえ」と激励されたといわれる。優れた鑑識眼で多くの名物道具を蒐集し、畠山記念館(東京・白金台)に収蔵されている。記念館は即翁自身による設計で、近代建築の中に巧みに日本建築が織り込まれたものだという。
・服部山楓(正次) 1900-1974
服部時計店(現セイコーホールディングス)の創立者・服部金太郎の次男。慶応大卒。昭和二十一年(1946)より社長となる。昭和二十三年(1948)年より日本時計協会理事長。
江戸千家より茶の湯を学び、蒐集美術品はサンリツ服部美術館(長野県諏訪市)に収められている。
・佐藤助庵(助九郎) 1896-1979
富山県出身。同地の建設会社・佐藤工業株式会社の経営者。佐藤工業は徳川末期に佐藤組として設立され、常願寺川の堤防工事や東海道線工事、水力発電工事にも従事していた。裏千家に茶の湯を学び、所有する美術品は富山市佐藤記念美術館に収蔵される。
・後藤幸三 1881-1977
岐阜県出身。名古屋で実業活動に入り、後藤商事、中央製作所(愛知県の電気機器製造業者)を創業した。茶の湯や書に関心が深く、所有した美術品は昭和美術館(名古屋市)に収蔵されている。
・松下宗晃(幸之助) 1894-1989
和歌山県出身。小学校を中退して働き始め、大阪電灯(現関西電力)に入社。大正六年(1917)に改良ソケットを考案し、翌年には松下電気器具製作所を創業し昭和十年(1935)に松下電器産業(現パナソニック)に改組した。独自の経営で「経営の神様」とよばれ、教育にも熱心でPHP研究所や松下政経塾を創設。
昭和十四年(1939)に裏千家の淡々斎と知遇を得たのを契機に深く茶の湯に傾倒。京都東山別邸に「真々庵」を建設し、また各地に多くの茶室を寄贈して茶道普及に尽力した。松下政経塾でも毎年、裏千家での茶道研修が行われているという。佐竹本三十六歌仙の大伴家持など逸品を所蔵していたようだが、比較的道具には淡白でもあったようだ。
・北村謹次郎 1904-1991
奈良県出身。実家である北村又左衛門家は日本の山林王と呼ばれていた。大学入学のころから裏千家より茶の湯を学び、林業を営む傍らで世界各地より多岐にわたる美術品の蒐集に励んだ。所蔵する美術品は北村美術館(京都市)に収蔵されており、隣接する四君子苑には数寄屋造で多くの石造美術品が存在するという。
・湯木貞一 1901-1997
兵庫県の料理屋出身。実家で修業した後、昭和五年(1930)大阪で日本料理店吉兆を開店し東京・京都などにも出店した。文化功労者。著作に『吉兆味ばなし』『料理花伝書』など。
小林逸翁などから後援を得て茶会記から懐石を研究、茶の湯を好む。蒐集した道具は湯木美術館(大阪市)に収蔵される。
・湯浅佑一 1906-1994
京都府出身。湯浅七左衛門商店(現ユアサ商事)を継承して再建に成功、系列の湯浅電池(現ユアサコーポレーション)社長・会長も歴任。関西経済同友会の初代代表幹事や関西経済連合会副会長を務めるなど関西財界の重鎮であった。
裏千家家元・鵬雲斎と長く親交を結んだ。
戦後の実業家茶人といえば僕が把握しているのはこんなところでしょうか。実業家といえるかは疑問ながら、戦後にも活動した数寄者をもう一人。
・森川如春庵(勘一郎) 1887-1980
愛知県の富農出身。数え十七歳の時、大阪平瀬家の道具入札に参加し本阿弥光悦作の楽茶碗「乙御前」を落札。また三井家からも光悦作「時雨」茶碗を入手している。尾州久田流の下村実栗に茶の湯を学び、奥義に達したという。古筆の蒐集・研究でも知られ、戦後には茶書や茶人消息の研究や茶道史料の収集という面でも貢献している。
戦後にも、少なからぬ実業界の大物たちが引き続き茶の湯を楽しみ文化的な貢献にも力を注いできたことが分かります。もっとも、戦前より実業活動をして来た人が大半ですが、それでも平成初期までこうした人々はいたのですね。現在、日本経済界で存在感を示している人々の中にも、彼らのように茶の湯を愛好し深く通じていた人や、文化的な貢献をもなす面々は出てくるのでしょうか?未来における評価が楽しみなところです。
【参考文献】
八尾嘉男『図解茶の湯人物案内』淡交社
『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
『茶の湯を楽しむ もてなしの心と作法』講談社
青柳恵介『陶磁郎BOOKS やきものを探す旅 数寄者を訪ねる』双葉社
『日本人名大辞典』講談社
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
『大辞泉』小学館
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ブリタニカ・オンライン・ジャパン
『日本の企業がわかる事典2014-2015』講談社
「昭和美術館」(http://www.spice.or.jp/~shouwa-museum/exhibition.html)より
「当館について」(http://www.spice.or.jp/~shouwa-museum/aboutus.html)
「北村美術館」(http://www.kitamura-museum.com/)より
「北村美術館概要」(http://www.kitamura-museum.com/kitamura.html)
「滴翠美術館」(http://tekisui-museum.biz-web.jp/)
関連記事:
「闘茶について~南北朝期における「茶の湯」の祖先~」
「<言葉>茶人が残した人付き合いの心得~主人も客も、それぞれの価値観・人格に敬意と尊重を~」
「元禄赤穂事件と茶会―戦術的な面から見る―」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「続茶の湯 数寄者たち」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/1999/991029.html)
「徳川期の茶の湯」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/tokucha.html)
※2014/11/15 タイトルを変えてみました。
さて、戦後に活躍した実業家たちにも、そうした存在がいたのでしょうか。戦前から引き続き活動していた人々も含め、見ていくことにします。
・嘉納鶴翁(治兵衛) 1862-1951
奈良県出身。旧姓は中村、名は正久。明治二十年(1887)に兵庫県灘の白鶴醸造元嘉納家に婿養子となり、二年後に七代目嘉納治兵衛となる。様々な近代的改革を取り入れて白鶴酒造を成長させた。全国酒造組合連合会会長も務めている。奈良の仏教美術に興味をひかれ、中国古美術も幅広く蒐集。中でも古代銅器には世界的な逸品もあるという。当初は表千家から茶を学んだが、五代目が石州流であった縁で石州流を学び直し、生涯で百五十回以上の茶会を開いたという。豪華絢爛な道具立てで知られ、
「天目茶碗(中国由来の最高級の茶碗)を一席で一度に多数用いた」
「一度用いた道具は二度と茶会に用いない」
といった逸話が伝わる。そうした道具中心の茶の湯は批判も受けたが、彼は「美術報国、茶道衆楽」すなわち美術品は個人所有物であると同時に国家のものでもあるから広く客を招き美術品をあまねく共有する手段として茶会を開くのだと考えていたようだ。蒐集した美術品は白鶴美術館に収められている。
・山口滴翠(吉郎兵衛) 1883-1951
徳川後期以来の大阪の富商出身。慶応義塾卒。実家は両替商にも進出しており、それを引き継ぐ形で大正六年(1917)に山口銀行頭取となる。後に日本生命会長や共同火災保険社長などを歴任した。
薮内流の茶の湯を学び、若いころから数多くの美術品を収蔵した。中でも国焼に造詣が深く、窯元研究の第一人者であったという。所蔵していた美術品は滴翠美術館(兵庫県芦屋市)に収められている。
・小林逸翁(一三) 1873-1957
山梨県出身、慶応技術卒。三井銀行に勤務した後、昭和十六年(1940)に箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の創立に関与し、社長となる。鉄道経営のみならず、沿線の土地を買収して住宅地開発を行う、宝塚温泉など沿線の娯楽施設創設や大阪梅田のターミナルに阪急百貨店を開くなど多角的な経営戦略を展開し成功した。文化事業にも熱心で、宝塚歌劇団を設立したりやプロ野球草創時には大阪阪急野球協会(後の阪急ブレーブス、現オリックスバファローズ)を立ち上げている。東京宝塚劇場や東宝映画の創立者としても知られる。第二次近衛文麿内閣で商工相、幣原喜重郎内閣で国務相も歴任。
三井銀行時代に益田鈍翁・高橋箒庵といった代表的な数寄者に出会った影響もあり早くから茶の湯に親しんだ。生形貴一に師事し表千家の茶を学ぶ。仏教・能・歌舞伎など伝統文芸に広く通じ、西洋の陶磁器を茶道具に見立てるなど海外文化も柔軟に取り入れた茶の湯を展開。数多くの茶会グループを主宰している。有名なところでは、
「薬師寺会」:薬師寺で橋本凝胤師の講話をメインにした懐石・茶会。
「北摂丼会」:「丼一つあれば茶の湯はできる」と茶の湯における道具偏重の風潮に警鐘を鳴らし、簡素化を追求。懐石に卵丼やカレーライスを用いるなど親しみやすさにも心を用いた。
「芦葉会」:知人・友人などから譲り受けた道具を愛でる茶会。「ロハ」(タダで手に入れた)に通じる命名。写真も用いた絵日記風の茶会記を用いた事でも知られる。
といったところが挙げられる。また彼が考案した茶室「即庵」は畳に座っても椅子を用いても茶ができる和洋両用の構造になっていたという。
逸翁がこのような大胆な試みを様々に行っていた背景には、
「お茶は茶室内に持ち込まれる種々の美術品、工芸品を通じて、真善美に関する同志的結合を歓び合うのである」(『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社 93頁)
という考え方が基本にあり、
「お客を窮屈がらせるお茶は下の下だ」(同書 同頁)
とも述べている。所蔵していた道具は逸翁美術館(大阪府池田市)に収蔵されている。
・五島古経楼(慶太) 1882-1959
長野県出身、東京帝大卒。農商務省・鉄道院といった官僚経験を経て鉄道運営に転身する。武蔵電気鉄道や目黒蒲田電鉄に関与し、後に東京近郊の私鉄を統合し、昭和十七年(1942)には東京急行電鉄社長。東条内閣の運輸通信相も経験している。
古写経から始まり、墨絵・和歌集、茶道具へと美術品蒐集の幅を広げ、小林逸翁の影響を受け六十歳頃より茶の湯に傾倒する。戦後、前田家の道具売り出しの際には福島正則が所蔵したという茶碗「福島井戸」を競り落とすが、前田家からの懇望により返還。変わりに名高い墨跡「梅渓」を入手している。所蔵道具は五島美術館(東京・上野毛)に収められている。
・藤原暁雲(銀次郎) 1869-1960
長野県出身、慶応義塾卒。「松江日報」の主筆、三井銀行を経て富岡製糸場支配人などを歴任。王子製紙の再建に成功して社長となり、「製紙王」と呼ばれた。米内内閣で商工相、小磯内閣で軍需相も務めている。藤原工業大(現慶大理工学部)や藤原科学財団を設立するなど科学技術の育成を重視した。
三井物産時代に益田鈍翁から懐石を振る舞われ茶の湯に関心を持つ。道具を集める際は、無理に金に物を言わせるのでなく、自ら苦心して掘り出しものを見つけるのを旨としていた。日常生活は質素であったが、茶席においては最大限に客をもてなす心配りをしていたという。
昭和十年(1935)にスウェーデン国立博物館に茶室「瑞暉亭」を寄贈している。
・松永耳庵(安左衛門) 1875-1971
長崎県出身。慶應義塾卒。福松商会を開いて石炭業を営む一方、電力事業にも尽力し九州水力電気・東邦電力を創業した。第二次大戦後には電気事業再編成審議会会長として電力事業の地域ブロック別民営化などに活躍し、「電力の鬼」と称された。
茶の湯は「耳順」と呼ばれた六十歳より本格的に始めた事から「耳庵」と号した。昭和四年(1929)には有楽井戸を益田鈍翁と競り合った末に法外な値段で購入し名を挙げている。戦時中から戦後にかけ、政治家・学者・芸術家を招いてしばしば茶会を催した。
「茶道は生活であり、理念ではなく実践である」
という言葉を残している。著作は体験した茶会の様子や道具立てを記した『茶道春秋』など。蒐集した道具は東京国立美術館・福岡市美術館などに収められている。
・畠山即翁(一清) 1881-1971
石川県出身。同地の守護大名であった能登畠山氏の末裔であるという。東京帝大卒。大学時代の恩師井口在屋教授が発明した渦巻きポンプを事業化し大正九年(1920)に荏原製作所を創立。昭和九年(1934)に社長。畠山文化財団を設立し、発明協会会長も歴任。
裏千家より茶の湯を学び、戦後も関東の大師会や関西の光悦会といった数寄者の名だたる茶会で重きをなすに至る。かつて、益田鈍翁から「お茶をやる精神で仕事をやりたまえ」と激励されたといわれる。優れた鑑識眼で多くの名物道具を蒐集し、畠山記念館(東京・白金台)に収蔵されている。記念館は即翁自身による設計で、近代建築の中に巧みに日本建築が織り込まれたものだという。
・服部山楓(正次) 1900-1974
服部時計店(現セイコーホールディングス)の創立者・服部金太郎の次男。慶応大卒。昭和二十一年(1946)より社長となる。昭和二十三年(1948)年より日本時計協会理事長。
江戸千家より茶の湯を学び、蒐集美術品はサンリツ服部美術館(長野県諏訪市)に収められている。
・佐藤助庵(助九郎) 1896-1979
富山県出身。同地の建設会社・佐藤工業株式会社の経営者。佐藤工業は徳川末期に佐藤組として設立され、常願寺川の堤防工事や東海道線工事、水力発電工事にも従事していた。裏千家に茶の湯を学び、所有する美術品は富山市佐藤記念美術館に収蔵される。
・後藤幸三 1881-1977
岐阜県出身。名古屋で実業活動に入り、後藤商事、中央製作所(愛知県の電気機器製造業者)を創業した。茶の湯や書に関心が深く、所有した美術品は昭和美術館(名古屋市)に収蔵されている。
・松下宗晃(幸之助) 1894-1989
和歌山県出身。小学校を中退して働き始め、大阪電灯(現関西電力)に入社。大正六年(1917)に改良ソケットを考案し、翌年には松下電気器具製作所を創業し昭和十年(1935)に松下電器産業(現パナソニック)に改組した。独自の経営で「経営の神様」とよばれ、教育にも熱心でPHP研究所や松下政経塾を創設。
昭和十四年(1939)に裏千家の淡々斎と知遇を得たのを契機に深く茶の湯に傾倒。京都東山別邸に「真々庵」を建設し、また各地に多くの茶室を寄贈して茶道普及に尽力した。松下政経塾でも毎年、裏千家での茶道研修が行われているという。佐竹本三十六歌仙の大伴家持など逸品を所蔵していたようだが、比較的道具には淡白でもあったようだ。
・北村謹次郎 1904-1991
奈良県出身。実家である北村又左衛門家は日本の山林王と呼ばれていた。大学入学のころから裏千家より茶の湯を学び、林業を営む傍らで世界各地より多岐にわたる美術品の蒐集に励んだ。所蔵する美術品は北村美術館(京都市)に収蔵されており、隣接する四君子苑には数寄屋造で多くの石造美術品が存在するという。
・湯木貞一 1901-1997
兵庫県の料理屋出身。実家で修業した後、昭和五年(1930)大阪で日本料理店吉兆を開店し東京・京都などにも出店した。文化功労者。著作に『吉兆味ばなし』『料理花伝書』など。
小林逸翁などから後援を得て茶会記から懐石を研究、茶の湯を好む。蒐集した道具は湯木美術館(大阪市)に収蔵される。
・湯浅佑一 1906-1994
京都府出身。湯浅七左衛門商店(現ユアサ商事)を継承して再建に成功、系列の湯浅電池(現ユアサコーポレーション)社長・会長も歴任。関西経済同友会の初代代表幹事や関西経済連合会副会長を務めるなど関西財界の重鎮であった。
裏千家家元・鵬雲斎と長く親交を結んだ。
戦後の実業家茶人といえば僕が把握しているのはこんなところでしょうか。実業家といえるかは疑問ながら、戦後にも活動した数寄者をもう一人。
・森川如春庵(勘一郎) 1887-1980
愛知県の富農出身。数え十七歳の時、大阪平瀬家の道具入札に参加し本阿弥光悦作の楽茶碗「乙御前」を落札。また三井家からも光悦作「時雨」茶碗を入手している。尾州久田流の下村実栗に茶の湯を学び、奥義に達したという。古筆の蒐集・研究でも知られ、戦後には茶書や茶人消息の研究や茶道史料の収集という面でも貢献している。
戦後にも、少なからぬ実業界の大物たちが引き続き茶の湯を楽しみ文化的な貢献にも力を注いできたことが分かります。もっとも、戦前より実業活動をして来た人が大半ですが、それでも平成初期までこうした人々はいたのですね。現在、日本経済界で存在感を示している人々の中にも、彼らのように茶の湯を愛好し深く通じていた人や、文化的な貢献をもなす面々は出てくるのでしょうか?未来における評価が楽しみなところです。
【参考文献】
八尾嘉男『図解茶の湯人物案内』淡交社
『茶の湯便利手帳4茶の湯人物事典 略伝・ことば・逸話』世界文化社
『茶の湯を楽しむ もてなしの心と作法』講談社
青柳恵介『陶磁郎BOOKS やきものを探す旅 数寄者を訪ねる』双葉社
『日本人名大辞典』講談社
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
『大辞泉』小学館
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ブリタニカ・オンライン・ジャパン
『日本の企業がわかる事典2014-2015』講談社
「昭和美術館」(http://www.spice.or.jp/~shouwa-museum/exhibition.html)より
「当館について」(http://www.spice.or.jp/~shouwa-museum/aboutus.html)
「北村美術館」(http://www.kitamura-museum.com/)より
「北村美術館概要」(http://www.kitamura-museum.com/kitamura.html)
「滴翠美術館」(http://tekisui-museum.biz-web.jp/)
関連記事:
「闘茶について~南北朝期における「茶の湯」の祖先~」
「<言葉>茶人が残した人付き合いの心得~主人も客も、それぞれの価値観・人格に敬意と尊重を~」
「元禄赤穂事件と茶会―戦術的な面から見る―」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「続茶の湯 数寄者たち」(http://kurekiken.web.fc2.com/data/1999/991029.html)
「徳川期の茶の湯」(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/tokucha.html)
※2014/11/15 タイトルを変えてみました。
by trushbasket
| 2014-11-15 09:33
| NF








